それ、問題です!

引退した大学教員(広島・森田信義)のつぶやきの記録

書斎机

2019-04-13 13:04:53 | 教育

 吉村昭は、歴史小説・戦史小説を執筆するに際して、読者の想像を超える綿密で誠実な取材をすることで有名である。時に、読者としては、煩雑とも思える記述、描写に出会って辟易することもあるが、それが作品の力になっていることは疑い得ない。

  しかし、彼は、短編小説も書く。これも味があってよい。また、エッセイ(随筆)もすばらしい。彼は、長編と短編を「竹」に喩えて、丈高い幹(長編作品)を支えるのは「節」(短編作品)であると言う。節があるから、丈は高く存在しうるというのであり、両方が必要だというのである。  綿密、執拗な取材が必要なのは、無論長編の場合であろう。『戦艦 武蔵』などは、取材活動の成果が、そのまま単行本になってもいる。

  そのような取材を受け入れているものの一つが、書斎にある「机」のようである。氏の書斎机は、作り付けで、幅が2メートル60センチあるそうだ。私の書斎のそれは、通常よりやや広くて1メートル40センチあるが、その倍近い机の広さが想像できる。

 大きな机は、長編の戦史小説執筆の際には史料・資料でいっぱいになるという。おそらく、机の周辺も無事ではないであろう。すさまじい戦いのような活動が目に浮かぶ。

 一方で、短編の場合は、その広い机の上が、「すがすがしい」空間になるという。長編創作の際の史料に相当するものは、多くは、氏の想像力の生み出すものなのであろう。具体的に目に見える形では存在しにくいそれらは、作り付けの机には載せにくく、頭の中のヴァーチャルな机に載せられよう。その机もまた広々としたものであるに違いない.読んでいる者の受容、反応の器、机も狭くてよいというわけにはいかない。言葉の機能の不思議を体験できるのは、インクの染みのような言葉が紡ぎ出す、広大無辺な机の世界で遊んでいる時である。史実、現実の世界と、想像の世界と、折り合いを付けて創作活動を続けた吉村昭の作品群は、読者にもある種の安心感、バランス感覚を与えてくれて心地よい。


自己PR(自慢)

2019-04-08 13:49:40 | 教育

 統一地方選挙の最中、自分についての自慢を書き連ねた文書や声高なアナウンスに辟易した。

 近年(といっても随分前から)、大学生の就職活動に際して、希望先に、「自己PR文(自己推薦文)」を提出するという慣行があり、学生の手になる作文の添削をたびたびしてきた。そして、日本人は、ここまで、平然と自分のことを売り込むという文化を身につけるようになったのかと驚かされる。しかも、その自己推薦という行為の後押しをしている自分にうんざりもする。時に、自分の長所を見い出せない、至極まともな学生もいる。「特に自慢できるようなことはありません。」という学生には、「控えめで、協調性がある」などと書かせて、こんな文書を採用担当者は、信用しているのだろうかと疑問に思う。

 かつては、教員採用試験に際して,大学の指導教員による「人物調書」が必要で、私たちは、理想的な人物像を捏造して、精一杯善意の文書を作成したものであったが、そのうちに、教育委員会が、それらの文書の内容に信頼性がないと気づいて、提出を義務づけなくなった。「仲人口」と同じで、よほどのことがない限り、学生の長・短所をありのままに書く教員などいはしないだろう。

 ある時期から、教師が学生・生徒に対して、「私は、浅学非才で……」などと卑下した発言をすると、正直に、「あの先生は勉強ができないのだ。」と言葉通りに受け取るらしいと言われるようになっているということを耳にし、体験もしたことがある。逆に、「私は、こんなに優れているという発言も、そのまま受け取られるようになったのであろうか。

 最近、好んで読んでいる作家、吉村昭は、随想の中で、名刺に肩書きを書かないと言っている。「作家」と書くのが面映ゆいのだそうである。古き良き時代の教養人のたしなみだとして、一層信頼できる存在になった。もっとも、顔つき、風体から、「物書き」と思われることは、ほとんどなく、警察関係者か工務店、水道屋の親父さん、時に「その筋」の人と信じ込まれているというから、氏の真実の思いは、私にはうかがい知ることはできないが……。


この国の国民の幸福度

2019-04-06 10:10:06 | 教育

 教員養成大学、学部の入学試験の受験者が激減しているという。メディアが伝える教員の労働内容には明るいものはない。際限のない労働時間(それにしては低賃金)、厳しい管理体制(独裁国家に似ているという)、非常識な保護者の存在、教師を軽視する児童、生徒の存在などなど、多くの若者が敬遠する職場であることはよく分かる。それでも、国公立の大学、学部で定員割れが見当たらないのは、わずかな救いである。ただし、低倍率は、有能な若者が敬遠していること(人材不足になること)を示してもいる。/  介護施設では、不祥事、事件が続いている。老人側にも問題があることが報じられてはきたが、介護士による暴行、暴言、殺人などは度を超している。なぜ、無法な介護士が存在するのかといえば、優秀、有能な若者に敬遠されるブラック職場だからであろう。日頃から不満を持っており、それが溜まりに溜まって一気に噴出する時があるのであろう。/  幼稚園、保育園でも同様である。教諭、保育士による暴行、園の不法な経営など、常識では考えられない事例が多発する。保育、教育に関する考え方が根本的に非常識なのである。保育士、介護士の劣悪な待遇に加えて、保育園建設まで、反対される昨今である。こういう環境にすすんで飛び込む、優秀な若者がどれほどいるであろうか。 / 人の生き死に(命)に関わる職場と、人間の内面的成長に関わる職場という、私たちにとって最も切実で、重要な分野がひどいことになっていると言ってよい。その理由は、これらの職場が人間の根幹に関係する重要な場であるという認識と配慮が、政治家や官僚、国家や自治体、国民、市民に欠けているということに尽きよう。決して無視できない額の税金が、人間尊重という根幹部分の支えとして使われていないことの責任は、だれがとるのであろうか。

 この国に生まれ、この国で育てられ、この国で生を終えられることが幸せであったという国になるには何が必要か。平成が終わり、統一選挙が行われるこの時期に、ゆっくり、しかし本気で、考えてみてはどうだろうか。


文字力とPC、スマホ

2019-04-02 22:49:20 | 教育

 文字力には、書字力と読字力がある。ここでいう文字とは、特に漢字のことだと考えておいていただきたい。  かつて、ワープロを使っていると漢字が書けなくなるのだが、どうすればいいのだろうかという相談を受けた。そのときは、「それは書けなくなったのではなく、その前に習得できていなかったのではないですか。」と、真剣な質問に対して失礼な応対をしてしまっていた。今なら、「その通りです.漢字を忘れてしまいます。できるだけ手書きするようにした方がいいですよ。」と答える。

 ほぼ、一日中、読書ができるようになって、目には悪いが、精神的には快適な日を送っている。振り返れば、子どもの頃から、本を読んでいれば他に何も要らない、寂しくもない生き方をしてきたように思う。引退後の私は、外目には「引きこもり」状態のように見えるかもしれないが、多くの作品やそれを生み出した著者との対話という社会的人間関係の中にあって、めまぐるしく、活動的な時間を送っていると言ってよい。時々散歩の誘いがあって、10,000歩以上、2~3時間の運動が入るが、エネルギー消費量と人間関係の構築は、読書と変わるところがない。

 読書をしていて、時々、未知の言葉に出会う。あまり頻繁ではないが、「こんな言葉があるのか。」と自らの無知を恥じることがある。死ぬまでもう出会うことはなかろうと思うような言葉が少なくないが、読書は、語彙という「ものを見る、考える、感じる窓口、手がかり」を増やしてくれる。これは、「読字力」に関することであり、読書の効能の一つである。  ところが、「書字力」は、確実に衰えている。時々、万年筆で文字を書く必要に迫られることがあるが、しばしば、漢字で躓く。はて、どういう漢字だったろうか、筆順はどうだったかという問題が多発する。ほとんどの文章をワープロで書いているのが、その原因である。自分にとって身近な漢字の代表は、自分の名前(漢字)であろうが、その漢字を、例えば20回書き続けると、これはなんという文字だったかと思うようになるが、それに似た現象が頻発するようになっているらしいのである。読みや文脈をビッグ・データから類推して要求に応えるAIに助けてもらっているうちに、こういうことになったのである。「便利・楽」という状態は、人間の能力を退化させるもののようである。

 低年齢段階から、電子機器を、教育現場や生活の中に導入することは考え直した方がよいかもしれない、ということを、PCを使って書いている。


書店で考えたこと 2

2019-04-01 18:14:27 | 教育

 古書の価格についてである。  大手の古書店で、岩波の『漱石全集』の何巻だったか、大判の箱入りの本が二冊棚に並んでいた。出版されたばかりの頃には、ずいぶん高価な本であったので、興味を持って価格を見ると、なんと200円台。そう言えば、かつてのベストセラー小説、『ハリーポッター』も、今や200円台で手に入る。  私が学生の頃は、本を購入するということは、生活の質に響くほどの行為であったが、今や100円ショップで、ちょっと贅沢をする程度のものになっているようだ。しかし、それは古書の場合で、新刊書は相変わらず割高感がある。この大きな落差はなんとかならないか。古書店は、出版社や著者の憎むべき存在になっているようだが、安価でも代金を払っているだけ、図書館よりは良心的であるとも言える。その図書館も、新刊書を購入してくれる読者を育てる役割を果たしているかもしれないので、大らかに構えていて欲しい。  このところ重たい戦争物(史実を大切にした)を読み重ねてきたが、今日は、本屋大賞になった作品を読んでみた。そして、阿川弘之や吉村昭が棚から姿を消す理由が飲み込めた。今後、ますます、この傾向は進むことになろう。せめて古書店にはがんばって欲しいのだが……。