原爆が投下されて、もの凄い惨状になっているとは知らなかった、
国民は戦後食量を求めてその日その日を、必死に生きていました。
私の両親もそうでした。
少し落ち着いて広島長崎のことが分かるようになりました。
秘密にされていたのでしょうか。
姉が結婚するとき、夫になる人のご両親から、母が聞いた話です。
我が家では長兄がニューギニアで戦死していました。
お宅の息子さんが戦死して、うちの息子が帰ってきて娘さんと
結婚できて申し訳ないです。と言われたそうです。
でも息子も内地にいましたが、復員してから、地獄を見たと
お話しなさったそうです。
義兄が復員して無事を喜んだのもつかの間で、国から
仕事を頼まれました。秘密の仕事です。
義兄は衛生兵でした。仕事先は秘密、その代わり多額の
お金を支給されたそうです。
戦争に行くわけじゃないし、と一人息子を見送りました。
しばらくして帰ってきたときは、疲労困憊していたそうです。
仕事とは、原爆で被災した人の治療と遺体の処理でした。
しばらく休んで、出征前に勤めていた会社に復帰して、
私の姉と結婚しました。
義兄からはそのような話は聞いたこともありませんでした。
お酒が好きで、酔うと 明治一代女 を唄っていました。
浮いた浮いたと浜町河岸で~
と、この鼻に掛かる所は
誰にも負けないって、自慢していました。
優しくて面白い人でした。親孝行、愛妻家、子煩悩、
な人でした。
きっと義兄のような人が沢山広島長崎に派遣されたのでしょう。
今日も暑かったですね。(挨拶はこれしかないんか?)
暑くて頭がくらくらしました。(*´Д`*)
父が被爆したので私は被爆二世です。
家が爆心地にあったため、父の母親、姉、弟、妹が犠牲になりました。
父は当時のことをほとんど話さずじまいでしたが、
ただいつも死の恐怖に怯えていたようです。
秘密の仕事、「はだしのゲン」で読みました。
遺体をABCC(原爆障害調査委員会)に運ぶハゲタカと呼ばれる仕事だったのかもしれませんね。
被爆されませんでしたか?
ご無事で戻られたのならよかったです。
放射能の影響がこんなにひどいものだと今更ながら気がついて、、、、
いつかこのことをブログに書こうと思っています。
辛いことを思い出させてしまいましたね。
お父さまの身内の方が犠牲になったのですね。
あなたが被爆二世とは、驚きました。
義兄も作業中被爆したかも知れません。
こんな恐ろしい兵器が作られたなんて。
言葉になりません。
ごめんなさい。今夜はこれくらいにします。
暑さに負けないでください。
明日もお仕事ご苦労様です。
今まで 被爆された方のお話は
数限りなく伺っていましたが
投下後の広島で働いてくださる方のこと
あまり知りませんでした。
そうですよね~惨状は聞けても
それを処理する方のお話はあまり流れてこなかったですものね。
とても貴重なお話をありがとうございました。
戦後生まれの者としては
どのお話も貴重なもので、ぜひ子や孫に
伝えていきたいと考えております。
暑い暑い毎日
どうぞお身大切にお過ごしくださいませね。
私は義兄のこと大好きだったので、原爆の日ではなくても思い出しています。勿論ニューギニアで戦死した長兄のことも忘れません。
次兄は横須賀で通信兵だったらしいです。
従姉妹たちと手旗信号を教わった覚えがあります。
警察予備隊というのが発足したとき、勧誘が来たそうですが、次兄はは断ったらしいです。
何か次から次ヘと昔の事が思い出します。
戦争はいやですが、自分の国が、無くなって攻めてきた国の奴隷になって、さすらい人になるのはいやです。
私は戦います。自分の国を守るために。
年寄りは足手まといかしら。
平和は唱えていては国は壊れます。
なんか気持ちが昂ぶってきました。ごめんなさい。