好きなことだけでは足りない
好きならばうまくならなければならない
あなたが好きなことに注目したならば、もはや現実だ。それを活用して、俗に言う、食って生きていかなければならない。「長い間苦労して好きなことを探しました。私はゲームと、無為徒食が好きです」という学生がいたならば、私はその人を叱る気持ちはない。ただ、彼に「それを才能にすることができるのか」とだけ問いたい。好きなことは才能になる可能性が大きい。あなたが探し出した好きなことが、世の中から見た時、立派だとか、そのようだという必要は全くない。普遍的価値の物差しで計る判断は世の中の判断で十分だ。私達は、今、見つけたそのままで十分だ。音楽ならば音楽で、絵ならば絵で、ゲームならばゲームですべていい。ただ好きなことを見つけたと満足する前に、そのことに集中して勝負することができるか、問いただすことを願う。そのことをして生きていくならばつらい事が迫ってきても、すぐに振り払って、またやり直すことができなければならない。しかし、大部分はすぐに成果が出なければあせるようになる。耐えることができず不安になる。種をまいて待つという時間があってこそ、実を結ぶ。好きなことを見つけ出して、それを才能として精進しようと心を決めなければ、その好きなことをそれ以上できなくなってしまうという事実を決して忘れるな。これが自然の法則だ。大きな流れに逆らうな。
ハーバード大学教育心理学博士であるハワードガードゥナーは、著書「心のフレームThe frames of mind」で、人にとってIQという単一の知能だけでは無く、9種類の多種の知能が存在すると主張した。
パクカルリンとかイヒィアのように音楽に多大な素質を見せる人がいる。私達は、よく歌が上手いとか、楽器を扱うのが上手いことを音楽の才能だと思うが、実は音楽の知能が高ければ音楽を好きだということだ。あなたが、音楽が好きならば、まさに音楽の才能があるということだ。
パクチソンとかパクテファンのようにサッカーとか水泳を得意とする人がいる。際立って外部の刺激を判別する能力、運動に才能を見せる人々がいる。優れた平衡感覚、正確な身体の動きなどを通して、自分が表現しようとすることを正確に表現する能力が優れた人だ。これを運動知能というが、身体運動知能が高い人は運動を習うとか、踊りを習う時とか、演技を習う時、人よりも早く習得する。
ビルゲーツやアンチョルス教授のように数字、規則、命題などの相称体系によく通じた人がいる。幼い頃から両親や教師の話にただうなずかないで、いつも検証しなければならない子供がいる。こんな場合は論理数学知能が優れているといわなければならない。論理数学知能が高い子供は実験を通して検証した後に答えるので両親とか教師の言葉に素直にうなずくことがない。お金の計算とか時間の計算などに敏感な人を見ると、ねちねちしていると思わないで、論理数学的な知能が高いと認めてあげなければならない。
「しなければならに勉強をしないで散漫であることこの上ない。毎日のように部屋の中のものをあっちに移したりこっちに移したりして、机もあっちに置いたりこっちに置いたり落ち着きがない。毎日毎日環境を変えて心配です。もしや掃除不安症ではないでしょうか」
何かに集中する前に環境に敏感な人がいる。心配する必要はない。頭が良いからそうなのだ。空間知能が優れていてそうなのだ。
際立って話が上手くて、質問するのは好きな人がいる。相手の答えが終わるや否や、また違う質問を続けていく。面倒なほどに質問をして話をするのを好むと、目に付いて無理やり辞めさせようとする。しかし、大体はその人たちは言語の知能が優れた人たちだ。あなたがそうならば、アナウンサーや弁護士などとして長点を生かすこともいい。
「自分のことにでも気を使って、何でそんなに人のことに口を挟むの」
相手の感情とか意図を早く把握して対処する人がいる。人のことによく首を突っ込む場合には対人関係知能が優れているからだ。他人が感じる気分、意図、感情などを自覚して区分できる能力で、ギャグマンとか公共体の代表としての知能を発揮することができる。
ソクラテスは『自分自身を知りなさい』と言った。独り言を言って自分の内的側面に対する知識、自分に対する客観的理解と洞察力に優れた場合は自己理解知能が高いと言える。
すごく子犬が好きで、海辺で貝を探して種類別に分類して大切にしまっておく人は、自然理解の知能が高くこれから環境運動家や自然学者になる可能性と知能がある。
人がなぜ生きるのか。私達はどこから来てどこへ行くのかなどの質問をする人。五感を超越した質問で一貫したこの人たちは、霊性知能が優れているといえる。その人たちは創意性が優れており規則とか状況を変えることができる創造的な能力を持っている場合が多い。
どうですか。自分が弱点だと思っていたことが長所として作用して才能として発揮できるという点が驚きではないですか。勉強ばかりできて単純な知能が優れている人よりも多種の知能が高い人がずっと大きな事を成すことができる。
目に付くいくつかの能力だけで多様な能力を制限してはならない。得意な部分、何か好きで集中している部分を十分に開発してやったならば、上手くできなかった部分にも能力を発揮するようになる。自分を眺める観点がより才能を発達させ有能にする。
ギブソンはアメリカ、メリス村の貧しい家に生まれた。しかし、彼は信念を持って人生を生きて晩年には当代の最高の金持ちとなった。ある日、ある人が来てギブソンに金持ちになる秘訣を尋ねた。
「私には3か条の戒律があるが、ひとつは酒を飲まないこと。二つ目は苦労を恐れてはならないこと。最後は信じて万事に疑いを持たないこと」
その言葉に、訪ねてきた人は失望の色を浮かべ言った。
「そのぐらいなら幼い子供でもわかるのではないですか」
すると、ギブソンは笑いながら言った。
「そうだろう。幼子にでもわかることだが、あなたは今までそれを実践できなかったからお金を稼ぐことができなかったのだ。そのまま実践さえしたらあなたは必ず金を稼げるだろう」
いくら良いビジョンがあっても体質的に習得した人とそうでない人は実際の成果を出すところに大きな差が出てくる。
ビジョンは目的の志向的な行動の出発点となる。しかし、心の深い内面で共有されないビジョンと目標は結局、夢に終わってしまう。よって、明確なビジョンと挑戦的な目標を共有して積極的に進取的に精進する時、自分の価値も高まり変化も成功することができる。
そうしたならばどんな心を持てばビジョンを上手く共有することができるだろうか。
一番目は、肯定のマインドで心の門を開かなければならない。紀元前3世紀ごろ、地球上には大規模な土木工事が2箇所で進行されていた。一方は秦の万里の長城であり、もう一方はローマの街道の工事だった。二つとも大規模工事だったが、万里の長城として塀をつんだ秦の国はすぐに滅亡し、道を作ったローマは千年の帝国を成した。変化と革新をする人々の共通点は開かれた心で世の中と疎通していることだ。
頭の中の目標と内面のビジョンがスポンジのように吸い込んでこそ習慣として身につくようになる。限りなく努力する姿勢で頭と心を一致させなければならない。一日の計画を立てる時、新年の目標を立てる時も絶えることなく頭と心を疎通して肯定的なシナジー効果を出さなければならない。変化を恐れる若者、疎通を怠る若者には未来がない。失敗から学び、生きる方式をビジョンに合わせ改善するマインドが重要だ。
二つ目は、熱情的な信心と信念のマインドを持つことだ。大帝国をつくったジンギスハンが子孫たちに警告した。
「絹の服を着て塀に囲まれた家に住む時、帝国は滅亡する」
悲しいことにモンゴル帝国の後代の指導者達はこの忠告を最後まで守ることができなかった。彼らはモンゴル族特有の狩猟と遊牧の正体性を捨てることで没落の道を歩くことになった。何より重要なことは、他人と違う視覚で人生を眺めることができなければならない。他人があなたに才能がないと言ったとしても、自らを励まし、目標が高いところに向かうように視線を固定しなければならない。無限な潜在力を引き出すために、自身が変わらなければならない。そうしようとするならば、日ごとに内面に感動を与えてくれるメッセージが必要だ。自らをほめる心と、自尊感を高くする言葉で自分を抱きしめ励ますことを願う。
最後には、差し迫った心情で大儀を優先するマインドだ。少し前に他界したスティーブチャッスは「いつも腹がすいていて、バカのように生きなさい」と言った。いつも腹がすいていてという意味は何か。何をしようと「天が感動するように没入すること」だ。天が感動するほどに没入するということはどういう意味か。まさに差し迫った心が近づいて行くことだ。腹がすいている時の切迫感くらい強いものはない。人は3日ほど絶食しても目の前に見えるものがすべて食べ物に見える。腹が減ったという意味は、切迫感で物事を眺めるということだ。「天は自ら助けるものを助ける」という意味は、まさに自分に切迫感として近づくものを意味する。大きな成功を成したければ現実に満足するのではなく未来の危機を予見して、切迫感で接近しなければならない。好きなことをしながら食べて生きていくという意味は、まさに切迫感を持って物事を眺めることを楽しく思うことだ。また、「バカのように生きなさい」という意味は、想像力と創意力を持てという意味ではないか。歴史的に偉大な発明と革新、発見を成した人は皆、同時代の人には理解できない創造的発想の所有者だった。その人たちは一時バカの様な考えをしていると後ろ指を差され、ついには既得権勢力に迫害されるまでした。しかし、その人たちの創造的な挑戦は既存の考えと習慣、慣行と制度などに束縛されなかったので、時代の壁を壊す破壊力を発揮することができた。なぜ既存のことに束縛されなかったのか。そのことが本当に好きだったから。積極的創意性を持って事物を眺める時、未来を主導する領域が見えるのだ。