認知症の早期診断 介護並びに回復と予防のシステム

アルツハイマー型認知症は、廃用症候群に属する老化・廃用型の生活習慣病なので、発病を予防でき、早期治療により治せるのです

ナイナイ尽くしの単調な生活が始まるキッカケとその類型 (A-81)

2013-04-01 | 発病の引き金となる生活習慣とそのキッカケ

「アルツハイマー型認知症」を発病する直接の原因となる「第二の要因」とは、(生き甲斐なく、趣味なく、交友なく、運動もせず、目標もない)という、あのナイナイ尽くしの「単調な生活」が継続することなのです。ところで、「発病の第二の要因」であるナイナイ尽くしの「単調な生活」が始まるには、その「キッカケ」となる「生活状況の大きな変化」(或いは、「生活上の大きな出来事」)の発生というもう一つの関門があるのです。

 (一方で)、「左脳偏重」(或いは、「仕事中心」)の生き方(価値観)を第二の人生に入っても変えることができない人達は「アルツハイマー型認知症」を発病するリスクが高いのですが、(他方で)、生き方に対する考え方(価値観)に特別の問題がない人でも(或いは、趣味や遊びや人付き合いや運動など、自分なりの「テーマ」や目標や生き甲斐がある人でも)、「キッカケ」に遭遇することによって、ナイナイ尽くしの「単調な生活」に入っていくことが、「アルツハイマー型認知症」の発病との関連で極めて重要なのです。

 ナイナイ尽くしの「単調な生活」が始まる分岐点は、2つあります。(1つは)、「キッカケ」に遭遇するかどうか、(そしてもう1つは)、遭遇した「キッカケ」に負けて、心が折れてしまうことになるかどうかなのです。「キッカケ」との遭遇に負けてしまい、心が折れて、(「意欲」を掻き立てたり、「注意を集中」したり、或いは「注意を分配」したり)する機会となるべき「テーマ」を見つけ出すことができない人は、(「前頭葉」の「三本柱」の出番が極端に少ない)あのナイナイ尽くしの「単調な生活」に入っていくことになるのです。

「前頭葉」の脳の老化を加速させ、「アルツハイマー型認知症」発病の引き金となるナイナイ尽くしの「単調な生活」が始まる「キッカケ」となる「生活状況の大きな変化」の発生(或いは、「生活上の大きな出来事」の発生)とは、どんなことを言うのか。それを要約すると、次の2つの類型に集約されます。分かりやすくするために、ここでは典型的な事例を取り上げて例示的に説明しておきます。

  第一の類型(「生活状況の大きな変化」の発生)

波乱万丈というのは余りないケースだと思うのですが、私達が「第二の人生」を生きていく上でも、自分を取り巻く「生活状況」に、様々な変化が誰でも起きてくるものなのです。運や不運、幸福や不幸、事故や事件、家庭内の問題、様々な人間関係の軋轢など、自分を取り巻くそうした「生活状況(環境)」が様々に変化していくものなのです。

時には、思いもよらない状況や環境の変化が起きてくる中で、それでも頑張って生きていこうという「意欲」(状況や環境の変化に対する対策や対処の仕方を考え、自分なりの「生き方」を実践していこうとする意欲)をこれまで支えてくれてきた「核となる生活」を継続できなくなってしまうような「生活状況の大きな変化」が起きてくること、それが、ナイナイ尽くしの「単調な生活」に入っていくことになる「キッカケ」の一つのパターンなのです。以下に、具体例をいくつか示して説明しましょう。

☆ 趣味や遊びや人付き合いや運動を楽しむ体験というものがほとんどなく、言わば「仕事一筋」の人生を送ってきた人(且つ、その生き方を良しとする価値観の人)にとっての「定年退職」

「左脳」(仕事)中心の生活だけを生き甲斐に第一の人生を送ってきた人は、定年退職や家業の廃止や家業を息子に譲って仕事がない毎日が始まり、「左脳」を使う機会が極端に少なくなっても、趣味や遊びや人づきあいや運動など、「右脳」や「運動の脳」を使う機会となる「テーマ」への切り替えが出来ないのです。そのため、(時間だけはたっぷりあるのにすることがない)毎日、{「前頭葉」(前頭前野のことを言うものとする。以下、同じ)の出番が極端に少ない}ナイナイ尽くしの「単調な生活」で日々を過ごすことになるのです。

文字通り「仕事一筋」(左脳偏重)の生き方で第一の人生を渡ってきて、そうした生き方に私なりの満足感があり、その一方で、右脳(趣味や遊びや人付き合い)がらみの体験にも、運動の脳(スポーツや運動)がらみの体験にも乏しかったのです。そのため、「趣味とか遊びとか運動とか」に価値がおけなくて、そのような「些事」に)熱中することが出来ないのです。そうした「些事」が、自分が(自分ほどの者が)第二の人生を生きていく上でのメーンの「テーマ」となる日常などには価値が置けないと感じるのです。そうした「価値観」を引きずっている限り、第二の人生に入っても、「前頭葉」の三本柱の機能である「意欲」や「注意の集中力」や「注意の分配力」を使う機会となる「テーマ」自体を見つけることができないのです。

そうした考え(価値観)を引きずるお年寄りは、やっと出会った(見つかった)趣味や遊びなのに、その「楽しみ方」を知らないのです。「趣味や遊び」なのに、そのやり方がまるで「仕事そのもの」なのです。「第二の人生」での「趣味や遊び」のやり方に、第一の人生での「仕事」を遂行するとき使っていた「ルール」を適用しようとしてしまうのです。そのうえ、「周りの目」とか、「周りが自分のことをどう考えているか」ばかりを気にするのです。

こうした「左脳」(仕事)偏重の価値観が根底にあるので、第一の人生では顧みることもなく見過ごしてきた「テーマ」、結果よりも体験することや経過を楽しむことだけを価値とするような「テーマ」の設定ができないのです。趣味や遊びや人付き合いや運動も、全てが「仕事」を目的とするときと同じやり方(或いは、同じ「目標」設定のやり方)でしかできないのです。その結果、やっと見つけた「テーマ」も、(体験すること自体や体験する過程)を自分なりに楽しむことができないのです。

仕事と同じように結果重視で設定した「目標」を達成できないことで次第に意欲をなくしていき、途中でやめてしまうのです。そして、一度失敗を体験すると、失敗を恐れて他の新しい「テーマ」には挑戦しようとしないのです。終いには、有り余る時間を持て余すことになり、ナイナイ尽くしの「単調な生活」を日々過ごす中で、出番が極端に少ない「前頭葉」が老化を加速させていくことになるのです(廃用性の加速度的な機能低下)。

 ☆ 「遊び」も、「運動」も、「人付き合い」も楽しむことがなく、やっと見つけた「特定の趣味」だけが生き甲斐の人が、その「趣味の会への参加を中止」せざるを得なくなること: 

もともと人付き合いが苦手だった私が、誘われて行き始めた「趣味」にのめり込んで、第二の人生を送るうえでの大きな「生き甲斐」となっていたのです。ところが、「趣味の会」の先生が高齢を理由にその会を中止されてしまったのです。普通なら、他の会に参加することや、他の趣味を見つけることを考える筈なのに、私にはそれができないのです。その特定の「趣味の会」が中止されたら、他の「テーマ」を見つけることができなくて、そのままナイナイ尽くしの「単調な生活」に入っていくことになるのです。

 ☆ 親や兄弟、子や孫、友人、ペットなど大事な人や動物との「別離や死別」:

親や兄弟との死別で心が折れて、そのことが契機となり、ナイナイ尽くしの単調な生活に入っていくのは或る意味で理解ができるのです。両親が共稼ぎの孫の親代わりとなって、孫の世話を一身に引き受けてやってきて、それが「唯一の生き甲斐」になっていた私にとって、進学を契機に孫が自分から手離れていくと、もう何もしようとしなくなるのです。気が抜けてしまい、心に空洞ができてしまって、別の「テーマ」を探そうという気にもならないのです。そのまま、ナイナイ尽くしの「単調な生活」に入っていってしまうのです。

※ 第二の類型(「生活上の大きな出来事」の発生)

本人から見て(客観的な評価ではなくて、主観的な評価であることが重要)、生きる意欲をなくしてしまうような「出来事」が発生し、解決の糸口さえも見つけ出せないままに、その状況が継続されることで心が折れてしまい、拠るべき「テーマ」を探すことも見つけることもできないで居るうちに、ナイナイ尽くしの「単調な生活」に入っていくことになるのです。

☆ 自身の重い病気の発病や大きな怪我など:

趣味を楽しんだり、人付き合いを楽しんだり、小旅行を楽しんだりする生活があって、それなりに生き甲斐や喜びを得られる機会があり、自分なりの目標や喜びや生き甲斐がある生活を送っていたのに、大きな怪我(ex.骨折)をして長期間入院したり、病気になって床に臥せるだけの毎日を過ごすようになると、意欲や注意の集中力や注意の分配力が働く「テーマ」が何もない生活になるので(毎日のようにお友達が入れ代わり立ち代わり訪ねてきてくれ、世間話に花を咲かせるというわけにはいかないので)、その状況自体がナイナイ尽くしの「単調な生活」になってしまうのです。

 ☆ 子供の失業や借金問題、孫の不登校など家庭内の「重大な心配事」の発生とその状況の継続:

子供の失業や借金問題、孫の不登校など家庭内の「重大な心配事」が発生し、解決策を見いだせないまま、その状況が継続していると、趣味であれ、遊びであれ、人付き合いであれ、運動であれ、買い物その他の用事であれ、(何をしていても、何時も、何処にいても)、心は上の空状態」なのです。「心、此処に在らず」の状態のもとでは、「前頭葉」の三本柱の機能の働く機会がないのです。

(いつもそのことが、気がかりで、心配で、心にかかっている)ので、何かの「テーマ」をやっていてもそのことに注意の集中力を働かそうにも集中できないのです。頭を回転させようにも注意の分配力が働かないのです。意欲も湧いてこないのです。形の上では、いろいろな「テーマ」をやっているようでいて、脳機能の実質面からは、「前頭葉」の三本柱の機能がちゃんと働かない、つまり何もやっていないのと同じような状態なのです。

 こうした他人には言えない「身内の重大な問題」が発生した時、普段の生活状況では、たとえ趣味や遊びや人付き合いの集いに参加していたり、スポーツや散歩を友人たちとやっていても、「心はいつも上の空状態」で、何かを楽しむ心の余裕もないのです。家庭内の問題を抱える状況が発生し、継続していると、人に会うのも恥ずかしいので、趣味や遊びの集いにも次第に出て行かなくなるのです。だからといって、自分の力ではどうすることもできないため、いわゆる「うつ状態」と言われるような精神状態に陥りがちなのです(「うつ病」ではなくて、「老人性うつ」)。そのうち何かをする気力もなくなり、意欲もなくなって、家に閉じこもりがちの生活になっていくのです。生き甲斐なく、趣味なく、交友なく、運動もせず、目標もない、ナイナイ尽くしの「単調な生活」に入っていくことになるのです。

☆ 夫(妻)が重度の認知症や重い病気を患い、「介護に追われるだけ」の毎日:

「前頭葉」は、自分の置かれている状況を判断し、その状況に沿った「テーマ」を考え付き、「テーマ」の実行内容や程度や態様をシミュレーションした上で、最終的な内容を決定し、左脳や右脳や運動の脳に指令を出す司令塔の働きをしているのです。「重度認知症」の段階の症状が出ているということは、その人の「前頭葉」は殆ど機能していないレベルにあるのです。「大ボケ」の症状が出てくるようになると、脳の機能を「中ボケ」のレベルにもどすことさえも、「小ボケ」のレベルに戻すことも、元の正常なレベルに戻すこともできないのです。「大ボケ」のレベルの中で、更に重い症状を出すようになっていくだけなのです(ここを「クリック」してください)。

(脳の働きがもたない一方で身体がもつことがその特徴である)「アルツハイマー型認知症」の「重度認知症」(大ボケ)の段階の症状を発現しているということは、言い換えると、脳の機能の更なる衰えが同時に進行しているということでもあるのです。「前頭葉」だけでなくて「左脳も右脳も運動の脳」の機能も、全く働かなくなる状態に向かって、同時進行的に衰えていっているのです。(市町村での多数例に基づく助言)なのですが、妻(夫)が「中ボケ」(或いは、「大ボケ」)レベルの夫(妻)を世話するだけの生活を続けていると、高齢者であるその人(妻又は夫)もやがて「アルツハイマー型認知症」を発病して、「小ボケ」のレベルに入っていくケースが相当多いことを警告しておきたいのです。

※ 第二の類型と第一の類型の同時発生

☆ 東日本大震災の発生と発生後の生活状況:

東日本大震災は、世界にも例がないほどの未曾有の大震災でした。被災した高齢者は誰でも、「生活上の出来事」としても「生活状況の変化」としても、共に言葉では言い表すこともできない程の衝撃を受けられたと思うのです。我が身だけでなくて、家族や兄弟や親類縁者を含む一族の思い出が詰まった地域全体が被災し、街全体が壊滅的な被害を受けたのです。家族や親族を失った人たちも多く、生活の基礎である家屋や店や勤め先や田畑や船や筏までもを失った人も多く、景色も思い出も消失してしまったのです。その上、被災から2年が経過したというのに、復興が遅々として進んでいないのです。この先の生活自体が全く見えないという状況に置かれているのです。支援も途切れてきて、日々の生活にさえ大きな不安を抱えている状況なのです。

こうした現実の中で、「前頭葉」の三本柱である「意欲や注意の集中力や注意の分配力」を発揮する機会が多い「テーマ」をどのようにして見つけろというのか、被災した高齢者に求められるはずもないのです。とはいえ、ナイナイ尽くしの「単調な生活」のもとでは、出番が極端に少ない「前頭葉」が、廃用性の機能低下、加速度的な機能低下を必ず起こしていってしまうことになるのです「キッカケ」を契機にして、ナイナイ尽くしの「単調な生活」が日々継続するようになって、「小ボケ」の期間が「キッカケ」の発生時から0.5~3年、「中ボケ」の期間が4~5年、6年経つと「大ボケ」になるのが大原則なのです。だからこそ、東日本大震災を被災した「高齢者」の今後の生活状況を、私たちはとても心配しているのです。

○ 「キッカケ」の受け止め方がポイント 

(本題に戻って)同じような「生活状況の変化」(或いは、「生活上の出来事」)が発生しても、生活状況(或いは、出来事)の発生に対する個人ひとりひとりの受け止め方が異なるので、「生活状況の変化(生活上の出来事)」発生後の「生活習慣」(日々の脳の使い方)は、それぞれに違うのです。或る人は、「生活状況の変化(生活上の出来事)」の発生が「キッカケ」となって、気持ちが落ち込み(心が折れてしまい)意欲をなくしていって、ナイナイ尽くしの「単調な生活」が始まるのに対し、或る人は「生活状況の変化(生活上の出来事)」(出来事)の発生があっても「キッカケ」とはならないで、(心が折れてしまわないで)意欲を取り戻し、何かの「テーマ」を自分なりに見つけ出して、日々の生活をそれなりに楽しんでいくことができるのです。

このことは、次の例示のように、具体的に考えると理解しやすいと思います。(我が国ではよく見かけるケースなのですが)「定年退職」で仕事を取り上げられてすることもなくなり、3年もたつと見る影もなく衰えボケてしまう人もいれば(この段階では、未だ「小ボケ」)、「定年退職」で自由な時間がいっぱいできたのをきっかけに、自分なりに趣味や遊びや人づきあいを楽しんで、生き生きと生活していく人もいるのです。或いは、世間でよく言われるように、「夫を亡くしたおばあさん」は半年もたつと楽しげに生活をエンジョイするようになることが多いのに対し、同じように「妻を亡くしたおじいさん」の多くは次第に元気をなくしていくのです。

前者と後者とを区分けるキーポイントは、発生した「生活状況の変化(生活上の出来事)」を当の本人がどのように「受け止めたのか」にあるのです。「アルツハイマー型認知症」を発病することになるかならないか、それは「生活状況の変化(生活上の出来事)」の発生に対する「本人の受け止め方」次第ということになるのです。その結果、本人の心が折れてしまい、意欲を喪失してしまったかどうかがキーとなるのです。

「アルツハイマー型認知症」の発病を回避するには、ナイナイ尽くしの「単調な生活の継続」という「第二の要件」の充足を回避しなければならないのです。「第二の要件」の充足を回避するには、上述した事例に見るような「生活状況の変化(生活上の出来事)」が発生した時、その「生活状況の変化(生活上の出来事)」に本人自身が負けないことが必要不可欠となるのです。「アルツハイマー型認知症」の発病を左右する直接の原因は、アセチルコリンでも、アミロイドベータでも、タウタンパクでも、脳の委縮でもないのです。その時遭遇した「生活状況の変化(生活上の出来事)」を「キッカケ」として、ナイナイ尽くしの「単調な生活」に入っていったこと(及びその継続)が直接の原因となるのです。

第二の人生を送っているお年寄り(及びその家族)は、このことを深く心に留めておいて欲しいのです。「生活状況の変化(生活上の出来事)」の発生に遭遇した時は、そのことに負けて気持ちが落ち込み、心が折れてしまわないよう頑張って欲しいのです。その状況に対して自分が取るべき脳の使い方(「生活習慣」)に十分注意して欲しいのです。ナイナイ尽くしの「単調な生活」が始まる「キッカケ」とならないよう、是非とも頑張って欲しいのです。その時、本人が頑張り、踏ん張ることが第一なのですが、家族からの支えも必要なことは言うまでもありません。 

  

 ○ 「キッカケ」の例示(例示事例に拘わらず、様々な事由、態様及び程度があります):

□ 仕事の第一線を退くこと

 (定年退職、家業の廃止、家業を息子に譲る、嫁に家事を譲る)

□ 世話役を降りること(子供や孫の手離れ、地域の世話役を退く)

□ 配偶者の死亡(特に、妻が死亡したときの夫)

□ 趣味や遊びやお茶飲み会などの「集いの会」の中止

□ 重大な病気や怪我、身体上の不具合、配偶者の看病生活

□ 重大な災害により、財産や家族や友人や思い出を失うこと

□ 家庭内のトラブルや心配事

□ 友人や自分自身の転居

□ ペットの死亡

 □ 兄弟姉妹の死

 □ 周囲との接触もない孤独な一人暮らし

 注)本著作物(このブログA-81に記載され表現された内容)に係る著作権は、(有)エイジングライフ研究所に帰属しています。

 エイジングライフ研究所のHPここを「クリック」してください)

脳機能からみた認知症の初期の見わけ方(IEでないとうまく表示されません)

 

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