異教の地「日本」 ~二つの愛する”J”のために!

言論宗教の自由が保障され、ひとりひとりの人権が尊ばれ、共に生きることを喜ぶ、愛すべき日本の地であることを願う。

国会前 九州電力川内(せんだい)原発(鹿児島県薩摩川内市)の再稼働への抗議集会に7000人

2014-09-01 02:02:37 | シェアー

http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2014083102000125.html

再稼働阻止 デモ規制もダメ 国会前で7000人集会

国会前で川内原発の再稼働反対を訴える人たち=30日、東京・永田町で(岩本旭人撮影)

写真

 原子力規制委員会の新規制基準で適合とされた九州電力川内(せんだい)原発(鹿児島県薩摩川内市)の再稼働に反対する抗議集会が三十日夜、国会前で開かれた。主催者発表で七千人が集まり「政権は原発ゼロを求める世論を無視している」と全原発の廃炉を求める声が相次いだほか、市民のデモ規制の検討を始めた自民党への批判も上がった。

 毎週金曜日に首相官邸前で脱原発を訴えている「首都圏反原発連合」が主催。中心メンバーのミサオ・レッドウルフさんは仮設ステージに立ち「原発を絶対に止めるという固い意志を持って、市民の立場からデモや集会を続けていきたい」と訴えた。

 自民党のプロジェクトチームが、人種差別的な街宣活動「ヘイトスピーチ」規制の検討と併せて国会周辺の大音量のデモ活動規制強化の検討も決めたことへの反発から、国会周辺には「再稼働反対、デモ規制も反対」とコールが響いた。

 太鼓を持って参加した東京都文京区の池本英子さん(66)は「デモは原発に反対する私たちの意思表示。規制は絶対許せないと思い駆けつけた。原発がなくても電気は足りている」と話していた。


☆日本・中国・韓国の学生たちが平和を祈ってハッピーダンス

2014-09-01 02:01:53 | シェアー

ラップにのって!国際的なアクセス続々と拡大中!

http://curazy.com/archives/24031

☆日本・中国・韓国の学生たちが平和を祈ってハッピーダンス

 
<iframe class="arve-inner" src="//www.youtube-nocookie.com/embed/M74GPX8Xbfg?autohide=1&iv_load_policy=3&modestbranding=1&rel=0&wmode=transparent&enablejsapi=1&autoplay=0" frameborder="0" scrolling="no"></iframe><noscript></noscript>

https://www.youtube.com/watch?v=M74GPX8Xbfg

この日中韓HAPPYは、日本の女子大生によってヘイトスピーチにの醜さに怒りと悲しみを抱いて制作された。

見た人をHAPPYに出来るこのミュージックビデオで、「­若者世代から社会に向けて発信して行こう!」という思いで日中韓HAPPYは誕生しま­した。
撮影は日本を中心に韓国と中国で行われました。


どうかご覧になった皆さんに、日中韓の若者の「笑顔」と「三国の平和を願う思い」が届­きますように。
(YouTube概要より)

 

 


半藤一利さんに聞いた その2 憲法は日本とアメリカの「合作」で生まれた

2014-09-01 01:54:41 | シェアー

http://www.magazine9.jp/interv/hando/hando_1.htmlより

マガジン9 この人に聞きたい 
半藤一利さんに聞いた その2 
平和憲法という国柄を、もっと大切にしなくてはならない


「改憲が必要な理由」の一つとして、安倍首相は「自主憲法の制定」という言葉を繰り返します。
現在の日本国憲法は、果たして本当に「GHQの押し付け」だったのか。
『昭和史』の中にも登場する、その成立過程の事実をお聞きしました。

はんどうかずとし 作家・昭和史研究家
1930年東京向島生まれ。東京大学文学部卒業後、文藝春秋入社。
「週刊文春」「文藝春秋」編集長、取締役を経て作家。
著書に『漱石先生ぞな、もし』『日本のいちばん長い日』、『ノモンハンの夏』(以上文藝春秋)、
『昭和史1926-1945』『昭和史 戦後篇1945-1989』(以上平凡社)、
『日本国憲法の二〇〇日』(プレジデント社)など多数。


日本国憲法成立のこぼれ話

編集部  前回のお話では、半藤さんご自身の経験からも、いわゆる政府案だった松本蒸治案よりも、GHQの憲法案の方を当時の日本国民は歓迎しただろうということを興味深くお聞きしました。ところで、先日、NHK教育で放送した『焼け跡から生まれた憲法草案』をご覧になりましたか?

半藤  ええ、観ました。

編集部  敗戦直後から、鈴木安蔵や馬場恒吾、森戸辰男ら在野の学者やジャーナリストたち7人が市民案としての憲法草案を作り上げた、という内容でした。

半藤  その話は、私の本(『昭和史 戦後篇』平凡社刊)でも書いたんです。とてもいい案ではあったんですが、あのまま通るとは思えませんね。ただ、あれが、GHQ民政局(実際の日本国憲法草案作りに携わった部局)あたりの人たちに大きな影響を与えたことは確かでしょうね。なにしろ、民政局には憲法学者は一人もいなかったんだから、影響されないわけがない。

編集部  それから、近衛文麿国務大臣の委嘱を受けて、京都大学の佐々木惣一元教授が作ったと言われる草案というのもありましたね。

半藤  これもとてもかなり先進的な草案だったと言われているんです。で、私もこれを一生懸命探したんですけど、残念ながら見つからない。しかし、これが近衛大臣に渡ったことは間違いない。しかも、これを近衛さんは天皇に渡したことも確かですから、天皇もこれを読んでいるはずです。そして天皇が、こういうものができているから参考にしたらどうか、と幣原喜重郎首相に渡し、それを幣原さんは松本烝治国務大臣(憲法問題調査委員会委員長)に渡します。ところが松本さんは、なにしろ帝国憲法でいいじゃないかという人だから、なんだこんなもん、って捨てちゃったんですね。あれが日の目を見ていれば、また別の展開もあったかもしれないけど。この佐々木案は、多分、宮内庁にあるはずなんだけど、宮内庁が出してくるわけもない。だから、佐々木案は「幻の憲法草案」なんです。

編集部  幣原首相は何度もマッカーサーに会っていますね。その場で「戦争放棄」という言葉がポロッと幣原さんの口から出た、というような----。

半藤  そこは難しい。どっちが言い出したのか。幣原説とマッカーサー説の両方ある。でも、幣原さんの口から出たというのも確かです。幣原穏健外交と言われるくらいの国際協調派ですし、昭和2年のパリ不戦条約(ケロッグ・ブリアン協定)のときの全権大使だったわけだから、不戦の意味で言ったと思いますね、僕は。9条の第1項は不戦条約とほぼ同文ですからね。

編集部  それを、憲法に入れようか、と。

半藤  まあ、幣原さんは松本案を提示したくらいだから、明治憲法の全面改訂などは意図してなかった。でも、ポツダム宣言を読めば、明らかに憲法改正をせざるを得ないことは分かるはずなんだけど、当時の日本のリーダーたちはそうは読まずに誤魔化そうとした。でも誤魔化しきれなかった、ということでしょうね。

憲法は日本とアメリカの「合作」で生まれた

編集部  このほかにも、いろいろな憲法草案はあったようですね。

半藤  そうです。新聞で発表された共産党案やほかにも二つ三つぐらいありました。そういうのを、GHQは全部入手して読んでいるんですね。


編集部  それでは、日本の民間人たちが作った憲法草案が、GHQの草案にある程度影響を与えていると考えていいんでしょうか。

半藤  いいんじゃないでしょうかね。


編集部  改憲論者のほとんどの人たちが、現憲法はアメリカの押し付け憲法だ、と言いますね。でも、今のお話を伺っていると、ある意味で日本国憲法は日本とアメリカの合作であるとも考えられますね。

半藤  そうです。マッカーサーが「憲法は天皇陛下と私の合作だ」「天皇陛下がいなければこの憲法はありえなかった」というぐらいに合作なんですよ。


編集部  『憲法九条を世界遺産に』(集英社新書)の中で、太田光さんと中沢新一さんがしきりに「戦争はもう絶対にしたくないという日本人の感情と、理想主義に燃えたGHQの若いアメリカ人との奇跡の合作だった」と言っています。

半藤  その通り。まったくそれでいいんです。そしてその上に、戦争の悲惨さや残酷さをよーく分かっているマッカーサーと天皇の合作なんです。天皇は本当に戦争嫌いな人です。天皇には、ひどいことをしてしまった、という想いがあったと思うんです。マッカーサーも軍人ですから戦争になると燃えちゃうんですが、平時にはすごいインテリなんですね。だから、この二人の合作という言い方もできるんです。


編集部  ではやはり、押し付け憲法論はおかしいと。

半藤  そういう言い方をするなら、戦後日本のあらゆるものがアメリカの押し付けですよ。先ほどお話した「5大改革」すべてが押し付けです。じゃあ、それらを全部やめなきゃいけないでしょ、押し付けがダメと言うなら。安倍首相が「戦後レジームの抜本的見直し」なんて言ってるけど、女性の選挙権も労働組合も財閥解体も農地解放も教育改革もみんな元に戻したいんですかね、特高警察の復活なんかも含めて。教育だって、私は今度の教育基本法改正なんか、憲法改正に近い酷さだと思っていますから。

戦後、日本の機軸は平和憲法だった

編集部  半藤さんは、きっちりと憲法9条の改定には反対であるとおっしゃっていますが、いつごろからそう思い始めたのでしょうか?

半藤  私はずうっと憲法を大事なものと思ってきましたから、何も変わってないんです。他が変わっちゃったから、アカの先端にいるように言われ始めたようだけど、そんなことはない。「ほんとにお前、文春にいたのか」なんて言われることもありますよ。いたもなにも、私は一応、文春の専務までやってたんですけどねえ(笑)。
 私の歴史観を簡単に説明しましょう。
 明治の日本というのは、富国強兵とかなんとか言ってそれを中心にして国民が意思統一して動くんですが、軸になるのは天皇制です。これは立憲君主制です。そして国家目標が富国強兵だったわけです。それでうまくいってたんですが、日露戦争が終わった後、うぬぼれて調子に乗って、機軸である立憲君主制では面白くない、もっと世界に冠たる天皇制にしよう、というんで国家神道になっちゃった。それで、国家目標は富国強兵なんてもんじゃなく、もっとでかい太平洋・大東亜・八紘一宇---なんてバカなことになって、結局国を滅ぼすような戦争に突入していくんですね。


編集部  そして戦後、日本の機軸が変わったんですね。

半藤  そうです。それが平和憲法なんですよ。それでみんながまとまってやっとここまで来たんです。国家目標は自由と平和。新しい国柄を作ったものとして、ずっと戦後は変わっていないはずだった。今まで60年間、日本が持ち続けてきた国柄は現実としてあるんですよ。だから、日本人はこれをもっと大事にしなけりゃいけない。国際紛争が起きたとき、日本ほど調停に適した国はないんですよ。戦争をずっとやってませんから。歴史的にみても、これほど人畜無害な国もない。人畜無害じゃつまらないって言う連中もいますが、これでいいじゃねえかって、僕なんかは思いますね。


編集部  紛争調停国として世界に信頼される日本。いいですよねえ。

半藤  今の戦争ってのは、きわめて危険極まりない理由で起こっている。テロなんて呼んでるけど、戦争というべきなんですよ。要するにアメリカという大国が勝手な理屈を立てて、アイツは悪いヤツだから叩いてもいいんだ、あの野郎が俺を睨んでるから先に殴っちゃえって。これじゃ世界は滅びますよ。そのときに、この平和憲法を持った日本が、これこそ人類を生かすための最大の理想です、これを目指して頑張ろう、というのはなんら差し支えないと思うんですけどね。でもこれを言うと、そんな夢みたいな理想主義を日本がやったことがあるのか、って批判されます。しかし、やったことがないからこそ、今がチャンスなんです。理想主義をどんどんやっていけばいいんです。


戦後、新しい日本の機軸となった平和憲法。
しかし今、その機軸を揺るがそうとする動きが強まっているように感じます。
次回、今の日本がどこに向かおうとしているのかについて、伺います。


半藤一利さんに聞いた その1 私の「戦中・戦後直後史」  一般国民は圧倒的に新憲法を歓迎

2014-09-01 01:54:09 | シェアー

http://www.magazine9.jp/interv/hando/hando_1.htmlより

マガジン9 この人に聞きたい 
半藤一利さんに聞いた その1 私の「戦中・戦後直後史

はんどうかずとし 作家・昭和史研究家
1930年東京向島生まれ。東京大学文学部卒業後、文藝春秋入社。
「週刊文春」「文藝春秋」編集長、取締役を経て作家。
著書に『漱石先生ぞな、もし』『日本のいちばん長い日』、『ノモンハンの夏』(以上文藝春秋)、
『昭和史1926-1945』『昭和史 戦後篇1945-1989』(以上平凡社)、
『日本国憲法の二〇〇日』(プレジデント社)など多数。


終戦の日、おれの人生これで終わりか。なんだかバカバカしいなと思った
編集部  1945年、日本が戦争に負けた年、半藤さんは確か15歳でいらっしゃいましたね。そのときは、どちらにおられたんですか?

半藤  新潟県の長岡市です。生まれは、東京の向島なんですが、疎開していて、そこで長岡中学に入りましてね。で、敗戦のときは中学3年で、勤労動員ですよ。津上製作所という軍需工場でしたね。

編集部  そこで何をお作りになっていたんですか?

半藤  ネジでしたね。あれは、何のネジだったのかなあ。なんか爆弾のネジだときいていたんですが、とても大きなネジでねえ。それを、旋盤で研ぐんです。私は、地元のヤツらと組まされてたんですが、コイツらが長岡中学の悪党3人組でね、僕が疎開だっていうもんだから、みんな私に押し付けやがってね、あはは。連中は何もしないで、僕だけが一日中働いてるの。

編集部  8月15日というのは、とてもいい天気だったと聞いているんですが、長岡もやっぱり。

半藤  そう、いい天気でしたね、本当にいい天気。

編集部  天皇の放送、いわゆる玉音放送ですか、それをお聞きになったときは、どう思われました?

半藤  なんだかよく聞き取れなかったんですが、聞いた瞬間、ああ、負けたんだな、ということはすぐに分かりましたね。終わってから、多分、和田信賢アナウンサーだったと思うんですが、彼が「謹んで読み上げます」と丁寧にもう一度読み上げたんです。そこまで聞かなくても、もう分かってはいましたけどね。
 全部聞き終わってから解散になったんですが、そのワル3人が「もうこれで、俺たちの人生は終わりだ、アメリカが来て俺たちはみんな奴隷にされるんだから」って。それで「南の国へ送られてしまうから、今のうちにいい事しようじゃねえか」と言うから「何すんだ?」ってたら、「タバコ吸おう」って。ははは、かわいいもんです。それで、防空壕に入りましてね、生まれて初めてタバコ吸いましたよ、僕は。

編集部  まじめな中学生だったんですね。

半藤  まあ、まじめなほうだったでしょうね。そのタバコがとても不味かったのは覚えてるなあ。で、それが終わって「次は何だ?」「もちろん女だ」なんて。あははは。そんなにうまくいくかあ。そんな風で、あまり深刻ではありませんでしたね。ただね、ああ、これで終わりなのかと、なんかバカバカしいなとは思いました。

編集部  バカバカしい?

半藤  そう、あれは一体なんだったのか、という感じですね。私は向島で東京大空襲を受けてます。もう周りすべてが火の海。悲惨でしたね。でもね、それより最初の疎開先の茨城県下妻というところで受けた銃撃が怖かったですねえ。下妻中学に入っててやっぱり勤労動員で、日立製作所の学校工場でネジ作ってました。このころはもう、やたらと敵の飛行機、P51ですが、こいつが上空を飛びまわってるんです。しかし、戦争というのはヘンなもんですよ。そんな中でもノンビリと魚釣りなんかに行ってるんです。近所のおじさんと二人で、小貝川の土手を釣竿かついで歩いてたら、そのP51が2機、まっすぐこっちへ向かってきて、ダダダダッッと撃ってきた。思わず腰を抜かしましたね、こっちはまだ中学生だし。この間『硫黄島からの手紙』って映画観たんですが、まさにあの通りですよ。真正面から狙って撃ってくる。


編集部  そんな田舎町の中学生まで狙われるような状況----。

半藤  もうこれはいけねえや、と思いましたね。でね、ここで僕が助かったのはほんの偶然。世の中に絶対なんてもんはないんだ。だから、俺はこれからは「絶対」なんて言葉は使わねえぞ、と思いました。「日本は絶対勝つ」とか「絶対日本は正しい」、「俺の家は絶対に焼けない」なんて事はありえない。それが、このころ私が抱いた一番の感想だったんじゃないかなあ。だから今でも、右でも左でも「ナントカは絶対正しい」とか言うのを聞くと、ふん、と鼻で笑いたくなるんですね、私は。


編集部  日本が負けたということが分かって虚脱状態に陥るとか、それまで軍国少年だったのがコロッと変わってしまった、などという話をよく聞きますが、半藤さんの場合はいかがだったんですか?

半藤  まあ私は、勤労動員行ってたときも、2年上の女学生と工場の裏でラブシーンやってたりしてたからなあ。それを先輩に見つかって、物凄い勢いで何度もぶん殴られたり。軍国少年じゃなかったでしょうね。どちらかというと、非国民扱いされてましたから。だから、ショックで茫然自失なんてことはなかった。私はさっきも話したように東京で大空襲も体験してますし、たくさんの人たちが目の前で焼け死んでいくのを、この目で見てるんですよ。それを僕らは助けられない。軍だって国民を助けるなんてことはしない。むしろ、軍がなんでもない無辜の民を殺す、そういうのを身に沁みて感じていたから、厭戦---じゃなかったけど、でも、反軍的な気持ちは確かにありましたね。


編集部  では、戦争が終わってホッとしたというか、喜んだというか。

半藤  あんまりそうは感じなかった。ただ、ああこれで俺の人生は終わりなんだ、という風に。15歳だから、兵学校へ行くとか士官学校へ進むとか言う連中もいたけど、僕は兵隊なんかに行くつもりはまるでなかったし。まあ、徴兵されれば仕方ないかという諦めはありましたけど。なんだかすべてチャラという感じで、妙に何もかもたいしたことはないんだ、もう終わりなんだから、そんな風に思っていたんじゃないかなあ。


編集部  虚脱感みたいなものなんでしょうか?

半藤  そう言えるかもしれないね。まあ、どうせ南の島かカリフォルニアあたりに送られて、アメリカの奴隷になるんだろうな、なんて考えてましたから。それを、家に帰って親父に言ったら「バカモン、何考えてんだ、お前は。日本の男どもをみんな船で連れてくのにどれだけ金がかかると思ってんだ、そんなことアメリカがやるはずねえじゃねえか、バカ」ってね。まあ、私はそんな程度の中学生だったわけですよ


マッカサーと共にやってきた「五大改革

編集部  敗戦間もない昭和20(1945)年8月30日、マッカーサー元帥が厚木飛行場に降り立ちます。「そんな中学生」だった半藤少年は、マッカーサーをどう思っていたんでしょう。

半藤  いやあ、なにしろカッコいいと思いましたね。丸腰にサングラス、コーンパイプをくわえて悠々とタラップから降りてくる写真が新聞にドーンと載ったわけですから。軍人らしい軍人だなあ、と。


編集部  そのマッカーサーが、矢継ぎ早に布告を出しましたね。

半藤  そうですね。まず、9月11日に連合国軍総司令部(GHQ=General Headquarters)から、主要戦犯容疑者39人の逮捕指令が出されました。22日には軍国主義的・超国家主義的教育の禁止、これによっていわゆる教科書の「墨塗り」が始まります。続いて29日には検閲制度の廃止、そして10月11日には「5大改革」というのが発表されます。


編集部  その5大改革の中身とは、どんなものだったのでしょう?

半藤  それはね、【1】婦人解放 【2】労働者の団結権(労働組合の結成奨励) 【3】教育の民主化 【4】秘密審問司法制度撤廃(つまり、特高=特別高等警察などという公安秘密警察制度の廃止) 【5】経済機構の民主化(財閥解体)などといったものですね。


編集部  そういう改革の流れの一環として「憲法」があったと理解していいんでしょうか。

半藤  よろしいんじゃないでしょうか。だけど、その5大改革の前に「皇室問題」があるんですね。まあ、皇室というより天皇個人をどうするのかというのが、当時の日本でもアメリカでも最大の難問だったわけです。この難問に対してどう答えを出すか、というものとして新憲法の問題があったと考えたほうがいいと思いますね、私は。


編集部  つまり、天皇の地位をどう新憲法に規定するか、ということですね。それが「象徴」ということで落ち着いて、昭和22(1947)年に日本国憲法が発布されます。それを、当時17歳の半藤さんはどのように受け止められたのでしょう?


終戦直後、ほとんどの国民はGHQ案を指示したと思う

半藤  率直に言って、憲法の前文、九条を読んだときには、本当にこれで日本は良い国になると思いましたね。戦争をもうやらない国なんだ、ということは、新しい日本の生き方だと心底思いました。


編集部  周りの友だちの反応はどうだったですか?

半藤  どうだったんでしょうね。今になると、はっきり分かれますよね。「あれは良いものだ」という者と「あんなモンだめだ」という者と。戦争体験なんて簡単に言いますけど、同じ戦争の中にいたって、場所によって違います。感じてない人はまったく感じてない。まったく無自覚な人間もいるわけだから。


編集部  戦争の中にいても感じない?

半藤  そう。私なんか子どもだったけど、戦争体験、いやっていうほど持ってますよ。そういう戦争体験をたくさん持っている人は、たいてい今でも「日本国憲法は良い憲法だ」と言います。ところが、安穏と暮らして戦争について何も考えなかった人たちは違うんだな。それからね、軍隊に行ったからって戦争体験じゃないんですよ。


編集部  軍隊と戦争体験は違う、と?

半藤  そう。僕に言わせれば、ある種の軍隊は一番安全なんだ。メシはちゃんと食えるし防空壕は完備してるし、武器だって持ってる。都会で空襲に晒されていた一般市民よりよっぽど安全なんだ。例えば占領後のシンガポールなんかでノンビリしてた将校や下士官なんて、戦争体験なんかまるでしてないでしょ。とにかく、場所によるってことだけど。


編集部  場所や部署や地位によっては、軍隊は楽なところだったんですね。

半藤  過酷な体験なんか一つもしないで、軍隊暮らしを満喫したようなヤツに限ってバカなことを言うんだ。「憲法改正」だとか「アメリカから貰った憲法だ」とか言うヤツをよく見ると、不思議はないんだね。恐ろしさも悲惨さも感じてないんだから。私なんか、子どものころは物凄くいい憲法だと思っていましたからね。そういうのを読んだり聞いたりすると、すごく腹が立つんですよ。


編集部  そういう話を、お友だちとはしなかったんですか?

半藤  中学生のとき? うん、あまり喋った記憶がない。でもね、長岡だって空襲で随分やられてて、同級生で一家全滅で自分だけ生き残ったとか、そういうのたくさんいましたから、話はあまりしなかったと思うけど、私も周りの人も含めて、新しい憲法に対して不快感を持った人なんていなかったんじゃないかなあ。


編集部  一般国民は圧倒的に新憲法を歓迎していた、と。

半藤  そう思うなあ。日本政府はGHQにせかされて「松本烝治案」という憲法案を提出します。これがとんでもない代物で、明治憲法とほとんど変わっていない。この草案をウチの親父が新聞で読んで「何だこりゃ、前の憲法と何も変わってねえじゃねえか」と怒ってましたね。「万世一系の天皇をいただく我が大日本帝国は不敗の国」なんてのを、このときの政府の連中はまだ後生大事に持ち続けていたんですね。もしもこのとき、業を煮やしたマッカーサーが「松本案」と「GHQ案」を両方国民に示してどちらを選ぶかを問うたら、国民は圧倒的にGHQ案を支持したと思いますね。そういう平和への想いが満ちてましたから。


つづく・・・