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『「遺骨を拾わない・お墓をつくらない」葬送を考える』

2024-10-28 08:40:39 | 日記
 10月に『「遺骨を拾わない・お墓をつくらない」葬送を考える』の内容で、日本女性学研究会が講座を開催してもらえました。友人の小川真知子さんが声を挙げてくれたので、できた講座です。
 講座の報告を話し手のわたしが頼まれて、日本女性学研究会のニュースレターに書きました。その文章を下記に記します。


10月例会報告                                                  源 淳子                 

 10月13日(日)に行われた10月例会のテーマは、「自分らしい週末と葬送を考える」だった。この会は私が問題提起者だったが、その提起者自身が報告をするのは何とも書きにくいのだが、ご容赦ください。
 私は、この4月、『「遺骨を拾わない・お墓をつくらない」葬送を考える』(同時代社)を上梓した。この本を読んで関心をもった友人の小川真知子さんが、今回の例会の企画をしてくれた。
 当日はドーンセンターの会場とオンラインをむすんで開催された。会場の参加者16人、オンラインの参加者7人(会員外計7人)だった。
 司会の小川さんから会の進め方や注意等があり、私は自己紹介から始めた。この自己紹介が長くなってしまった。私が島根県奥出雲の小さい寺に生まれたことから話さないと、なぜ私が「死」や「死後」の問題に早くから関心をもったかということがわかりにくいと思ったからである。死後の問題として、遺骨にも関心があった。
 今から38年前、父の遺骨を拾ったとき、拾わず残った遺骨がどうなるかを業者に尋ねたところ、「粉にして果樹園の肥料になる」という答えだった。このとき、すべての遺骨が肥料になってもかまわない、と強く思ったのある。その業者の回答は、遺骨の具体的なことを考えるきっかけになった。ちなみに現在は遺骨を肥料にしておらず、各自治体で決めた場所に集める方法である。
 その後、親鸞を研究するなかで、親鸞が「死んだら遺体を賀茂河に流し魚の餌にしてほしい」といったことばに触発され、親鸞の遺体観から私の遺骨を拾ってもらわなくてもよいという考えに至った。
 そして、つれあいと生活をともにしたなかで彼の考えも同じだったので、どちらが先に逝ってもお互いの遺骨を拾わない、と二人で決めた。しかし、現実には遺骨を拾わない人はほとんどおらず、彼が死んだ後、葬儀社はこのことをなかなか理解してくれなかった。ていねいに説明をしてようやく了解してもらい、私は彼の遺骨を拾わないことができた。
 「遺骨を拾わない」ということは墓をつくらないことであり、その管理から解放され、墓の悩みをもたないで生きることである。それは、墓についての悩みをもっている多くの人にとっても好都合ではないかと考え、本のかたちにしたのである。
 私にとって大事な人の悼み方は遺骨を大切にするのではなく、生きていたときの彼を愛しく大事に思うことである。だから、大切な人を喪うことは大きな喪失感になり、なかなか立ち直れないのである。そこに、亡くなった人が霊魂としてつながりがあると思いたい気持ちが生まれ、霊魂があると信じる人が、日本では60%もいるのである(1981年)。仏教は霊魂があるといわないので、彼の霊魂があるなんて兎の毛羊の毛ほども私は信じていない。日本の仏教は、霊魂の存在を肯定してきた。
 以上が自己紹介である。
 葬送が現在のかたちになるまでの歴史は、近代から始めた。家制度ができる近代天皇制国家は、天皇の万世一系を重んじるためには家族の祖先が大事であるから祖先崇拝を重視した。そのため民法で「祭祀権」を定めた。「系譜、祭具及ヒ墳墓ノ所有権ヲ承継スルハ家督相続ノ特権ニ属ス」(987条)。系譜とは過去帳、家系図をあらわし、祭具は仏壇、位牌である。墳墓は「〇〇家之墓」「先祖代々之墓」と刻まれた墓を示す。祭祀権はほとんどが財産の相続者である長男が受け継ぎ、家制度を補完した。
 そして近代における戦争は、国家のために戦死した人を「英霊」として靖国神社に祀った。白木の箱に入った遺骨が自宅に還ってくるとして、遺骨は大切なものという意味が付加された。実際には石ころが入っていたり、何も入っていなかったそうだが、遺骨の意味が重視されたことは間違いない。石ころでも、何もなくても、墓に納め、墓参りをしてきた。
 戦後、家制度はなくなったが檀家制度は残り、葬送のかたちも戦前が引き継がれた。これに大きな変化をもたらしたのは葬儀社の出現であり、地域共同体で行っていた葬儀が葬儀社主導に変わったことである。そしてもう一つの大きな変化は、コロナ禍での変化である。一般葬から家族葬への移行である。葬儀のありようを個人が反省した上での変革ではなく、外部からの力による変化である。現在家族葬が半数以上を占め、テレビコマーシャルも家族葬の宣伝しかしていない。家族葬に伴い、葬儀費用も一般葬があたりまえだった時代からみると大きく減少した。
 しかし一方、遺骨を納める墓の事情には大きな変化はみられない。納骨堂やその種類はさまざまなかたちをとるようになったが、墓についての悩みは多くの人が抱えている。その悩みは、「お墓参りができない」「管理する後継者がいない」「墓じまいをしたいけど、どうしてよいか分からない」など、多種にわたる悩みである。
 そういう悩みは、結局は遺骨に束縛され、墓にも束縛されているからである。結論として墓からの解放は、「遺骨を拾わないこと」である。その前に、「遺骨とは何か」を考える必要がある。遺骨について考えることをしてこなかったので、遺骨は拾うものという慣習が今なお根強く根底に残っている。私は、遺骨や墓に縛られない人生があることを提起したかったのである。
 
 以上のような私の問題提起が終わり、30分の小グループでの話し合いが行われた。その後のグループ発表で、多くの質問があった。私が印象に残った質問を挙げてみよう。
 ▼墓じまいをして寺と縁を切るにはどうしたらよいか? 
▼霊魂の有無について知りたい(ただし、「水子霊」「英霊」「祖先の霊」などは否定)。
▼親鸞は祖先供養をしない、という意味を教えてほしい。 
▼葬儀にかかわる仕事が貶められている。死と穢れの関係とは? 
▼仏壇・位牌の意味とは? 
▼土葬の許可の問題について。 
▼遺骨の意味は何? ・・・など。

 ほとんどの答えは、本に書いているので本を読んでいただきたい。

 各グループの感想も、こうした死後の問題を前向きに考えてみようとする内容であり、発題者としての私はホッとしたし、意義ある集会だったと了解した。
参加者のみなさま、スタッフのみなさま、お疲れさまでした。そして、ほんとうにありがとうございました。
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本の書評

2024-09-28 08:04:40 | 日記
『「「遺骨を拾わない・お墓をつくらない」葬送を考え得』の書評が、佛教タイムスに載りました。知り合いの編集者が書いてくださったと思い、読み終えてすぐにお礼の電話をしました。内容に喜んだからです。わたしの知り合いが書いたのではなく、京都支局の人が書いたとのこと、その人をわたしは知らないので、お礼を伝えてほしいとお願いして、電話を切りました。
新聞に載っていることが分かったとき、すごい悪口は書いていないだろうと予想しながら読みました。それでも、嫌われてきたわたしは怖かったのです。読み終えて、ほんとうにうれしかったです。悪口が書いてなかったし、すばらしく気に入るように書いてあったからです。
その文章を貼りつけます。

それにしても、仏教界から嫌われているわたしは、先日もそのことが明らかになりました。
「大峰山女人禁制」の開放を求める会で、比叡山のフィールドワークに、29日に行きます。女人禁制を解いた比叡山の結界石があった場所を見学するフィールドワークです。
コロナ前、高野山に行き、担当の知り合いの方がていねいに説明してくださったので、比叡山でもそれをしてほしかったので、高野山の人に紹介してもらった人にお願いの電話をしました。返事が1ヶ月もなく、しびれを切らしてこちらから電話したところ、「女人禁制」のことをしている担当者がいないという理由で断られました。そんなことはないと思いましたが、断られたことは事実なので、女人禁制の結界石の写真を集めてきた木津譲さんとわたしで説明することにしました。
今月23日に下見に行ったときに、ある人から比叡山の本心を聞きました。「源淳子からの依頼はすべて断る」というお触れが宗務庁にまわったそうです。すでに「女人禁制」を解いているから何ともないと思いましたが、今問題になっている比叡山の性暴力問題の質問もされたら困るという本音があったそうです。
ほんとうに嫌われたものです。

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「佛教タイムス」の書評

著者は浄土真宗本願寺派寺院に生まれた仏教学者で親鸞を深く尊敬する。しかし現在の本願寺教団や檀家制度、形骸化した葬送習俗にはきわめて批判的である。「遺体は鴨川に捨てて魚の餌にしなさい」と言った親鸞にならい、己の墓は不要、火葬後の遺骨を一切拾わなくていいという選択をした。実際にパートナーの遺骨を拾わなかった。そのいきさつは不思議にも胸を打つ。
遺骨に過度に意味を求めることは、墓への執着につながり、少なくない現代人にとってそれらは「束縛」になるのではないかと著者は考え、遺骨がなくても故人を偲べることを実践した。他人任せの葬儀ではなく、マンションの集会室や男女共同参画センターで無宗教でのお別れの会を手作りすることも提言。
離檀や戒名についても検討を解くなど、寺院関係者が読むと緊張するかもしれないが、寺院生まれならではの思索と自己に偽りのないエンディングの希求で書かれた思いに圧倒されるのは間違いない。 (四六判・164頁・価1540円)


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『「遺骨を拾わない・お骨を拾わない」葬送を考える』

2024-08-29 11:59:04 | 日記
 先日、出版社(同時代社)の川上隆さんから手紙が転送されてきました。まったく知らない人です。出版社宛に送り、わたしのなめになっています。封筒の裏に川上さんの字で、「読者からです。転送します」と書かれていました。
 三重県下の女性からでした。これがジェンダーでしょう。男性からだと、恐る恐る封を開いたと思います。女性からだとそんな気持ちになることもなく開けられます。ジェンダーとは、寝深いものがあります。男性なら怖さを持ってしまうのです。

 71歳の女性と分かり、本を読み、共感してくださった内容でした。
 お墓の問題で悩んでおり、亡くなった夫のお墓には入りたくないと思っている人が読んでいただいたのです。すぐには「遺骨を拾わない」にはならないかも知れませんが、選択肢の一つが提示されて、読んでよかったということです。
 寺出身のわたしが書いていたことに相当驚かれたようです。わたし自身、寺に生まれなかったら、ここまで寺の事情は分からなかったと思いますし、こういう問題に果たして関心をもったか疑問です。寺に生まれたことが、この問題に関心をもたせたことは事実ですし、問題があることもみえてきたといえるでしょう。

 早速返事を書きました。
 初めての手紙はほんとうにうれしかったので、その旨を書きました。
 この頃郵便事情が悪いので、着くのはまだ先だと思います。
 返信があればうれしいと期待しています・・・。
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本を紹介してくれた方の紹介

2024-07-29 16:24:56 | 日記
 「大峰山女人禁制」の開放を求める会、読書会の仲間である畑三千代さんは、アイ女性会議奈良の共同代表をしている人です。
 彼女が 『「遺骨を拾わない・お墓をつくらない」葬送を考える』の書評を「アイ女のしんぶん」に書評を書いてくれました。
 ほかにも、「のんびる」(東京の生協が出している冊子)に書評が載りました。
 書いてもらった評判はわたしのところには届きませんが、出版社には届いているようです。「注文があります」という連絡をいただくと、素直に喜びたいと思います。
 
 以下、畑さんが書いてくれた書評です。

 源 淳子


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「『遺骨を拾わない・お墓をつくらない』葬送を考える」  著者 源 淳子

葬送とジェンダー

筆者は、長年連れ添ったパートナーを亡くして1年間、ともに過ごした闘病生活でのエピソードや、亡くなった後の出来事、おもいなどを精力的に綴り『自分らしい終末や葬儀の生前準備』~「生老病死」を考える~を2017年に出版した。
生前「死」のこと・「死後」のこと・葬式や墓のことも語り合い、「遺骨を拾わない」葬送を実践した。この書で、私は「直葬」という葬送を初めて知った。
出版から6年余、日本中を震撼させたコロナ禍によって「葬送」の状況はずいぶん変わってきた。「『遺骨を拾わない・お墓をつくらない』葬送を考える」執筆の原動力は、招かれた講座で受講者の多くが「お墓」について悩んでいる姿に接したことだという。
お寺の長女として生まれ、得度もしている筆者の仏教批判(単なる批判ではなく親鸞への愛に満ちている)には説得力があり、「そうなのか、そうなのか‥‥」と呪縛から解き放たれていく。読み進めていくうちに、この本に書かれているのは、単に「葬送とお墓」についてではなく、日本という国が、なぜ女性差別に絡めとられているのかよく分かる「宗教(仏教)とジェンダー」の教則本のように思えてきた。
 「どのような死を迎えるか」を考えることは、だれにも必ず訪れる死の時まで「どのように生きていくか」を考えることだと改めて教えられる。とりあえず、巻末についている「あらかじめ準備しておくチェックポイント(改訂版)」の記入から始めようか。
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「遺骨を拾わない・お骨を拾わない」葬送を考える

2024-05-28 15:36:47 | 日記
 4月30日に、『「遺骨を拾わない・お骨を拾わない」葬送を考える』を出版してから、友人や知り合いに献本をしました。
 いろいろな感想をいただきました。
 友人や知り合いはだいたい好意的に読んでくれます。普段から私が考えていることを知っているからです。冗談ぽくいってくれた「寺の娘が書く本ですか?」が本音を言ってくれたもっとも最適な言葉だと思います。寺の娘はこんな本を書かないのが普通です。
 しかし、私からいえば、寺の娘だから書けたという思いです。
 死後の問題の葬儀や墓のことを本音で聞きたいと思っても、檀家制度下に生きていれば、住職には聞くことができないと思います。
 それが分かるから、多くの人が悩み、苦しみ、葬儀社のいうとおりにしてしまっているのです。
 わたしは、そういう人のために書いたと思っています。
 本音のところを伝えたかったです。

 書いた疲れが出たというか、この1年、本ができあがるまでにいろいろなことがあり、正直しんどかったです。
 本ができあがったからといって、心から喜べないわたしがいます。
 しばらくは、このブログを休みたいと思います。

 このブログを読んでいただいているみなさま、ほんとうにありがとうございます。
 また元気が出れば、ブログを再開したいと思います。
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