続強子の部屋

思いつくまま、気の向くまま、書いています。

幼馴染みに起きたこと

2020-09-27 17:22:56 | 辛い

先日幼馴染みの Tちゃん の奥さんから電話がありました。

Tちゃんが失語症にになってしまったそうです。

以前から少し記憶が途切れたり、言葉が出なくなったりしましたが

電話ではゆっくりながらお話ができていました。

このところ急に進行して、字も書けなくなったそうです。

週三回ディサービスに行って言語療法士の先生に診ていただいているそうです。

小学校3年間同じクラスで、みんな兄弟姉妹のような付き合いでした。

お互いの家庭内のことも知っていて、遠慮ない楽しい仲間です。

その中の中心が Tちゃん でした。頭が良くて明るい性格

紅顔の美少年でした。

東大に合格したときは、みんな自分の事のように喜びました。

商社に入社して海外の生活も経験して、話を聞くのが楽しみでした。

私たちの自慢の友でした。

私が結婚して、時々 Tちゃん の話をすると夫はふ~んと言っていましたが。

偶然仕事で知り合ってから、夫とも親しくなって、夫婦でお出かけする

間柄になりました。不思議な縁でした。

夫が他界した時は、とても心配してくれて、有り難かったです。

今奥さんも体調が良くなくて、体重が減ってしまったそうです。

奥さんは明るい声でお話ししていましたが、心配です。

私が夫を介護していた時は今から11年前です。

今だったらどうなったことかと思うと、奥さんの身体が

気がかりです。

ケアーマネジャーにも奥さまもお疲れが出ないようにと

励まされているそうです。私は話を聞くことしかできず

もどかしい気持ちです。

中学校の同級生もご主人がガンでお世話をしています。

みんなそんな歳になってしまいました。

 

 

 


B29 のこと

2020-08-16 17:05:36 | 辛い
B29を見たときの驚きは忘れられません。
大きな爆音で、近くの高射砲陣地からの探照灯に
映り出された姿はもう吃驚でした。
高射砲はもの凄い音でしたが、すこしも当りません
B29は悠々と去って行きました。
昭和19年だと思います。東京大空襲の前でしたから。

その後日本の飛行機との空中戦で、日本の飛行機は
煙を噴いて低空で何処かへ墜落したようです。
みんながワーツと言って、私たちは泣きました。
その後上空からキラキラと銀色のパイプのような物が
落ちてきました。B29だと誰かが叫んで、万歳!と
叫びました。母が落ちてくると危ないと言って
防空壕に入りました。近所の人が、茂原あたりに落ちたな
と言っていたそうです。
あのキラキラ光ったB29のパイプのような物が、
忘れられませんでした。
B29が落ちて大騒ぎになった所は大変だったそうです。
丁寧に葬った所も、隠した所もあったそうです。
みんな辛い体験をしました。






原子爆弾と戦後のこと

2020-08-10 13:05:16 | 辛い
私は東京大空襲に遭いましたが、猛火の中
家族6人、お隣の家族4人も無事逃げ延びました。
その後焼け残った家を借りて住みました。
新型爆弾が落とされたそうだ、100年草木が生えない
らしいと大人たちがひそひそ話していました。
敗戦になり、苦しいひもじい思いをしながらも、
両親や親戚のお陰で無事育ちました。
長兄はニューギニアで戦死しました。次兄は横須賀から
帰ってきました。
 
姉が結婚するとき、相手のお父さんが、お宅の息子さんは
戦死なさってお気の毒です。息子は無事帰ってきましたが
息子も地獄を見ました。と母に話したそうです。
復員してほっとしたのもつかの間、再び国から呼び出されて、
沢山のお金を渡されて、とにかく行ってくると出かけました。
外地じゃないからと、安心して行ったところが、広島でした。
衛生兵だった義兄はどのような仕事をしたのでしょうか、
帰ってきたときは、疲労困憊ていたそうです。
私たちはずっと後になって母から聞きました。
被爆はしなかったのでしょうか。
義兄は良き家庭人で、仕事もしっかりして、部下に信頼されていました。
酔うと 明治一代女 を唄っていました。陽気な人でした。

次兄は水兵だったので、棒で殴られたよなんて笑って言っていました。
泳げないから海に放り投げられた・・・アップアップしたよ~
私たちは笑っていましたが、苦労したんですね。
その兄は警察予備隊から誘いがありましたが、断りました。
あの時代の人は人に言えない苦労をしたのだと思います。

お国のために尊い命を捧げた英霊を祀る、靖国神社に
お参りに行かない総理、議員、役人、はどのような考えをして
いるのでしょうか。知りたいです。




  




切ない加湿器

2020-02-15 18:12:45 | 辛い

今日もTDKの加湿器のリコールに関する重要なお知らせが

ポストに入っていました。

重大な火災事故が発生しているそうです。

TDK株式会社は、夫が若い頃仕事でご縁がありました。

課長の頃でしたか、秋田の工場に製品を納めに

行きました。いまのように道路が整備されていなくて、

道のりは大変だったそうです。

現場の熟練の作業の社員と一緒に行きました。

暑いときだったそうです。

途中象潟で休憩した時、夫はここが象潟かと

芭蕉の象潟や・・・と思わず口ずさんだそうです。

そんな感傷に浸る間もなく、

大変な仕事が待っていました、組み立てて、動かす。

夫も機械系の技術者でしたから、一緒に作業をしたそうです。

東京でしか生活したことがない人たちは苦労したようです。

無事帰ってきてほっとしたのも、つかの間で、

夜遅くまで自宅に電話が来ました。先方さんもご苦労

なさったのでしょう。夫は熱心に説明していました。

あの時の双方の熱い気持ちを思うと、

いまのTDKさんのチラシを見て胸が熱くなります。

早く加湿器が回収されますよう祈ります。

 

 

 


三日とろろと円谷幸吉さん

2020-01-03 10:49:18 | 辛い

昨日は成田山新勝寺から、お札が届きました。

昨年お願いして元旦に御護摩を焚いていただき

2日に届きます。有り難い事です。

今朝は新年のお札にお不動様の御真言を唱えました。

そして恒例の三日とろろを頂きまました。

今は冷凍のとろろを解凍して、塩引き、ネギ、海苔で

簡単の済ませています。

昔々結婚して初めて仙台の夫の家でお正月を迎えた時

三日とろろを知りました。

自然薯を初めて見ました、東京では、大和芋、長いも

しか見たことがありませんでした。

自然薯を丁寧に洗って、細かな根は火にあぶって、取ります。

すり鉢におろして、舅、義兄、夫、男衆がすりこ木でごろごろ

お味噌汁で薄めます、できあがったとろろ汁はふんわりしています。

大きめのお椀にご飯を盛り、真ん中にくぼみをつけて、中にほぐした

塩引き(鮭)とネギ、その上にふんわりしたとろろ汁をかけて

もみ海苔を散らし、できあがり美味しいです。

子どもたちと一緒にに作ったとき、驚くほど沢山食べました。

毎年食べていました。

 

三日とろろと言うと、円谷幸吉さんの遺書の、

父上様母上様三日とろろ美味しうございました。

干し柿、もちも美味しうございました。の文面を思い

出し涙が出ます。円谷家でも我が家のように賑やかに

とろろ汁を作っていらっしゃったのでしょう。

昨秋 円谷幸吉 命の手紙 松下茂典著を読みました。

ご家族の愛を沢山受けて、国民からも愛され期待されて、

ご自身は辛いことが沢山あって、若くて自死なさいました。

読むのが辛い本でしたが、松下茂典さんの丁寧で、情にあふれた

取材で円谷幸吉さんが少し幸せだった事も分かりました。

円谷幸吉さん、また東京でオリンピックが開催されますよ。