蒲田耕二の発言

コメントは実名で願います。

『合葬』

2018-01-03 | 映画
昔、市川崑監督がアートシアターギルドで撮った映画に『股旅』というのがあった。崑さんの作品だから無論ヤクザ映画ではなく、江戸時代の貧しくみすぼらしい青春を描いた映画だった。

幕末の彰義隊の顛末を描いた『合葬』は、あの慎ましくも愛らしい時代劇を思い出させる。どっちも感覚は現代劇だ。

隊員たちは徳川将軍命と張り切っているのだが、別に剣のみに生きる禁欲的志士とかいうのではなく、芸者屋に入り浸ったり写真館へ出掛けて無邪気にはしゃいだりする。

ただし、物語の本筋に「忠義」という観念が入り込んでいるので、古風な時代劇の定型から完全に抜け切れているわけでもなく、その辺り、やや中途半端な観はある。

目を見張ったのは、ここ数年の日本映画ではついぞ見られなかった撮影の美しさだ。障子の格子の白い矩形と深い陰影とのコントラストが、画面に清冽な気品を漂わせる。はっきりCGと分かる場面もあるが、白けさせるほどではない。

この映画、2年前の封切り当時は少しも評判にならなかったらしい。ネットを漁っても、否定的投稿の方が多い。豪華キャストの話題性も、アクションの派手さもないからだろう。上野戦争も直接には描写されない。くすぐりだけの無内容なコメディだが作れば必ずヒットする三谷幸喜作品の対極に位置するような映画である。

しかし若手俳優たちの好演も手伝い、この寡黙な映画は慈しみの情を人の胸に宿す。音楽の選択にも独創的な視点がある。英詞のポップスの挿入だけは勇み足の感が強いが。

こういう作品が評価もされず話題にもならなかったことは、多分、低俗エンタメに汚染された映画評論界の劣化と観客の感性の退化を物語るものだろう。
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『ヘッドライト』

2017-11-17 | 映画
フランス映画なのに英語タイトルとは、こはいかに。実は日本の配給会社(いまはなき新外映)がつけた訳題で、原題は "Des gens sans imporatnce"(名もない人々)という。中年のトラック運転手と安宿の女中のしがない恋物語。

絵空事のハリウッドとは対照的な、リアリズムの「芸術映画」の牙城とフランス映画界が見なされていた時代の代表作……とまではいえないかな。でもまあ、ベスト50の1本ぐらいには数えられると思うよ。

これが先日NHK-BSで放送されて、いや~懐かしかったねえ。ジョゼフ・コスマの物悲しいメロディ、フランソワーズ・アルヌールのうらぶれた風情。高校時代に魅せられました。

学校が九段坂の上にあったものだから、1時限目の授業に出たあと抜け出て、まだお堀端を走っていた都電で日比谷の映画街へ。授業をサボっては120円の早朝割引でロードショーを観まくったもんです。

『ヘッドライト』は、これもいまはなき丸の内日活という映画館で上映されていた。丸の内警察の裏手にあり、ピンクとパールホワイトの2トーン・カラーで、正面に大きな襞装飾のあるキレイな小屋だった。

テレビが普及する前は「芸術映画」も結構商売になるぐらい客が入っていたから、フェリーニやクレマン、ヴィスコンティらの渋い作品が都心の大きな映画館に掛かっていたんだよね。

『ヘッドライト』はロードショーで3回ぐらい観た。70年代に映画のビデオが発売されるようになると、真っ先にこれを買った。なんせ、アルヌールに熱中してたもんで。

この人、後輩のブリジット・バルドーにお株を奪われて60年代には人気凋落してしまったが、演技力はバルドーより上だった。バルドーには絶対無理な、庶民の生活感を表現することができた。

でもこの映画、改めて見返すと、フランス映画としてはちょっと毛色が変わってるんだよね。感傷的な人情話が、まるで小津や成瀬の古い映画みたい。住民同士の相互不信が強く人間関係のギスギスしたフランスの話とは、とうてい思えない。

監督のアンリ・ヴェルヌイユはアルメニア系だから、情緒の在り方が根っからのフランス人とはちょっと違うのかも。

ルネ・クレマンやジュリアン・デュヴィヴィエに比べて評価は高くなかったが、登場人物の心情描写に細かな目配りを見せる監督だった(少なくとも、60年代になって大味なアクションを撮りだすまでは)。

アルヌール演じるヒロインは女中の仕事に疲れ果て、母親のいる故郷に戻る。しかし母親は年下の愛人と同棲しており、娘を受け入れるつもりはない。

母娘が話をする冬の野外音楽堂の、冷え冷えとした雨上がりの光景が美しい。モノクロ撮影独特の澄んだ美しさだ。ヒロインの胸の内を吹き抜ける寒風がありありと分かる。

運転手仲間のパーティの描写も、芸が細かい。ジャン・ギャバン演じる主人公は一家全員で参加しているが、貧乏生活にやつれ、愚痴ばかりこぼす妻との仲はとっくに冷えている。

その妻の求めで渋々ダンスを始めるが、音楽演奏が終わってしまう。しょうがないだろ、みたいなセリフとともに席に戻り掛けると、ふたたび演奏が始まる。妻は期待を込めて夫の顔を見上げるが、夫は知らん顔で席に戻っていく。

こういう細かな描写の積み重ねが、年の離れた男女が合い寄っていく過程を自然に納得させる。

この映画、80年代の半ばに(てことは、バブル真っ盛りのころですな)日本で仲代達也と藤谷美和子の主演でリメイクされた。ところが藤谷自身、もう話が古くて古くて、ヒロインにはあんたがバカなのよと言ってやりたいと、あちこちでしゃべり散らす始末。時代背景が劇変してる上に、派手なカラーと凡庸な演出だもの、彼女がそう言うのも無理はなかった。

日本もフランスも貧しく、一所懸命に働かないと食えない時代だったから、こんなつましい人々のつましい映画が成立できたんでしょうね。

オリジナルに話を戻すと、脇役のリラ・ケドロヴァが強烈な印象を残す。『その男ゾルバ』で、監督と衝突したジャンヌ・モローの代役でホテルの女将を演じてアカデミー賞を獲得した女優です。

『ヘッドライト』ではモンマルトルの連れ込み宿(ラブホではなく、街娼が客と利用するホテル)の女将を演じていて、花森安治そっくりの顔に厚化粧を塗りたくって、娼婦上がりであることが一目で分かる嫌味たっぷりの中年女なのだが、盗み聞きを見咎められて仏頂面で逃げ去るあたり、なんとなく滑稽で憎めない雰囲気も醸す。

こんな風に街の空気をぷんぷん漂わす役者、作品のリアリティをふくらませてくれる役者は近ごろ、とんと少なくなったよなあ。こういうキャラにリアリティのあった時代も、もはや過去のものだが。
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原 節子

2015-11-29 | 映画
NHK-BSで『東京物語』のデジタル修復版をやるというのでテレビをつけてみたら、セピア色に着色してある。何を考えているのだ。黒白撮影の清潔感が台無しではないか。

で、古いDVDを引っ張り出して再生。実は手に入れて随分経つが、ちゃんと観るのは初めてなんだよね。会話のシーンでセリフごとに顔のアップを切り替える、小津のあの演出がどうも苦手で。

あれ、俳優から自然な演技を引き出そうとして、かえって緊張を強いてないか。ここでも原節子のこわばった笑顔が引っかかる。

この映画、実の子供たちより義理の娘の方が老いた両親に優しいという文脈でしばしば紹介されるが、観ていて、実子は遠慮がなく嫁は他人行儀、という当たり前のことを当たり前に描いたんじゃないかと思った。

自分を何から何まで嫁の理想像にはめ込んで、にっちもさっちも行かなくなってる嫁より、素の自分に正直な長女の方がずっと血が通って見えるんだもの。演じる杉村春子が上手いせいもあるけど。

2~3日前の朝日デジタルに、小津の原もいいが成瀬己喜男の原もいい、みたいなことを蓮見重彦が書いていたが、オレはどっちの原もブリっ子だと思う。

それより、原節子がもっとも輝いて見えたのは黒澤の映画に出たときだった。特に『わが青春に悔いなし』と『白痴』(って、彼女の出演した黒澤作品はこれだけだっけ?)。

『わが青春』では前半、驕慢な令嬢を演じて理不尽なワガママを言う。自分に好意を寄せる男に、なんでもいいからとにかく謝れと強要し、渋々ひざを折って頭を下げる男を目で追いながら見るみる嫌悪の表情を浮かべる。

『白痴』では、なに見てんのさ、と言わんばかりの仏頂面で登場する。久我美子演じる富豪令嬢と、壮絶な怒鳴り合いをエンエンくり広げるシーンもある。自身お嬢さま育ちの久我はケンカ口調の長ゼリフを必死でしゃべっているが、原は堂々たる落ち着きだ。小津や成瀬の映画での上擦った発声とは違い、音程自体がアルト。笑顔もほとんど作らない。

こういう強い女の表現は、当時(1951)日本女性の権利向上を図っていたGHQの意向も働いていたんだろうが、黒澤の演出力がやっぱり大きいよな。原を従順な大和ナデシコの鋳型から解放して戦後の西欧型女性の先駆を演じさせたところが、黒澤の慧眼だ。そして原には、前例のないキャラを演じ切るだけの底力があった。

ついでに言うと、『東京物語』で優しい老母の典型を演じている東山千栄子が、『白痴』ではのべつ憎まれ口をたたくしっかり者の祖母を演じている。こっちの方が断然、面白い。

ところで、キネマ旬報が俳優のオールタイム・ベストテンをやると、日本女優枠では長いあいだ原節子と吉永小百合が不動の1位2位だった。それが昨年は、高峰秀子と若尾文子。映画評論家の世代交代が進んで、原を観てない人も多くなったんだろうな。

それとも、日本人好みの処女性よりもリアルな存在感が重視されるようになったのか。
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『そして父になる』

2015-02-08 | 映画
是枝監督の映画って、なんでこう常に常に画面が汚いのかね。ひょっとして、ワザと? 現実感を出すため? しかし、リアルと汚いは別だろう。

さらに、内容もリアルじゃない。福山雅治は、逆立ちしても遣り手のビジネスマンには見えない。見えなくてもいいが、演技に頭脳シャープな男の切れがない。

一番の問題は子供の描き方だよなあ。

一般に、子供は物心つく前から暮らしてきた家と家族から切り離されると、激しい不安に襲われる。「保護」をはぎ取られて裸で放り出された気分になる。

その不安を子供は敵意によって表現する。当たり前だ。保護のない環境は、幼児にとって敵地なのだ。そこで防御本能から大人に向かって毒を吐き始める。「バカ」「死ね」「大嫌いだ」

若い夫婦は、必ずしも精神的に成熟しているとは限らない。子供の吐く言葉の毒に、特に妻の方が感情的に反応する。彼女は次第に子供を憎み出す。

子供の誕生後、直接交流のなかった親子は血がつながっていようといまいと、こうして幼児虐待の惨劇へエスカレートしていく。全部ってワケじゃないが。

映画「そして父になる」は、子供の不安な心理をお義理程度にしか描いていないために、人間の本質に迫るドラマになったはずのテーマを口当たりのいいホームドラマに矮小化してしまった。

10年前に評判になった『誰も知らない』でも、部屋代を滞納している子供たちがいつまでもマンションから追い出されないなど不自然な点があったが、この監督、ちょっと詰めが甘いんじゃないか。
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『次郎長富士』

2014-08-15 | 映画
なんていう映画を観たのは、キャストに京マチ子の名前があったからだ。昨日の昼間、NHK-BSでやっていた。

彼女だけじゃない。山本富士子に若尾文子、それに長谷川一夫、勝新太郎、市川雷蔵と来たら、50年代後半の日本映画を代表するスター勢揃いである。調べてみたら、これ59年の6月に封切りされてる。正月やゴールデンウィーク用のご祝儀作品なら他社でもオールスター作品を撮ることがあったが、お祭り時でもない時期にこんなゼイタクやってたのは、邦画5社の中でも大映だけだろう。

大映という映画会社は、前近代的な慣例が横行した映画界の中でも特に古い体質を持つ会社だった。制作費は大体においてドンブリ勘定、スタッフの管理も常に大雑把。社内の風紀も芳しくなかった。大体、社長の永田雅一が極道上がりで女優をメカケにしていたような会社である。

その代わり、近代的な組織ではありえない野放図な部分が保持されていて、監督もカメラマンも大道具も自分が納得するまで浪費のし放題。東宝や松竹では早々と潰されてしまいそうなはみ出し者が大化けしたり、突出したカリスマ性を持つ俳優が出現したりした。

前者の典型が勝新太郎であり、後者のそれが京マチ子だ。

仲代達矢の回想録によると、オフの京マチ子は物静かで目立たない女性なのだそうだ。それがカメラをとおすと、驚くほどの磁力を発揮する。魔術と呼びたくなるほどだ。カメラが恋している、と言われたマリリン・モンローといい勝負である。

この『次郎長富士』なる映画、股旅物だから活躍するのは男優ばかり。女優はほとんどカメオ出演の扱いだ。

劇中、次郎長一家と仇敵のヤクザ軍団が宴席で鉢合わせする。たちまち殺気立ち、あわや斬り合い、というところで京扮する宴席主催の姐御が現れ、「ここは私の顔を立てて、ケンカよりお楽しみを」みたいなセリフで場を治める。

そのあとダンスシーンが続くが、芝居らしい芝居はそれだけ。出番にして、10分にも満たないだろう。しかし彼女が襖を開け放って登場した途端、画面に大輪の花が咲いたようにムードが一変する。そのあでやかさ、落ち着いた貫禄は、いきり立つ男たちを鎮めるに充分であり、かなり強引なシナリオの設定をごく自然に納得させる。

50年代の日本には、希望があった。戦中戦後の飢餓と言論弾圧の悪夢から抜け出し、いずれ豊かに幸福になる予感があった。だから他愛ないエンタメにもふんだんにカネを注ぎ込み、ケタ外れの個性を開花させる余裕があった。『次郎長富士』は名作でもなんでもないが、そういう時代の空気がみなぎる映画だった。

いま日本にあるのは何だろう。ふたたび戦火に焼かれ、理不尽に命を奪われ、飢餓に苦しみ、言論弾圧に窒息し、不幸になる予感と違うか。誰の責任だ?
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