蒲田耕二の発言

コメントは実名で願います。

とうようさん

2011-10-02 | 音楽

去年の梅雨時、とうようさんに頂いた手紙の冒頭に次のようにあった。

「自分の死後の処理として、新宿区の……寺に永代供養の契約をしました。後見を……、……の両氏にお願いし、併せて遺言書も作成し終わり、ほっとしています」

それに対してオレは、さすが、ご自分の人生設計をきちんと完成しておられるのですね、などと能天気な返事を書いて出した。1年と1か月後に何が起きるか、知る由もなかった。

とうようさんとオレとの接点は、多くはなかった。もともと守備範囲が違ったし、書くメディアも別だった。大体、オレはミュージック・マガジン誌とあまり付き合いがなかった。

だがモノ書きのオレは、批評の姿勢から言葉遣いまで、いつもとうようさんをマネしてきた。このブログ自体が「とうようズ・トーク」のマネだ。だからオレは、あの人のことを師匠と呼んでいた。ある日、先生呼ばわりは辞めてくれと苦情を言われたけど。

何を書くにせよ、いずれどこかでとうようさんの目に触れるんじゃないか、という意識が常に頭の隅にあった。それが怖れでもあれば励みでもあった。とうようさんはパソコンを使ってなかったから、オレのブログが読まれるわけはないのに、更新する時にはやはりあの人のことが脳裡にちらついた。

とうようさんが逝ってしまったあと、オレは書けなくなった。書く張り合いがなくなった。

とうようさんはギックリ腰をやって起居が不自由になり、何事も自分でやらなければ気が済まない人としては思い通りに動けない自分が許せなくて死を選んだ、とも言われる。

それもあったかもしれないが、上の手紙からは、それ以前から覚悟しておられたのではないか、という気がする。本当の動機は、体力よりも知力の衰えを自覚したことにあったのではなかろうか。

晩年の「トーク」は失礼ながら、読んでいてツラかった。『地球が回る音』や『アンソロジー』に収録された文章に比べるまでもなく、読みの深さと分析の鋭さと視点のユニークさが薄れ、新聞記事の引用でマス目を埋めてるケースも多かった。

筆力の低下を敏感に感じていたのは、だれよりもまず、とうようさん自身だったに違いない。とうようさんは多分、批評家としての自分に限界が来たと悟った。ペンで生きてきた人間がペンの力を失ったら生き続ける意味はない。そう考えて、あの人らしい潔癖な幕の引き方をした。オレごときがあの人の胸中を忖度するなど、思い上がりも甚だしいが。

『アンソロジー』の最後に入ってる未発表の原稿によると、とうようさんが初体験したアメリカン・ポップはダイナ・ショアの「青いカナリヤ」だったという。オレが生まれて初めて買ったレコードも、この歌だった。同じように、故・帆足まり子さん司会のS盤アワーにかじりついていた。

その辺りのことを、もっともっと語り合いたかった。実際には無理だったろうけどね。人間の器が違ったから。
コメント
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