26 霊魂の母音―星の王子様へ送る手紙
星の王子様
今、外には枯葉が転がる音が聞こえます。窓に広がる午後の日差しが非常にやさしい。こんな時間、私は穢れのない澄んだ君の声を聞きます。玉のようにきれいな君の目を見ます。一日に何回も日の暮れる光景を眺めている、その目を恋しく思います。こんなこだまが聞こえてきます。
「僕と友達になろう。僕、寂しいんだ。」
「僕、寂しいんだ、、、僕、寂しいんだ、、、僕、寂しいんだ、、、」
星の王子様!
もはや、私は無縁ではありません。同じ屋根の下に暮らす慣れ親しんだ家族です。今までに、君を20回を超えて読んだ私は、もはや今さらながら文章を読む必要もなくなりました。ページをぱらぱらとめくっただけでも君の世界に入っていくことができるからです。行間に書かれている事情までも、余白に隠れている声までも何もかもすべて読んで聞くことができるのです。
何年か前、だから1965年5月、君と出会ったことはひとつの邂逅でした。君を通して、やっと人間関係の基になっている部分を認識することができ、世界と私の関係を数えることができたのです。その時まで見えなかった事物が見えるようになり、聞こえなかった声が聞こえるようになったのです。だから、君を通して私自身と出会ったのです。
その時から、私の貧しい本棚には君の仲間がひとつ二つと並びだしました。その子達は乏しい私の枝に青い樹液を回してくれたのです。松風の音のように無心な世界に私を引き連れて行ったのです。そして私がすることは、すなわち私の存在することであることを透明に悟らせてくれました。時にはただ何となく窓を開ける時があります。夜の空を見て耳を傾ける。鈴のように聞こえてくる君の笑う声を聞くために。そして一人で微笑む。こんな私を傍でおかしく思うならば、君が教えてくれた通り、私をこんなふうに言ってください。
「星を見ていたら私はいつも笑っているなぁ、、」
星の王子様!
君のおじさん(サンテグジュペリ)は、こんな風に言っていました。
「大人たちは数字が好きだ。大人に新しくできた友達の話をすると、一番重要なことをまったく聞かないのだ。その人達は、その友達の声はどんな感じ?どんな遊びが好きなの?蝶のようなものを捕まえたりするの?こんなことを聞くことは絶対にしない。
「年がいくつなの?兄弟は何人?体重はどれぐらい?これがその人たちの聞くことだ。それで、その友達を知ったという思いになる。
もし、大人たちに「窓のところにゼラニュームが咲いていて、屋根には鳩が遊んでいる美しい赤いレンガの家を見た」と言ったら、その人達はその家がどんな家なのかを考えることができない。「1億ウォンの家を見た」と言わなければならない。そうしたら「すごいなぁ!」と感嘆するのだ。
今、私たちの周りには数字が盛んに飛び交っている。2回目の選挙を終えて、物価が勢いよく上がって、輸出高が予想よりも伸びず、国民の所得がどうなったとか。だから、よく暮らすと言うことは目に見える数字の単位が多いほどにいいと言うことだ。よって人々はこの数字に最大の関心を持っているのだ。数字が増えると笑い、減るとむやみに怒りだす。言い換えると自分の命の芯がどれぐらい残っているのかには無関心でいながら、目に見える数字にだけしがみついて生きているのだ。しかし、こんな目に見える数字の遊びをして目に見えない人間の領域が日ごとに萎縮して干からびているところに問題があるのだ。同じ水を飲みながらも、牛が飲むとミルクをつくって、蛇が飲むと毒をつくるという比喩があるが、数字を扱うその当事者の人間的な根底が問題なのだ。しかし、私こそがと言う大人が、人間の大地を離れてどんどん空回りしていながらも、その事実さえしらないでいるなぁ。
君はそれを指して「きのこ」だと言っただろ?
彼は花の香りをかいだこともなく、星を眺めることもなく、誰かを愛したこともない。足し算意外に何もしたことがない。そうでありながらも一日中、私は賢い人間だ。私は賢い人間だとくどくど言ってばかりいる。そしてこのせいですごく思い上がっている。だけどそれは人間ではない。きのこなのだ。
そうだ、君が狐から言葉を聞いた秘密のように、一番重要なことは目には見えない。よく見ようとするなら、心で見なければならない。実は、目に見えることは氷山の一角に過ぎない。より大きく広いものは心で感じなければ。だけど、大人たちはどうだ?目の前に現れれば見えると言うのだ。本当に目を開けた盲人だ。目に見えない世界までも貫いて見ることができる、その知恵が現代人には惜しいと言うことだ。
星の王子様!
君は、ただひとつしかない大切な花であることを知っていた。その花と同じ様な多くのバラを見て失望したあまり芝生にうつぶせて泣いただろう?その時、狐が現れて「気持ちが通じる」と言う言葉を教えてくれた。それはひどく忘れしまった言葉で「関係を結ぶ」と言う意味だと。気持ちが通じることは、互いがまだ、何千、何万の極ありふれた、似たような存在に過ぎず、大切だとか、恋しいとも思わないけれど、いったん気持ちが通じるようになるとこの世界でただ一人しかいない重要な存在になると言うことだ。
「君が私と気持ちが通じたならば、私の生活は日が昇るように楽しくなる。私は誰の足音とも違う足音を知るようになる。君の足音は音楽になって私を洞窟の外に呼び出すのだ。」
そして狐とは何の関係もない麦畑が、星の王子様の頭が金髪だと言うこのひとつの事実のせいで、黄金の光が漂う麦を見ると恋しくなり、麦畑を過ぎていく風の音が好きになると言った。
そのように、切々とした「関係」が今日の人間の村落には色あせてしまった。互いの利害と打算で利用しようとするのだ。本当に世知がない世の中だ。私とあなたの関係がなくなってしまったのだ。「私」は私で、「あなた」はあなたで終わってしまっているのだ。これと同じようにばらばらに散らばっているせいで私とあなたは寂しくなるしかないのだ。人間関係が回復されようとするならば「私」「あなた」の間に「と」が介在されなければならないのだ。そうしてこそ「私たち」になることができる。また、君の友達である狐の声を聞いてみようか。
「人々は、もはや何を知る時間さえなくなってしまった。すべて作っておいた品物を店で買えばいいから。だけど友達を売ってくれる商売人はいなから、人々は友達がなくなったのだ。友達を持ちたいなら私と気持ちを通じなさい」
気持ちが通じるという意味を理解した星の王子様、君は、君がそのバラの花のために送った時間のせいでバラの花があんなに大事になったことを知って、このように言った。
「私のバラ、ひとつだけでも数千、数万のバラの花に匹敵して余りある。それは私が水をやった花だから。私が覆いをかぶせて風を防いでやった花だから。私が虫を取ってやったのがこのバラの花だったから。そして、恨めしい話や自慢話や、あるいは上品にしていることまでも皆聞いてやったのがこの花だから。それが私のバラの花だから。」
そういいながら、自分と気持ちが通じたことに対しては永遠に自分が責任をとるのだと言った。
「君は君のバラに対して責任がある」
「人々は特急列車に乗るけれども、何を探しに行くのか知らない。」
そうだ。現代人は忙しく生きている。時間に追われ仕事に押されお金に追撃されながらも何がなんだかわからないで生きている。どこに来て、どこに行くのかも知らないで。疲労回復剤を飲みながら、ただ、忙しくだけ走りまわろうとする。ぜんぜん気持ちを通じることを知らない。だから、ある庭園に何千株の花を育てていても自分たちが探しているものをそこで見つけることができないでいるのだ。それはただ1本の花や、一口の水にでも見つけることができることなのに。君は、また、こんな風に言ったね。
「ただ、子供たちだけが自分が探しているものが何であるかを知っている。子供たちは布切れで作った人形ひとつのためにも時間を使い、それでその人形がとても大事なものになってしまい、だから誰かがそれを奪おうとしたら泣くんだ。」
星の王子様!
君は死を何でもないように考えていたね。この肉体は、ただの殻だと比喩しながら死を少しも恐れていなかったね。生也一片浮雲起、死也一片浮雲滅、人生は一片の雲が起きたことで、死は一片の雲がなくなることだと思っていた。そうだ。この宇宙の根源を行ったり来たりする人間には死のようなものは何でもないのだ。星の王子様。君の実態はただの殻のようなものではないのだ。それは古くなった服だから。
服が古くなったら新しい服に着替えるように私たちの肉体もそうなのだ。そして、君が住んでいた星の国に帰ろうとしたら、その体を持っていくには足手まといになる。
「それは抜け出てしまったただの殻のようなものだ。ただの抜け殻、それは悲しくない。見てみなさい、それははっきりとしないものだ。私は2つの星を見る。すべての星がさび付いた滑車がぶら下がった井戸になる。すべての星が私に水を飲ませてくれる、、
星の王子様!
今、あなたと気持ちが通じた後、私の周りにまつわる話を伝えたい。
「星の王子様」と言う本を始めて私に紹介してくれた友は、このひとつの事実だけでも生涯忘れられないありがたい友だ。君の対する度ごとに重ね重ね感謝しないではいられない。その友は私にひとつの運命のようなものに会わせてくれたのだから。
今まで読んだ本も少なくないが、君のように大きな感動を受けた本は多くなかった。だから、君が私には単純な本ではなく、ひとつの経典だと言っても少しも誇張ではないようだ。誰かが私に紙墨でできた1,2冊の本を選べと言ったら、「華厳経」と共に君をさっと選ぶだろう。
近くの友達に「星の王子様」をおそらく20冊を超えるぐらい買ってやった。君を好きだと言う人にはすぐに信頼感と親和力を感じる。彼は私の友になることができる。私が知っているフランスの神父一人と、ニュージーランドの老婦人一人は君を通して親しくなった外国人だ。
君を読んでも何の感興がないという人がいるが、そんな人は私とはサイズが合わない人として考える。ある人が私と親しくできるかは、君を読んだその反応で十分に推測することができるのだ。だから君は人の幅を計るひとつの道具なのだ。少なくとも私にとっては。
そして、君の声を聞くとき、横になって聞く、そうすれば君の声をより生々しく聞くことができるからだ。想像の翼を思いっきり広げて飛んでいくことができるのだ。君の声を聞けば聞くほど新しい。それは永遠な霊魂の母音だ。このように君が私をゆすぶる訳はどこにあるのか。それは君の霊魂があまりにも美しく善良で少し悲しいからだろうか。砂漠が美しいのは、どこかに泉がわいているからそうであるように。君の大事なバラと結び紐のない羊によろしく言ってくれ。君はいつも私と共にいる。(児童文学思想1971,11)
最後まで読んでいただきありがとうございます
つたない訳ですが、来年も自分の韓国語の勉強を兼ねて本を詠みたいと思っています。
来年もよろしくお願いします。
星の王子様
今、外には枯葉が転がる音が聞こえます。窓に広がる午後の日差しが非常にやさしい。こんな時間、私は穢れのない澄んだ君の声を聞きます。玉のようにきれいな君の目を見ます。一日に何回も日の暮れる光景を眺めている、その目を恋しく思います。こんなこだまが聞こえてきます。
「僕と友達になろう。僕、寂しいんだ。」
「僕、寂しいんだ、、、僕、寂しいんだ、、、僕、寂しいんだ、、、」
星の王子様!
もはや、私は無縁ではありません。同じ屋根の下に暮らす慣れ親しんだ家族です。今までに、君を20回を超えて読んだ私は、もはや今さらながら文章を読む必要もなくなりました。ページをぱらぱらとめくっただけでも君の世界に入っていくことができるからです。行間に書かれている事情までも、余白に隠れている声までも何もかもすべて読んで聞くことができるのです。
何年か前、だから1965年5月、君と出会ったことはひとつの邂逅でした。君を通して、やっと人間関係の基になっている部分を認識することができ、世界と私の関係を数えることができたのです。その時まで見えなかった事物が見えるようになり、聞こえなかった声が聞こえるようになったのです。だから、君を通して私自身と出会ったのです。
その時から、私の貧しい本棚には君の仲間がひとつ二つと並びだしました。その子達は乏しい私の枝に青い樹液を回してくれたのです。松風の音のように無心な世界に私を引き連れて行ったのです。そして私がすることは、すなわち私の存在することであることを透明に悟らせてくれました。時にはただ何となく窓を開ける時があります。夜の空を見て耳を傾ける。鈴のように聞こえてくる君の笑う声を聞くために。そして一人で微笑む。こんな私を傍でおかしく思うならば、君が教えてくれた通り、私をこんなふうに言ってください。
「星を見ていたら私はいつも笑っているなぁ、、」
星の王子様!
君のおじさん(サンテグジュペリ)は、こんな風に言っていました。
「大人たちは数字が好きだ。大人に新しくできた友達の話をすると、一番重要なことをまったく聞かないのだ。その人達は、その友達の声はどんな感じ?どんな遊びが好きなの?蝶のようなものを捕まえたりするの?こんなことを聞くことは絶対にしない。
「年がいくつなの?兄弟は何人?体重はどれぐらい?これがその人たちの聞くことだ。それで、その友達を知ったという思いになる。
もし、大人たちに「窓のところにゼラニュームが咲いていて、屋根には鳩が遊んでいる美しい赤いレンガの家を見た」と言ったら、その人達はその家がどんな家なのかを考えることができない。「1億ウォンの家を見た」と言わなければならない。そうしたら「すごいなぁ!」と感嘆するのだ。
今、私たちの周りには数字が盛んに飛び交っている。2回目の選挙を終えて、物価が勢いよく上がって、輸出高が予想よりも伸びず、国民の所得がどうなったとか。だから、よく暮らすと言うことは目に見える数字の単位が多いほどにいいと言うことだ。よって人々はこの数字に最大の関心を持っているのだ。数字が増えると笑い、減るとむやみに怒りだす。言い換えると自分の命の芯がどれぐらい残っているのかには無関心でいながら、目に見える数字にだけしがみついて生きているのだ。しかし、こんな目に見える数字の遊びをして目に見えない人間の領域が日ごとに萎縮して干からびているところに問題があるのだ。同じ水を飲みながらも、牛が飲むとミルクをつくって、蛇が飲むと毒をつくるという比喩があるが、数字を扱うその当事者の人間的な根底が問題なのだ。しかし、私こそがと言う大人が、人間の大地を離れてどんどん空回りしていながらも、その事実さえしらないでいるなぁ。
君はそれを指して「きのこ」だと言っただろ?
彼は花の香りをかいだこともなく、星を眺めることもなく、誰かを愛したこともない。足し算意外に何もしたことがない。そうでありながらも一日中、私は賢い人間だ。私は賢い人間だとくどくど言ってばかりいる。そしてこのせいですごく思い上がっている。だけどそれは人間ではない。きのこなのだ。
そうだ、君が狐から言葉を聞いた秘密のように、一番重要なことは目には見えない。よく見ようとするなら、心で見なければならない。実は、目に見えることは氷山の一角に過ぎない。より大きく広いものは心で感じなければ。だけど、大人たちはどうだ?目の前に現れれば見えると言うのだ。本当に目を開けた盲人だ。目に見えない世界までも貫いて見ることができる、その知恵が現代人には惜しいと言うことだ。
星の王子様!
君は、ただひとつしかない大切な花であることを知っていた。その花と同じ様な多くのバラを見て失望したあまり芝生にうつぶせて泣いただろう?その時、狐が現れて「気持ちが通じる」と言う言葉を教えてくれた。それはひどく忘れしまった言葉で「関係を結ぶ」と言う意味だと。気持ちが通じることは、互いがまだ、何千、何万の極ありふれた、似たような存在に過ぎず、大切だとか、恋しいとも思わないけれど、いったん気持ちが通じるようになるとこの世界でただ一人しかいない重要な存在になると言うことだ。
「君が私と気持ちが通じたならば、私の生活は日が昇るように楽しくなる。私は誰の足音とも違う足音を知るようになる。君の足音は音楽になって私を洞窟の外に呼び出すのだ。」
そして狐とは何の関係もない麦畑が、星の王子様の頭が金髪だと言うこのひとつの事実のせいで、黄金の光が漂う麦を見ると恋しくなり、麦畑を過ぎていく風の音が好きになると言った。
そのように、切々とした「関係」が今日の人間の村落には色あせてしまった。互いの利害と打算で利用しようとするのだ。本当に世知がない世の中だ。私とあなたの関係がなくなってしまったのだ。「私」は私で、「あなた」はあなたで終わってしまっているのだ。これと同じようにばらばらに散らばっているせいで私とあなたは寂しくなるしかないのだ。人間関係が回復されようとするならば「私」「あなた」の間に「と」が介在されなければならないのだ。そうしてこそ「私たち」になることができる。また、君の友達である狐の声を聞いてみようか。
「人々は、もはや何を知る時間さえなくなってしまった。すべて作っておいた品物を店で買えばいいから。だけど友達を売ってくれる商売人はいなから、人々は友達がなくなったのだ。友達を持ちたいなら私と気持ちを通じなさい」
気持ちが通じるという意味を理解した星の王子様、君は、君がそのバラの花のために送った時間のせいでバラの花があんなに大事になったことを知って、このように言った。
「私のバラ、ひとつだけでも数千、数万のバラの花に匹敵して余りある。それは私が水をやった花だから。私が覆いをかぶせて風を防いでやった花だから。私が虫を取ってやったのがこのバラの花だったから。そして、恨めしい話や自慢話や、あるいは上品にしていることまでも皆聞いてやったのがこの花だから。それが私のバラの花だから。」
そういいながら、自分と気持ちが通じたことに対しては永遠に自分が責任をとるのだと言った。
「君は君のバラに対して責任がある」
「人々は特急列車に乗るけれども、何を探しに行くのか知らない。」
そうだ。現代人は忙しく生きている。時間に追われ仕事に押されお金に追撃されながらも何がなんだかわからないで生きている。どこに来て、どこに行くのかも知らないで。疲労回復剤を飲みながら、ただ、忙しくだけ走りまわろうとする。ぜんぜん気持ちを通じることを知らない。だから、ある庭園に何千株の花を育てていても自分たちが探しているものをそこで見つけることができないでいるのだ。それはただ1本の花や、一口の水にでも見つけることができることなのに。君は、また、こんな風に言ったね。
「ただ、子供たちだけが自分が探しているものが何であるかを知っている。子供たちは布切れで作った人形ひとつのためにも時間を使い、それでその人形がとても大事なものになってしまい、だから誰かがそれを奪おうとしたら泣くんだ。」
星の王子様!
君は死を何でもないように考えていたね。この肉体は、ただの殻だと比喩しながら死を少しも恐れていなかったね。生也一片浮雲起、死也一片浮雲滅、人生は一片の雲が起きたことで、死は一片の雲がなくなることだと思っていた。そうだ。この宇宙の根源を行ったり来たりする人間には死のようなものは何でもないのだ。星の王子様。君の実態はただの殻のようなものではないのだ。それは古くなった服だから。
服が古くなったら新しい服に着替えるように私たちの肉体もそうなのだ。そして、君が住んでいた星の国に帰ろうとしたら、その体を持っていくには足手まといになる。
「それは抜け出てしまったただの殻のようなものだ。ただの抜け殻、それは悲しくない。見てみなさい、それははっきりとしないものだ。私は2つの星を見る。すべての星がさび付いた滑車がぶら下がった井戸になる。すべての星が私に水を飲ませてくれる、、
星の王子様!
今、あなたと気持ちが通じた後、私の周りにまつわる話を伝えたい。
「星の王子様」と言う本を始めて私に紹介してくれた友は、このひとつの事実だけでも生涯忘れられないありがたい友だ。君の対する度ごとに重ね重ね感謝しないではいられない。その友は私にひとつの運命のようなものに会わせてくれたのだから。
今まで読んだ本も少なくないが、君のように大きな感動を受けた本は多くなかった。だから、君が私には単純な本ではなく、ひとつの経典だと言っても少しも誇張ではないようだ。誰かが私に紙墨でできた1,2冊の本を選べと言ったら、「華厳経」と共に君をさっと選ぶだろう。
近くの友達に「星の王子様」をおそらく20冊を超えるぐらい買ってやった。君を好きだと言う人にはすぐに信頼感と親和力を感じる。彼は私の友になることができる。私が知っているフランスの神父一人と、ニュージーランドの老婦人一人は君を通して親しくなった外国人だ。
君を読んでも何の感興がないという人がいるが、そんな人は私とはサイズが合わない人として考える。ある人が私と親しくできるかは、君を読んだその反応で十分に推測することができるのだ。だから君は人の幅を計るひとつの道具なのだ。少なくとも私にとっては。
そして、君の声を聞くとき、横になって聞く、そうすれば君の声をより生々しく聞くことができるからだ。想像の翼を思いっきり広げて飛んでいくことができるのだ。君の声を聞けば聞くほど新しい。それは永遠な霊魂の母音だ。このように君が私をゆすぶる訳はどこにあるのか。それは君の霊魂があまりにも美しく善良で少し悲しいからだろうか。砂漠が美しいのは、どこかに泉がわいているからそうであるように。君の大事なバラと結び紐のない羊によろしく言ってくれ。君はいつも私と共にいる。(児童文学思想1971,11)

つたない訳ですが、来年も自分の韓国語の勉強を兼ねて本を詠みたいと思っています。
来年もよろしくお願いします。
