旅は続くよどこまでも。

とてつもなく不定期に、しかし何か思い浮かんだときにはどえらい勢いで書きなぐるブログ。

バイトが終わったのでシュワ様堪能。

2008年03月23日 23時55分07秒 | 関東の日常。
明日の午後の出勤予定は無しになりますた(・∀・)
なので明日は朝イチで精神科に行ってその後歯医者の予定。
で、早く帰ってきてMちゃんち&河口湖一泊旅行の準備するお。

ということで絵日記にもUPした通りめっきり春になってきました。
今も目の前の窓を開け放ってパソ打ちしてますが、たいして寒くないです。
明日は雨らしいですなあ。
河口湖に行く日もあんまし天気は良くなさそうだけど、まあいいや。
久し振りに羽伸ばして遊べればいいや。


さて。
今夜はダンナが早く寝ちゃったので、珍しくテレビ見てました。映画。
地上波でシュワ様の『イレイザー』やってたの。
夢中して見ちゃった。

私はねえ、かつては知る人ぞ知るシュワ様マニアだったんですよー。
『コナン・ザ・グレート』(1982年作品)からのファンでしてねえ。
その後は『トータルリコール』(1990年作品)まで、1980年代の作品は余さず映画館で観ております。
大好きです。シュワ様。
今夜の『イレイザー』は1996年の作品ですので初見でしたが、若いですね、まだ彼も。
シュワ様の映画でいちばん好きなのは『トータルリコール』ですが、
『バトルランナー(原題:The Running Man)』(1987年作品)の馬鹿馬鹿しさも捨てがたいです。

思い出深いところでは『コマンドー』(1895年作品)ですね。
とある男性と初デートのときにね、お互いに観たい映画を1本づつ、はしごで観たんです。
彼は『バック・トゥ・ザ・フューチャー』、私はこの『コマンドー』。
映画館を出た後、
「・・・・・こういうのが好きなの?」
という言葉を残し、彼は2度と私をデートに誘ってはくれませんでした。

シュワ様の映画は007映画に通じるものがあります。
勧善懲悪。銃撃戦。主人公の超人的な強さ。でもちょっとおマヌケなとこもあって憎めない。
しかし決定的に違うのは、ジェームス・ボンドがヒロインを必ずモノにするのに対し、シュワ様の場合はほとんどそうならないことです。
シュワ様はどこまでも硬派なのです。
両手にマシンガン、肩にバズーカ、腰にはでっかいナイフを差して、佳境に入ると上半身は裸。
と、こういう部分だけを見ると「『ランボー』と同じじゃん」と言う方がいらっしゃいますが、全然違います。
シュワ様には悲壮感や理屈がありません。
常に余裕とユーモアを忘れず、ただひたすら銃火器をぶっ放し続けるのです。
理性と筋肉と火薬の量が違います。
ランボーごときが張り合える相手ではないのです。

その理性と筋肉と武器で、『プレデター』(1987年作品)では、最期に原子爆弾で自爆する、全身弾薬庫のような異星人をも倒してしまいました。
しかもその異星人(プレデター)に

「おまえは一体・・・・何者だ」

と言わしめているのです。
なんて素敵なシュワ様。

今となってはカリフォルニア州知事のシュワ様。
しかし彼の銀幕での活躍は色あせませんね。
うふふ♪

3月10日。

2008年03月10日 23時40分48秒 | 関東の日常。
東京大空襲の日。
63年前、母が末の妹を背負って小石川から音羽、目白台へと逃げまどった日。
東京の空が真っ赤に染まるのを、父が土浦の航空隊から見ていた日。
台東区に住んでいた父の親戚が一家全滅した日。
そして4年前、末期がんだった兄の嫁さんを病院で看取った日。

嫁さんが死んだとき、母は
「空襲で死んだ御先祖さんが連れてっちゃったのかねえ」
と言っていた。
そんなことはないとは思うけれど、3月10日はなぜか気持ちに残る日。

私は小さい頃から母に空襲の体験を聞かされて育った。
ときには母が炎に追われた道を歩きながら。
母は「戦争のことは思い出したくないけれど、忘れてはいけない」と言う。
父は「戦争のことは忘れたいけれど、予科練で覚えた軍歌は未だに歌える」と言う。

母のすぐ下の妹は、神田川に架かる小さな橋を今でも渡ることができないそうだ。
空襲の翌日、その橋を渡っていた彼女に手を差し伸べる、全身真っ黒に焼け爛れた人がいた。
「水、水をください」
というその人を良く見ると、近所で小町と言われていた顔見知りの若い女性だった。
しかし美しかった顔は醜く無残に焦げていた。
恐ろしくなった母の妹は、差し出された手を振り払うようにしてその場を離れた。
そんな経験が、叔母の脳裏に今も残っているのだ。

3月10日の空襲では、母の実家は焼けなかったが、その後の5月25日の大空襲で跡形もなく消えた。


広島・長崎の原爆に比べ、焼夷弾による都市空襲の記録は記憶に埋もれてしまっている。
あの戦争を体験した父や母たちは、もう高齢になってしまった。
彼らが逝ってしまったら、戦争の事実は誰が語ってくれるのだろう。

栄養指導とダンナのおでき。

2008年03月05日 23時17分33秒 | 関東の日常。
今日は久し振りに病院へ行きますた。
朝9時から「糖尿病患者の栄養指導」を受け、その後循環器科の診察。
5時間くらい病院で過ごしたお(´・ω・`) ツカレタ。


さておき栄養指導。
それは「指導」という名の食事制限宣告。

実はダンナは入院中健康的な食生活を送ったせいか、心臓の病を治療したせいか、血糖値のあんばいが非常によろしく、10日ほど前の内科診察の結果、血糖値を下げる薬を服用しなくてよくなったんですね。
そのかわり食事療法を徹底するようにと。
そのときダンナは「やったやった」と浮かれておりましたが、長く糖尿病を患う父をもつ私は、内心「これは面倒なことになったぞ」と思いました。

だってねえ。

そもそも食事療法ができてりゃ糖尿病になんかなってないわけで。
それができないから夫婦揃って糖尿病なわけで。
それっくらい面倒臭いですよ、食事療法は。

でもしかし。

表向きはダンナに対する栄養指導ですが、現時点での血糖の数値は私のほうがはるかに悪い。
これは私も宿痾を封じる良い機会。
そう考えて指導を受けてきましたところ。

やっぱり思ったとおりですた(´・ω・`)

ダンナも私も好物に片っ端から×印をつけられ、1日に摂取する食物の分量とバランスと調理方法を厳しく厳しく申し渡されてきました。

あーもう気が重い。
つーか、めちゃストレス。
でも仕方ないっすねー。
やらなきゃねー。
ここまできたらねー。


さて。
話は変わりますが、ダンナの背中、左の肩甲骨の上の辺りにですね、退院後おできが出現しましてね。
それは日毎に成長して見る見る赤黒く腫れあがり、一昨日くらいが最高潮でしたね。
直径10cm、高さ5cmくらいに膨らんでパンパンになりました。
私はそれを毎日ぷよぷよと触っては膿がでないものかと撫で繰り回してたのね。

したらね。
今朝ダンナが

「ねえ奥さん、俺の背中、膿出てない!?」

と言うわけですよ。
見たらばね、パジャマに膿が染みてるの。

「お♪」

と思って観察したら、おできの天辺に小さな穴が。
そこに黄色い汁が滲んでた。
ぎゅっ! と押してみた。

「痛い痛いっ! 痛いっ!!」
「うーん・・・・まだかぁ」
「なにすんの痛いでしょっ!」
「もうちょっとで出そうなんだけど」

とまあ、朝はこんな感じで終わりましたが。
病院でレントゲン検査を終えて検査室から出てきたダンナがまた言うわけ。

「俺の背中絶対膿出てるって。Tシャツが凄いことになってる」

ですのでね、帰宅してから見てみると!

「おお、これは!」
「どんなんなってる?」
「これは出そうだ。押していい?」
「うん」
「どれどれ♪♪」

巨大な赤黒いおできをティッシュで押さえてぎゅうと押すと


でろでろでろでろでろん。


と黄色い膿が出るわ出るわ。

「うひゃー♪ 出る出る♪」
「出る?」
「凄い凄い。ほら」
「げげ。すげーな」
「でしょ。まだまだ出るよ」
「いてっ!」
「他人の痛さは10年でも我慢できる」
「あんた酷いね」
「じゃあこのままでいいわけ? 放っといたら目とか口とかできてそのうち喋りだすよ、コレ」
「・・・・・搾っちゃって。痛くないようにね・・・・」
「おー。出るわ出るわ。だんだん血膿になってきたよ」
「これだけ出せば随分小さくなったでしょ」
「高さがなくなったね。まだ出る。おもしれー♪ ほっひょー♪」
「今日先生に見せたら『形成外科に罹って』って言われたけど、もう大丈夫だろ」
「うーん、でも膿の根っこは取りきれないからねえ、このままじゃ」
「大丈夫だろ」
「またできるよ、きっと。まあ今日のところは搾れるだけ搾るけど」

ダンナのおできからはそれはもう大量の膿が出ました。
ティッシュに染み込ませてたけど、あれ、何か容器に入れてたら相当な量だったと思うよ。

そしてそれから、ダンナは風呂に入り、清潔になって出てきたわけだけど、膿を搾り取った穴の処置が問題だ。
清潔に、かつ何かを当てておかないと、また黴菌が入るしパジャマも汚れる。でもガーゼとか脱脂綿なんて気の利いたものは無いし・・・・・。

と考えて思い至ったのが生理用のナプキン。

これは間違いないでしょう。
さすがに「多い日の夜用」とかじゃぼてぼてするし、膿もほとんど出ちゃってるから「おりもの用シート」でいいかと。

つーことでね、ダンナの背中に救急絆創膏で貼り付けましたよ、おりもの用シートw
笑えるよ、かなり間抜けな絵だよwww
だって背中におりもの用シートだもんwwww

あっ、写真撮るの忘れた。
明日撮ろうw(・∀・)♪