続強子の部屋

思いつくまま、気の向くまま、書いています。

原爆と義兄のこと

2019-08-07 14:11:02 | ご苦労様


原爆が投下されて、もの凄い惨状になっているとは知らなかった、

国民は戦後食量を求めてその日その日を、必死に生きていました。

私の両親もそうでした。

少し落ち着いて広島長崎のことが分かるようになりました。

秘密にされていたのでしょうか。

姉が結婚するとき、夫になる人のご両親から、母が聞いた話です。

我が家では長兄がニューギニアで戦死していました。

お宅の息子さんが戦死して、うちの息子が帰ってきて娘さんと

結婚できて申し訳ないです。と言われたそうです。

でも息子も内地にいましたが、復員してから、地獄を見たと

お話しなさったそうです。

義兄が復員して無事を喜んだのもつかの間で、国から

仕事を頼まれました。秘密の仕事です。

義兄は衛生兵でした。仕事先は秘密、その代わり多額の

お金を支給されたそうです。

戦争に行くわけじゃないし、と一人息子を見送りました。

しばらくして帰ってきたときは、疲労困憊していたそうです。

仕事とは、原爆で被災した人の治療と遺体の処理でした。

しばらく休んで、出征前に勤めていた会社に復帰して、

私の姉と結婚しました。

義兄からはそのような話は聞いたこともありませんでした。

お酒が好きで、酔うと 明治一代女 を唄っていました。

浮いた浮いたと浜町河岸で~と、この鼻に掛かる所は

誰にも負けないって、自慢していました。

優しくて面白い人でした。親孝行、愛妻家、子煩悩、

な人でした。

きっと義兄のような人が沢山広島長崎に派遣されたのでしょう。

 

 


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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
原爆の惨状 (みーちゃん)
2019-08-07 21:31:57
強子ちゃん、こんばんは。(^▽^)/

今日も暑かったですね。(挨拶はこれしかないんか?)
暑くて頭がくらくらしました。(*´Д`*)

父が被爆したので私は被爆二世です。
家が爆心地にあったため、父の母親、姉、弟、妹が犠牲になりました。
父は当時のことをほとんど話さずじまいでしたが、
ただいつも死の恐怖に怯えていたようです。

秘密の仕事、「はだしのゲン」で読みました。
遺体をABCC(原爆障害調査委員会)に運ぶハゲタカと呼ばれる仕事だったのかもしれませんね。

被爆されませんでしたか?
ご無事で戻られたのならよかったです。

放射能の影響がこんなにひどいものだと今更ながら気がついて、、、、
いつかこのことをブログに書こうと思っています。
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そうだったのですか (続強子の部屋)
2019-08-07 22:40:05
みーちゃん
辛いことを思い出させてしまいましたね。
お父さまの身内の方が犠牲になったのですね。
あなたが被爆二世とは、驚きました。
義兄も作業中被爆したかも知れません。
こんな恐ろしい兵器が作られたなんて。
言葉になりません。
ごめんなさい。今夜はこれくらいにします。
暑さに負けないでください。
明日もお仕事ご苦労様です。
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貴重なお話ありがとうございます。 (夢子)
2019-08-08 07:35:12
おはようございます~強子さま(#^.^#)

今まで 被爆された方のお話は
数限りなく伺っていましたが
投下後の広島で働いてくださる方のこと
あまり知りませんでした。

そうですよね~惨状は聞けても
それを処理する方のお話はあまり流れてこなかったですものね。
とても貴重なお話をありがとうございました。

戦後生まれの者としては
どのお話も貴重なもので、ぜひ子や孫に
伝えていきたいと考えております。

暑い暑い毎日 
どうぞお身大切にお過ごしくださいませね。
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辛いですね (続強子の部屋)
2019-08-08 21:13:44
夢子さま
私は義兄のこと大好きだったので、原爆の日ではなくても思い出しています。勿論ニューギニアで戦死した長兄のことも忘れません。
次兄は横須賀で通信兵だったらしいです。
従姉妹たちと手旗信号を教わった覚えがあります。
警察予備隊というのが発足したとき、勧誘が来たそうですが、次兄はは断ったらしいです。
何か次から次ヘと昔の事が思い出します。
戦争はいやですが、自分の国が、無くなって攻めてきた国の奴隷になって、さすらい人になるのはいやです。
私は戦います。自分の国を守るために。
年寄りは足手まといかしら。
平和は唱えていては国は壊れます。
なんか気持ちが昂ぶってきました。ごめんなさい。


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