退屈しないように シニアの暮らし

ブログ巡り、パン作り、テニス、犬と遊ぶ、リコーダー、韓国、温泉、俳句、麻雀、木工、家庭菜園、散歩
さて何をしようか

止まってみて、はじめてみえること

2014-05-31 07:03:55 | 韓で遊ぶ



私に向かってなんだかんだという言葉を
適当に無視して生きる方法に慣れなさい。
いちいちすべてに気を使っていたら不幸になります。
幸福になりたいならば
他の人が自分に対してどのように考えているのか考える時間があったら
自分自身が本当にしたいことをしなさい。



世の中のすべての人が自分を好きになってくれることはできません。
誰かが自分を嫌ったなら、嫌いだろうがどうだろうが
だた、放っておいて生きなさい。
嫌いだということは厳格に言えば、その人の問題で、自分の問題ではありません。



私たちは「それがどんなに苦しいことでしょう!」と
自分と他人に言うことで
そのことを本当に苦しくしています。
ただ、やりなさい。



死ぬ前に
私が是非行ってみたい所、
経験したいこと、
会いたい人を書いてください。
そして、ただ根気強くそれを実行してください。
ひとつずつ、ひとつずつ。
他人の目を気にしないで、
あれこれあまり悩まないで、
私たち、そう生きます。



人生は決められたメロディがない
即興のジャズ音楽と同じです。
人生の中のすべての変数を自分が調整することができず、
その時その時与えられた情況の中で
自分のスタイルを見つけ
自分の音楽を作って生きなければならないからです。



人生には自分がコントロールできない領域が多い。
子供や、両親、夫、友達の幸福のために
祈ってやって、関心を持ってやって、愛してあげることはできるが
彼らの幸福は結局、彼らの意志にかかっている。
できるほどにやってあげて、もう
彼らが自分で行動して、責任をとれるように放っておきなさい。



頭で描き出した計画そのままやったならば、事がうまくいくようだったのに
その計画を現実に移してみたら思ったより上手くいきません。
その悟りはまさに、
現実は自分の頭が予想することのできる状況より
ずっと細かい網の目のような原因と条件で
いっぱいに充たされているからです。



事実、
ひとつが上手くいかないために
二つ目が上手くいかないのです。
外国語ひとつを上手くやると、二つ目、三つ目もやることができます。
店ひとつが上手くいくと、二つ目、三つ目も運営することができます。
欲を出して二つ、三つを一度にやろうとしないで
ひとつをまずちゃんとやるように努力しなさい。
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今がつらいなら、よくやっているということだ

2014-05-31 07:00:55 | 韓で遊ぶ

11月14日分直しました

結果は後悔の対象ではない
ロンドンオリンピックでチャンミラン選手は光を放った。メダルを取れなかったと彼女を非難する人はいなかった。むしろ感動をもらって拍手を送った。自分の最後のオリンピック、最後の試技で失敗した後、長い間を共にしてきたバーベルにキスをした。敗者の美しい姿を今さらながら発見した時間だった。何が、チャンミラン選手を見守る私達も泣かせたのか。後悔を残さない努力だ。たとえメダルを取れなかったが、それよりも価値のある過程を知っているから愛される選手になったのだ。

仕事の結果を前にして後悔する人が多いが、結果は後悔の対象ではなく、受け入れなければならないものだ。何をしようと真心を尽くさなければならない。たとえ適当にしたことよりも結果がよくなくてもだ。誠実であること自体が天がくれる賞金だ。
金持ちの家の主人が僧を呼んで、同じ量の藁を与えて、縄を細く長く作るように言った。怠ける僧は、太い縄を作ってすぐに終わって寝た。誠実な僧は、主人の命令通り最大限、細く長く作った。
次の日の朝、主人は銅銭がたくさん入った金庫を見せてやり、縄で通せるだけ銅銭を持っていきなさいと言った。怠けた僧は、太い縄では銅銭を通すことができなかったが、誠実な僧は多くの銅銭を通すことができた。
策を弄することなく誠実な人は福を受ける。小さい仕事だと無視して最善を尽くさなくて後悔する場合がある。もう少しだけ忍耐する気持ちを持って仕事をしたならば、いい結果を得ることができたという機会を逃したという記憶もある。
人は完璧ではないから失敗するしかないが、失敗をしても後悔を残してはならない。過程において、できるだけ最善を尽くしたならば結果を受け入れやすい。

アメリカのミシガン州エンアボには「失敗博物館」がある。この博物館には1965年から37年の間、消費者にそっぽを向かれ市場の開拓に失敗した新製品が展示されている。食品28000余点、飲料8000余点、生活必需品13000余点、家庭用品6700余点、哀願動物用品1000余点などだ。
新製品を作るならばその中の80~95パーセントは失敗するという統計が出ている。この博物館の正式な名前は「ニュープロダクトワークス」で、実は新製品を集めておいたところなのだが、新製品の大部分が失敗するから、失敗博物館と言う別名が付いたのだ。アメリカの大型会社の理事は失敗博物館を訪ねる。過去の失敗を鏡にして再び失敗しないためだ。

会社で作り出した製品だけが失敗するのではない。人生を生きてみると人も失敗を避けることができない。失敗には2種類ある。後悔のない失敗あり、後悔この上ない失敗がある。一生懸命やったが戦争と天災地変、IMFのような突発変数で失敗する時がある。誰のせいにもできず、どうしようもないことだ。自分ではない他の人がやっても、やはり失敗するのだから、後悔この上ないという失敗ではない。自分ができることを皆やった後に失敗を経験したならば後悔は残らない。
しかし、自分が怠けて失敗したならば、後悔この上ない失敗だ。だから、どんなことをしたとしても、すべての真心を傾けなければならない。仕事の重い軽いを離れて自ら恥ずかしくない姿で生きなさい。

人生の品位を守もろうとしたら、後悔することは、始めなければいい。この仕事が自分の人生にどんな意味を与えるのか、省察して決定する習慣を持ってみよう。終わりを予測してみたら迅速に正確な決断を出すことができる。誘惑を感じる時、仕事の結末を覚えておいたら後悔を避けることができる。公金横領で監獄に行く人、人をだまして不当な利益を手にする人、社会的な犯罪で被害を与える人を見ると、瞬間的な欲望を抑えることのできない場合が多い。お金と名誉、本能を治めることができず、人生に汚点を残す。誘惑をふるい落とす境界線は、仕事の結末を覚えておいて後悔の罠から抜け出してくることだ。

後悔しないために今つらいならば、よくやっているのだ。青春の時には何が後悔することで、何が後悔しないことなのか見えない。入学金を払うことができない暮らしにアルバイトをするか、勉強をもっと一生懸命やって奨学金に挑戦するかを置いて葛藤し悩む。
どの道を選択するかは重要ではないと思う。どんな選択をしようとも最善を尽くしたならば後悔する必要も、後悔することも起こらないことだと確信する。後悔しないために瞬間、瞬間の全力を尽くし、それでつらいならば明らかによくやっているということだ。

死ぬ時がきたら、皆に共通する後悔がある。一番最初に「自分が、なぜ施すことができなかったのだろうか。」という後悔、次には人を傷つけたことを後悔するという。無味乾燥した人生を悔しく思う。余裕を持って楽しく生きることができたのにと思いながらである。
人は死に至ると欲望がなくなる。生命がある時まで私達は欲望がある。自分が、まず最初に受け入れられて、認められなければならないと言う考えは、実状は後で後悔することだ。本当の意味で自分を下げておくと、後で後悔することは少なくなる。施すことができず、幸福であることができず、我慢することができないことを死ぬ時に後悔してみても意味がない。
今、世の中を生きる方式をしっかりと掴まなければならない。美しい人生の実を残して旅立たなければならない。他の人に自分を通して良いことが生じて、それによって幸福だったということができるぐらいに。
ウァトルロー戦争の英雄ウエリントン将軍が勝戦記念のパーティを開いた。陸、海、空軍の宰相と、功を立てた将校が皆集まった。ウエリントンは賀客に宝石がぎっしりと付いた財布を自慢したかった。ところが、ついさっきまでポケットにあった財布がなくなってしまった。ウエリントンは賀客に向かって叫んだ。
「宝石のついた財布を盗んだ犯人捕まえる。門を閉めなさい。」
賀客達はポケット検査をしようと叫んだ。その時、一人の老将軍がポケット検査に反対した。人々は老将軍を疑いの目で見た。老将軍は慌てて門を抜けて外に出て行ってしまった。結局、老将軍が犯人だということになった。
1年後、またパーティが開かれた。外套を着たウエリントンはびっくり驚いた。盗まれたと思っていた宝石のついた財布がポケットに入っていた。ウエリントンは急いで老将軍を訪ね詫びた。
「なぜ、あの時、検査を拒否して逃げたのですか。」
老将軍が答えた。
「実は、その日の夜、妻と子供たちが食事をできないでいました。私のポケットには家族にあげる為、パーティの時に隠したパンが何個か入っていたのです。」
その言葉を聞いたウエリントンは慟哭し、再び詫びた。ウエリントンが豪華な宴を開いている間、部下の家族は食事もできないでいたのでした。その後、ウエリントンは持っている物の自慢をしなかったと言います。人に配慮しない行動はいつか後悔となります。

後悔することを始めないためには、自分がやることが他の人に有益であることであるかどうか、最初に考えなければならない。後悔することの大部分は、他人の苦痛と社会的影響力を考えないことから始まることを覚えておかなければならない。

もっと重要な点は、過ぎたことは肯定的に評価する姿勢で、どうすることもできないことにずっと心を痛めて悔やんでいてはいけない。パッパッと払ってしまうことも能力だ。
こんな人生を生きてみると、日常が喜びでいっぱいだ。たとえ、持っている物が特になくても、自慢できるものがなくても、何一つ成したことがなくても、喜びを選択することができるようになる。喜びを選択することに決めたということは、悪い環境とか状況が排除されたということを意味する。状況と環境を排除して喜びを選択する勇気こそが後悔しない知恵だ。
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止まってみて、はじめて見えること

2014-05-30 06:28:21 | 韓で遊ぶ


4章 人生の章

「他人の目を気にしないで、あれこれ、あまり悩まないで!」

人生、
あまり苦しく
生きないで

私は30代にになったある日、
自分の心を眺めていてふと、3つのことを悟りました。
この3つを悟った瞬間、
私は自分がどのように生きてこそ幸福なのか知ることになりました。

一つ目、自分が想像するほど世の中の人々は自分に対して
そんなに関心がないという事実です。
1週間前合った友達が着ていた服、私は思い出すことができません。
化粧やヘアースタイルも同じです。
自分が友達に対して覚えていないのに、
その友達が自分に対して覚えているだろうか。

普通、人はそれぞれ自分の考えだけすることに忙しいものです。
他人の心配や批判も実は、わかってみると、わずかに考えることです。
1日24時間の中でごくわずかに他人の心配や批判して
再び、自分の考えに戻ります。
ならば、自分の人生の多くの時間を
他人の目に映る自分の姿を心配しながら生きる必要があるでしょうか。

二つ目、この世のすべての人が自分を好きになる必要がないという
悟りです。
自分がこのようのすべての人を好きでないのに、
どうしてこの世のすべての人が自分を好きになってくれることができるでしょうか。
しかし、私たちは誰かが自分を嫌いだと言う事実に
どれだけ胸を痛めながら生きているでしょうか。
自分がすべての人を好きでないように、すべての人が自分を好きである必要はないのです。
それは、過ぎた欲望です。誰かが自分を嫌いなら
自然の理知がそうなのだとただ乗り越えていけばいいのです。

三つ目、他人のためだといってするほとんどすべての行為は
実は自分のためにすることだという悟りです。
自分の家族が上手くいくことを望む祈りも、とても正直な心で眺めてみると
家族がいるから暖かい気持ちの自分ためであり、
両親がなくなって泣くことも結局
自分g会いたい時に心のままに会えない
寂しい自分が悲しくて泣くのです。
子供が上手くいくことを願いながら、欲望の限りよくやってあげることも、結局
自分が望んだ方式通りに子供が上手くいくことを望むのです。
お釈迦様ではない以上、自分中心の観点から抜け出すと言うことは簡単ではありません。

しかし、どうか、自分が本当にしたいこと、
他人に大きく被害を与えることでなければ
人の目を気にするのをやめて、自分が本当にしたいことをして生きてください。
考えてばかりいないで、ただやってしまいなさい。
なぜなら、自分がまず幸福でこそ、世の中も幸福なのです。
そうしてこそ、また、自分が世の中を幸福にすることができるからです。

私たち、人生、あまり難しく生きないようにしましょう。
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今がつらいなら、よくやっているということだ

2014-05-30 06:25:40 | 韓で遊ぶ

11月13日分直しました


誠実なこと自体が天の賞金だ
後悔することは始めないだって。事を始める前に後悔することなのかどうか、問うて見て前もって判断するということか。
事をしてみると後悔する時があり、上手くいったと満足する時がある。しかし、後悔することは、初めから開始もしないと心に決めたならば、自然にやり甲斐が生じ、価値のある事に繋がるということだ。もし後悔するような状況になっても、後悔ではなく自信感を回復することができる機会となることができる。
外見にコンプレックスがあるのか。自分の容姿のせいで心がつらいのか。しかし、見た目のいい外見より、いい心がより価値がある。価値のある心があると、他人の視覚から自分の視覚に変わる。
ペナルティに集中すれば劣等感になる。劣等感は霊魂を搾り取る。しかし、自分には他の長点がずっと多いではないか。体操選手ヤンハクソンの背は158cmだ。韓国の男の成人の平均で見ると、コンプレックスを持つ程だ。しかし、彼は多くの競争相手を退け堂々とオリンピックで金メダルをつかんだ。今ヤンハクソンに「背が低い」とからかう人はいない。
ナポレオンの頭の中には、自分の背が小さいという事実が何パーセントか占めていただろうか。背が小さいという外見よりも、世界を制覇するという夢で一杯だったのではないか。
コンプレックスを見つめるな。自分の不足していることよりは、自分の長点に集中しなさい。すべてのことを皆うまくできる人が世の中にどれぐらいいるだろうか。
外見を見つめないならば、よくやっているのだ。初期のキリスト教の伝道に力を注いだ宣教師パウルは、鼻が上を向いて、はげ頭、それに背は低いなど、外見は本当によくなかったという。しかし、彼はパウル書信を書いて偉大な足跡を残した。自分の不足している点を劣等感として感じないならば、不足していることに集中することよりは、長点をより発展させるために努力しているならば今その通り、よくやっているのだ。

どうですか。単純に自信感で充たせということではない。後悔しないことで頭を充たして行動しなさいということだ。後悔は習慣だ。このように言う私をよく理解することができないかも知れないが、後悔は習慣だと言ってやりたい。後悔する人は毎回後悔して、肯定的な人はいつも肯定的だ。
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とまってみて、はじめて見えること

2014-05-29 05:17:14 | 韓で遊ぶ




お金よりももっと貴重なものは
自分が持っている「自由」です。
少し苦しくても
自由に自分が望む方式の人生を生きることが
人の目を気にしながらお金を少し稼ぐよりも
ずっといい人生です。
自分の自由をお金を受け取って売らないでください。



誰かがあなたに
あなたの人生の前途をよく設計しておいたから
その道を行き場成功します、その道を行きなさいと強要したならば
ところが、その道があなたの望む道ではないならば
ただ逃げなさい。
あなたの人生を生きてください。
あなたが本当に望む人生を!



世の中で最も曖昧で愚かな答えは、
「何でも」



大人の中にも自分自ら決定することより
他の誰かを頼りにして、みな決定してくれたらという
子供のような心を持った人が多い。
だから、世の中にはその心を利用して
間違った宗教人が勢力を手にするのです。



誰にも自分の人生の決定権をあげないでください。
自分が自分の人生の主人です。
お釈迦様も、イエスも、どんな聖なる師匠であっても
「自分自身」があったから、その人たちの貴さも存在するのです。
誰よりも自分を愛してください。



私が僧侶になった理由は、
このように一生を
終わりなく奮闘だけして死を迎えるのがいやでした。
無条件成功だけを望んで終わりなく競走だけしていて
後で死を迎える時に
どんなにむなしいと思うだろうかと言う悟りのせいでした。
他の人を頼りにして成功の物差しに上がって
他の人に映る自分の姿を心配して
その人たちの基準点と期待値を満足させるために
なぜ、そうしなければならないのかも知らないで、一生をあえぎながら生きて
死を迎えたくないからでした。



バンジージャンプする方法は
ただひとつです。
ただ、飛ぶことです。
考えが多いほどに飛ぶのが難しいです。
考えが多ければ多いほどに、やりたいことができず
つらく苦しいと言う言葉だけを言うようになります。
ただ、飛んでください。



誰かの恩恵を受けようという考えが
ほんの少しもなかったら
世の中の誰の前でも
堂々とすることができます。
私心のない清浄な人生を生きていたならば
正しいことばかり言っていても恐れることがありません。



鏡峰僧様はこのようにおっしゃいました。

「私たちが生きることが全部他人の足を引っ張ることと同じようですから、
心を意志どおりにしようとしたら、「自分」をまず探しなさい。」

あなたは生きながら、本当に自身の意思通りに生きていますか。
自分の中の主人公が誰なのかわかっているでしょ。
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今がつらいなら、よくやっているということだ

2014-05-29 05:15:54 | 韓で遊ぶ

11月12日分
直しました

恐れは心の病気だ
恐れは心の病気だ。「人間対人間」と言う尊厳性を脅かすこともある。貧しい人が豊かな人を恐れ、学歴が低い人が高学歴者を恐れたりもする。自分に欠けている要素に恐れが深く入り込む。だから恐れの実態を知ることが重要だ。なぜ、自分があの人を恐れるのか、理由を知ったら克服できる。健康な心は恐れがない状態ではなく、恐れに勝つ心だ。
尊重とは何か。相手の人格を認めてやることだ。性格が合わなくてぎこちない、相手をするのがいやだという心は主観的だ。独善的で、独断的な人はどこにでもいるものだ。こういう人を避けることだけが良策ではない。二度と相手をするのがいやな人でも、少しだけ立場を代えて考えてみたら違って見える。盲目的に相手のすべての点を受容しろと言う意味ではない。自分が相手の立場を尊重したら、必ず自分を理解して心を開くという話だ。

自信感に満ちた一人の青年が研究室に訪ねてきた。
「私は良い環境に居ます。他の人達とは違います。スペックもいいです。ですが、なぜ必ず勝つ習慣を持って生きなければなりませんか。少し余裕を持って生きたらだめですか。なぜ必ず勝たなければなりませんか。」
「青年の苦しみというものを、まだ知りませんね。堂々として、よい価値感を持っていて見た目もいいです。よどみがなく自信感があふれて見えますね。」
「性格がいいと言う言葉は、生まれて初めて言われました。いい価値感を持っているという話も。」
「そうです。実際の性格と価値感は、どんな観点で見るかによって違います。他の人はぴょんぴょんと出て来る言葉のせいで、あなたの性格を悪いと言ったでしょう。本質を見ないで話をする方式に注目したのでしょう。ですが形式も重要です。粗い人だと誤解を受けたならば、人が恐れて逃げてしまうからです。」
「どのようにすれば人と上手く付き合えて、融和できるのか教えてください。」
はじめは曲がった心で抗議をしに来た青年の心が、自身を尊重してあげた瞬間にさっと解けたのを感じた。感情に任せておかないで、相手の存在を認めてあげたら尊重することができる。尊重は相手の心を開く貴重な贈り物だ。
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止まってみて、はじめてみえること

2014-05-28 07:58:44 | 韓で遊ぶ



知恵のある指導者は自分のチームの構成員を
みな自分の意見と一致する人ばかりで
作らないという。
自分の意見に反対する人もいてこそ
自分が見えない部分を見ることができるようにしてくれるからだ。



知恵のない指導者であるほど
すべてのことに自分がみな干渉して調整しようとする。
結局、下の人たちはいわれたことばかりやればいいようになる。
仕事をさせるならば、仕事を引き受けた人が責任を持って
一生懸命仕事ができるように信じて待ってあげることも
指導者の重要な能力だ。
 


会社に対する忠誠度は
単純にどれぐらい遅くまで仕事をして
休暇を申請できる時にも申請しないと
いうことではなく、
どれぐらい効率的に仕事をして
会社にどんな具体的な利益をもたらすかで
見つけなければならない。



私たちは、はじめの一さじに腹が一杯になるのを望むでしょう。
はじめて商売を始めるとか
はじめての本、はじめてのレコード、はじめての映画、はじめての展示会から
奇跡のように人々が知ってくれることを望みます。
しかし、残念なことにそのような奇跡はありません。
原因のない結果はないように
緻密な分析と努力、そして年輪からでてくる内功がなければ
どんなこともひとりでに成されることはありません。



無条件望んだとおりになることが
必ずしもいいことではないようです。
すべてのことは自分が望んだとおりに簡単にできたら
怠けるようになって驕慢になって、努力しないようになって
他の人の苦しみもわからなくなります。
どうかすると、今、自分がなめている苦しみは
自分の人生の大きな教えであるのかもしれません。



止まっている馬には鞭を打ちません。
走っている馬には鞭を打ちます。
上の人が怒った時、
自分が今、よくやっていて、また、とよくやっているから、
もっと、上手くいくように軽く怒っていると考えて感謝して受け入れてください。
そうすると自分がもっと大きくなります。



成功する人は
すでに成功した人に対して賞賛の言葉を送り、
失敗した人は
成功した人に対して非難だけする。
ナポレオンヒル
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今がつらいなら、よくやっているということだ

2014-05-28 07:54:34 | 韓で遊ぶ

11月11日分直しました


尊重は関係の品位を守ってくれる
上司の前で仕事をしたせいで気後れしたことがあるか。他の人たちの前で自分の欠点のせいで気後れしたことがあるか。人を恐れる心のようにつらいものはない。特に、ある人は声を聞いてもぶるぶる震えて避けたい場合もある。
尊重する心と恐れる心は違い大きい。尊重して礼儀作法を持った態度は成功のために必ず必要だ。単純に年をとっているという理由で大人を尊重して、恐れなければならないことではない。礼儀を守る次元で尊重することは、大人であれ子供であれ例外はない。しかし、恐れる心は自然な疎通を阻む。

大学で学生たちに教えてみると、ある学生は尊重する心を表現しながら自然な疎通ができるが、ある学生は教授の前だと、気後れして一言も言えない姿を見る時、かわいそうなことこの上ない。教授だとぶるぶる震えて、上司だとぶるぶる震えて、年上だとぶるぶる震えていたら、創意力はどのように生じて、疎通はどのように可能であろうか。
人間関係の重要な原理は尊重であるが、恐れるなということだ。そうしてこそ年上の人であれ、上司であれ、教授であれ堂々とした人格体で疎通することができる。どちらか一方が恐れる存在になると、一般的な指示と要求事項による水準に止まってしまう。互いに発展するところに限界が生じる。私は気になることがあると、よく知らない人にでも礼儀を持って聞いてみる習慣があるので、ホームページ、ツイッター、eメール,で質問する人に返答をすることが面倒だとは思わない。むしろ自然な疎通の機会にする。

もし、対話の中で恥ずかしいことがあったり、権威に押されたりしても、絶対に恐れてはならない。恐れる心は自分をつらくする。尊重するが恐れがない時に互いに安定する。
恐れる態度と尊重する態度を混同しなければ、誰でも尊重の対象として人格的な対話が可能だ。謙遜する姿勢で相手を尊重したら、よい関係を維持しながら品位を守ることができる。品位がある人生と態度は、私達を豊かにし、高い自尊心をくれる。

小学校しか卒業していない田中が、東京大学出身がうようよいる日本の大蔵省の長官として任命された時、エリート官僚集団は露骨に不満を表出した。田中は1分にも満たない就任の挨拶一言で憂慮と不満を一挙に解消した。
「皆さんは天下に知られた秀才達であり、私は小学校しかでることができなかった人です。特に大蔵省の仕事については門外漢です。大蔵省の仕事は皆さんがして下さい。私は責任だけ取ります。」
エリート官僚達は田中が認めて尊重してくれた瞬間に、心の門をさっと開いた。むしろ田中を尊敬し従った。田中はリーダーシップを認められ日本の総理の座まで上った。

誰かを尊重すれば、相手が高くなる前に自分の格が上がる。尊重は漠然として抽象的な感情ではない。相手に学ぶ点があると認め、それを自分のものとしてストックする過程だ。賢明な人は他人を尊重する。その過程で自分の不足している点を一つずつ埋めていく。成熟した自我を完成する過程だということができる。尊重は関係の中で品位を守る基になる。

この時代は尊重する心を失って行っている。学生が先生を尊敬しない。子供が両親を尊敬しない。夫婦間にも互いに尊重しない。職場の中でも上司が部下を尊重せず、部下職員が上司を尊重しない。尊重しない心は自ら完璧だという傲慢であり、毒だ。高い塀を作って孤立を認める道だ。
厳格な両親の元に育った人は、すべての人を恐れの対象とする。恐れの対象が生じたら、創意力と判断力は流れる。もっと発展できる原動力が滞ってしまう。反面、尊重の対象が生じたら、相談者を持つことになる。人生が潤い、創意力が大きくなる。
私は父親らしい父の元に育ったので、誰でも恐れの対象として対する場合があった。父が話をする時、少しでも姿勢が崩れたり、自分の考えを言うと、「年長者が話をしているのに口答えをするのか。」としかられることが多かった。母親とは疎通できていたが、父親とは対話自体を避けた。そんな影響で社会生活を始めた若い頃には、すべての人を恐れの対象として見たことがある。恐れで人に対してみると何もできないと悟った。私は学習された恐れと被動的な態度を捨てることを決心した。尊重して恭敬するが、恐れないと覚悟して、人に対する態度を積極的に変えた。そうしてみると上司にも落ち着いて話をすることができ、意見を積極的に広げることができ、業務能力が向上した。上司と異なる意見を言う時も、自分が尊重していることをその人が知っているので、少しも機嫌が悪くなったりしなかった。
人は誰にでも愛と寛大さがある。誰でも恐れの対象ではなく、尊重しながら関係を結んでこそ発展があり、疎通することができるという事実を悟るには、そんなに長い時間はかからなかった。誰でも尊重するが恐れないと言う徳に、周囲の多くの人が私を相談者、人生の先輩として認めてくれた。皆さんはどうですか。私と似たような環境を経験した人がたくさんいるでしょう。
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止まってみて、はじめて見えること

2014-05-27 06:35:45 | 韓で遊ぶ



自分の価値は持っているお金とか学力ではない
自分が人生を生きていきながら
どれぐらい人々に施して生きたかで
測られなければならない、
そうやって自身の価値を作っていってくだい。



何の大学を出たのかが重要ではない。
大学を卒業した後にどんな人生を生きているかが重要だ。



グーグルで新職員を採用する時、
少数の何人かに任せないで
何人か集まって一緒に選抜するといいます。
その理由は、人が本能的に自分と似た人を
選ぼうとするという事実を知っているからだといいます。



人を選ぶ時、ただひとつだけ見る。
「私は間違うことがある。」と言う人がいい。
そうすれば、他の事項は見る必要がない。
そう言う人は自身感を持っていて、
他の人と合意を成し遂げることができる。
アンチョルス



職場を探す時、
その会社の職員たちが長期勤務をしているのか、
でなければしょっちゅう変っているのかを調べてみなさい。
もしかしたら、この点が会社の規範や給料よりもずっと重要なことのようです。
解雇をしなかったのに、人がしょっちゅう変るということは
明らかに理由があるはずです。



仕事を始めようとする時、
人よりももっと上手くやろうとだけすると
怖いものです。
人よりもっと上手くやろうとしないで
ただ、一生懸命やろうとしてください。
すごく上手くはできなくても一生懸命だけしたら
あなたの真心に感動して
あなたを理解して、また、人がそばであなたを助けてくれます。



自分の職場よりずっとよく見える職場も
その中をすごく細かく調べてみると
自分がぜんぜん想像できないそれなりの大きな苦しみがあります。
その事実を悟った瞬間、自分の現在の職場に大きな感謝を感じるようになります。



有能な上司になる条件として、よく
部下職員より技術的な分野において
より多く知っていることだと考えます。
しかし、実際にそれよりもずっと重要なことは
部下職員の新密度、接近の容易性、
問題が起こった時の適当な質問を通して問題を解決を誘導する
能力だといいます。



上司は仕事をする時
対外的にどのように映るかに対する念慮を
優先視してはだめです。
それは2次的なことです。
何よりもその仕事をしながら
どのような実質的な変化が部下職員と顧客に
回っていくのかに対してもっと神経を使わなければなりません。
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今がつらいなら、よくやっているということだ

2014-05-27 06:32:08 | 韓で遊ぶ

11月10日分
直しました

上手く休む人は仕事もできる
上手く休む人は仕事もできるものだ。遊ぶときに上手くあそぶ人が成果も出す。与えられた情況で自分を節制することも重要だが、日常の緊張を緩めて解いて旅行を楽しめる術を知らなければならない。仕事にだけ埋もれて生きる人は旅行地に行っても不安になる。体は旅立っても心は会社にいる場合が多い。1日2日過ぎてやっと適応して、むしろ家に帰る時になると緊張が完全に解ける。韓国の職場人の大部分がこんな姿ではなかろうか。休む時間にも組織に従属してかわいそうな姿なのに、だからと旅行と言うチャンネルを完全に閉じてしまうのはいけない。意思的に旅行がだんだん楽になるように練習すればいい。

進学、就職、昇進、結婚問題で大変ならば、今、不安の磁場が届かないところへ旅行に行きなさい。人生の荷物を下ろして、すべての心配事を片付けてさっと行ってみよう。旅行がくれる有益が、停止された日常よりずっと大きい。
目的地がどこであれ、費用がどれぐらいかかろうと、旅行はそれ自体が喜びであり楽しみだ。大人も楽しく子供たちも楽しい。しかし、現実はどうだろうか。もう少しお金が貯まったら行こう、引退したら行こうと言って優先順位が後ろになることが多い。本当にお金と時間がある時は健康を失って行けなくなる場合が多い。旅行にしょっちゅう行きなさいという話は、早く行けば行く程いいと言う意味だ。他の人種、文化、社会に関心を持って考えの幅を広げることに遅れる理由が何かあるのか。旅行は固有の想像力と人生の観照を形成する。

いくらか前に旅行専門家に「よい旅行をしようとしたら守らなければならない原則」について講義を聞いた。旅行は自由な選択だと思っていたのに原則があるという話が興味深かった。
一つ目、一人で行きなさい。
私は職場生活をした時から一人で行く旅行が好きだった。その通りだ。一人で行ってこそ会った人の多様な話を聞くことができる。幅広い人と交流して、自分を再発見する機会を得る。
2つ目、ゆっくりとした旅行、主題がある旅行をしなさい。
この題目に全的に共感する。主題がある旅行は本当にすばらしい。登山をするにしても自然の変化と季節のすばらしさなどを主題に決めて、ゆっくりと吟味することがいい。「知るほどに見える」と言う言葉は旅行を置いて言う言葉のようだ。絵の好きな人は美術館を重点的に見て、美食家はおいしい店紀行を目標にして、など焦点を合わせて旅行をすれば帰ってきて記憶に長く残る。知識と趣味が同時に得られるからどんなに大きい資産であるか。

私達は育ってきた文化と環境によって認識を形成し、学習によって固着した認識は歪曲のよしあしを問わず治す事が難しい。人の体は何を食べたかによって決まり、人の行動と思考は何を学んだかによって形成される。このように一度枠ができた認識を変えようとするならば、新しい学習が必要だ。
職場生活にも同一な原理が適用される。私が知っていること、私が経験したことが全部だと思って、広い世の中との交流を断絶する瞬間、すぐに淘汰されてしまう。世の中は広く文化は多様だ。今日の情報通信の発達で全世界がインターネットで繋がっているけれども、浅い間接経験だけでは足りない。旅行の本であらゆる美辞麗句を動員して食べ物の味を描写しても、スタイリストができる限りのすばらしさを出した食卓の写真を見ても、直接レストランに行って食べてみた人が持っている感覚を超えることはできない。旅行は短い時間で楽しい直接体験できるという絶好の機会だ。旅行の機会を活用して、広げたならば競争力が高い人になる。

自分を知って相手を知るという知彼知己は戦いの基本だという。だから、私達は相手を知るところに焦点を合わせ、相手を探求するために多くの時間を投資する。しかし、それよりももっと重要なことは正に自分自身をちゃんと知るということだ。相手を手の平にのせる様に知っていたとしても、自分の能力をちゃんと知ってこそ相手に合わせた対応策を準備することができるからだ。自分自身をちゃんと知ろうとしたらどうしなければならないか。新しい経験に接しながら自分の現位置をちゃんと把握しなければならない。だから海外の文明体験を通した診断が絶対に必要だ。グローバル経済時代に海外の文化体験と経験を蓄積することは、職場人が持たなければならない徳目だ。

私が大企業に在籍した頃「先進研修」と言うプログラムを進行したことがあった。優秀社員を対象にして2週間、海外の先進企業を見学して、他の国の文化を自由に学ぶ現場教育の一環だった。各国の優秀企業のいくつかを単純に訪問して回る既存の研修方式とは違って、対象の企業を世界各国に拡大して、代わりに本人の選択に基づき一カ国を選んでその国とその企業に対して集中的な研修体験をするようにした。
「私達の製品がその国の製品に負ける理由が何なのか。その国の文化は私達の文化とどんな差があって、私達は何を学ばなければならないか。」などの主題でセミナーを持ったりもした。
研修に参席した人は最先端の海外製品が韓国に上陸したならば、自社製品は後ろに追いやられてしまうという危機意識を感じた。自ら井の中の蛙だったということを悟り、自社の現在地を再把握させられた。国内で1位だという自慢心を捨てて研究開発とマーケティング力向上に集中しなければならないと言う問題意識を共有した。もし、海外研修や文化体験がなかったならば、職員の意識改革は成すことはできなかっただろう。いくら上司が上から危機意識を叫んでも、実際に経験しなかったならば、構成員の意識変化は起こらない。職場人の海外文化体験と研修は職場人の意識を目覚めさせてやり、特に具体的である眼目を持たせるという点から必要であり有益だ。

私が当然だと考えていた点が他の国では当然ではないこともある。このように海外経験を通して、その間、当然だと思っていた慣行を捨てることになる。そうしてこそ新しいアイデアを創出することができる。このように直接経験をして積んだ知識と体験は、個人にも会社にも価値のある教訓になる。
ある企業は地域専門家制度を通して2年の間文化を体験して生活しながら、その国の国民性までも把握させるという人々のニースに合わせる人材研修プログラムを運用している。あらかじめその国の言葉を理解している職員を選抜して、2年の間文化体験と消費トレンドを学び、体験するようにすることで、言葉だけは理解することができない領域を補完して、長期的に特定の国の市場攻略責任者として仕事をさせる。これは外国のバイヤーに会って営業をする時すごい強みとなって作用する。外国の企業体と契約を結ぶ時、韓国語で挨拶しながら箸で食事をする外国人がいたら、なぜか情が移り契約を締結したくならないか。同じ原理だ。その国の文化を理解して共に楽しむことを知っている人に市場攻略の機会は開かれている。
いくらか前、新聞にイスラム文化を反映するスマートフォンに対する記事を読んだ。1日に4回聖殿に向かって礼拝するムスリムのために、宗教儀式時間と羅針盤の機能を搭載した国内企業のスマートフォンが効果的であるマーケティングの事例としてあげられたと言う内容だ。
個人的に旅立った旅行であれ、会社から行く海外研修であれ共通点がある。日常の場所で見て聞くことができない新しい経験をするという点だ。私の体と考えが新鮮だと感じ反応する初の経験をすることができる。

人生の品位は、自ら作るものとして品位の高尚さを超え利他的である配慮だ。配慮は相手の観点から眺める時に生じる。旅行地の環境と文化を体験し、現地人に会ったなら、自然にその人たちの立場から考えるしかない。こんな経験が積みあがったら家庭と社会で、自分だけの観点に固執する習慣を捨てることができるのではないか。
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