アケオメと言ってしまった携帯の相手は、聞き覚えのある友人ではなく、彼の奥方だった。電話の本来の持ち主である44歳の友人が、脳溢血で倒れたとの奥方からの連絡。意識不明らしかった。同じように脳動脈瘤の破裂でクモ膜下出血になり、意識不明に至った亡き父のことを思い出した。
そんな経験が、医者でもなくなんの役にも立たない僕に、できる限り早く様子を見に行って、耳元で、
「自転車に乗り行くぞ!目を覚ませっ!」
と怒鳴ってやりたかった・・・・・。
この友人は15年以上(たぶん)の付き合いのある奴で、僕に自転車に乗ることを教えてくれた奴だった。彼が居なかったら、自転車ビジネスはしていたけれど本気で自転車に乗る趣味を持つことはなかったかもしれない。
メカニックとしても優秀で、実はFORMULAのブレーキを整備させたら日本で一番だった。1997年だったかワールドカップのダウンヒルチャンピョンになった、コラード・ヘリンも彼に信頼を寄せていた。同じように新潟のアライに来た世界選手権の連続の覇者ニコラス・ブイヨスものブレーキも、彼が整備をしていたと記憶している。数少ないFORMULAを愛用した日本人の選手も1度や2度は彼に世話になったことがあるかもしれない。さらにレーシングメカニックは、単に整備ができるだけでなく、選手にいかにその器材を信用させてそのパフォーマンスを最大限発揮させるメンタル面でのスキルも必要なのだが、彼はそんな才能も備えていた。
残念ながら、1990年代後半のような華やかなダウンヒルの舞台は今は無くなってしまったが、彼のレース会場での生き生きとした姿が思い出されてならない。
7日なんとか都合をつけて大阪に向かった。
富士山の向こうに、八ヶ岳が良く見えた。かつて、その向かいの富士見パノラマスキー場をよく尋ねた。ダウンヒルを楽しんだり選手のサポートをしたり、そんなことを思だしながら友人の病状を按じた。
ICUみたいな病室に彼はいた。面会時間になるまで入室は許されずしばらく待たされたが窓越しに寝ている彼の姿が見えた。
時間が来て病室に入り、彼に何度となく呼びかけても、瞼が少し動いただけで起きることはなかった。
少し酒を嗜んだが、不健康とはほど遠い生活をしていたはずの彼がこうなるとは、想像したこともなかった。
嘆き悲しんでも仕方がないと思いつつ、涙を堪えるのに必死の自分がいた。まもなく奥方が見え、そしてかつて一緒に走って飲んだ仲間が来た時は、ただただ悲しく言葉が無かった。
自分の話しかける言葉が少しでも彼の脳に刺激になればと思い、お見舞いに来たけれど、ベットで寝ている彼の前では、自分の存在が無力で不甲斐なかった。顔色はいつもと変わらない彼の顔は、健康そうでもあったが、いくら話しかけても返事は無く、ただ寝ていた。
でも、時間が経てば僕の父のように少し回復するかもしれない、そんな期待を持って病院をあとにした。長いようで短い30分間の面会時間だった。
生きるものは、いつかその終焉を迎えるが、半分をすぎた自分の人生、これからもっとこのような事に遭遇するのかもしれない。生きぬくと言うことは、悲しみにもたくさん遭遇することでもある。楽しいことばかりではないのだが、生に執着する自分を見つめなおす機会をベットで寝ている友人が教えてくれたような気がする。
顧みれば、かつて琵琶湖1周・淡路島1周の案内してくれる約束をしてくれいた。
なんとかそれを実現してもらいたいと思い回復を願ってやまない。
そんな経験が、医者でもなくなんの役にも立たない僕に、できる限り早く様子を見に行って、耳元で、
「自転車に乗り行くぞ!目を覚ませっ!」
と怒鳴ってやりたかった・・・・・。
この友人は15年以上(たぶん)の付き合いのある奴で、僕に自転車に乗ることを教えてくれた奴だった。彼が居なかったら、自転車ビジネスはしていたけれど本気で自転車に乗る趣味を持つことはなかったかもしれない。
メカニックとしても優秀で、実はFORMULAのブレーキを整備させたら日本で一番だった。1997年だったかワールドカップのダウンヒルチャンピョンになった、コラード・ヘリンも彼に信頼を寄せていた。同じように新潟のアライに来た世界選手権の連続の覇者ニコラス・ブイヨスものブレーキも、彼が整備をしていたと記憶している。数少ないFORMULAを愛用した日本人の選手も1度や2度は彼に世話になったことがあるかもしれない。さらにレーシングメカニックは、単に整備ができるだけでなく、選手にいかにその器材を信用させてそのパフォーマンスを最大限発揮させるメンタル面でのスキルも必要なのだが、彼はそんな才能も備えていた。
残念ながら、1990年代後半のような華やかなダウンヒルの舞台は今は無くなってしまったが、彼のレース会場での生き生きとした姿が思い出されてならない。
7日なんとか都合をつけて大阪に向かった。
富士山の向こうに、八ヶ岳が良く見えた。かつて、その向かいの富士見パノラマスキー場をよく尋ねた。ダウンヒルを楽しんだり選手のサポートをしたり、そんなことを思だしながら友人の病状を按じた。
ICUみたいな病室に彼はいた。面会時間になるまで入室は許されずしばらく待たされたが窓越しに寝ている彼の姿が見えた。
時間が来て病室に入り、彼に何度となく呼びかけても、瞼が少し動いただけで起きることはなかった。
少し酒を嗜んだが、不健康とはほど遠い生活をしていたはずの彼がこうなるとは、想像したこともなかった。
嘆き悲しんでも仕方がないと思いつつ、涙を堪えるのに必死の自分がいた。まもなく奥方が見え、そしてかつて一緒に走って飲んだ仲間が来た時は、ただただ悲しく言葉が無かった。
自分の話しかける言葉が少しでも彼の脳に刺激になればと思い、お見舞いに来たけれど、ベットで寝ている彼の前では、自分の存在が無力で不甲斐なかった。顔色はいつもと変わらない彼の顔は、健康そうでもあったが、いくら話しかけても返事は無く、ただ寝ていた。
でも、時間が経てば僕の父のように少し回復するかもしれない、そんな期待を持って病院をあとにした。長いようで短い30分間の面会時間だった。
生きるものは、いつかその終焉を迎えるが、半分をすぎた自分の人生、これからもっとこのような事に遭遇するのかもしれない。生きぬくと言うことは、悲しみにもたくさん遭遇することでもある。楽しいことばかりではないのだが、生に執着する自分を見つめなおす機会をベットで寝ている友人が教えてくれたような気がする。
顧みれば、かつて琵琶湖1周・淡路島1周の案内してくれる約束をしてくれいた。
なんとかそれを実現してもらいたいと思い回復を願ってやまない。
悲しいですね...
ご快癒を祈りたいです。