オストメイトで山賊と海賊・・・銀座のコテコテ周旋屋のよもやま話

去年は100の山を愛し、今年は108の山に恋をする。
夏は太平洋の大波で泳ぎ続け、日本の自然を愛して66年。

介護と昭和の家の解体と墓仕舞い

2021-06-14 09:23:51 | 地球と生きる

 

 認知症が酷くなってる要介護の92歳の爺様と、傍に暮らしてる陽気な86歳の婆様の元に行き、先に銀座の店の近くに引っ越しさせる小さな2DKのマンションを用意し、その引っ越しと実家の売却と古い大量の荷物の整理を始めている。

 片道新幹線で4時間、これを何度も繰り返してゆっくり進めている。

 

 2世帯同居用のキッチンまで2つあるような無駄に広い昭和の見栄張り一戸建てだから、荷物の量も半端ない。

 なぜ? いままで二人で30年も呑気に暮らしていながら、整理をしてなかったのか?

 開けたこともなかった押し入れやタンスには、30年前には既に亡くなっている爺婆の荷物も、まだ残っていた。

 驚くような状態を確認して、コマメに捨てて来たが、まだまだ2トントラック3台分くらいの不要な荷物がある。

 認知の入ってる老人とボケが来ている老人、先にこれらを移動させて、最後にそれらの処分をするつもりで段通りを組んでいる。

 何度も家の中をガタガタやってると、普通でない刺激はあるから、認知が酷くなることもある。

 爺様は言いたい放題の、やりたい放題、滑稽な言動も多くなってるが、その都度に哀れでもある。

 正気に戻ると・・・ワシにはなんも出来んのよ・・・うなだれてる。

 天性陽気で火に油を注ぐような婆様にも、余計な対応を止めるように色々と話しておいてある。

 暴走を抑える薬ももらっている。

 徒労感ばかりがあるが、漫画のようでもある。

 

 ゼニカネよりも人の命、とは言うが、それでもゼニカネがなければ人の命も救えなくなってるのも、現代社会だ。

 もう、充分に生きたろう? これが俺の正直な気持ちだ。

 そこに感情や感傷などなく、ただただ哀れではある。

 本来ならばそこで終わりを迎えてくれるのが良かったが、一緒に暮らす婆様の様子もおかしくなった。

 それでなくとも他人よりも扶養家族がはるかに多いのに、放置する訳にも行かず、身体はまたクタクタになってる。

 身体に障害を負ったときも、諦めかけていた半年間、それでも今、俺は死ねないだろうと立ち上がったもんだったが、おなじようなことになってる。

 ボロ雑巾のようになって、東京に戻る新幹線ではひたすらに眠った。

 高い険しい山の頂きを目指すとき、クタクタになり、ナニも考えることもなくなって、ひたすらに歩を進める。

 そんな状態になってる。

 ややこしい仕事をたくさん抱えていながらも、動き回るしか、ないだろうな。

 後悔しない生き方とは、常にそういうことだ。

 そこで野垂れ死にする方が、俺は満足ではある。

 俺自身は、内容の無茶苦茶に濃い63年を生きてきたから、いつ死んでも満足ではある。

 

 10数年前に、家の残債がまだ残ってるというので肩代わりしてキレイにしてやったが、その時には丁度いいから東京に来て終活をするように何度も言ったが、頑として聞き入れなかった挙句の大騒動。

 買い物に行くにも車が無ければ行けないような場所で、どうするんだ? 何度も聞いたが呑気なもんだった。

 仕方が無いので小さな車にも買い替えてやった。

 結局薬局、すべて俺がやることになって、その癖に文句ばかり言ってる認知の爺様を動かすことが良いのか悪いのか、ずっと考えておったが、現実は動くしかない訳で、全責任を負うということで話を進めて行ってる。

 身内に文句を言う者や、足を引っ張る者がおれば、即刻金輪際のお付き合いは無しにする、その覚悟は最初からある。

 そんなもんだで、大勢の親戚よりも、日常に関わり合ってるアカの他人が大事。

 家という間抜けな幻想に縋りついて生きてる獣のお世話、そんな感じだ。

 山に遺る大きな石碑とまわりの先祖の墓も、記念碑みたいに置いておいて、朽ちるに任せる。

 少しの砂だけ持って来て、認知のボケ爺様が逝った時に一緒に埋葬してやる。

 ・・・みんな一緒だよ・・・幼児をあやすようだ。

 これからは、面倒の無い共同墓地で充分だと、俺は考えている。

 自身は、山奥に放置か、海に投げ込んでくれれば良いんだが、法があるならば共同墓地でエエがな。

 死んでからもなんで金がかかる? なんで個別の居場所が必要? そういう無意味な宗教的な儀式はいっさい興味もないし、やるつもりもない。

 ましてや戒名などという、間抜けなモノなど、ごめん被る。

 すでに人間社会の神や仏は、とっくの昔に超えてしまってる。

 修行や鍛錬というのなら、人類の歴史上の怪しい作られた英雄たちよりも遥かに鍛えあげて来てる。

 あとは身体が生きている時にこそ、目いっぱい愉しむ、それだけで充分だ。

 

 まさに昭和の良き時代が終わりを迎えている。

 家の風習や習慣などは屁みたいなもんで、ナニも無いのが本当だ。

 爺婆はそう生きた、親はそう生きた、俺は自分で考えてそうは生きないだけ。

 家という在りもしないすべてを捨て去って、俺がそこに座る。

 平成・令和と続く昭和からの洗脳時代の終わりに、俺がその上に重石となって座る。

 それで生きてきてる。

 爺婆や親の付き合いなども、それぞれの死ですべて終わる。

 俺には俺の、身内よりも濃いアカの他人との関わり合いがたくさんある。

 

 人間は高齢になり、自分で動くことが出来なくなったら、終わるべき。

 洗脳と煽動で生きた幻想から醒めることもなく、老いて身体もオツムもイカレテしまうくらいなら、それが良い。

 人間は、長生きだけすれば良いのか?

 ただただ生きていることが幸せなことなのか?

 俺はずっと嘘だと想って生きて来てる。

 若くして死ぬのも別に悪いことでもないと想ってる。

 現に俺の周りには、早くに死んで逝った者らも多かった。

 いずれこうなることも考えてはいたが、俺自身も老いて身体に障害を負っているから、なかなかに大変だわい。

 幸いなことは、日々生きてる上でのスタンスは、ガチガチに固まってるから、揺れることはない。

 笑い飛ばして、やってくしかない。

 

 景気が悪くなり、皆が喰うに困って来ると、老いぼれ高齢者は見捨てられて行くんだろう。

 それを宗教で食い止めて、いけないことだと親孝行を説く、それでもゼニカネの無い者には生きる足枷でしかない。

 そんな間抜けなことを繰り返して、人類を支配する側に踊らされ、夢を見ながら呆然と、生きて来たのが西暦という、なんの肥しにもならない、まやかしの時代さ。

 

 ほたるの里は日本中にあるが、そういう季節になってきておったな~。

 


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