蒲田耕二の発言

コメントは実名で願います。

『ハミルトン』

2016-11-21 | 文化
ミュージカル『ハミルトン』の出演俳優を、トランプがツイッターで「ハラスメントだ」「謝れ」と脅してるんだと。

観劇した次期副大統領に俳優が要望をアピールしたからだそうだが、なんとケツの穴の小さい。相手は、たかが俳優だよ。一国の、というか西側世界のリーダーのやることか。

アピールした俳優が今後、嫌がらせを受けることがなければいいが。

というのも半世紀前、同じアメリカで黒人歌手アーサ・キットの受難があったからだ。

ベトナム戦争中だった当時、アーサはホワイトハウスで時のジョンソン大統領夫人に反戦を訴え、以後10年間、米ショービジネスから閉め出された。

その時の会話がウィキペディアのアーサの項に掲載されているが、別に無礼でもなんでもない常識的な内容だよ。『ハミルトン』の俳優のアピールが、ごく当たり前の要望であるように。

「セ・シ・ボン」を英仏語ちゃんぽんで歌って大ヒットさせたり「ウシュクダラ」をいんちきトルコ語でカバーしたり、果ては「証城寺の狸囃子」まで歌って一人ワールドミュージックをやっていたアーサは、上手くはないが、ケレン味たっぷりのとんがった持ち味がちょっと面白い歌手だった。

フランスは、こういう異端者をもてはやす。で、アーサは活動の主舞台をヨーロッパに移して不遇の10年を切り抜けた。アメリカで不遇だったマイルス・デイヴィスが、フランスで食ってたのと同じ。

要するに、SMAPを公開処刑した日本の芸能界とアメリカのショービジネスは、その前近代性において大差ないわけです。いや、社会の前近代性、と言うべきかな。

トランプ大統領を実現したアメリカ白人のメンタリティをカントリー音楽から論じた川崎大助さんの記事、ディープ・アメリカの前近代性を鮮やかに切り取って読み応えあり。
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2016-10-06 | 文化
「強迫神経症で鬱(うつ)でアル中だよ?」

朝日に載っている金原ひとみの小説の一節である。疑問文じゃないのに疑問符がついている。こうした疑問符の使い方、4〜5年前からネットでちょくちょく見かけるようになった。

初めは文字どおり「?」だった。ミスタイプか、Macで円ロゴをブラウザに入力すると逆スラッシュになったりするから、その類の誤変換かも、と思った。

しかし、それにしては数が多すぎる。どうやら誤用でも誤変換でもなく、これまでとは別の意味で使っているらしい、とようやく気がついた。若い人たちは、はてなマークを発音記号として使っているようだ。

オレの世代がこういう使い方をすることは、まずあるまい。大体、外来の疑問符や感嘆符を日本語の文章に使用すること自体、少ない。丸谷才一は絶対に使わなかった。筒井康隆も。

発音記号としての疑問符を、しかしオレは否定しようと思わない。日本語が乱れると、目くじら立てて非難するつもりはない。

言葉は時代とともに変わっていくものだ。大体、言葉の新しい意味を発見していくのは、作家の使命の一つだもんね。

上記の一節を「アル中だよ」とフラットに表記または発音すると、断定的で上から目線口調になる。?をつけると語尾が上がり、「アル中だけど、どう思う?」というような、話し相手を気遣うニュアンスが生まれる。

断定口調だと相手は二の句が継げないが、質問なら答える余地があるからストレスが生じない。こういう、ちょっとした気遣いに若い人たちは敏感だ。それのあるなしで友情が続いたり壊れたりする。

だが、オヤジ世代は鈍感なんだよなあ。感受性が磨り減ってる上に、なまじ人生経験をそこそこ積んで自信がついてたりするもんだから、無神経に上から目線発言を連発する。

上から目線は気持ちがいい。自分が人よりエラくなったような気がする。だもんで、オヤジますますエスカレート。

あげくに会社でも家庭でも友人関係でも嫌われまくって孤立に陥る。かつてオレの身辺にも、絵に描いたような転落プロセスをたどったバカがいたなあ、そういえば。

ところで、今朝の朝日に載っていた緒方貞子さんのインタビュー記事。記者が質問していわく「天津には、今でもおじいさんゆかりの家が残っていらっしゃるとか」だとさ。

こりゃ、いくらなんでも弁護の余地ないよ。
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『海の生き物が発する音だけで音楽を作ったら』

2015-08-21 | 文化
というサイトをグノシーが見つけてきてくれて、これちょっと感動しました。下関の水族館のプロモビデオ。

随分むかしのこと、クジラの歌とかいうLPが発売されたことがある。クジラの鳴き声を録音し、適当なピッチの音をつぎはぎして人間が作ったメロディにはめ込んだものだった。なんの曲だったか忘れたが、だれでも知ってる既存の曲を、あら~、クジラが歌ってるよ、てんでビックリさせる趣向だった。

つまり、クジラの親子や仲間同士のコミュニケーション行動に敬意を表したものではない。いかにもアメリカのエコ原理主義者が思いつきそうなゲテモノで、だから聴いて面白くもなんともなかった。

上記のビデオも、動物の出す音を人間が自分の都合で利用してるのには違いないが、しかしここにはなんか自然への敬意が感じられるんだよね。動物たちの生命力への讃歌っていうか。

なにより、既存の曲に当てはめるんじゃなくて新しい曲を作り出していることに意義がある。生命の活動=創造。その事実を端的に物語る作品、と言えるんじゃないか。

細かいカット割りの映像も、生き物の無垢な行動の美しさをよく表している。

ところで、競技場建設白紙撤回に続いて公式エンブレムのデザイナーに盗作疑惑がゾロゾロ。これぐらいケチのついたオリンピックも珍しいよな。恥だよ。返上した方がええんちゃう?

いっぽう安倍の戦後70年談話、オレは意外と否定してないんだよね。安保法案にはぜったい反対で街頭署名しまくってるが。

なぜかというと、以下の文言があるから。

「百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました」

イギリスがインド、パキスタンで、フランスがカンボジア、ベトナムで、オランダがインドネシアで何をやったか、これまで誰も指摘しなかったじゃん。うんと遠回しの当てこすりにせよ、日本の首相が公式談話で西欧を批判したのは初めてだよ。

韓国への謝罪が足りない? ある程度しょうがないよ。世界遺産登録時の約束反故で日本じゅうを激怒させちまったもん。あれは、ない。
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「ニガー」

2015-06-25 | 文化
オバーマが公開の場で差別語を使い、波紋を呼んでいるらしい。東京新聞デジタルの記事を引用すると、「人前でニガーと言うのが失礼とかいう問題ではない」。

これだけでは、まるで差別肯定みたいに聞こえるが、オバーマは人種差別はまだ克服されていないとも発言しており、要するに差別は用語の問題ではないと言っているのだ。

国際婦人年の期間中のことだから、随分と古い昔の話だが、東京で開かれたとある国際会議を思い出す。出席者の一人のジョン・アーヴィングが、検閲がある状況よりもポルノグラフィが氾濫する状況の方がマシだ、と発言した。言論の自由の大切さを訴える発言だった。

するとたちまち、スリランカその他の女性運動家たちが猛反発した。「ポルノは女性の性的搾取だ」「女性の肉体を商品化するものだ」「アーヴィング氏は女性を貶めるつもりか」

お説ごもっとも。でもさあ、論点ずれてない? アーヴィングは別にポルノを肯定し、推奨したわけではない。比喩として持ち出したにすぎない。

オバーマの「ニガー」は、この騒ぎを思い出させるんだよなあ。米大統領が「ニガー」を表立って使うことは何世代もなかった、などとNYタイムズまでが言わずもがなの記事を書いている。

ま、最近のオバーマは多国籍企業の手先と化してTPP成立に狂奔するなど、ノーベル平和賞の面汚しでしかなくなってるけどね。

ついでに、ひところ日本で異常なまでの言葉狩りが横行したことも思い出す。いや、いまでも横行しているのかな。『ちびくろサンボ』が廃刊に追い込まれたり、江戸落語の多くが演じられなくなったり、筒井康隆が休筆宣言を出したり。当時、特定の個人が差別語探しにせっせと精を出していたらしい。

こういう病的な正義感に駆られた人物は、次の特徴を持つ。単語のみに反応し、文脈は考慮しない。「正義」を実行する自分に陶酔し、反対意見には聞く耳を持たない。

こうした独善がファシズムに向かうことは、言うまでもないだろう。違憲の安保法案、辺野古の基地移設、予算オーバーの新国立競技場建設その他、諸問題に対する現政権の姿勢と一緒。
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健さん

2014-11-23 | 文化
訃報が伝えられてから3日目、いつも宅配の食品食材を届けてくれるドライバーのお兄ちゃんが見事に角刈りにして現れた。それまでは、マンガのキャラ風のザンバラ長髪だったんだけどね。笑ってしまった。いや、もちろん好感の笑いです。

孫、ヒ孫の世代の若者にも愛されたところが、健さんの健さんたる所以だろうなあ。オレらにしても、高倉健とは呼ぶ気になんないもの。普通、渡辺謙とか役所広司とか、役者の名前は呼び捨てだが。

30年前にブラッサンスが亡くなった当時、「私たちフランス人はみんな、家族の中の誰かを失ったような気分になった」とフランソワーズ・アルディが語っていた。日本人にとっての健さんは、それに近いんじゃないか。

演じた役の大半はヤクザとか犯罪者とか、身近な人間像じゃなかったのにね。

全共闘全盛のころ、スクリーンで健さんが「死んでもらいます」の決めゼリフを吐くと、客席から「異議なし!」の声が掛かったという。全共闘の決めゼリフが、これだった。

しかし、いくら全共闘が共感を示そうと、健さんと彼らのあいだには随分と距離があったんじゃなかろうか。

だってさあ、全共闘とは極度に同調圧力の強い集団だったんだよ。彼らはリベラルでは全然なかった。異分子の存在を絶対に許容しなかった。「異議なし!」は、反対意見を封じるサインだった。健さん演じる独立不羈のヤクザとは、精神のあり方がまるで違う。

多様性を否定した全共闘と、意地の美学を貫くヤクザとは、それぞれのやり方によって日本人、日本社会の本質を体現していたのかもしれないけどね。
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