比較することをやめよう
あなた十分に愛される資格がある
一般的にSKYと呼ばれる大学に通う若者がいる。見た目も俊秀で家柄も入学金の心配をしなくてもいい状態だから、他人がうらやむくらいの若い人材だ。そんな彼が何日か前に私を訪ねてきて深い悩みを吐き出した。江南にある名門の高等学校を出て、自分は勉強が良くできる特別クラスに通っていたと言った。20代後半になった今、職にもつけず、ここ数年、資格を取るための試験に挑戦しているが、同窓会で医者の友達、大企業に通う友達に会って劣等感と自戒感を感じた。あきれたことだ。勉強ができる子供たちを特別に集めたクラスを作らなければならない公教育も、また、集まったというと自分がどんな人なのかを威張りたいという人間の属性も、その中で比較しようと、自分が持っているものを全く眺めることができないまま落胆してしまう若者も、すべてかわいそうだ。
ギャロップで長い間仕事をした経験のあるマークポーキンオムは「成功は経験から来るものではなく、自己認識で決定される」と言った。歪曲された自我で、自身を照らして見ると、どんなこともちゃんとやり抜くことはできない。はじめることもしないで、意志が折れて結果に対して悲観することになる。客観的な目で自分を評価する姿勢はもちろん重要だ。しかし、客観性を維持する事と比較することは違う。一般的に比較の基準は学力とか経歴のようなスペック、家柄とか容貌という通常的な準拠だ。ところが、こんな基準で自分を他人と比較して見ると良い人生さえ疲弊する。自分が、何が得意で好きなのかから省察してみなければならない。他人より不足して劣るものは何なのかから考えることになる。他人と比較したら暗くて消耗的な自意識だけが積みあがる。若い頃から比較の剣を持って人生を生きてきたならば、いつも敗北感にさいなまれる。今、あなたの姿がそうならば比較の剣を捨てて新しい自我に近づかなければならない。
ルネッサンス時代の有名な彫刻家であり、画家、建築家、詩人であったミケランジェロは、自分が彫刻する大理石を見ながら重要な言葉を残した。
「私は大理石の中にいる天使を見て、天使が自由になるまで彫刻した。」(I saw the angel in the marble and carved until I set him free.)
ミケランジェロは冷たい大理石の中に隠れている天使を見て天使が完成されるまで大理石を彫刻したのだった。現在の自分の姿を眺めて見ると息が詰まるときがあるはずだ。天使どころか全く変化のないような大理石だけが目の前にあるからだ。不完全な石の塊を考えると息が詰まる。しかし、時間が流れるのは道理だ。重要なことは自ら自分の中に天使がいると信じて、一生懸命彫刻する姿勢だ。他の人の天使が先に見えて不安になったり、その形成に意気消沈する必要はない。世の中のすべての人が抱いている天使は、その人たちの顔形のようにそれぞれに違う。同じ姿はただの一つもない。大きさも形も色も完成される時期もすべて違う。この真理を知ると比較の剣で自分を切るという悲劇は起こらない。
ハーバード大学の教育学教授であるローセンショルとジェイコップスンはサンフランシスコのある小学校で、新しい学年に上がった全校生徒650名を対象に知能検査を実施した。そして無作為に20パーセントの学生を選んで実験した。この子達の新しい担任になった教師に検査の結果この子達は全校生の中で知能が優れ学業成就の可能性がとても高いと話をした。もちろん実際には知能が高くはなかった。しかし、驚くべきことに8ヶ月が過ぎた後、この20パーセントの学生は成績に頭角を現し、他の学生との関係も良か
った。
教師はこの子達が失敗をしても、可能性が多い学生だか
らとまた機会を与え、よくわからないことはむしろより詳しく説明してやったおかげだった。自己充足的予言self-fulfilling prophecyが作用したのだ。平凡な学生を優秀だと定義する瞬間、子供の学業成就度は高まり交友関係も活発になったのだ。
他人より自分ができないと思う比較があるかと思うと、反対の場合もある。長点を高く評価すれば良いのだ。他の人より優れた点を探す肯定的な比較もあるということだ。弱点に焦点を当てると、被害意識に浸って無気力になる。長点を探して生かせば幸福で生産的な人生を生きることができる。考えを変えなさい。新しく接近したならば、今日と違う明日があなたを待っている。寝ている天使があなたの前に現れるのだ。
だから比較の罠に陥らないようにするならばまず、冷静にならなければならない。感性が豊かな若者は、目に見える現象と問題点に敏感に反応する。自分に対しても客観的な視線を維持してこそ発展がある。合理的な目で世の中を眺める訓練が必要だ。
世の中は格好が良くて、すらっとしていて、華麗なスペックを持った人を歓呼する。しかし、スペックは相対的だ。学力コンプレックスを例にあげてみよう。地方大学に通う学生はソウルで学校に通う学生をうらやましがる。ソウルにいる大学生は、その中でも学校の序列の比較をして、いわゆる名門大学の学生を前にすると意気消沈する。名門大学の学生はアメリカのアイビーリーグや、海外の名門大を卒業した留学組に劣等感を持つかもしれない。比較意識は食物連鎖のように尻尾に尻尾がつながる。一人の人間を取り囲む条件と環境に対し、こんな風に考えるとどんなに疲れるだろうか。こういう時は引き受けた事に集中して、未来を計画するほうが賢明ではないか。
私達がよく知っているジョン ロックフェラーは43歳でアメリカで最高の金持ちとなり、53歳で世界最大の大金持ちになった。しかし、55歳で不治の病で一年以上生きることができないという死刑宣告を受けた。この間、金を集めることに没頭し他人が持っている富と比較して、すべてのストレスが累積したせいだった。教会の牧師が彼にこのように言った。
「もうすべてのものを手放しなさい。」
この話を聞いてロックフェラーは最高の金持ちという比較意識を捨てて、残った一年の間をすべての財産を意味があるように使って死のうと思った。行く所々に孤児院を建て、図書館を建て、弱いものを助けることをした。不思議なことに彼の捨てることと熱情は、富と名誉と健康を再びもたらした。多くの人々の尊敬を受け、長寿を全うし98歳で亡くなった。彼が自ら打ち立てた比較の垣根を抜け出した瞬間、自由と健康を回復したのだ。私達も比較の観点を違えることで変化と成長を成すことができる。比較意識を捨てればいつでも道が開け、光がさす。
科学者の実験は私たちに多くの教えをくれる。ねずみを真っ暗な鉢の中に閉じ込めておくと3分も耐えられず死んでしまった。しかし、その鉢の中に一筋の光を入れると36時間も生き延びたという。一筋の光を発見して生き延びる希望として耐えたのだ。鉢の外には光が厳然と存在していて、その光を見てきたとしても一筋の光がなくては3分を持ちこたえることができないことは、生きることを放棄し、絶望の罠にかかったからだ。私達の人生も比較の剣で自分を絶望の罠にかけてはいけない。今は暗くても光は存在している。光の存在する外を眺めて見ようか、でなければ今の暗さにだけ没頭しようか。涙を我慢しているあなたに比較の剣を捨てて希望の錨をあげることを期待する。