蒲田耕二の発言

コメントは実名で願います。

京マチ子没

2019-05-15 | 映画
あーあ、とうとう。享年95だそうだから、トシに不足はないかも知れないけれど。

全盛期の京マチ子は和製モンローなんて言われていたが、オレにとってはヴィーナスだった。あんなに強力なフェロモンを発散する女性は、後にも先にも見たことがない。その美しさは原節子や吉永小百合のそれと違って、女の生理的な官能性と一体だった。

清純派が好まれる日本映画界で、空前絶後の存在である。京マチ子は原や吉永のような女学生がオトナになった女ではなく、愛と官能の女神だったのだ。溝口健二の『赤線地帯』で彼女は、登場するなり円形の台みたいなのに乗って踊り出す。そのポーズがボッティチェリ描く「ヴィーナスの誕生」そのままである。溝口もマチ子さんの中にヴィーナスを見ていたのではないか。

こういう女優は女の観客にも女の批評家にも好かれない。だから彼女は、キネ旬の女優ベストテンで3位以上に行ったことがなかった。現役時代には賞にも恵まれなかった。ベネチアやカンヌが賞を与えたのは作品に対してで、彼女個人の賞ではない。

しかし演技力の点でも、マチ子さんは図抜けていた。『赤線地帯』の中に、一度は身請けされたものの男に騙されていたと分かって舞い戻ってくる娼婦のエピソードがある。おでん屋のカウンターで当の娼婦がクドクド愚痴をこぼしているところへ彼女が入ってきて、おや帰ってきたの、とか一言しゃべるなり、あとは関心を失って黙々とおでんを食べ続ける。平静そのものの顔つきでおでんにカラシを塗る彼女の仕種が、男に騙される女の話など売春街には掃いて捨てるほどある、と物語っていた。

お姫さま女優ではないからマチ子さんが最高に輝いたのは、アバズレを演じたときである。前にも書いたが、しとやかな外面の内側に悪意を隠した『鍵』のヒロインは、ドンピシャの名演だった。夫の死を確認して袂で口元を隠し、目だけで邪悪な笑いを笑ってみせるシーンは、映画史に残る名場面だ。

逆に、失敗だったのは『華麗なる一族』のインテリ悪女と『寅次郎純情詩集』のマドンナ。ハーバード出の才媛とか箱入り育ちで薄倖の美女なんてのはマチ子さんのガラではなく、無理ばかり目立った。

『寅次郎』の山田監督は、マチ子さんに童女のような無邪気で愛らしい女性を演じさせようとしたらしい。他人の気がつかなかった新たな一面を俳優から引き出そうとするのは、演出家の業みたいなものだ。しかしだね、50過ぎの女優におかっぱと三つ編みのお下げをさせてワイド画面にアップだよ。目を背けたくなった。

50年代の映画界は、決してキレイな世界ではなかった。マチ子さんの所属した大映は、なかでもモラルの低い会社だった。なんせ社長の永田雅一が極道出身で、女優をメカケにしていたような会社だもの。マチ子さんも永田の愛人だとか、よその会社から資金を引き出すための人身御供に使われたとか、いろいろダーティな噂があった。

大映が倒産して尾羽打ち枯らした晩年の永田を、彼女は自宅に引き取って面倒看ていたらしいから、根も葉もない噂ではなかったのかも知れない。いずれにせよ、第2次大戦直後から50年代の黄金時代を経て70年代まで、日本映画の栄枯盛衰を現場で見てきた人だ。興味深いウラ話を山と知っているはずだから、いまのうちに聞いといてほしいと友人の映画評論家・松島利行に頼んでおいたのだが、松島の方が先に逝ってしまった。

満島ひかりとか吉高由里子とか、いまも才能豊かな女優は何人もいる。役に応じてカメレオンのように体色を変え、限られた撮影時間内で的確な表現をする能力で、彼女らは京マチ子の世代よりも優れているかも知れない。しかし、大輪のダリアのようなカリスマではない。時代がもはや、そんな俳優を求めていないのかもしれないが。

マチ子さんの半年前、江波杏子さんもひっそり世を去った。昭和がどんどん遠くなる。
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『東京暮色』

2018-10-13 | 映画
へぇ〜、小津もこんな映画作ってたんだ。タイトルがタイトルだから、例によってありふれた日常がダラダラ続く映画かと思ったら、違った。波瀾万丈、てワケじゃないが、あんまり日常的ではない設定で全然日常的ではない出来事が続く。

笠智衆演じる父親は、妻に浮気され出奔された過去がある。長女の原節子は夫とうまく行かず、幼い娘を連れて里に帰っている。次女の有馬稲子は男と遊び歩き、妊娠している。

次女は男が責任を取ろうとしないものだから中絶するのだが、そのあとで男をどつき回す。そのときの、怨念のカタマリみたいな有馬の表情がすさまじい。

長女の方は、自分たちを捨てた母親を恨んでいる。その母親が家を訪ねてきたときの、原の表情もまたすさまじい。

あれほど激しい感情表現は、小津のみならず、当時の日本映画で類を見ないのではなかろうか。しかもセリフなし、表情のみだよ。

黒澤映画の登場人物は、のべつ怒鳴り散らすが、気迫の表出ではあっても感情の発露って感じではない。

ただし、小津の映画はやっぱ突っ込みどころが多いね。

事故か自殺か、電車にはねられた次女が運び込まれた病院で、ラーメン屋のオヤジがペラペラ状況を説明するシーンは、黒澤ならぜったい撮らなかっただろな。成瀬でも撮らなかったかも知れない。

大体、瀕死の娘の枕元で父親がうららかな笑顔で、お世話になりまして、なんて言うか? 大した怪我じゃないのかと思ってしまったよ。

ま、ああいう蛇足的シーンの多いのが小津の小津たる所以なんだろうけど。

ところで、オレもいい加減ネトフリとかに入って新しい映画観ないとな。……とか思いはするんだけど、入ったが最後、家から一歩も出なくなるかもなあ。それがコワい。
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小津安二郎

2018-10-11 | 映画
昔から小津の映画が苦手である。テンポの緩さは時代が違うから仕方がないとしても、演出の意図がさっぱり分からん。

それでもなんせ、現役時代から不動の名声を誇ってたし、没後は海外でも評価うなぎ登りの巨匠だから、どっかいいとこがあるんだろうと思って放送されるたびに観る。観るたびに退屈する。

昨日は『お茶漬の味』で、なんでオレこんなに辛抱してんだろと自問自答しつつ最後まで辛抱した。辛抱すればカタルシスが来るかと思って。来なかった。

海外出張する夫が飛行機の都合で一晩だけ出張を延期する。すると、夫とケンカしていた妻が突然、愛想よくなって二人でお茶漬けを食べる。何がなんだか、さっぱり分からん。

当時は海外へ行くなんていうと、ひょっとしたら今生の別れになるかも知れない大ごとだったんだろうけどね。

しかし、お嬢さま育ちのはずの妻に品がなくて、どう見てもキャバレーの女給上がりにしか見えないのが困る。

それよりもっと困るのが、俳優たちの妙にギクシャクした演技。棒立ちでセリフをいい、言い終えてからノソノソ動き出すあたり、学芸会である。黒澤や成瀬の映画では、同じ俳優がこんな演技をしてないから、小津の指導だろうと思うが。

小津信者に言わせると、その不自然さこそ小津の美点なんだそうだけど、何がいいんだか。

今日観た『早春』は、もう少しマシだったが、やっぱり夫とケンカしている妻が、夫が田舎の村へ転勤すると急に機嫌を直して田舎へやってくる。めでたしめでたし。何がなんだか。

夫が浮気したという、ただそれだけの話で2時間半の映画を作ってしまうところが巨匠? 黒澤作品のように、ぎっしり密度の濃いドラマと対照的な作風が高評価の所以だったのかね。

大体、登場人物が盛んに暑い暑いと汗を拭くのに、『早春』とはどういうこっちゃ。

小津作品でオレが比較的に好きなのは、山本富士子がおきゃんな京娘を軽妙に演じる『彼岸花』と、子供たちがオナラをこきまくる『お早よう』だけど、世間ではこの2作の評価は低いらしい。そういえば、小津作品の中ではワリとドラマ性が強いもんな。

それにしても、昔の日本女性って、みんな顔がデカかったんだね(淡島千景を除いて)。
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こだわり歴史絵巻

2018-08-27 | 映画
スタンリー・キューブリックの『バリー・リンドン』をNHK-BSでやっていたから録画して観る。こんな長い映画、とてもリアルタイムじゃ付き合えない。40年前の古い映画だが、デジタル修復したのか、色彩が素晴らしくキレイだった。

封切り当時に観たときは、雑草の生命力でのし上がった庶民が、結局は卑怯で陰険な貴族にしてやられる物語、て感想だったが、時をおいて見直すと、印象が異なる。貴族のアホ女をたらし込んで財産を横領したペテン師の物語とも取れる。最後に罰を受けるのは当然じゃん……とか思うのは、オレがトシ食って保守化したせいかね。

しかしキューブリックとしちゃ、実は物語などなんでもよかったのかもしれない。どうもこれ、73年の『ルートヴィヒ』への対抗意識から作った気配アリだもん。

察するところ、ヴィスコンティの壮麗なヨーロッパ宮廷文化の再現を観て、そっちが19世紀バイエルンならオレは18世紀イングランドだとハリウッド随一のこだわり監督が奮起した。でなきゃ、カビが生えたサッカレーの小説なんかワザワザ持ち出すワケが分からん。

人々の服装や化粧の時代考証から色彩構成まで、凝りまくりの画面は1カット1カットが古典派絵画なみの緻密さだ。まさしくハリウッド版ヴィスコティ。伯爵家付きの牧師なんて、よくまああれだけイングランドの上流階級特有の細長い顔をした役者がいたもんだね。

という視点から見ると、主演のライアン・オニールがヤンキー臭さを消し切れてないのが少々目障り。頭でっかちで度胸のない少年の描写が軽蔑的なのも、アメリカ人特有の価値観だ。

ともあれ、大ヒットが見込めるアクションやファンタジーは別として、これだけ贅沢の限りを尽くした作品は、ハリウッドでももはや無理かもね。世界が幸せだった70〜80年代よ。
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『この首一万石』

2018-01-31 | 映画
オレが高校生だったころ、天下の人気を二分する二枚目と言えば石原裕次郎と大川橋蔵だった。オレ自身は洋画ばかり観ていたのでどっちにも関心なかったが、いま観ると、橋蔵って生まれながらのスター役者だったんだね。画面からこぼれ落ちるほどの華と色気がある。

それも、嫌味なくらい整った美貌とかいうんではなく、上品な愛嬌のあるところがいい。さすが梨園の御曹司。裕次郎は、田舎のヤンキーにしか見えないけど。

その水もしたたる美男俳優が、昨日BSで放送された伊藤大輔監督の映画では、酒と女にダラシなくておっちょこちょいの人足を演じていた。役名は槍の権三だが、近松の同名戯曲とは関係なく、伊藤監督の旧作『下郎の首』に近い内容だ。武士のエゴイズムの犠牲になる庶民の悲劇である。

主人公は最後の最後にだまされていたことに気づき、死に物狂いで抵抗する。その描き方がすさまじい。槍が侍の口から後頭部へ貫通し、主人公の目に刀が突き刺さり、これでもかと凄惨な残酷描写が続く。前半は比較的にゆるい和気あいあいムードだから、著しく劇的なコントラストだ。様式化された立ち回りが売り物だった当時の東映エンタメ時代劇とは、監督の狙いがまったく異なることが分かる。

伊藤監督は時代劇にも現代に通じる社会性を持ち込もうとしたのだろう。東宝の大争議をリアルタイムで体験した40~50年代の映画監督は、総じて問題意識が高かった。血だるまの主人公が代官に射殺される結末に、真摯なメッセージが読み取れる。

生まじめが服を着ていたような伊藤監督の映画は、時にひどく退屈な失敗作もあるので期待していなかったのだが、『この首一万石』は畢生の傑作といっていい作品だと思う。録画しとけばよかったなあ。
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