東京大空襲の日。
63年前、母が末の妹を背負って小石川から音羽、目白台へと逃げまどった日。
東京の空が真っ赤に染まるのを、父が土浦の航空隊から見ていた日。
台東区に住んでいた父の親戚が一家全滅した日。
そして4年前、末期がんだった兄の嫁さんを病院で看取った日。
嫁さんが死んだとき、母は
「空襲で死んだ御先祖さんが連れてっちゃったのかねえ」
と言っていた。
そんなことはないとは思うけれど、3月10日はなぜか気持ちに残る日。
私は小さい頃から母に空襲の体験を聞かされて育った。
ときには母が炎に追われた道を歩きながら。
母は「戦争のことは思い出したくないけれど、忘れてはいけない」と言う。
父は「戦争のことは忘れたいけれど、予科練で覚えた軍歌は未だに歌える」と言う。
母のすぐ下の妹は、神田川に架かる小さな橋を今でも渡ることができないそうだ。
空襲の翌日、その橋を渡っていた彼女に手を差し伸べる、全身真っ黒に焼け爛れた人がいた。
「水、水をください」
というその人を良く見ると、近所で小町と言われていた顔見知りの若い女性だった。
しかし美しかった顔は醜く無残に焦げていた。
恐ろしくなった母の妹は、差し出された手を振り払うようにしてその場を離れた。
そんな経験が、叔母の脳裏に今も残っているのだ。
3月10日の空襲では、母の実家は焼けなかったが、その後の5月25日の大空襲で跡形もなく消えた。
広島・長崎の原爆に比べ、焼夷弾による都市空襲の記録は記憶に埋もれてしまっている。
あの戦争を体験した父や母たちは、もう高齢になってしまった。
彼らが逝ってしまったら、戦争の事実は誰が語ってくれるのだろう。
63年前、母が末の妹を背負って小石川から音羽、目白台へと逃げまどった日。
東京の空が真っ赤に染まるのを、父が土浦の航空隊から見ていた日。
台東区に住んでいた父の親戚が一家全滅した日。
そして4年前、末期がんだった兄の嫁さんを病院で看取った日。
嫁さんが死んだとき、母は
「空襲で死んだ御先祖さんが連れてっちゃったのかねえ」
と言っていた。
そんなことはないとは思うけれど、3月10日はなぜか気持ちに残る日。
私は小さい頃から母に空襲の体験を聞かされて育った。
ときには母が炎に追われた道を歩きながら。
母は「戦争のことは思い出したくないけれど、忘れてはいけない」と言う。
父は「戦争のことは忘れたいけれど、予科練で覚えた軍歌は未だに歌える」と言う。
母のすぐ下の妹は、神田川に架かる小さな橋を今でも渡ることができないそうだ。
空襲の翌日、その橋を渡っていた彼女に手を差し伸べる、全身真っ黒に焼け爛れた人がいた。
「水、水をください」
というその人を良く見ると、近所で小町と言われていた顔見知りの若い女性だった。
しかし美しかった顔は醜く無残に焦げていた。
恐ろしくなった母の妹は、差し出された手を振り払うようにしてその場を離れた。
そんな経験が、叔母の脳裏に今も残っているのだ。
3月10日の空襲では、母の実家は焼けなかったが、その後の5月25日の大空襲で跡形もなく消えた。
広島・長崎の原爆に比べ、焼夷弾による都市空襲の記録は記憶に埋もれてしまっている。
あの戦争を体験した父や母たちは、もう高齢になってしまった。
彼らが逝ってしまったら、戦争の事実は誰が語ってくれるのだろう。