続強子の部屋

思いつくまま、気の向くまま、書いています。

横綱稀勢の里の引退

2019-01-16 20:40:23 | 辛い
哀しい辛いニュースでした。

場所が始まってもどうしても見ることができなくて、相撲番組は

見ませんでした。頑張っているのは分かっていても辛くて・・・

多分こうなるとは思っていましたが、切ないです。

これからの新しい道を、しっかり進んでくれることを期待しています。

本当にご苦労様お疲れ様でした。


父は相撲好きでした。昔々国技館に行くと、お土産はなんとサトウキビ!

もう物資が少なくなってきた時で、サトウキビはうれしいお土産でした。

台の上でトンカチで叩くと繊維がほぐれてそれをみんなでチュウチュウ

吸います。母は嫌がっていましたが、私たちは大喜びでした。

戦後双葉山が宗教を信じて、教祖様をマスコミから守るためにしたことが

暴力と言われました、父や近所のおじさんたちは、双葉山がしたことは

当たり前だよ、って言っていました。

私たち子どもたちも双葉山の味方でした。

みんな相撲さんが大好きでした。

戦後国技館が使えなくて、浜町公園で臨時の国技館ができました。

私たちどもたちが招待されました。

私たちはあちこち歩き回って、お相撲さんが、髪を直しているところや

川に向かって涼んでいるところを見て回っていました。

そこへ静かに浅黒い立派なお相撲さんが出てきました。

目が鋭く、化粧まわしは緑、(モスグリーン)千代の山関でした。

騒いでいた私たちは一瞬はっとして言葉が出ませんでした。

わー綺麗、友達が小さな声で言いました。

それから私たちは自分の席に戻っておとなしくなりました。

千代の山は横綱になりました。

あの一瞬を忘れることができません。

その後縁があって毎場所同じ席で観戦できることができました。

父が生きていたらどんなに喜んだことかと思います。

私たち日本人はお相撲が大好きです。

横綱稀勢の里よく辛抱なさいましたお疲れ様でした。

これからの相撲界を支える人になって下さい。

頑張ってください。



  







切ない加湿器の回収

2018-11-18 16:49:58 | 辛い
今日もポストに、TDK の加湿器の回収のちらしが入っていました。

重大な火災事故が発生して亡くなった方がいらっしゃいました。

まだどこかに沢山あるのでしょうか。

会社では苦労していることでしょう。ちらしを見るたび気が

重くなります。

TDK さんとは夫が係長の頃製品を納めていたことがありました。

製品を車に積んで、千葉から秋田まで、組み立てる作業をする

熟練の社員と一緒に秋田に出かけました。

まだ交通事情も良くなかった頃です。

随分遠かったようです。途中象潟で一休みしたそうです。

ああここが芭蕉の 象潟や~ かと思ったそうですが、、

製品を待つ TDK の方の顔を思い出し現実に気を戻したそうです。

その後も何かというと係の人から夜遅くに電話があって、夫も

辛かったようです。私はたとえ遅くとも相手の方のことが分かっていたので

普通に対応していました。本当に真面目な方でした。

その担当の方が、後に独立して、コンサルタントになりました。

ほかの会社に行って、私の夜遅くの対応を、凄い!と褒めてくださっていたそうです。

みんなあの頃は休みもとらず働きました。私たち家族も頑張りました。

あの頃の、TDK の社員の方や夫や秋田まで行った社員たちを思い、

今回の加湿器の件は辛い気持ちになります。

どうか残らず回収できますように祈っています。




大変な地震でした

2018-06-19 21:10:05 | 辛い
被災された皆さんいまも余震があって不安でしょうね。
亡くなった方々を思うと胸がいたみます。

ブログ友の武人さんが岩槻に住んでいらっしゃるので心配しました。
ご無事のようですが食器が散乱したとか後片付けが大変でしょうね。
水道ガスは大丈夫なのでしょうか。

東日本大震災の時千葉でも余震が怖くて夜も落ち着いてていられませんでした。
知り合いの方がお見舞いに来てくださって、その方のお友達が
もう一カ月になるのに、洋服を着たまま寝ていると仰っていました。
何を隠そう私もセーターを着たまま寝ていました。
二階の寝室に行かず、居間のソファーで寝ていました。

千葉もこのところ地震が起きています。心配が尽きません。
余震が早く治まりますよう祈っています。

靖国神社の桜

2018-03-16 13:49:30 | 辛い
靖国神社の桜が開花しそうです。
靖国神社には私の長兄が祀られています。陸軍伍長です。
西部ニューギニアサンサポールで戦死しました。
小指ほどの黒い塊がお骨でした。

戦後生きて帰って来た方が、我が家を訪ねてくださって。
食べ物がなくてトカゲやカエル何でも食べたことを話して
くださったそうです。
お芋を植えてもなかなか育たなかったそうです。
兄は工兵だったので、連合軍の鉄条網を爆破するために
突撃しましたが、敵の戦力に負けて戦死したそうです。
相手の豊富な食糧を奪うための攻撃だったそうです。

大きい兄さんと呼んでいた私に、強子が一年生になったら
帰って来るよ、と言って寒い朝早く発って行きました。
私は小さかったので、近所の小母さんと家にいました。

あるとき池部良さんの、 江戸っ子の倅 読んで朝鮮半島を
出発した船団のことを知リました。船団が爆撃されて、
池部さんはハルマヘラでご苦労なさいましたが、
兄は助かったものの、ニューギニアに行かされました。
本を読んで池部さんの船は、天津山丸、兄は亜丁丸だとわかりました。

兄が天津から南方に行くと知らせがあった時、私たちは良いなあ^~
バナナやパパイヤ、パンの木があるそうだ~と喜びました。
兄が行き着いたところは、地獄の島でした。

地獄の日本兵(飯田進氏  日本軍兵士(吉田裕氏) 
ニューギニア戦線の真相  アジア太平洋戦争の真実 

私は魔境に生きた(島田覚夫氏
終戦も知らずニューギニアの山奥で原始生活10年

極限の戦場(久山忍氏
西部ニューギニア戦線、飢餓地獄を彷徨した将兵の証言

江戸っ子の倅7(池部良氏
この5冊でやっと不思議だった兄の戦死の様子が分かりました。
両親が知らなくてよかったと思いました。
まだ生きているのに、蟻や蛆にたかられた若者を思い辛く重い
気持ちになります。
いつも毎朝靖国神社のお札に向かってお祈りしていますが
辛い気持ちがますます募ります。
桜が散るころお参りに行こうと思います。
それにしても無事帰って来た上層部の人間が遺族会の役員をしていた
ことが分かりました。何なんでしょう、

無事帰って来た方々もマラリヤ、重症の水虫、精神的な病に苦しんだそうです。
近所のお茶屋さんのおじさんは戦地から無事帰って来ても、
何もせず家の中でぼんやりしたりにこにこ笑ていました。
何にも知らない私たちは、南洋ボケ、なんて言っていました。
残酷な子供でした。申し訳なかったと思います。