気の広場

気の世界あれこれ・・・
  日常雑感あれこれ・・・

正月のうんちく★ ・・・ 門松

2010-12-30 07:07:26 | Weblog
日本でいちばん「ハレ」の日といえば ・・・ お正月です。

日本人は お正月には「年神様」を迎えると考え

  ・・・ お正月の前からさまざまな準備をしました。


なかでも門松は主役級で

  ・・・ 年神様に迷わずお越しいただくための目印になるもの。


古くは

12月13日に 松迎えをして

12月20日~28日の間に 門などに門松として

  松を立てる「しきたり」がありました。


29日に立てるのを「九松」  ・・・ 苦待つ

31日に立てるのを「一夜松」 ・・・ 誠心のない意で 忌み嫌う。



鎌倉時代に竹を加えて松竹となり


江戸に入ってから一対にして

向かって右に ・・・ 雌松

向かって左に ・・・ 雄松 を竹とともに立てるようになりました。


松という字は

  偏が 十と八

  旁(つくり)が 公であることより

・・・ 松の異名として 「十八公」というそうです。




* 2010.11  東ブータンで





母 ・・・151. : 母の居る安らぎ ・・・ 共働きの母

2010-12-30 05:05:02 | Weblog
くる日もくる日も毎日が母の留守であり

  あの豊かな 柔らかな母の匂いを感ずることなくすごせば

  ・・・ 子どもは道草をくわずにはいられなくなる。


うちを出る勇気は うちへ帰る喜びが原動力なのですから

  ・・・ 母のいない子は 登校の力がうせてゆく。


共働きの母をもつ子どもの苦しみが ・・・ これです。



テーブルの上に果物やケーキが置かれていても

  たいてい食べ残してしまいます。

まして 子どもは母がいないと食欲もすすみません。


父と子だけの夕食は そそくさと味気ないものです。

笑い声一つ起こらない。

笑い興じながら食べすぎてしまう母との幸福な食事とくらべたら

  ・・・ まこと哀れなものです。




* 2010.11  東ブータンで





母 ・・・150. : 母の居る安らぎ ・・・ 鍵っ子の惨(みじ)めさ

2010-12-30 05:04:06 | Weblog
その子が家庭をつくるとき あるいは 愛する人を見出すとき

彼らの心性に映じてくるものは ・・・ 母の居る「うち」の姿です。

                            (再掲)


現在のように

昔にくらべて より長い期間にわたって

  親とともに暮らす「前社会人段階」をもった子供らは

  ・・・ なおさらのことです。


彼らが「家庭をもとう」と心に決めるのは ・・・

決して愛する人と一緒に住みたいという願望からのみではありません。

自分の育った家庭への深い甘美な幸福感を

  自分自身の手で獲得したいという気持に駆られるからです。


モデルは 母のいる茶の間です。

自分が息を切らしてとびこんだ「母心の居間」を自分の人生に創造したい

  ・・・ その願いのゆえに家庭をきずくのです。



家庭づくりをうとんじ 蔑(さげす)む青年には

  そうした魂を潤すような母の安居がなかったのでしょう。


鍵っ子の惨めさは 幼少期にあるのではなく

  ・・・ その子の未来にあるのです。



どんな裕福な家庭に育っても

また 母親が有名な評論家や 知的な活動家であっても ・・・

子どもが我が家で 大きな揺りかごに揺られているような

  深い休息感に満たされた時期を経なければ ・・・

結局 その子は

  孤独で不安な心をいだいたまま成長しなくてはなりません。


非行少年の心の空ろさが ・・・ それです。




* 2010.11  東ブータンで




 

母 ・・・149. : 母の居る安らぎ ・・・ 母の居る 「 うち 」

2010-12-29 11:00:28 | Weblog
子どもは家庭で母と接し 語りあうことで

  「家族」を学び 「うち」のあたたかさを知ります。



子どもは成長すれば やがて家を離れてゆきます。

子どもは ・・・ 子どもとしての人生を歩む。


しかし

その子が家庭をつくるとき あるいは 愛する人を見出すとき

彼らの心性に映じてくるものは ・・・ 母の居る「うち」の姿です。




* 2010.11  東ブータンで





母 ・・・148. : 母の居る安らぎ ・・・ わが家とは 「 うち 」

2010-12-29 10:00:36 | Weblog
わが家とは

子どもにとって 建物をさしていうのではなく

  ・・・ 母親がいることなのです。


母がいるから 「うち」なのであり

  母が待っているから 「うち」なのです。


母のいない「家」は
 
  不気味な「心」のない冷たい空洞の世界にすぎません。



そして

子どもは この「うち」があるからこそ

  ・・・ 「外」へ向かって出かけてゆく勇気がわいてくるのです。


高校や大学にゆくようになっても この子の心は変わりません。



夕食をとらずに自分を待ってくれる母があり

出先に心配して電話をかけてくれる「うち」の母がいるからこそ

  ・・・ 彼らは 「外」の生活を楽しむことができるのです。




* 2010.11  東ブータンで





母 ・・・147. : 母の居る安らぎ ・・・ ただ聞くだけでいい

2010-12-29 09:00:14 | Weblog
私の次男は 大変な早口でした。


学校から帰って母親に話しているのを かたわらで聞いていると

  なにをしゃべっているのかさっぱり分かりません。

ときどきいい間違えて 自分の頬っぺたをたたいています。


母親は うんうんとか ふんふんといっているだけです。

迷惑そうですし 生返事しかしていない。


しかし 次男は ・・・ それで満足している。



母はうちにいて ただ聞いてやればいいのです。

いや 聞かずとも うちにいてやりさえすればいいのです。


それだけで

子どもは 足音も高く 学校に出かけ

  心配事があっても我慢して耐えることができる。


母のちょっとした慰めの言葉を聞けば

  ・・・ それで不安や動揺は消えてしまうのです。


なんという偉大な母心でしょうか。




* 2010.11  東ブータンで




 

母 ・・・146. : 母の居る安らぎ ・・・ 母に居て欲しい

2010-12-29 08:00:39 | Weblog
ほんとうからいえば 母のいないほうが勝手気ままでいいはずです。


帰るそうそう ・・・

手を洗え 塵を落とせ なぜこんな遅くまで遊んできたのだ

  と矢つぎばやに注意をうけるよりも 母が留守のほうが気楽なはずだ。


しかし 子どもは それでも母に居て欲しいのです。



「ただいま!」と叫んで玄関の戸をあけ 「お母さんは!」とたずね

茶の間やダイニングルームにとんでいって 一気呵成にしゃべりまくる。


それが子どもの生活のリズムであり 不変の習慣となっているのです。



息をはずませて
 
  学校であったこと

  友達とのトラブル

  帰り道にふとすれちがった犬のこと ・・・

もうゴチャゴチャに胸におしつまっていることを

  一分一秒でも早く 母に聞いてもらいたい 訴えたいと

  ・・・ 子どもは わが家へ邁進してっくるのでしょう。



家には 母が待ち構えていてくれる。自分を待っている。

・・・ そこに子どもは 生きがいを覚えるのです。




* 2010.11  東ブータンで





母 ・・・145. : 母の居る安らぎ ・・・ 留守

2010-12-29 07:00:06 | Weblog
きょうは母がいない 留守なんだと分かっている日も

ついうっかり忘れて

  「ただいま! おかあさんは?」とやってしまう。


<そうか 留守だったのだ 今日は>と朝の約束を思い浮かべるとき

  ・・・ 子どもの表情は淋しげで 苦渋にみちています。



留守を思い出して帰ってくるときは

  足音の響きや戸のあけ方までちがいます。

いつものような軽くはずむような

  ころげこんでくるような力がありません。

重い のろのろとした足どり

  パーンとたたきつけるようにしめる戸。


ときには
 
  ぼんやりと茶の間に突っ立ってなにごとか考えている。


ひとつひとつの仕草にも

  孤独でやるせない想いがあらわれています。




* 2010.11  東ブータンで





母 ・・・144. : 母の居る安らぎ ・・・ 母の居ない家

2010-12-29 06:00:12 | Weblog
母の居ない家は「火が消えたように」

  「しいん」とした砂漠のような淋しい空虚なところです。



お母さんの居ないうちは空家も同然です。


「ただいま おかあさんは?」

返事がないと

「おかあさんは?」と もう一度叫ぶ。


また 父親が家で仕事をしていても相手にしない。


「ふーん なあんだ おとうさんか」 いかにもがっかりした声を出す。

子どもは 父親を母の代用品とすら認めてくれない。

「冷蔵庫にプリンがあるよ」

「うん」

それで父と子の会話は終わりです。



子どもは 母のつくったプリンを食べながら

  ・・・ ひたすら帰りを待っている。


それは ・・・ 実に淋しそうです。




* 2010.11  東ブータンで





母 ・・・143. : 影のように ・・・ 母の手紙

2010-12-29 05:25:06 | Weblog
旅に出た子が母に書簡を綴るのも ・・・

遠く離れた子が母の手紙を待ちわびるのも ・・・

  母の返事で そばにいる母心に触れあいたいからなのです。


これは いくつになっても変わりません。


たどたどしい文字の手紙でもかまいません。

ただ母の筆跡とそこに描かれた消息があれば

  子どもは母を恋うる気持ちが満たされ

  ・・・ 母の息づかいと匂いをかぎとることができるのでしょう。



叱ってもらいたいし 喜んでもらいたい。

だから 留学して息子は 誰に手紙を出さずとも母には書き送る。

父への便りは事務的です。乾いています。

母への絵葉書は情感で濡れています。

  ・・・ むかし 私がそうでした。かつて 息子がそうでした。


母親は 夜遅くまでかかって手紙を書いてやる。

書いては破り また書いている。

なかなか書けない。

それを頑張って書いている。


・・・ 母心のやさしさです。




* 2010.11  東ブータンで





母 ・・・142. : 影のように ・・・ 赤ちゃん返り(退行現象)

2010-12-29 05:24:30 | Weblog
幼児は赤ちゃんが生まれると

  「赤ちゃん返り」(退行現象)を起こします。


最近も そんな相談を受けました。



母を赤ん坊にとられたと思うのでしょうね。

わざとおしっこをもらしたり

軟語を使ったり

赤ん坊のミルクを横取りして
 
  ・・・ わがままいっぱいにふるまいます。



母の愛を独占した子どもは

  ・・・ 愛の二分化が淋しくてたまらないわけです。


子どもは

  いつまでも「母心」を独占し 満喫していたい ・・・ のです。




* 2010.11  東ブータンで





母 ・・・141. : 影のように ・・・ そばにいる

2010-12-29 05:23:54 | Weblog
母がそばにいてくれるから

  赤ちゃんは ねむりにつき

  少女は おさらいをし

  少年は 勉強机に向って落着いて宿題にとりくむ。



「そばにいる」 ・・・

この影のように寄りそっていられること自体が

  子どもにとって ・・・ 大切な用事なのです。



そばにいてくれるから ・・・ 安心して生きていられる。




* 2010.11  東ブータンで





母 ・・・140. : 影のように ・・・ 病床の子どもごころ

2010-12-28 11:00:03 | Weblog
子どもは病気をすると 母がいつでも傍らにいることを願います。


二十歳すぎの青年でも 病気になると母を独占したがる。

子どもだけではない。

妻の中に母を描く夫は 病床からたえず妻(母)を求めるものです。



私が 5歳で病気にかかって入院したときのことです。


手術後 排便のために一日一回浣腸される。

三分から五分間ぐらいじいっとがまんしていなくてはならない。

苦しいから母を呼ぶ。


ところが 父が代わりにやってくる。

童話の本を読んで気をまぎらわしてくれるのだが

  それが無性に腹立たしい。

しまいには 父から本をとりあげて ほうりなげ

  「出ちゃうよお!」と叫ぶ。

そんなとき 父は恐い顔をして

  「男の子はがまんするものだ」と叱りつける。


母がいれば 童話の本を読んでくれなくても

「もう少しよ 頑張りましょうね

  早く治って また海へゆくんでしょう」と慰められただけで

  ・・・ 必死になって数分間を耐えようとする。


入院するとき おぶって運んでくれたのも父だし

童話の本や果物を運んでくれるのも父だったのに

  ・・・ やはり 母でなくては満たされない。


どの子も同じです。


ちょっと母の姿がみえないと 母を呼ぶ。

おこられても また母を呼ぶ。

父がきても 甘えない。

母がくると それだけでニコニコしている。

そばにいてもらいたいのです。


「用事もないのに呼ばないで。母さん忙しいんだから」と叱りながら

  それでいて ・・・ 母も喜んでいる。


  ・・・ これが 母心です。




* 2010.11  東ブータンで







 

母 ・・・139. : 影のように ・・・ 心なごむ思い

2010-12-28 07:54:44 | Weblog
ある詩人は 母のそばにいる感覚を

  「軽い 痺れるような感覚」といいあらわしています。



母は決して冷たく突き放す人ではない。

かりに 拒否するときでも

  すっと手を抜くようにして離れてゆく人だ という人もいます。



誰もが 母と子の連れだって歩く姿に心のなごむ思いがするのは

  母のそばにいる子どもの平安な顔つきに

    ・・・ うれしさを感じとるからでしょうね。




* 2010.11  東ブータンで





母 ・・・138. : 影のように ・・・ 無条件の安らぎ

2010-12-28 06:28:24 | Weblog
母親が電車の中で子どもととなり合わせに座っているとき

  ・・・ そこには落着いた情感が漂っています。


子どもはたえず母に目を向ける。

母の囁きにうなずいたり笑ったりしている。


勢い込んで電車にとびのった母と子は

  顔をみあわせて笑い たえまなくしゃべりつづけています。



家庭でもそうです。

母親のかたわらで家庭科の宿題なのか

  エプロンや雑巾などを縫っているとき

どの娘も 幸せいっぱいの表情を浮かべています。



母のそばにいる。

そばに母がいる。

たったそれだけのことが

  子どもに平穏な安定感を与えてくれるのでしょう。

母もまた満足している。


「だめだめ もっとゆっくり目を細かく針を動かさなくては」

母の注意をうなづきながら聞く子どもの態度には

  ・・・ まかせきった無条件の安らぎがあります。



庭掃除のときも

友だちが訪ねてきたときも

  ・・・ 子どもは母にいてもらいたい。

母がいれば落着く。

母も落着いた世界が好きです。



息子が母親と落葉をかきあつめていると

  犬までが ・・・ じゃれついてくる。




* 2010.11  東ブータンで