退屈しないように シニアの暮らし

ブログ巡り、パン作り、テニス、犬と遊ぶ、リコーダー、韓国、温泉、俳句、麻雀、木工、家庭菜園、散歩
さて何をしようか

今がつらいなら、よくやっているということだ

2013-05-31 09:22:09 | 韓で遊ぶ
気まぐれは青春の特権だ
自分を嫌になるな、青春は立ち戻ってもいい

「一つの井戸を掘ってこそ成功するというが、私は、なぜ、こんなに気まぐれが、ひどいのだろうか」
青年の相談を受けて見ると、気まぐれが過ぎて進路を決めることが出来ず悩んでいる人が多い。今は専門家の時代だというのに、なぜ、うろうろと意志を決めることができず、さまよっているか。自責してさまよう。落ち着いて最後まで最善を尽くして勝負しなければならないのに、いつもやりたいことが変わる。
しかし、覚えておきなさい。気まぐれは青春の特権だ。毎時、悠然としていて可能性が開かれているということだ。心と考えが一つのところに留まって固定している人は変化することができない。学び成長する幅が限定されているためだ。希望の進路が変わるという内面の現象を自然に受け入れることを願う。あなたは他の人の言葉に耳を傾ける準備ができている人であり、世の中を肯定的に見る心根を持っている者だ。何もしたいことがなく落胆して、社会の不条理のせいにしたら、既存世代と違う点は何があるというのだ。意志と熱情がなくては気まぐれもない。こんな態度と気質は若さの象徴であり特殊性だ。
だが、周囲の視線と反応は美しくはない。
「チッ、チッ、これだ、あれだといったい何になろうとああなんだ」
もちろん若い時は心が変わって失敗することもあるが、人生全体で見たら、致命的な間違いではない。失敗と間違いを区分できない大人の固定観念に若者は苦しみ傷つく。パッパッと振り落としなさい。特権は享受する人の権利だ。
環境によって挑戦して適応していくのが青春だ。自らの心の気まぐれがひどいと自責する必要はない。まっすぐに一つの心を持つのも良いけれど、朝令暮改に揺れ動くのも青春だ。ドイツの詩人ゲーテは、最も有能な人は不断に学ぶ人だと言った。学ぶことは能力を育てる最善の方法だ。気まぐれを通して若者は人生を学習する。ただ、自ら気まぐれだと自責して卑下せず、その時その時、学ぶ機会にしたならば、これは若者の特権だ。気まぐれがひどいと落ち込む必要はない。若いというのは元々、気まぐれなものだ。そのぐらい純粋で経験が少ないからだ。行ったこともない道を行ってみたら、違うと思ったら引き返せばいい。壮年は立ち戻ることができない。若者は立ち戻ってもいい。人間は学習により能力を得ることができる。気まぐれを能力の機会とするならばまず、自ら良い評価者にならなければならない。疾風怒濤の青春を落ち着かせることのできる力は、ひたすら自分の内面にある。外面の自我と内面の自我があることを悟らなければならない。外部の環境がつらく大変な時、心の中の自我が落ち着きをくれるように息を整えて見よう。他人との疎通だけが重要なのではない。外的な自我と内的自我の望ましい関係が成されてこそ、心の安定を得ることができる。目に見えない内面の自我が肯定の評価者として存在するとき自尊感が高くなる。
私達すべてに認めてもらいたい欲求がある。学校や職場で賞賛されたい本能は誰にでもある。若者の気まぐれは、もしかしたら二つの自我の綱引きかもしれない。したいこととできることのぶつかり合いだということもできる。夢と現実の間の葛藤ということもできる。いつも努力して悩んだ跡があるならば、すぐには結果が見えなくても人生の光を放つ足跡として残る。人生が形成される若い頃は批判することよりも励まし慰めてやる暖かい自我が発達しなければならない。
人々はよりよい製品を作るために数多くの変化を試み、挑戦する。私達の人生こそ当然、自我が葛藤して気まぐれを起こす。覚えておきなさい。気まぐれは若者の特権であることを。それによって、はじめは挑戦した道でなくても、又違う道が必ずある。誰かが気まぐれがひどいと言っても、そんな言葉にゆれてはならない。気まぐれは、この世を発展させ、人類の文明を進化させた。来た道が間違っていると後悔して嘆かわしいのか。しかし、他の道を見つけたら、後悔することなく新たに見つけた道をコツコツ歩いていけばいい。気まぐれのせいで涙を我慢するな。気まぐれは若者の特権だからだ。
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今がつらいのは、よくやっているということだ

2013-05-28 21:35:10 | 韓で遊ぶ


好きなことだけでは足りない

好きならばうまくならなければならない

あなたが好きなことに注目したならば、もはや現実だ。それを活用して、俗に言う、食って生きていかなければならない。「長い間苦労して好きなことを探しました。私はゲームと、無為徒食が好きです」という学生がいたならば、私はその人を叱る気持ちはない。ただ、彼に「それを才能にすることができるのか」とだけ問いたい。好きなことは才能になる可能性が大きい。あなたが探し出した好きなことが、世の中から見た時、立派だとか、そのようだという必要は全くない。普遍的価値の物差しで計る判断は世の中の判断で十分だ。私達は、今、見つけたそのままで十分だ。音楽ならば音楽で、絵ならば絵で、ゲームならばゲームですべていい。ただ好きなことを見つけたと満足する前に、そのことに集中して勝負することができるか、問いただすことを願う。そのことをして生きていくならばつらい事が迫ってきても、すぐに振り払って、またやり直すことができなければならない。しかし、大部分はすぐに成果が出なければあせるようになる。耐えることができず不安になる。種をまいて待つという時間があってこそ、実を結ぶ。好きなことを見つけ出して、それを才能として精進しようと心を決めなければ、その好きなことをそれ以上できなくなってしまうという事実を決して忘れるな。これが自然の法則だ。大きな流れに逆らうな。
ハーバード大学教育心理学博士であるハワードガードゥナーは、著書「心のフレームThe frames of mind」で、人にとってIQという単一の知能だけでは無く、9種類の多種の知能が存在すると主張した。
パクカルリンとかイヒィアのように音楽に多大な素質を見せる人がいる。私達は、よく歌が上手いとか、楽器を扱うのが上手いことを音楽の才能だと思うが、実は音楽の知能が高ければ音楽を好きだということだ。あなたが、音楽が好きならば、まさに音楽の才能があるということだ。
パクチソンとかパクテファンのようにサッカーとか水泳を得意とする人がいる。際立って外部の刺激を判別する能力、運動に才能を見せる人々がいる。優れた平衡感覚、正確な身体の動きなどを通して、自分が表現しようとすることを正確に表現する能力が優れた人だ。これを運動知能というが、身体運動知能が高い人は運動を習うとか、踊りを習う時とか、演技を習う時、人よりも早く習得する。
ビルゲーツやアンチョルス教授のように数字、規則、命題などの相称体系によく通じた人がいる。幼い頃から両親や教師の話にただうなずかないで、いつも検証しなければならない子供がいる。こんな場合は論理数学知能が優れているといわなければならない。論理数学知能が高い子供は実験を通して検証した後に答えるので両親とか教師の言葉に素直にうなずくことがない。お金の計算とか時間の計算などに敏感な人を見ると、ねちねちしていると思わないで、論理数学的な知能が高いと認めてあげなければならない。
「しなければならに勉強をしないで散漫であることこの上ない。毎日のように部屋の中のものをあっちに移したりこっちに移したりして、机もあっちに置いたりこっちに置いたり落ち着きがない。毎日毎日環境を変えて心配です。もしや掃除不安症ではないでしょうか」
何かに集中する前に環境に敏感な人がいる。心配する必要はない。頭が良いからそうなのだ。空間知能が優れていてそうなのだ。
際立って話が上手くて、質問するのは好きな人がいる。相手の答えが終わるや否や、また違う質問を続けていく。面倒なほどに質問をして話をするのを好むと、目に付いて無理やり辞めさせようとする。しかし、大体はその人たちは言語の知能が優れた人たちだ。あなたがそうならば、アナウンサーや弁護士などとして長点を生かすこともいい。
「自分のことにでも気を使って、何でそんなに人のことに口を挟むの」
相手の感情とか意図を早く把握して対処する人がいる。人のことによく首を突っ込む場合には対人関係知能が優れているからだ。他人が感じる気分、意図、感情などを自覚して区分できる能力で、ギャグマンとか公共体の代表としての知能を発揮することができる。
ソクラテスは『自分自身を知りなさい』と言った。独り言を言って自分の内的側面に対する知識、自分に対する客観的理解と洞察力に優れた場合は自己理解知能が高いと言える。
すごく子犬が好きで、海辺で貝を探して種類別に分類して大切にしまっておく人は、自然理解の知能が高くこれから環境運動家や自然学者になる可能性と知能がある。
人がなぜ生きるのか。私達はどこから来てどこへ行くのかなどの質問をする人。五感を超越した質問で一貫したこの人たちは、霊性知能が優れているといえる。その人たちは創意性が優れており規則とか状況を変えることができる創造的な能力を持っている場合が多い。
どうですか。自分が弱点だと思っていたことが長所として作用して才能として発揮できるという点が驚きではないですか。勉強ばかりできて単純な知能が優れている人よりも多種の知能が高い人がずっと大きな事を成すことができる。
目に付くいくつかの能力だけで多様な能力を制限してはならない。得意な部分、何か好きで集中している部分を十分に開発してやったならば、上手くできなかった部分にも能力を発揮するようになる。自分を眺める観点がより才能を発達させ有能にする。
ギブソンはアメリカ、メリス村の貧しい家に生まれた。しかし、彼は信念を持って人生を生きて晩年には当代の最高の金持ちとなった。ある日、ある人が来てギブソンに金持ちになる秘訣を尋ねた。
「私には3か条の戒律があるが、ひとつは酒を飲まないこと。二つ目は苦労を恐れてはならないこと。最後は信じて万事に疑いを持たないこと」
その言葉に、訪ねてきた人は失望の色を浮かべ言った。
「そのぐらいなら幼い子供でもわかるのではないですか」
すると、ギブソンは笑いながら言った。
「そうだろう。幼子にでもわかることだが、あなたは今までそれを実践できなかったからお金を稼ぐことができなかったのだ。そのまま実践さえしたらあなたは必ず金を稼げるだろう」
いくら良いビジョンがあっても体質的に習得した人とそうでない人は実際の成果を出すところに大きな差が出てくる。
ビジョンは目的の志向的な行動の出発点となる。しかし、心の深い内面で共有されないビジョンと目標は結局、夢に終わってしまう。よって、明確なビジョンと挑戦的な目標を共有して積極的に進取的に精進する時、自分の価値も高まり変化も成功することができる。
そうしたならばどんな心を持てばビジョンを上手く共有することができるだろうか。
一番目は、肯定のマインドで心の門を開かなければならない。紀元前3世紀ごろ、地球上には大規模な土木工事が2箇所で進行されていた。一方は秦の万里の長城であり、もう一方はローマの街道の工事だった。二つとも大規模工事だったが、万里の長城として塀をつんだ秦の国はすぐに滅亡し、道を作ったローマは千年の帝国を成した。変化と革新をする人々の共通点は開かれた心で世の中と疎通していることだ。
頭の中の目標と内面のビジョンがスポンジのように吸い込んでこそ習慣として身につくようになる。限りなく努力する姿勢で頭と心を一致させなければならない。一日の計画を立てる時、新年の目標を立てる時も絶えることなく頭と心を疎通して肯定的なシナジー効果を出さなければならない。変化を恐れる若者、疎通を怠る若者には未来がない。失敗から学び、生きる方式をビジョンに合わせ改善するマインドが重要だ。
二つ目は、熱情的な信心と信念のマインドを持つことだ。大帝国をつくったジンギスハンが子孫たちに警告した。
「絹の服を着て塀に囲まれた家に住む時、帝国は滅亡する」
悲しいことにモンゴル帝国の後代の指導者達はこの忠告を最後まで守ることができなかった。彼らはモンゴル族特有の狩猟と遊牧の正体性を捨てることで没落の道を歩くことになった。何より重要なことは、他人と違う視覚で人生を眺めることができなければならない。他人があなたに才能がないと言ったとしても、自らを励まし、目標が高いところに向かうように視線を固定しなければならない。無限な潜在力を引き出すために、自身が変わらなければならない。そうしようとするならば、日ごとに内面に感動を与えてくれるメッセージが必要だ。自らをほめる心と、自尊感を高くする言葉で自分を抱きしめ励ますことを願う。
最後には、差し迫った心情で大儀を優先するマインドだ。少し前に他界したスティーブチャッスは「いつも腹がすいていて、バカのように生きなさい」と言った。いつも腹がすいていてという意味は何か。何をしようと「天が感動するように没入すること」だ。天が感動するほどに没入するということはどういう意味か。まさに差し迫った心が近づいて行くことだ。腹がすいている時の切迫感くらい強いものはない。人は3日ほど絶食しても目の前に見えるものがすべて食べ物に見える。腹が減ったという意味は、切迫感で物事を眺めるということだ。「天は自ら助けるものを助ける」という意味は、まさに自分に切迫感として近づくものを意味する。大きな成功を成したければ現実に満足するのではなく未来の危機を予見して、切迫感で接近しなければならない。好きなことをしながら食べて生きていくという意味は、まさに切迫感を持って物事を眺めることを楽しく思うことだ。また、「バカのように生きなさい」という意味は、想像力と創意力を持てという意味ではないか。歴史的に偉大な発明と革新、発見を成した人は皆、同時代の人には理解できない創造的発想の所有者だった。その人たちは一時バカの様な考えをしていると後ろ指を差され、ついには既得権勢力に迫害されるまでした。しかし、その人たちの創造的な挑戦は既存の考えと習慣、慣行と制度などに束縛されなかったので、時代の壁を壊す破壊力を発揮することができた。なぜ既存のことに束縛されなかったのか。そのことが本当に好きだったから。積極的創意性を持って事物を眺める時、未来を主導する領域が見えるのだ。



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函館音楽協会 春季演奏会

2013-05-27 19:40:45 | リコーダーを楽しむ

終わった
いざ舞台に立つと
緊張で胸はドキドキ
足はガクガク
こんなで自分の演奏が上手くいったかどうか、自分では良くわからないが
録音した演奏を聴いてみるとそれなりに感動できた


あまり変わり映えのない日常のなかで
自分がやってことに感動できるなんてこと、そんなにあることでもないから
ちょっといい感じだと思った


指導してくれた先生に感謝
こんな機会をくれた函館リコーダー協会の皆さんに感謝
音楽協会にも感謝
ありがとうございました。

リコーダーって楽しいかも
一緒にいかが
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今がつらいならば、よくやっているということだ

2013-05-27 19:39:22 | 韓で遊ぶ


好きなことをして食べて暮らす

長点に焦点を合わせなさい

全世界を「江南スタイル」の熱風で引っ張るサイ。世界的な名士だけが招請されるというオックスフォード大学のユニオン講堂に立ち、アメリカのオバマ大統領にまで会った世界スターだ。平凡で太った容貌のサイは自分の好きなことに人生の勝負をかけた。
「15歳のときクィーンの公演を初めて見た。クィーンのボヘミアンラブソディは言葉そのままに衝撃だった」
中堅企業の会長である父は息子が経営学を専攻して事業を引き継ぐことを望んだ。しかし、息子は勉強を拒絶し遊んでばかりいた。ほとんど「すてられた子供」扱いを受けていたサイは、アメリカ留学という勝負に出た。
ボストン大学で経営学を専攻したが1学期でやめてバークレー音楽大学に移った。自分の道は経営ではなく音楽だということを再び確認したためだった。当然家には知らせなかった。
後でこの事実を知った父は経済支援を中止した。しかし、サイは帰国せず不法CDを作り売りながら音楽にまい進して歌手になってでてきた。
大麻事件と2度の軍隊入隊というとんでもない苦難の中でも彼はダルマのように再び起き上がり、自分だけの個性をあきらめず「ワールドスター」の列に加わった。
サイが父の進めた経営学を勉強していたならばそして彼の長点である音楽に挑戦しなかったならば全世界を熱狂させる今日の彼は存在しなかっただろう。
講義をする時このような質問を良く受ける。
「自分の長点に集中すれば成功すると言いますが、得意なのか、そうでないのかをどうやって見分けることができますか」
世の中は普通、貴方が得意なことよりもできないことを浮き彫りにさせる。得意なことをほめることよりは足りない部分を補うことを要求する。これは競争社会でどうしようもなく通用している典型だ。そうしてみると人々は自分ができないことに集中させられ、すぐに自分が得意なことが何なのかさえわすれたまま得意なことを無くして落胆してしまう。
自分が得意なことを生涯生業とする時、幸福だろうということがすぐに思い浮かぶ。それに集中すればいい。でなければいくら考えても自分の長点が何なのか、自分が何をすれば成功できるのか思い浮かばない。ならば、得意なことを見つけなさい。でも、得意なことが何かわからないならば、好きなことを探せばいい。好きな事と得意なことがぴったりと一致しなければ、好きになってみれば得意になる。
ピータートゥロカー教授は「あることを成そうとすると、どうしなければならない」という「how」ではなく「これを成すために何が必要か」という「what」が重要だと言った。ピータートゥロカーは子供の頃ひどい悪筆で字を書く練習教室にまで通ったが矯正できなかった。彼の長点は作文能力だった。先生はトゥロカーの文章を書く腕に注目して、一層練習しなさいと勧めたという。その時の経験でトゥロカーは、人間は弱点を改善しようという努力よりも長点をもっと育てるところに焦点を当ることだということを自ら悟った。弱点を治そうと努力してみると、長点を生かして成果を挙げる機会を逃してしまう。平凡な人が非凡な成果を挙げる秘密は自分の長点を信じ、その何かを追及していくことだ。
少し前に、ポスコICTのハナンソク社長にあって談笑を交わしたが、とても重要な事実を一つ発見した。ハナンソク社長が集中的に「幸福を分け合う125キャンペーン(一ヶ月に一つ以上奉仕活動をすること、一ヶ月に2冊の本を読むこと、一日に5回以上の感謝をすること)を推進したら職員達が肯定的に変わり、経営性もより多く形成されたと言った。幸福の分け合い125は元々ソウル大学の招聘教授であるソノク会長が提案したことだが、この運動を通して多くの変化が起こっている。自らを励まし、感謝しながら生活してみると、多少実力が足りなくても好きになり得意になるという原理だ。

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リコーダーの発表会

2013-05-24 09:03:03 | リコーダーを楽しむ


5月25日発表会があります
10分くらいのステージだとは思いますが、それに向けて約3ヶ月練習を続けてきました
韓国語の勉強の合間を見ての練習だったのですが
しばらくは、リコーダーの練習の合間の韓国語の勉強でした
大きな舞台に立つのは初めて
2回目でこんな大それたことをして良いものか
演目は
「カプリオール組曲」1,2,4
Pウォーロック作曲
です

(2023/6月30日画像サイズ変更)
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今がつらいなら、よくやっていると言うことだ

2013-05-21 10:19:13 | 韓で遊ぶ


人生は水が流れるように流れていく

世の中を生きていくのに困難なことに耐え抜いて夢を実現する力はどのようにして手に入れることができるのか。答えは簡単だ。今よりももっとひどい状況にならないことに感謝することだ。そうすれば勇気がわく。暗闇のトンネルに未だに入って行かないで、自分が一番つらいという資格がない。多々、つらいと感じているだけだ。しかし、私はつらいと感じている貴方を応援する。今がつらいと感じているならば、あきらめないで人生を競争しているとしたら貴方はよくやっていると言うことだ。それがたとえ挑戦でないとしても今のつらさほどに良くやっていると言うことだ。オリンピックでメダルを取った選手を見てみよう。彼らが普段流す汗は想像を超えている。泰陵選手村に行って直接彼らの訓練の場面を見たならばあきれてしまうだろう。テレビで見るのはほんの一部分に過ぎない。オリンピックやアジア大会に先立って少し誇張して、一日24時間訓練だ。寝るときもマインドコントロールだ。ひたすら訓練だけ考え自分長所短所を把握して、弱点をどのように治すか研究する。私達が簡単に「血の出る訓練」と表現するが、この人たちは本当に血の出る訓練をする。この人たちが日ごろ流した血と汗が支えとなってよい成績をもたらすのだ。訓練中はどんなに苦しくつらいか。時間が過ぎても伸びない実力とスランプ、運動を止めたいと言う重いがいつも苦しめている。マラソンの英雄ファンヨンジョは1992年バルセロナオリンピックで金メダルを取って故郷に錦を飾った後の記者会見で「訓練をしているときはとてもつらくて走っている車に飛び込みたい時もあった。」と吐露した。そうだ。運動選手こそ「今がつらければ、よくやっていると言うことだ」を言う命題を実践している例だ。
難しくつらい事を耐え抜く知恵と習慣は無意識的であろうと、なかろうと学習によって作られる。そして一度作られた価値観は容易に変えることができない。だから、誰に学んだかが非情に重要になる。
「先生、私は得意なことが何もありません」
このように話す若者がいる。そうではない。観念の枠に縛られていて得意なことが見えないだけだ。
幼い頃から診てきた学生が一人いた。正常人だというには難しく、知能も若干落ちる学生だった。若い頃その子を診て果たしてちゃんと成長し健康的な社会人になることができるのか、苦しく話をした。勉強にははっきりと才能がなかった。しかし、その子は映像と撮影に関心があった。映像と撮影の技法に執拗に専門性を育てて見たら、今はMBCテレビ撮影技師として勤務している。本の中の話と思うだろうか。はっきりと言えることは得意なことがなくても必ず自分の道があるということだ。耳を傾け苦悩しながら自分だけの道を、自分だけの解等を探しなさい。他人の話に耳を傾けない人が意外と多い。自分を縛り付けていた旧世代の価値から抜け出して自分の得意なこと、自分の観点を探しなさい。疎通不能は体の一部分の軟弱な一種の障害だ。疎通は組織と社会が望む最高の印象だ。
良い習慣を身に着けた人は心が健康で、過ぎたことを早く忘れ、与えられたことに集中する。しかし、心が弱い人は過去を恋しがり未来を心配する。考えが分散して現在に没頭するエネルギーがなく時間を浪費する。傷をパッパッと振り払って「大丈夫だ、これもまた過ぎていくことだ」と自ら慰める過程のなくして未来を準備することはできない。心を健康にすることは現在を上手く生きる秘訣であり、競争力であり、武器だ。
誰も、流れていく水に2度手を浸すことはできない。すでに過ぎたことや、一度下した選択、そしてまだ来ない未来に対する不安とか執着ほど無意味なことはない。劣等感は時には物事を成就する動機を与え適当なストレスが生活に活力をくれる。
成功の基準が、勉強が1番、学閥、家柄、スペックだという考えに陥って見ると未来が制限される。他の人とは違う才能があるにもかかわらず対人関係や社会生活の中で傷つく。相手側はあるがままの自分の姿を見ているのに、ひとりでに萎縮して縮こまる。私達はマスコミで形成された鏡で自分を見る。
忘れてはならない。世界に数十億の人が皆違うように生きる方法もそれぞれだ。最もよく似合う服を選ぶ時のようにその方法を探せばいい。貴方は服を買うときにどうしますか。めんどうくさいといって着もしない服を買う人がいることはいる。特に男の人はそうだ。しかし大部分はこの服、あの服と着ては脱いでみる。どんな服が良く似合うのか着てみなければよくわからないからだ。買い物をしょっちゅうしてみると、体型の長点を生かし、短所を隠す服をさっと探せるようになる。はじめは失敗してもだんだんノウハウが生じる。何回も着てみなくても自分にぴたっと合って楽な服、長く着ることができる服を見つけることができる。人生のビジョンも同じだ。自分に合っているビジョンを見つけようという心で一生懸命探してみればノウハウが生まれる。試行錯誤があっても絶対に失敗することはない。
テレビ番組の中の「ギャクコンサート」と「無限挑戦」は家族が一緒に見て楽しめる芸能番組だ。この番組が長く続いている秘訣は平凡で少し足りなく見えるキャラの人たちがそれぞれに自然に個性を見せるからだ。「ギャクコンサート」の「4つのコーナー」を見てみよう。「そうだ、私は人気がない」「そうだ、私は田舎くさい」「そうだ、私はチビだ」「そうだ、私はデブだ」と言いながら自分の弱点をむしろ笑いに昇華させている。「無限挑戦」のユジェソク、パクミョンス、チョンジュナ、キル、ハハ、チョンヒョンドン、等の出演者は皆、厳しく育てられた子供とは程遠いキャラクターだ。だから普通の視聴者達が気軽に楽しむことができる。だから、この人たちが繰り広げるバラエティは飽きることなくいつも新しい。固有の強点を上手く生かすと短い命の星でなく長く輝く星になることができる。
学校の勉強が一番重要だと思って子供達を追い立てる一番前にはいつも大人がいる。優等生が社会生活も上手いだろうか。学校の成績が良いと人生が上手く開ける確立が高くはなる。しかし、学校の勉強は上手くできなくても人生がちゃんと送れていたらそれもやはり成功する可能性が大きい。「学ぶことができなくて独学した人は会長になって、優等生はその秘書をする」という笑い話がある。実際にそのようなケースもたくさん知っている。むしろ学校の勉強だけを一生懸命して、人生の勉強をおろそかにしたならば内面が傷ついて病気になることがある。
私が子供の頃、母は私に「勉強しろ」とは言わなかった。代わりにいつも農業の手伝いしろといった。むしろ農業の手伝いをしたくないために宿題をしなければならないといって部屋に閉じこもり勉強する振りをした。そうしては友達と山に行って、ウサギを捕まえ、川原に行って魚を捕まえ、遊びまわった。秋になると収穫が終わった畑でサッカーをして何日か徹夜をして演劇の準備をした。今思っても本当にロマンチックだった。
私は今、大学院に通う娘と大学の最終学年の息子がいる。母と同じで私は子供たちに勉強しろと強要したことはない。もちろん気に入らない時「なぜそうなんだ」という言葉がのどまで出かかったが、我慢したことはある。息子が国家試験の勉強をしていたが中断したと気がそうだった。1次まで合格していながら辞めてとても惜しいと思った。続けることを勧めたいと思ったがこらえて、まずは息子の考えが何かを聞いてみた。息子の考えは司法試験ではなくロースクールだった。今まで自分でやってきたのだから、これからも自分でやるように任せた。
だが、毎日毎日テレビを見て、居間から動かないのを見て気持ちが急いた。どうしようか悩んだが、一緒にテレビを見て番組についてあれこれ話をし始めた。そうしてみると父子間がより親密になり、息子がどれぐらい具体的な計画を持っているのかを知ることになった。息子は本格的に勉強をするためにまず自由奔放に休息をしているところだった。言い訳ではなく具体的なスケジュールだった。万一これを知らずにはじめに問い詰めたら父子間の信頼も壊れただろうし、息子の計画にも支障が生じただろう。
やっていた事が滞り、上手く進まなくなった時、自分を余り攻め立てると、心の寄りどころがあるだろうか。心は安らかな休み所にならなければならない。そうしてこそ無になって再発見する事ができる余地を持つことになる。余り散らかったならば収集しなければならないが、それでも一度はとんとん自分を抱きしめることを願う。これが心を無にすることと再発見の原動力だ。
「一等ならば、上手く生きて出世する」という考えを無くすと、代わりに「得意なことに集中すれば上手く生きて出世する」という考えを再発見することになる。発想の転換を習慣化すればいつでも望む方向に人生を設計することになる。私達はどれぐらい長い間、観念の枠に縛られているのかわからない。観念の枠を抜け出すことが無になることで、新しく定義するということが再発見だ。「病院は病気の人が行くところ」という考えをすてて「病院は病気でない人の行くところ」という再発見をした結果がまさに健康診断だ。
この世の中を変える力は概念だ。概念は意味だ。意味があれば人々は多くの対価を払っても選択する。意味は価値であり価値は主観的だ。いくら高価な皮で作ったかばんでも有名なブランドでなければ人々は選ばない。シャネルとルイヴィトンを選り好みする理由は信頼に値するブランドだからだ。自分の価値をブランドが表現してくれると信じているからだ。一度の人生、自分だけのブランドとしてかっこよく生きてみたらどうだろうか。世の中は広くやることは多いから見識を広げなさい。人生は水が流れるように流れていく。今、この瞬間、心の中の重荷と悩みを自ら払ってみよう。自分に話をして自分に勇気を与えて見よう。明らかなことは、天が崩れるような苦悩も過ぎて行っている。とてもつらいことは時間に任せて見よう。
大丈夫、これもまた過ぎていくだろう。


世の中を生きていくのに困難なことに耐え抜いて夢を実現する力はどのようにして手に入れることができるのか。答えは簡単だ。今よりももっとひどい状況にならないことに感謝することだ。そうすれば勇気がわく。暗闇のトンネルに未だに入って行かないで、自分が一番つらいという資格がない。多々、つらいと感じているだけだ。しかし、私はつらいと感じている貴方を応援する。今がつらいと感じているならば、あきらめないで人生を競争しているとしたら貴方はよくやっていると言うことだ。それがたとえ挑戦でないとしても今のつらさほどに良くやっていると言うことだ。オリンピックでメダルを取った選手を見てみよう。彼らが普段流す汗は想像を超えている。泰陵選手村に行って直接彼らの訓練の場面を見たならばあきれてしまうだろう。テレビで見るのはほんの一部分に過ぎない。オリンピックやアジア大会に先立って少し誇張して、一日24時間訓練だ。寝るときもマインドコントロールだ。ひたすら訓練だけ考え自分長所短所を把握して、弱点をどのように治すか研究する。私達が簡単に「血の出る訓練」と表現するが、この人たちは本当に血の出る訓練をする。この人たちが日ごろ流した血と汗が支えとなってよい成績をもたらすのだ。訓練中はどんなに苦しくつらいか。時間が過ぎても伸びない実力とスランプ、運動を止めたいと言う重いがいつも苦しめている。マラソンの英雄ファンヨンジョは1992年バルセロナオリンピックで金メダルを取って故郷に錦を飾った後の記者会見で「訓練をしているときはとてもつらくて走っている車に飛び込みたい時もあった。」と吐露した。そうだ。運動選手こそ「今がつらければ、よくやっていると言うことだ」を言う命題を実践している例だ。
難しくつらい事を耐え抜く知恵と習慣は無意識的であろうと、なかろうと学習によって作られる。そして一度作られた価値観は容易に変えることができない。だから、誰に学んだかが非情に重要になる。
「先生、私は得意なことが何もありません」
このように話す若者がいる。そうではない。観念の枠に縛られていて得意なことが見えないだけだ。
幼い頃から診てきた学生が一人いた。正常人だというには難しく、知能も若干落ちる学生だった。若い頃その子を診て果たしてちゃんと成長し健康的な社会人になることができるのか、苦しく話をした。勉強にははっきりと才能がなかった。しかし、その子は映像と撮影に関心があった。映像と撮影の技法に執拗に専門性を育てて見たら、今はMBCテレビ撮影技師として勤務している。本の中の話と思うだろうか。はっきりと言えることは得意なことがなくても必ず自分の道があるということだ。耳を傾け苦悩しながら自分だけの道を、自分だけの解等を探しなさい。他人の話に耳を傾けない人が意外と多い。自分を縛り付けていた旧世代の価値から抜け出して自分の得意なこと、自分の観点を探しなさい。疎通不能は体の一部分の軟弱な一種の障害だ。疎通は組織と社会が望む最高の印象だ。

つづく
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今つらいならば、よくやっていると言うことだ

2013-05-06 13:05:52 | 韓で遊ぶ


スペックよりも優れた武器は夢!

世の中が急激に変っている。この変化の時期に合わせて私達の認識も変らなければならないのに、認識は時間が過ぎるほどにむしろ過去に戻り、硬くなる傾向がある。一度入り込んだ認識と観点が変わるのは本当に難しい。人は元々自分が決めた基準が正しいと言う観点を持っているから変化を拒む。
多くの若者がマスコミや既存の学習システムが教えてくれた観点で自分の人生を評価して診断するために苦しむ。そんな姿を見るたびに胸がひりひりする。だが、誰かが決めてくれた道には地雷原もあると言うことを覚えておいてほしい。
涙をこらえれば強くなれ、勝てるという昔の観点が痛い心をもっと痛くするのだ。世の中の観点が必ずしも答えではない。私が涙をこらえている青年たちに「思いっきり泣きなさい」言う理由がこれだ。世の中が決めてくれた基準に漠然と追随したならば、天がくれた価値のある人生を送ることができなくなる。観点は自分が積極的に、意図的に、変えようと努力するとき変えることができる。
この世の中の悲壮感を一人で背負っているような気分になるとき、失意の苦痛が深いならば,深い分だけ心を新しくすることが難しい。こういうときは思いっきり泣いて「これもまた、過ぎていくだろう」笑って超えられたらいいと思う。「今まで陥った苦痛の中で最悪」という思いがしてもこれもまた過ぎていくだろう。どんなにひどい傷も時間が過ぎると肉が上がってくるものだ。「現在は未来の過去」だ。現在は瞬間、瞬間過去になっている。今は現実に落胆し座り込んでしまうことは結局、過去に縛られて生きる人生だ。自分の身の上の不幸を笑って乗り越え、静かに眺めることができる認識の変化が自分を再び再起させるのだ。
ノーベル生理医学賞を受賞したケンブリッチ大学、ジョン カートン教授が少し前に来韓した。青年達を対象に講義をしながら、自身の幼い頃の話を聞かせてくれた。ワートンスクールへ通っていた16歳の頃、彼の生物の成績は260人中260番目、ビリだったという。先生が成績表に次のようなコメントをくれた。
「科学者になりたいようだが、今の成績では見当もつかない」
ジョン カートンは先生のコメントを回想しながらこのように講演した。
「科学者になりたかった私はとても失望したが、先生の言葉を信じなかった。『あきらめなければ必ず夢はかなう』という母の簡単な教えが本当だと確信したからだ」
彼は既存の枠ではない、変化された観点に従ったので世界的な学者になりノーベル賞まで受け取ることになったのだ。ジョン カートンは今もその時の成績表を自分の研究室に貼って学生たちに夢を持っている人はいつかかなえることができると力説した。
世の中は「成績がよければ科学者になれる」と教えた。しかい、ジョン カートンの母は「あきらめなければ夢をかなえることができる」という観点を持っていた。カートンはその観点に従った。成績がビリだったとき「大丈夫、これもまた過ぎていくだろう」という慰めと励ましがカートンを再び挑戦させたのだ。ジョン カートンを立派にしたのは公教育ではなく観点の力だった。「成績が悪ければ科学者にはなれない」は世の中が提示する普遍的な価値だ。しかし、真理は普遍的な価値を超越した。挑戦する人々だけが歴史の主人公になれるという信念は真理だ。真理を選択する勇気、夢に対する確信が不変的な価値を変え世界的な学者を誕生させたのだ。
なぜ私達の時代が絶望の時代だと見えるのか。真理は沈黙して普遍的な価値というものは仮面をかぶったまま日常においてうるさく私達を縛っているからだ。今、つらくて絶望したいのか。そうならば、自身を持ってこう言いなさい。
「大丈夫だ。これもまた過ぎていくだろう」
いくらか前に大学入試の試験を受けた女学生が望んだ成績が出なくて、アパートの飛び降りたという記事を見てとても心が痛かった。試験の成績が悪ければ人生が終わりだという認識は既存世代が作った罠だと言いたい。真理は何か。試験の成績が良くて望んだ大学に進学して良いスペックを持ったならば余生を少し楽に生きることができるが、必ずそうだと言い切ることはできない。
「試験の成績が悪ければ人生も終わりだ。これ以上私の人生に希望がない。良い成績が取れるように一生懸命やらなければならない。」という脅迫と束縛を通して息さえちゃんとつけないで、声を出して泣くこともできないこの女学生の絶叫は何を話したのか。誰か一人でも幼い頃から「大丈夫だ、これもまた過ぎていくだろう」と霊魂のメッセージを聞かせてやっていたならば救うことができなかったろうか。人生には試験よりも大切で貴いものがいかに多いか。何かを手に入れようと地団駄を踏んで見たらそれが全部であるようにその枠に閉じ込められる。空けてこそ新しい観点が生じる。
世の中で勝利したいのか。そうならば自分を締め付ける観念の枠から果敢にぬけだして見よう。自分を励まして慰めて、ほめて見よう。そして得意なことに少し関心を持とう。以外に得意なことが多いかもしれない。自分が、何が得意なのか。どういう人間なのかは問題にぶち当たった時に行う選択と行動を見ると知ることができる。どんな環境や行程においても機会の窓はいつも開かれていた。先発走者が提示したゲームのルールから抜け出そうとする意志と観点があればいい。「普遍的な価値」という束縛のせいで、自分の観点を逃さないことを願う。
私は多くの既存世代と若者に会って、その人たちの大部分が固定した視覚に囚われているということ悟った。いい大学をでると出世ができ成功すると言う間違った方程式だ。実は結果は半々ではないか。スペックより重要なものはどんな夢を持っているかどんな気持ちで挑戦しているかだ。
人生という長い行程で誠実感と挑戦意識を供えていなければ、いい学力とスペックは何事にも挑戦しなくても、過去の履歴が人生を楽にしてくれると錯覚させ、むしろ毒になる。
最近新聞を見るのが怖い。小さなことに余りにも大きな意味をつけて自ら挫折し落胆する。ややもすると自殺のニュースだ。試験がちょっと良くなかったから、失恋したとか、事業に失敗したとか、人生の勝敗が決まったのではないと誰かが対抗しなければならないのに、社会がこれを黙視して同調して沈黙しているのではないか。
だから大人の役割が重要だ。結婚して子供を生んで、ちゃんと食べさせ、ちゃんと着せることにだけ重点を置いたならば子供がぬきんでた容貌とスペックを持つようになるかもしれないが強くて節制して挑戦する人に成長することはできない。
ギリシャの哲学者エピッテツスは「人間はつらい事のためにつらいのではなく、そのことがつらいと思う考えでつらいのだ」と言った。全的に同意する。誰でもストレスのない生活はなく、失敗や間違いは人生の影とも同じだ。影のない人がいないように、失敗や間違いのない人はいない。「私は絶対に失敗しないようにしないと」という完璧主義と当為性の横暴にひるむことはない。試練は私達をつらくするが本当の力をもたせてくれるいい機会になることもある。
誰かの胸に抱かれてワンワン泣きたいのか。人生の波風に遭遇したときつらい現実を避けたい時、誰かの励ましと慰めが必要だ。同じようなつらい人生の行程をたどった人や人生の先輩を訪ねることを願う。それが、父母だったり、兄弟姉妹だったり、親しい大人だったり、先生だったり、誰でもいい。普段尊敬している人にeメールでして見ることもいい。インターネットが発達してソーシャルネットワークサービスが活発になったが、人生を先んじた人の代わりをすることはできない。若い人はどこでも歓迎される。今は無様で不器用な若い人というだけでまぶしいからだ。あなたが誰かに手を伸ばしたら拒否する人はいない。助けてくれと手を伸ばした人が助けが必要な人を抱くことができる。未来のための夢も、人生のための幸福になるための出会いも、努力して探すあなたを決して裏切らない。
少し前にある中学生の相談を受けた。間もなく中学3年生になる女学生でバレーボールの選手だった。友達が上手だとほめてくれるが、自ら満足できなくてストレス性の呼吸混乱も感じて心のコントロールもできず本当につらいということだ。中間試験は良かったがだんだん勉強もいやになって嫌気が差し、自分がいやになり、こんなときにどうしていいかわからなかった。私はいくつかの生きる方向を話した。上手くやりたいが上手くいかない時、守らなければならないことは絶対に自分を虐待してはならないことだ。むしろ自分を励まし無理にでも余裕を持とうと努力しなければならない。何より一日一日、手に負えるほどの具体的な行動単位を決めて結果が良かろうと悪かろうと自分との約束を守ろうとしなさい。一つ大切なことは、いつも1等をとれば成功したのではなく、あきらめたい気持ちを克服するところに人生の価値があると励ました。たくさんの慰めと勇気をもらったと笑いを取り戻した学生を見て精神科のやりがいを感じた。
精神科の用語の中に「心の換気」ということがある。自分の苦痛を誰かに話して払い落とし、助けをもらうと怒りを静めることができ、挫折と苦しみに勝つことができると言うことだ。この中学生は私を通して「心の換気」をしたのだ。
心がとても重くてつらいのか。誰かに会って慰めと勇気をもらいいなさい。読書を通すなり、講演を聞くなり、直接相手に会って話をしてもいい。心に積まれた苦悩を振るい掃う勇気を勧めたい。
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今つらいならば、よくやっていると言うことだ

2013-05-04 15:57:42 | 韓で遊ぶ

괜찮다 이 또한 지아가리라
大丈夫、これもまた通り過ぎるだろう


涙のあるところには人生があり、涙のあるところに強靭さがある。間違いであれ失敗であれ、機会の剥奪として泣くことができなかったならば、その人は強い人生を生きることができないと断言する。

倒れたら、思いっきり泣きなさい
何年か前に職場の同僚の葬式に参列したことがある。後輩であったが、いつも誠実で、家庭的で、私の話を良く聞いてくれ、とても大事にしていた後輩だった。その年の夏、後輩は家族や親戚と共に休暇に出かけた。子供たちは水遊びをして、大人たちは川辺で休んでいたが、その時後輩の息子が急流に巻き込まれ流された。これを見た後輩はすぐに水に飛び込んで息子を助けたが、自身は力尽きて水から上がることができなかった。弔問に行って家族を慰めたが、父親のおかげで生き残った中学生の息子が、世の中のすべての罪を一人で背負った人のように、片隅に座っていた。自責と恐怖に包まれどうしても泣くこともできず震えている姿だった。湧き上がる悲しみに、息子をぎゅっと抱きしめ、一緒に泣きながら話した。
「泣きなさい。思いっきり泣きなさい。お父さんに聞こえるまで。そして、お父さんが成し遂げられなかった夢まで成し遂げなさい。」
家に帰る途中で、その息子に励ましと慰めのメッセージを送った。
「つらさに耐えたら大丈夫だ。これもまた過ぎていくだろう。」
本を書き始めた今、この後輩の息子が思い出される。どれだけ多くの若者が、つらさを抱え涙をこらえて生きているのだろうか。その者たちの傍で私たち大人は何を話してやることができるだろうか。ただ、涙を拭いてやるしかできない現実の中で、どうすれば共に荷を背負ってやれるのか苦悩した。重い荷を背負い生きていく若者のために分け合う生き方を実践したい気持ちで執筆を始めた。
無限の競争社会を生きながら人々の涙はだんだん干からびている。一度倒れると再び起き上がることができない、永遠の敗者になると言う社会通念に絶叫する。「敗者復活戦はない」と絶望する若者に、この世の中は「倒れても泣くな」と強要する。
もはや、私はこの者達に「倒れたら泣きなさい」と叫びたい。「泣いてこそ、生きる」と言うメッセージだ。そうしてこそ本当に心の傷を踏み越えて再び起きることができると信じる。
自分のせいで父親が死んだという痛みを抱えている息子に、泣くのを我慢しろと言ったならば激しいストレスでその子もまた絶望して挫折するだろう。思いっきりうらみ嘆いて泣いて、限りなく父を恋しく思う時、乱れた情緒が回復して心が自由になる。
なぜこのように心の余裕がなくなっていくのか。過去よりずっと豊かな暮らしをしているのに、なぜ私達の心はより枯れて乾いていくのか。「泣くと弱気になる」と言う認識が私達を捉えているからではないか。泣かなければ強くなれるかどうかは疑問だ。理性が感性を支配してこそ強くなれると信じているが、心の中の深いところの感情が覚悟決めさせ新しい自分を照らすエネルギー源である時がまた、多い。
悲しければ泣かなければならず、うれしければ笑わなければならない。それが自然の道理だ。喜怒哀楽によって生きることができないならば状況に適応する感情がちゃんと作動できない、自分ではない他人の情緒ではないか。つらかったら泣きなさい。人生はスベックではなく純粋であることと悟ることを積み上げてこそ成功するものだ。
私は感情をある程度表出しなさいと言いたい。人間は繁盛の動物ではないか。誰が私達をロボットにしようとするか。情緒が干からびる時は人生も乾燥する。涙があるところには人生があり、涙があるところに強靭さがある。間違いや失敗で機会を失ったことで泣くことができなければ、彼は強い人生を生きることができないと断言する。すべての偉大なことの後ろには涙があるからだ。
職場の生活に疲れたのか。学業がつらいのか。上手くやろうとするがやる事々に上手くいかないのか。だが、今、座り込むには人生はあまりにも長く美しい。
私は30余年組織生活をしながら多様な経験をした。時にはつらくてワンワン泣きたい瞬間、どこかにさっと逃げ出したいくらいつらい事、辞表を出して休みたいときもあった。私が悪いのではないのに上司に怒られ、人々の間で腐っていたら自身がみじめでかわいそうだった。自分がかわいそうだと浸って泣きもした。今考えると大したことではないのに、なぜあの頃は重く手におえなかったのか。人生に対する純粋さがあり、内面の痛みが大きかったようだ。些細なことに共感して反応する感性が「生きていた」からだ。映画「犯罪との戦争」を興味深く見た。慶尚道なまりで唯一繰り返された台詞、流行語になった言葉がある。
「生きているね」
興味深くも、「生きているね」という言葉を言ってみると力がでる。生命が生きているというように私達の言葉と行動、表情が生きていなければならない。つらいということは生きている証拠だ。
疲れて、つらいあなた。つらいならばつらいと思いっきり泣こう。そして思いっきり泣いたら、痛みを振るい捨てて堂々と立ち上がろう。一度の失敗は長い人生において一つの点に過ぎない。
どう見るかの観点が未来をよくもするし悪くもする。つらかったら泣く術を知り、思いっきり泣いたら立ち上がる術を知る、正しい情緒を持つときやっと望むことを成すことができる。

2014,1,3 校正
コメント (1)
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今つらいと思うのは、良くやっていると言うことだ

2013-05-03 08:35:29 | 韓で遊ぶ

プロローグ

生きている人は
苦しい程すばらしい未来がある




人生は安全地帯だけに固執する時、発展が止まる。多少不都合で苦しくても挑戦する人が美しい。挑戦は個人が成長し、組織が発展するための必須過程だ。

ある日研究室に一通の手紙が届いた。熱射の国サウジアラビアで苦労して仕事をしている大企業の職員だった。監獄のような閉ざされた地に足を踏み入れた時、苦労の門が開かれたようでつらかったと言った。職員のすべてが苦難だと思っていた。本人もまた発令を受けた瞬間、本社の同僚に遅れをとったようで落胆したと言った。しかし彼はこのように言った。
「先生の著書でやっと決心することができました。毎日、一章を読んで、そしてまた読みました。もはや先生の本はすべて読んで、暗記するほどになりました。つらい時に最も大きな勇気をくれた先生のメッセージのおかげで上手く耐えています。先生が「苦難は結果でなく過程であるだけだ。今日の涙は明日の笑みの糧だ。」と話したように必ず笑みに変るでしょう。」
私は読者から「本を読んでたくさんの知識を得ました。たくさん学びました。たくさん悟りました。」という話を聞きたいとは思わない。私の本は誰かに知識を伝えたり、学ばせたり、悟らせるのが目的ではない。
今回は激励と慰めを通した挑戦を話したくて「今つらいならば、よくやっているということだ」という題目に決めた。この間、慰めと激励に対する本がたくさん出刊されたが、新しい観点から話を始めたかった。涙を我慢するなと言いたい。声を出してワンワン泣いた後にこそ挑戦が可能だ。痛い気持ちを抱いてこそ存在感が高くなる。

「今つらいならば、よくやっているということだ」を通して知識とか何かを学ぼうとか、悟りとかを得ようとしたら失望するかもしれない。しかし、「まさに、これだ。このようにしなければ」と、一つでも洞察力を得ることができたらいいと思う。勇気をもらって生きる意志が生じることを願う。ページをめくるごとに活気に満ちた気運を感じるだろう。疲れた肩に小さな羽根が生えることを願う。
夜食を傍らに原稿執筆に没頭するのは、誰かが私の本を人生の道標にして、こうやって生き抜くことを信じるところにやり甲斐があるのだ。講義も同じだと考えてきた。多くの人が新しい力を得て挑戦するようになり、喜びこの上ない。

みすぼらしい人生とは挑戦と試みを放棄し、日常を快楽主義として送る暮らしだと言いたい。努力したほどに成果が出なくて苦しむ青春さなかの人たちと職場人たちに、努力したほどに結果を得る秘訣を話そうと思う。何よりも2回目に生きる人生のように、品格ある人生を観照することを分け合いたい。人生の意味がより豊かになるだろう。

何かを成し遂げようとすることは苦しいか。計画通りに上手くいかないことは苦しいか。最善を尽くしても事が上手くいかずに座り込みたいのか。これ以上耐える力がなくて倒れそうなのか。持っている物がなくてつらいのか。試験の結果が望んだ通りでなくて悲しいのか。

皮肉にもそうならば、あなたは今よくやっているのだ。何も試すことをしないならば何も成すことはできない。試そうとするために苦しいのだ。苦しい程にやり甲斐が近くに来ているのだ。今、何かの理由でつらいならば、よくやっていると言うことだ。
死んだ人、死んだ組織、死んだ企業には苦しいことも挑戦もない。生きている人には苦しい程に輝かしい未来が待っている。

苦しい状況を楽しむ知恵を会得することを願う。この本があなたの人生に大きな道標となることを願いながら、執筆を終えさせてくれた神に栄光あれ。




作者 チョンオッピョ

2014,1,2 校正済み
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1年ぶりの韓国

2013-05-02 19:19:11 | 韓で遊ぶ
1年ぶりに韓国へ行って来た
函館からの直行便がなくなって、復活の兆しもなく、千歳から出発
朝8時に出発して、5時にインチョン空港に到着遠い
妙に日常生活に圧迫感を感じての急な出発だった
本屋に行って本を一冊買った。こんな気持ちだったからこんな本を手にしてしまった지금 힘들다면 잘하고 있는 것이다[今つらいならば、がんばっていると言うことだ}
韓国の友達が読んでみたらと本を2冊、法頂さんの吉祥寺に行ってパンフレットをもらって読むべきものがたくさんになった
しばらく楽しめそう!!
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