食道がんと闘う自然爺の活動

自然の中での暮らしに憧れ、自作の山小屋を起点に自然と戯れていたが、平成21年10月、食道・胃がんが見つかり手術。

『回顧録、感謝』

2013年02月02日 18時53分46秒 | 回顧録

術後、これと言った不具合や心配事は皆無、しかも手術による外科的な痛みはあば

ら骨だけで、鳩尾から下腹部に向かう傷、あばら骨に沿った手術痕の痛みは一度も

感じたことがない。傷口はきれいにスーッと流れるようになっており、抜糸跡など何も

ないように見える。写真でよく紹介されている、ケロイド状の手術痕だと痛々しいが、

私のは見事の一言に尽きる。先生があれほど案じておられた煙草による肺機能の低

下が、手術に重篤な影響を与えるリスクも回避できた。また肝臓のγgtpの異常値は

手術のゴーサインを躊躇させるものでもあったことを考えると、先生はよく決心して手

術して下さったと今更ながら、言い尽くせる感謝の言葉は見当たらない。

肝臓の機能低下は万が一、大量輸血や他の合併症などに関連してくるから、単にア

ルコールによる云々だけでは済まないシビアな問題だった。そんな劣等生が無事に

大手術を受け何事も無かったかのように元気になった。勿論、患者と一族郎党にとっ

て喜ばしいに違いないが、執刀医の先生も安堵とともに喜んで下さったと思う。

手術後には各担当医が集まり手術後の患者に関するブリーフィングを開くそうだ。そこ

で私の経過報告をしたら、その回復の順調さに各先生方も驚いておられたと主治医

の先生から聞いた。『もし』、この言葉は沢山の意味と分岐を示唆する。もし、胃がんが

大きく予定よりも多く摘出しなければならなくなっていたら、血行の悪い大腸を切除して

食道と残胃を接続する。この際、食道、胃、大腸の一部とはいえ3つ臓器が機能低下に

なってしまう。また後遺症、QOLも今よりも難儀なことになっていたろう。

それに血行の悪いとされるものを代用にしたことで生じる症状、後遺症も併せ考えると、

尻の穴がしぼむくらいぞっとする。もしを悪い方に考えるのではなく、こうならなかったこ

とに感謝するプラスの方向に持っていかねばならない。

入院することにより私のために尽くして下さった方を思い出してみるものの、余りにも範囲

が広すぎて、言い尽くせるだろうか。受付、各検査科での先生、研修医、看護師、病理検

査員、食事、掃除、設備の運用員などなど、この他に私が知らない方も沢山おられるであ

ろう。患者から見れば病状と直接関わる医師や看護師に目が行きがちだが、直接的には

見えない裏方なくしては、私の病気と闘うことは出来ない、つまり病院が一つのチームとな

りそれを可能にする。このような入院をしたことがないから、知らなかったことを知り、普段

はあり得ないことを経験し、考えなかったことを考え、そして自分以外の方から沢山助けて

貰いながら生きてきたこと、生きていることを知らされる。

弱々しく訪れた初診の8月19日から始まった癌とのバトル、手術により最悪の症状はなく

なり、これから体力の回復を図り、癌と新たな闘いが始まる。こうした気分を持てるようにし

て下さった多くの方々に

『大変お世話になり、有難うございました』と感謝の言葉を贈ります。


『体罰と暴力』

2013年02月02日 18時51分44秒 | 日記

桜宮高校の部活で体罰に耐えられなくなった高校生が自殺、入試の中止を巡り大

きな論議を引き起こしている。当事者にすれば、この学校を受験することを目標にし

て努力してきたのに、目前になって目指すべき目標を奪い取るのは理不尽だと言い、

否このような学校の在り方では、まともな教育を受けることはできないと言う。

両者の意見は真っ向から対立しているが、どちらの意見にも理があり、正しい、正し

くないと決めつけるのは難しい。教育の場で指導結果により生徒が自殺した。何故、

自殺をしなければならなかったのか、何故、くい止めることはできなかったのか。

桜宮高校は、この問題を早急に解明し学校解体があろうと再発防止を図らなければ

ならない。報道を観てて学校は『生徒の死』に対して余りにも無神経で無責任なよう

に感じる。それを管轄する教育委員会にいたっては、火の粉退治が忙しく見ている

方向が違うようにも見える。

1人の生徒の死をどのように捉えて、今後の教育に反省事項をどのように埋め込もう

としているのだろうか。生徒は部活の顧問教師から体罰を受けたのが原因で自ら命

を絶ったと言われている。

体罰・・・肉体に直接苦痛を与える罰

罰・・・・罪や過ちに対するこらしめ。仕置き。

罪・・・・法律、道徳、宗教などに反した行為

意味を調べてみると、このようになっている。そうすると部活の顧問教員は自殺した

生徒が部活の最中に『罪や過ちを犯した』から『肉体に直接苦痛を与える』という風

に二つの言葉を繋ぐことができる。生徒はバスケットをしていて『過ち』を犯したのだ

ろうか『罪』を犯したのだろうか。罰を与えられるくらいだから『過ち』にしても、どでか

いものだったのだろうか。客観的に考えれば、試合中だろうが練習中だろうが、こう

した言葉に該当するようなことはなかったのではないかと思う。

改めて、では何故、生徒は自殺をしなければならなかったのか。

暴力・・・1 乱暴な力・行為。不当に使う腕力。

          2合法性や正当性を欠いた物理的な強制力

もし、顧問教師の行為が暴力ならば、軽微な過ちであって罪にはならない場合であ

っても『合法性や正当性を欠いた・・』ものが暴力だから、辻褄は合うことになりはしな

いか。柔道女子日本代表の告発にしても『陰湿な空間の出来事』であるから、両方

の事件とも、相通じるものが潜んでいるかもしれない。私のような戦後直ぐに生まれ、

子供のころから躾として頭を叩かれたり、廊下に立たされたりしてきた者にとって、そ

うした行為が一概に『体罰』『暴力』とは直結しない。暴力、体罰を肯定しているので

もない。多分、昔は今より人間関係が純粋で、先生と名の付く人は一様に人格者で

あり、尊敬される人が大半だった。そうした先生から学校で叩かれた、親の反応は

『子供が何かしでかしたに違いない』大方のところ、これに間違いはなかった。

そんなことであっても今は体罰という。時代とともに人間の意識や関係などは変化して

いくから、昔のままの姿であるはずはないし変わっていくことも大切,さりとて、変わって

はいけないものあるはずだ。日本はどこかで、レールを敷き違えていなければいいの

だがと、危惧している


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