退屈しないように シニアの暮らし

ブログ巡り、パン作り、テニス、犬と遊ぶ、リコーダー、韓国、温泉、俳句、麻雀、木工、家庭菜園、散歩
さて何をしようか

幸福な世界 9

2015-10-25 23:30:51 | 韓で遊ぶ


幸福の味
母には、毎月月末になると必ずやってくる客がいます。空き瓶とか排紙を売って生活をしている隣のおばあさんです。おばあさんがうちに来る頃になると、我が家はそれこそごみの巣になります。町内全部の排紙と言う排紙を集めて、おばあさんにあげる母の献身的な努力のせいです。排紙の束が山のように積まれると、それで埃も多くなり、家を掃いて拭いて片付ける仕事も多くなります。1,2回でもなく毎月のように繰り返されると嫌気がさすほどでした。だから、ある日私は母に余計なことを言ってしまいました。
「お母さん、これを売っていくらになるというの。そうやっておばあさんを助けたければ毎月少しずつ生活費を上げればいいじゃないの。そうすればお母さんも大変じゃないし、おばあさんもそれを望んでいるはずだわ。」
私の考えが足りず言った一言に、母は悔しくて残念だという顔色になりました。
「お前、それは話にならない。ひとりで苦労して一生懸命暮らしているおばあさんに、同情しろというの。おばあさんは汗を流して仕事をして正当な対価を得ているのよ。そして、私はほんの少し助けているだけで、、、。」
お母さんに痛く怒られた私は、1ヵ月後おばあさんに会った時、申し訳ない気持ちになりました。ちょうど年末だったので、いつもよりも丁寧に年末の挨拶をしました。
「おばあさん、新しい年もお元気で。来年はもっとたくさん来てください。へへへ、、、。」
数日後、正月の朝、我が家はとても特別な贈り物を受けとりました。新鮮な卵1ケースと1通の手紙、、、。皆が深く寝入っている明け方ごろ、おばあさんが音も立てずに来て、家の前に置いていった新年の贈り物であり、気持ちだったのです。その上、家の前の掃除も、きれいにしてありました。おばあさんは、この間の母がしてくれた暖かい愛情に対する感謝の気持ちを手紙に書いていました。
「いつも気を使ってくれてありがとう。仕事は大変だけれど、私を思ってくれる隣人がいてくれて、楽しく仕事をすることができます。お正月で何かしてあげたいのですが、あげるものが卵しかありません。それでも気持ちだと思って受けてとってください。新年、明けましておめでとう。」
鉛筆でこつこつと押し書いた手紙から、一日一日最善を尽くして暮らしているおばあさんの温柔な性格を感じることが出来ました。
正月の朝、うちの家族は、卵のたくさん入った雑煮をおなかいっぱい食べました。おばあさんの素朴な情で味をつけた雑煮1杯は、新年の朝を明るく照らしてくれる幸福の味でした。
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幸福な世界 9

2015-10-19 04:53:46 | 韓で遊ぶ


心のこもった制服
上の娘が中学校へ入る頃、我が家の暮らし向きは最も苦しい時でした。暮らしが傾けるだけ傾いたせいで、どんなに節約しても困窮した暮らしから抜け出すことが出来ませんでした。
「あぁ、、、。」
通帳は底をついてからしばらくたつのに、中学校に入る娘の制服をどうやって準備したらいいのか、心配事が山のようでした。それでも、ありがたいことは、娘の態度でした。母の懐具合を思ったのか、娘は古い制服でもいいという風でした。ちょうど生活情報紙に古い制服をくれるというおばさんの文章を見たと、私の心配をやわらげてくれることまでしてくれました。私は少しの希望を持って、気持ちの優しいおばさんと電話で短い話をしました。
「制服をくれるという文章を見て連絡したのですが、、、。」
「あ、はい。娘さんの背はどれぐらいですか。」
「背の高さは普通で、少しやせています。」
「娘さんの体格に合わせて直してあげようと思うので、洗濯屋に預けておきますね。」
「ただ頂くのも申し訳ないので、何かお返しをしたいので住所を教えて下さい。」
「あ、私、今、ちょっと忙しくて。」
少しでもお返しをしたかったのですが、おばさんは忙しいという言葉で電話を切りました。数日後、私は娘と一緒に修繕が終わった制服を取りに洗濯屋に行きました。
「いくらですか。」
「もう、支払いは終わっていますが、、、。」
おばさんが費用を前もって支払ったということでした。制服も制服でしたが、白いブラウスは3年も着たとは思えないぐらい新しいものでした。
「どうして、ブラウスが、、、ほとんど新品じゃないの、、。」
感謝を述べようとおばさんに電話をして私はブラウスについて聞きました。少しして、驚く答えが返ってきました。
「ほほほ、実は私、人様の家で家政婦をしているんですよ。その家で、その学校の制服を捨てようと出したんですよ、、、。どこも痛んでいないのにもったいなくて、必要な学生がいたらあげようと情報紙に広告を出したのですが。古い服だけをあげるとしたら胸に引っかかって、ブラウスだけ新しく買ったのです。一度洗っておいたからすぐに着れますよ、、、。」
おばさんもがんばって働いて苦労して稼いだお金なのに、、、、。赤の他人の子供に、どうしてここまで気を使うことができるのか、大したものだという思いがしました。
「本当に、ありがとうございます。」
おばさんを知るまでは、奉仕とか分け合うということは、多くの物を持っている人だけができることだと思っていました。たとえ満ち足りていなくても、誰でも分け合うことを実践することができるということを見せてくれたおばさん、、、。その愛がまぶしい純白の光のように、私の干からびた心を明るく照らしてくれました。
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幸福な世界 9

2015-10-18 04:04:31 | 韓で遊ぶ


尽きることのない愛
11歳の娘のジミンは、我が家のアイドルである末っ子です。ですが、最近になって、お調子者の兄に悩まされる日々が多くなり、自分にも妹がいたらという気持ちが切実になりました。40を超えて子供を生むことも出来ず、娘の切実な願い気づかない振りをすることもちょっと、、、。何日か悩んだ末に、私は国の姉妹縁組を思いつきました。貧しい国に暮らす子供に、生活費と学費の助けになるように月々お金を送ることです。国は違うけれども妹のような子供に手紙も書いて、大事な友情も積み上げてみれば、互いにいいことだと思いました。娘の新しい妹になった子供は、目の大きなかわいいカンボジアの8歳の少女でした。
「この写真の中の子供がお前の妹よ。本当にかわいいでしょ。」
「ええ、お母さん、本当にかわいいわ。」
たとえ会えなくても、妹が出来たという事実だけでも娘は興奮を隠すことが出来ませんでした。少女の両親は大地を耕す農夫で、6人の子供を育てていました。
「ところで、お母さん、妹がとてもやせていて胸が痛いわ。今日から私もお小遣いを貯めて妹に送るわ。おいしい物をたくさん買って食べることができるように。」
そばで世話できないことが残念なのか、娘は、妹のためになることを探すことに頭を使い真心を傾けました。古い服を着て明るく笑っているカンボジアの少女の写真を自分の部屋にかけておくこともしました。
「おはよう、私の妹。元気でいるでしょ。会いたいわ、、へへ、、、」
愛する妹のために、好きなおやつもやめて貯金の虫になった娘、、、。他の人の困難を理解しその痛みを共にする幼い娘の心が奇特だと思いました。二人の子供が互いの鏡になって、それぞれの夢を広げていけたならば、それよりもいい贈り物があるでしょうか。尽きることのない乾くことのない思いやりで、互いを理解していくカンボジアの少女と娘、ジミン。二人の子供が健康ですくすく育って、大きな夢を広げていくことができるように、しっかりした後援者であり、母として暖かい安息の場になろうと思います。
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幸福な世界

2015-10-17 04:55:49 | 韓で遊ぶ


皆が優れている
昔々、役人になるための試験を主席で合格したチャンウォンの行列が村の真ん中を通った時のことでした。盛大な見ものを逃すまいと人々がぞろぞろ通りに集まってきて、村全部がざわめきました。その時、人々の中にいたきこり一人が、大したことはないなと言いました。
「役人の試験に合格したからって何がすごいというのか、、、。」
馬に乗って前を過ぎて行くチャンウォンはきこりの言葉に心が傾き聞きました。
「役人の試験に主席で合格したことが大したことでないとは、、、、。ならば、あなたは他の人と違って何か特別な才能でもあるというのですか。」
「私は、どんな木でも正確に半分に割ることが出来る。」
きこりの大言壮語を確認するために、チャンウォンは、太い木の丸太の真ん中にまっすぐに線を引きました。その上できこりが斧を力いっぱい振り下ろすと、木がぱっくりと2つに割れました。
線にそって割れた木を見ながら感嘆した人々の中には油売りもいました。
「俺も、自慢できるものがある。」
彼は割って入って言いました。
「俺は、秤を使わなくても油1斗を正確に測ることができる。」
油売りは、ひさごの口に穴の開いた銭を1枚載せました。そして、大きな油桶を傾け、銭の穴に油を流し始めました。ひさごの中の油を計ってみると正確に1斗でした。
「あ、本当に正確ですね、、、。」
「わぁ、本当に大したものだ。」
「驚いたね。驚いた、、、。」
油売りをほめる見物人達の中から、今度は女が声を上げました。
「ならば、私の才能も見せよう。」
彼女は、ふるいにかける技術を披露しました。ボールの中に混ざっていた粟と米を少しの間に正確に2つに分けました。チャンウォンは豪快に笑って言いました。
「ははは、どこにでも優れた人はいまずね。皆が優れた才能を持っていても黙々と仕事をしているのに、私一人が舞い上がって騒いでいたのは、恥ずかしいことこの上ありません。」
村の通りで大きな悟りを得たチャンウォンは、その後、民を徳で治め、善政を施す役人になりました。目と耳が遠くなる慢心とおごりを恐れる姿勢、、、。民を敬う心で自分を低める謙遜の姿勢が村に平和をもたらしたのです。
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幸福な世界 9

2015-10-16 04:53:44 | 韓で遊ぶ


意味ある選択
今から7年前、ひたすら勉強ばかりしていた高3の頃のことです。その時の私達の目標は、ひたすら大学進学でした。ですが、一人だけ私達と違う友達がいました。その子は、そーっと出席だけして勉強は後回しでした。受験書や参考書の代わりに、漫画や小説を小脇に抱えて生きていた私と仲のよかった友達、、、。大事な時間をそうやって流してしまうのでも足りず、授業が終わるとすぐに家に帰り、全く勉強には関心がありませんでした。心を入れ替えることが出来ず、なじめずにいる友達を私は何とかしたいと思いました。
「ウンス、私と一緒に学校の図書館で勉強しよう。」
「私、勉強に興味がないわ。」
いつも私の誘いを断ることが少し薄情にも思え、私達の友情もこれぐらいかしらと言う思いまでしました。だんだん、疎遠になる関係を何とかするために、ある日、本屋に行こうと提案しました。久しぶりに友達と仲良く過ごす時間を持ちたいと思いました。
「「本屋、いいわよ、、、。本屋に行って小説でも買おうかしら。」
小説を買うといっていた友達でしたが、本屋に行くと心が変わったようでした。ある本を1冊選んだら、一時も目を離すことが出来ないでいる友達。横でつついてもわからないくらい真摯で厳粛な姿でした。
友達が選んだ本は、世界の貧しい村で暮らす人々の生活像を描き、そこで志願奉仕をしている人々の生々しい体験が書かれた手記でした。
書店から帰ったその次の日から、友達は変わりました。いつもなら音楽を聞いて漫画を読んでいた時間に、英語の単語を暗記し、毎日遅くまで図書館に残って勉強する模範生になりました。私は急激な変化の理由を聞きました。
「ウンス、あなたどうしたの。人が変わったみたい、、、。」
友達はその本一冊が、人生の転換点であり、新しい出発点になったと言いました。
「その本を通してわかったの。私が本当にしたいことが何か。それは困難にいる人々の力に成る志願奉仕だったの。でも誰かの力になろうと思ったら、勉強も一生懸命やらないと。」
奉仕の道を歩きたいという友の目の光に、私は強い意志を読み取りました。そう言ったとおり友達は社会福祉学科に進学しました。大学を卒業して世界福祉団に志願しました。
助けが必要な誰かに奉仕して献身しながら、人生の本当の意味を学んでいると言う友、、、。意味なく送っていた過ぎた時間を反省し、一日一日を充実して送っている私の友、、、。
今頃は、ミャンマーのどこかの荒涼とした地で、苦しい人々の霊魂を暖かい手でなだめているのでしょう。友達が送っている人生の本当の時間が永遠に続くことを願います。
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幸福な世界 9

2015-10-12 06:23:36 | 韓で遊ぶ


弁当に愛いっぱい
夫が世界で一番好きな弁当は、妻が作った弁当です。
「俺は、お前が包んでくれた弁当が一番おいしいよ。心がこもっているからかな。」
平凡な料理も、おいしく食べてくれる誠意がありがたく、私は少し面倒だけれども、弁当を作ることに真心を傾けます。ところが少し前からは弁当をもう一つ作らなければならなくなりました。
「太ったかな、、、しょっちゅうおなかが空くよ。俺、明日から弁当2つ持っていたらだめかな。」
「いいわよ、簡単なことよ。あなたがそうしたいなら、2つでなく10個でも作ってあげるわよ。」
夫は、食い意地が張っている訳でもなく、食も細く典型的な痩せ型の体質でした。体に肉が付かず気の毒な程です。ですが、そんな夫が食欲が出たというので、うれしい話でした。私は毎日弁当を2つ作ろうと忙しくなりましたが、気持ちは満足しました。
そうやって半月が過ぎたある日、名前も知らないおばあさんから電話がかかってきました。
「ご主人が電話をするなといったのですが、、、あまりにもありがたくて、、、」
自分を同じ町内に住む隣人だと言ったおばあさんは、半月前から、夫が弁当を持ってきてくれると言いました。
「子供たちに捨てられて、心が深く傷ついたのですが、ご主人が子供以上に私を面倒見てくれて、大きな力になりました。本当にありがとうございます、、、、。いい人と結婚したのですから、幸せに暮らしてくださいね。」
おばあさんとの電話が終わって、私はしばらくの間、ボーとした状態で立っていました。夫のためのもう一つの弁当、、、、。それはおばあさんの体と心を豊かにした希望の食事だったのでした。
その夜、私は立派な夕食を準備して夫を迎えました。いい事を一緒にしようと言う奉仕の意味で明かしました。
「私あなたに感動したことがあるの、、、。その見えない善行、私も一緒にしたいからこれからは私達一緒にやりましょう、ね。ほほほ、、、。」
「えっ、うん、、、ハハハ、ありがとう、、、。」
夫が歩く道、妻として納得して一緒に歩かなければならないでしょ。週末の午後、夫と私は手をとっておばあさんの家を訪問しました。ひっそりと老後を送っているおばあさんの話し相手になってやり、時には一緒に外食もしながら子供のようにお世話をしています。
焚き火のようにゆっくりと燃える暖かい愛で、おばあさんの凍りついた心を融かす暖かい男、、、。そんな夫と共に味わう充たされた幸福と喜びが、私の霊魂を豊かにしています。
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幸福な世界 9

2015-10-11 06:45:58 | 韓で遊ぶ


感動の5分発表
私は師範大学を卒業して中学校で体育を教える教師です。私のクラスの朝礼は、他のクラスとは違う進行をします。友達の前に立って5分間、自分の考えを発表する時間。名づけて「5分スピーチ」で、私のクラスの一日が始まります。
「自分の考えを自由に発表する時間だと考えればいい。何の話でもいい、、、。」
私が発表の時間を設けた理由は、内省的で恥ずかしがりやの性格のせいで、人にたつことが怖かった自分の幼い頃の記憶があるからでした。その様に小心だった私を変えてくれたのは、発表に基づいて進んでいく師範大の授業方式でした。私のクラスの子供たちだけは、私と同じような試行錯誤をしてほしくないと願いました。そして5分発表を始めて子供たちはアクティブに参加しました。
もちろん、みんながそうではありませんでした。「ミノ」という子が例外でした。ミノは話をしない人見知りをする子供でした。人の前に立つと顔が赤くなる子供。一人でいるのが好きで、人のことには関心を見せず、、、、。そうやって一人ぼっちで仲間に入らなかったミノが発表する番になった時、心配が頭を離れませんでした。やはり教壇に立ったミノは、もじもじして話ができませんでした。その間を我慢できず、子供たちはざわめき始めました。ためらっていたミノは、決心したように手に握っていたグジャグジャの紙を広げました。そして本を読むように読んでいきました。
「うちのクラスの1番、チョンミンは、私が忘れ物をすると、にっこりして快く貸してくれます。本当にいい友達です、、、。」
「うちのクラスの2番ヒョンスは、私が解けない数学の問題をわかりやすく説明してくれます。本当にいい友達です。」
ミノはクラスの子供たちを順番に一人一人呼びながら感謝の気持ちを表しました。称賛リレーが続いていくと、教室の雰囲気が一層厳粛になりました。
「うちのクラスの37番ジュノは、いつも先に私に声をかけてくれる本当にいい友達です。」
「38番ホソンは、私と昼ごはんを食べてくれる本当にいい友達です。」
「みんな、ありがとう、、、。」
ありがとうという挨拶を最後に、発表をかっこよく終えたミノ。ですが、誰も口を開くことができませんでした。私が沈黙を破ってお疲れさんという言葉を出すと、やっと友情のこもった拍手を贈った子供たち、、、。それは子供たちがミノに贈ったお返しの挨拶であり、気持ちを表したものでした。ミノの真心をこめた友情のこもった告白、、、、。私のクラスの子供たちの胸に愛の虹が刻まれました。
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幸福な世界 9

2015-10-10 06:20:35 | 韓で遊ぶ


和尚様の深い考え
1875年全羅北道、高敞で生まれたマナム僧は、早くに両親を失い、幼い頃に白羊寺に入山しました。後日、寺の住職になった僧は、餓えた農民を救うことに生涯を捧げました。畑を耕す農具ひとつ十分でなかったその頃、、、、。ひどい日照りに農地は干上がり、大きな洪水で汗を流して作った穀物が流されても、人々はただ天が助けてくれるのを願うしかありませんでした。飢饉に悩まされる農民にマナム僧は手を差し伸べました。白羊寺ではおかゆで食事を済ませたとしても、農民たちには米を分け与えたのでした。
そんなある年の春、マナム僧は餓えた村の人々を白羊寺の川の前に呼びました。
「川に堰を作るので皆さんの助けが必要です。」
日照りの時に田に水を引けるように、川に堰を作るということがマナム僧の計画でした。いきなり堰をつくるという話に人々は面食らいました。
「一家で一人ずつ必ず参加しなければなりません。手間賃は穀物でさし上げます。」
一度の食事が惜しい農民たちには、この上ないよい条件でした。村の人々は和尚様を助け、喜んで作業に参加し、夕方になると手間賃としてもらった米の袋を持って山の下の村に帰って行きました。これを見ていた若い僧がマナム僧に聞きました。
「和尚様、なぜ、しなくてもいい仕事を作って、村の人たちに食料を分け与えるのですか。」
マナム僧は笑いながら答えました。
「考えて見なさい。いくらおなかをすかせた農民だといって、食料をただでやると言ったら自尊心が傷つくのではないか。だが、仕事をしてもらった対価だとしたら、彼らもやましくないだろう、、、。」
川に作った堰は、村の人たちの負い目をなくしてあげるためのマナム僧の配慮であり、知恵だったのです。凶年がくるたびに農民に仕事を与えようと堰を作らせ、春になると山に赤いもみじの苗木を植えさせ、、、。その度に農民が手間賃としてもらうのは金よりも貴い食料でした。
マナム僧の慈愛に満ちた暖かい愛が白羊山の山裾を赤く染めたのです。
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幸福な世界 9

2015-10-09 02:42:29 | 韓で遊ぶ


希望のリレー
まだ冬の寒さが残っていた3月、ソウルの総合病院で命を分け合う、命のリレーがつながりました。互いに、名前も、年も、顔も知らない8名の人たち。その人たちを結んだ腎臓寄贈リレー、、、。2日の間、慢性腎不全の患者4名が新しい命を受け取った奇跡のようなことが起こりました。その希望の輪の始まりになったのは、50歳を超えたばかりの社会福祉士ペクチャンジョンさんです。
1年前、彼女は機会があって臓器寄贈の誓約に参与しました。そして3月には同年輩の女性に片側の腎臓をあげました。彼女がまいた愛の種は、世の中に広がりました。ぺクさんに腎臓をもらった人の夫であるチョンスヨンさんが、腎臓寄贈のバトンを受け継いだのです。小さな事業所を運営しながら闘病中の妻をよく面倒見てきたチョンスヨンさん、、、。普段から困っている隣人のために暖かい情けをかけてあげる人でした。
「私の腎臓が妻に合わず、あげることができなかったので、、、こうやってでも恩を返すことができて幸いです。」
彼は片方の腎臓を28歳の男性にあげました。すると映画の中とかであるようなことが、現実になりました。面識のないチョンスヨンさんに腎臓をもらった男性の兄もまた寄贈運動に同調したのです。
「弟の大事な命を守ってくれたのだから、、、兄である私が黙っている訳にはいかない。私も腎臓を寄贈します。」
男性の兄がくれた腎臓は、病魔でどんどんやせ細っていった中年のおばさんの命の光になりました。彼女の夫ユンヨンシクさんも妻にあげることのできなかった自分の腎臓を寄贈すると言いました。
「あなた、私のために大変な決心をしてくれて、、ありがとう。愛しているわ。」
結婚してから今まで苦労しか知らずに生きてきた妻です。そんな妻のためならばできないことはないというユンヨンシクさんです。長い闘病生活で家長の役割をおろそかにしてきたという中年男性、、、、。その人がユンヨンシクさんの腎臓を受け取り、分け合うリレーが続きました。
「隣人の愛を受けて、おまけにもらった人生だから、これからはもっと一生懸命生きていきます。」
そうやって、妻が腎臓をもらったら、夫が自分の腎臓で恩を返し、弟が受け取ると兄が喜んで出した5家族の勇気と配慮、、、、。手と手をつないで血のつながりを超えた愛が4人に新しい人生を贈り、8人に幸福の意味を見つけてあげ、世の中のすべての人たちに分け合いの希望を明らかにしてくれました。
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幸福な世界 9

2015-10-08 05:13:19 | 韓で遊ぶ


夢見る亀
11歳になる時まで、私の唯一の友達はテレビでした。友達と付き合わなかったのは、貧しい家の事情のせいでした。私は、母と二人で暮らし、最低生活費を支給されている貧しい環境を恥ずかしいと思っていました。自然に学校でも友達一人いない変った子供として仲間はずれにされ、母にとってはできの悪いダメな娘になって行きました。だんだんゆがんでいった私は4年生の冬休みを迎えました。その頃、放課後の奉仕活動を始めました。私が任された仕事は、福祉館の食堂のテーブルを拭くことでした。細々したことでしたが決して簡単なことではありませんでした。
「あ、何でテーブルがこんなにたくさんあるの。こんなことを何で私がしているのか、、、、。」
初めて奉仕を始めた時には、不満を言って暮らしました。そんな私を変えたのは、私が拭いたきれいなテーブルでおいしそうに食事をするお年寄りたちの姿でした。初めて手に余る喜びを感じました。そうして、私にとってそれからの週末は、一人で過ごさなければならない寂しい休日ではなくなりました。福祉館の食堂で奉仕活動をしながら休日を充実して送って、本当の孫のように暖かく接してくれるおじいさん、おばあさんがいるので、家族のように向き合って、、、、。ただ楽しくてしたことなのに、そのおかげで学校から「良い子賞」も、もらいました。中学生になっては、疎外された人々に弁当を配達し、1ヶ月に一度ずつ養老院へ行き、弟、妹のような子供たちに会いました。そこの子供たちを見ながら悟りました。母と一緒に暮らす私は幸せな子供だということを。
考えが肯定的に変わり生活態度が変ったら、成績だんだん上がって、自信感もだんだん付いて、学生時代、クラスの代表も引き受けました。2008年には「大韓民国人材賞」受賞することもしました。
今の私は、社会福祉士を夢見る20歳の大学生です。暗鬱な現実に苦痛を感じていた私が、福祉館で人生の喜びを見つけていつの間にか8年、、、。そんな奉仕の時間は私の人生の最高の贈り物でした。希望はいつも私たちの周りにあり、希望は探そうと努力する人のものだということがわかるようになりましたから。
少しだけ考えを変えれば、世の中は私に向って笑っているから、私はいつも自らに言い聞かせます。亀のように生きようと、、、、。たとえのろくても粘り強く歩いていき、誠実に前に進んでいく夢見る亀になろうと。
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