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蒲田耕二の発言

コメントは実名で願います。

脱論理

2012-05-13 | ステージ

国立劇場で前進座の5月公演を観る。『鳴神』と落語ネタの『芝浜の革財布』の2本。断然『鳴神』がすごい。どうすごいって、プロットが全然ない……ことはなくて、一応あるにはあるが、どうでもいいような筋である。

ポイントは男の憤怒だ。女にだまされた男が恨みを全開にする。そのエネルギーの爆発だけでドラマが成立している。険しい山奥に華やかな振袖姿のお姫さまが一人で登ってきたり、若い修行僧が股ぐらから酒やタコを取り出したり、主人公の上人が美女の体を探りまくったり等々の脱論理なエピソードはすべて、この大爆発のパワーをいや増すためのお膳立てに過ぎない。

原典は17世紀末の古典だそうだが、古い演劇ってのはなんですね、近代劇の理念ってヤツをすっ飛ばして、起承転結そっちのけで突っ走るからダイナミックだよね。一筆書きの勢い(ちょっと違うか)。

観ていて、ロッシーニの『アルミーダ』を思い出してしまった。『鳴神』と対照的に、男に捨てられた魔女が怒り狂って復讐してやるぞとワメき出すまでを描いたオペラ。観てる方は、で、復讐はできたの? できなかったの? とか思ってしまうんだが、古典はそういう論理性を超越する。そこがぶっ飛んでいて痛快です。
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米軍の価値観

2012-04-19 | ステージ
アフガン駐留兵士が自爆テロ犯の遺体と一緒に記念写真を撮ったてんで、米政府が「米軍の価値観と相容れない」とか言い訳してるが、これって彼らの価値観そのものじゃないの? ついこのあいだ、タリバン兵士の死体を米兵が取り囲んで、ジャージャーしょんべん引っかける動画が問題になったばかりじゃん。

数年前にはイラクで、アメリカの女兵士が現地人の捕虜を裸にヒン剥いて面白半分にいたぶったし。

肌の色が濃い人種には人権を認めない。無意識にそういう観念が染みついてるから、こんな行為が自然と出てしまうんだろ。ま、アメリカ人に限らずヨーロッパ人全般に言えるけどね。

ばんざい! あの愛すべき映画『下妻物語』がハイビジョン、ノーカットで放送。もちろん、ブルーレイで保存する。途中、地震情報が入るんじゃないかとハラハラしたが、無事だった。実際には、ちょっとした地震があったんだけど。NHKも、たまにはイキなことをする。

しかし、土屋アンナが亭主のDV受けてるって、胸痛むね。
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ケレンの楽しさ

2012-01-09 | ステージ

吉祥寺の前進座で『髪飾不思議仕掛(かみかざり・はてなのからくり)』観劇。髪が宙に浮き上がる奇病に姫君が罹り、婚礼もままならぬが、原因はお家乗っ取りを謀る悪家老の陰謀だったというドラマ。

19世紀初めの古典『毛抜』の改作スピードアップ版である。勧善懲悪のストレート・プレイなんだろうけど、観てるとヒーヒー言うほどおかしいんだよね。

和式ティアラつーの? キンキラの髪飾りをつけた姫君の長い髪がネコの尻尾みたいに逆立ちして、お姫様がアレーとか言いながら身悶えすると、笑いをかみ殺すのでオレも身悶えしてしまった。だって、周りはみんな真面目くさって観てんだもん。

そのからくりは、実は天井裏に潜んだ忍者の巨大な磁石なのだが、これって、原典の40年ほど前にウィーンで初演された『コシ・ファン・トゥッテ』でニセ医者が使う磁石を思い出させるよね。当時は洋の東西で、磁力の働きが大衆の好奇心を引いていたのかも。

歌舞伎もオペラも、客席を覆うスノビズムにゲンナリさせられるが、当初は肩の凝らないエンタメだったことを改めて認識した。モーツァルトの時代、オペラはまだ完全には大衆芸能化してなかったにせよ。

前進座のステージは、時に木に竹を接ぐような現代化で白けさせもするが(たとえば去年の『明治おばけ暦』)、やはり松竹系の型偏重の思考停止型上演よりは生気がある。レパートリー劇団の強みで、端役に至るまで役者の演技力に凸凹の少ないのもいい。
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談志

2011-11-24 | ステージ
なんによらず、家元、名人などと自称している連中が嫌いである。とりわけ大御所気取りの噺家が嫌いだ。庶民の話芸である落語の担い手が、エラそうな顔をしてどうする。精神の退廃ではないか。

だから小さんも圓生も嫌いだった。談志は特に嫌いだった。名人になってもエラそうな顔をしなかったのは、志ん生ぐらいのもんじゃないか。

談志が嫌いになったきっかけは、代議士になって時の政権与党に入党したことだった。野党だったら違っていた。のちに、居眠りしている客を高座から見つけて追い出したと聞いて、ますます嫌いになった。客が居眠りするような噺をするな。

大体、あんなに嚙んでばかりいる談志の噺の、どこがいいのだ。客に文句を言えた義理か。

これは、故人に贈るにふさわしい文章ではない。死者は責めないのが日本の美徳である。しかし、少なくとも偽善ではない。NHKはじめ、やたら故人を讃えてばかりの報道ほどは。
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大竹ピアフ

2011-10-15 | ステージ
事実は小説より奇なり、てのはエディット・ピアフの生涯のことである。幼時の失明が神の奇跡のように治ったり、デビュー早々殺人共犯の嫌疑をかけられたり、自動車事故で瀕死の重傷を負ったり、飛行機事故で恋人に死なれたり、文字どおり波瀾万丈だ。

こういう人生を映画なり演劇なりに仕立てると、あんまり話が出来すぎているものだから、かえって嘘っぽくなる。数年前の『エディット・ピアフ~愛の讃歌』なるフランス映画も、例外ではなかった。巧みに作ってはあったけど。

しかし、いま日比谷のシアター・クリエで上演中の『ピアフ』は、そういう嘘くささを免れた数少ない例だ。ピアフの生涯の忠実な再現を避けて、自由に再構成する作劇術がうまく行っている。

何より、大竹しのぶをピアフにキャストしたアイディアが秀逸だ。大竹には、ピアフの体に染みついていた街の土埃の臭いがない。それが幸いした。なまじキャラが似ていると、モノ真似で終わってしまう。ドラマが一人の女のレベルで終わってしまう。

大竹は持ち前の演技力で体当たりの熱演をしているが、それは必ずしもピアフの実像にできるだけ迫ってみよう、といったものではない。彼女はそれよりも、ピアフの破天荒なキャラクターを媒体にして、人間の生のエネルギーを自分自身の意思で形象化してみせる。

一個の女の描写を超える次元にあるから、大竹ピアフは普遍的な説得力を獲得した。画家、作家、音楽家、アスリート、そして大竹自身を含む演技者その他、あらゆるジャンルの優れた表現者が一様に放つ創造性が、彼女の演技には充満している。歌唱力の高さも、予想を大きく超えるものだ。歌そのものがドラマを語っている。

ただ、大竹の存在があまりに突出しているために、共演の男性陣とのギャップを嫌でも感じてしまうのも事実。ここら辺りが、四季のような常設カンパニーとは異なるスター・システムの泣き所だね。
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