タイムリーな話は避けるのだけど、この衝撃的な事件を無視はできないわ。
90才の母親を殺めた娘60代。積年の恨みの爆発と。
絶えず他者と比較して、叱る怒る決して心から褒めない。そんな親は覚悟が必要かもって思うおぞましい、しかし、起きるべくして起きた事件。
肉体の健康のための処方箋は山ほどある現在。衰えていく事が罪のように、アンチエイジング肉体の衰弱を、そこにある病を許さない歪んだ精神、まさにそれ弊害。
世界一の長寿国といっても、寝たきりの老人をも員数になんておかしい。何かが狂ってる。
今まで食してきた他者の命が、こちらの命を生かす。膨大な量の命の上に生きる私達。
生物の頂点に君臨する、他の命は支配できる。それがキリスト教の精神。
世界の民族がそれまで持ってきた共通する宗教観は感謝、畏怖。八百万の神々に捧げる祈り。
キリスト教が、イスラム教が、およそ一神教が犯す重大な罪。他者を認めない邪教と。
「お母さんが」「ママが」正しい!・・・・・の?一神教と同じ。
自分の未来の姿が子ども。
その自分を、容赦ない言葉の剣でズタズタにして、肉体を痛めつけ、今居る自分の都合と欲望に従わせようとする。そう仕向けてきた自分に気付かず。
子どもに、生きていけなくなる日が遠からずやって来る。自分が自分を嫌う。親は自分の過去。過去がおぞましい、過去がいるから自分が苦しむ。そして究極の選択殺すか自殺するか。
もう一つの道がある、逃げる。けれども追い詰められた子は二者択一をジリッジリッと迫られると思い込む。そして、逃げる術を持たない、追い詰められて遂にけりをつけるその日。
親(母)に人格と能力を否定、或いは勝手な思い込みで断定されると、人は生きられない。
存在する、五感で知る他の命で肉体の命をあがなわれるように、・・・・・何で、この精神をあがなえばいいの? 心の栄養をくれない親。飢餓状態が続く。
無力な、非力な子どもは、親に従うしか生きられないことを身体で知ってるので、冷たい、歪んだ言葉に、イヤイヤながらも従うのは生物としての本能。
投げつけられた言葉と、自分がそれに対して吐いた心の中の言葉、或いは吐出した形容詞、名詞、そして動詞。それらは脳に印刷されます。それが無意識。無意識層へ積み重ねられたそれらは、いつの日か、白日の下へ出て行こうとします。具現化です。脳は、それのジャッジはしません。ただ持ち主が思った言葉を、ひたすら具現化しようとするだけです。
親もず~っと飢餓状態で生きてきたかも知れない。
ジャッジはしないその脳みそが、瞬間瞬間で溜め込んできたものを放出する。無意識に言う、するそれらは、無意識がさせているのです。過去に取り入れた食物がその肉体を作ってきたように、正邪取り混ぜて取り込んできた言葉がその人の「人格」を作り上げてくる事実。
その中で、判断はしない無意識が、邪悪な言葉を態度を、一番弱く、そしてかけがえのない対象にぶつける、自分がされたように。それはまた、伴侶と決めたその人にも向けられる。「この人と、「この人を、決めた時、恐らく今よりずっと純粋だったはず。共同生活のそこここへ見られるお互いの違い。それはストレスになり、激しく、いやみったらしくそれをなじる、攻撃する。そして、自分が心地良い環境を与えてくれない相手を見るのもイヤ、になって行く。違うのは当たり前なのに。従わせようとするそこには愛のかけらもない。いつも欲しがる、くれないと愚痴る。自分を汚す一方の自分自身。気付かない情けなさ。
取り込んだ、或いは自分が発した言葉を秤にかけて、善き言葉が悪しき言葉より重いならば、紆余曲折があっても、どうにか、まあまあの、人に害を及ぼさない程度の人生を送れるでしょう。希望の言葉が多く強ければ、その言葉が具現化に導くかも知れません、否、きっと実現するでしょう。思わない事は実現しないのですから。
何がどうあれ、心に取り込んだ言葉と、それを肯定否定するのは自分自身。針の先ほども他者は他者の心にあるそれをどうすることもできません。解決するのはいつでも自分って事を忘れないでね。