我が家は東京大空襲で焼け出されて、命からがら逃げて
家族全員無事でした。
焼け残った空き家を借りてやっと
落ち着きましたが、それから毎日空襲です。
艦載機は怖かったです。東京の山の手の空襲は
沢山の米軍の飛行機が爆弾らしいのを落とすのが
見えました、赤い液体のような物も落としていました。
どろどろと落ちていきました。
焼け跡の空き地に家族で避難して空を見ていました。
あるとき、空から沢山の紙がひらひら落ちてきました。
拾ったら警察に届けないと、ひどい目にあうと言われ
ていました。我が家の路地にひらひら落ちた紙は
見かけない男の人たちがみんな取って行きました。
素早かったです。
8月に広島に新型爆弾が落ちたそうだ、と大人達が
話していました。
8月15日 素晴しい青空の綺麗な朝でした。
お昼に天皇陛下の大切なお話しがあるので、ラジオを
聞くようにと言われました。
我が家のラジオは雑音ばかりなので、近所のお宅に
行きました。
他の家の人も来ていました。私は白いブラウスを着せられ
ました。
天皇陛下のお声は雑音のせいか私には良く分かりませんでした。
大人が泣きました。負けたんだ~と誰かが言いました。
赤ちゃんを負んぶしたお母さんが
泣いて、赤ちゃんも泣いていました。
家に帰り父がもっと頑張れと言うのかと思った。
母はこれ以上空襲が続いたら、気が狂ったかも知れない
と言いました。
天皇陛下お話を聞いて、戦争が終わった!万歳なんて言う人は
いませんでした。やっぱり負けたかなんていう人も。
みんな負けるなんて思っていない人ばかりでした。
私7歳の頃の事です。
なぜか3月10日に焼け出されて、8月15日まで学校に
言った覚えがありません。
コメント有難うございます。
今思うと両親や姉たちに、あの頃の事を
聞いておけば良かったと思います。
我が家の焼け跡で、覚えているのは、
父の好きな浪花節のレコードが、押し入れのあったところで、灰色のパイみたいに残っていました。
両親や姉たちは。焼け跡のおそろしい物を
見たと思います。
このブログが次世代、次々世代へと読み継がれることを願います。
戦争は怖ろしいです。
私の長兄はニューギニアのサンサポールという
ところで戦死しました。
飢え、疲労、のたれ死でした。
僅かの生き残りの方が、たずねて来てくださって、
最期が分かりました。
両親は辛かったと思います。
叫んでも、ねがっても、平和は続きません。
国に力がなかったら、破滅です。
力のない国は、消えてしまうでしょう。
けれど小学低学年までは飛行機の音が怖くてたまりませんでした。
多分胎教なのでしょうね・・。
強子さんと2歳違いになりますね主人は5歳近所の皆さんが家に集まってラジオを聞いておられた様子は覚えてるけれど、
それが何だったかは覚えてないそうです。
2人とも田舎でしかも私はもっと山奥、空襲で焼けはしなかったけど遠くの山が赤く燃えるを母たちは何度も見たそうです。
主人が覚えているのは末っ子ですので遊んでいてお兄さんにこの溝に隠れて伏せてって言われるままに、
おしっこって言ったけどお兄ちゃんはそのままそこでしなさい出たらダメって言われたのを覚えてるそうです。
私の年と同じだけ終戦は遠くなりました。
まだまだ原爆で苦しんでおられる方がいらっしゃいますが、
経験したことのない人が多くなりましたよね。
絶対に繰り返してはいけない事ですね!!
まだ世界ではこんな思いをしている子供たちが居ます。
どうして人は戦争をするのでしょう。
もし、もう一回大きな戦争が起こったら地球は破滅ですね。
辛い経験を思い出される8月15日。
今日の記事は心に沁みました…経験のない私が言う?ですけど。