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http://diamond.jp/articles/-/59026 【第486回】 2014年9月16日
朝日の「吉田調書」スクープで無関心は加速する
前代未聞のメディア・イベントはいかに成立したか——社会学者・開沼 博
開沼 博 [社会学者]
朝日新聞の報道には擁護の余地も意義もない
11日、政府は、政府事故調(東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会)が吉田昌郎福島第一原発所長(当時)ら19人の証言から作成した調書(聴取書)を公開した。
それを受けて各報道機関は、その要約や調書から読み取れる、これまで明らかになっていなかった事実を報道している。同時に、調書公開を受けて、朝日新聞の木村伊量社長が、朝日新聞の「吉田調書」に関する報道の誤りを認め記事を取り消し、謝罪したことについて、様々な意見が飛び交ってもいる。
本稿では、それら個々の調書に関する報道の詳細を踏まえつつも、前回記事で提示した3つの前提のうえで、吉田調書に議論の対象を絞り、その内容や社会的位置づけ方について、現状でまとめておくべき論点をいくつか挙げておきたい。
調書公開とそれに関連する報道から生まれた意見のなかには、「たしかに、誤報や曲解は問題があったけれども、だからといってすべて間違いというわけではない」「朝日の報道がなければ、調書の公開など検討すらされなかったので意義がある」といった意見がある。
前回記事でも述べた通り、私は、むやみに朝日新聞とその他の報道機関との対立構造を煽ったり、スクープの関係者を吊るし上げる態度には同意しない。しかしながら、このような事態になってまでもなお、ここに至るまでの朝日新聞の報道に「擁護する余地」を見い出そうとしたり、強引に「意義」をこじつけようとしたりという議論にも同意しない。そういう姿勢には、今回の事件に関する根本的な認識が不足していると言わざるを得ない。
まず必要なのは、今回の調書公開は、通常ありえない特例的なプロセスの中でなされたものであり、いわば「超法規的措置」だという事実を明確に意識すべきことだ。
本来、吉田調書とは、非公開が前提で得られた調書だ。調書の冒頭にて「記録が公になること」を承諾しているものの、それは事故検証の過程でとられたものである。当然、そこにおける利用という限定を超えて、このように当人の意図せざるところで漏洩することを前提としていない。それがこの事故調での検証作業であり、その情報収集プロセスを成立させている。
すでに報じられているが、政府事故調の内部に留められる調書が国会事故調に開示される際、吉田氏本人が上申書を提出している。そこでは「国会事故調に開示することについては異議はございません」としつつも、「本件資料が、国会事故調から第三者に向けて公表されることは望みません」「第三者に漏えいすることがないように、国会事故調において厳格な管理をするとともに、国会事故調による調査終了後は、国会事故調から政府事故調へ資料を返却していただきたい」と一般公開を強く拒絶していた。
しかし、朝日新聞の5月の吉田調書スクープは、その発言の一部を切り取り歪曲して伝え、それが一人歩きし、現在に至っている。吉田氏の上申書提出は、そのような事態を事前に懸念してのことである。
公文書にもかかわらず、非公開が前提となる文書が存在すること自体に、不満を抱く人がいることも確かだろう。また、政府が情報を統制する志向を常に持っていることに、不安があるのも理解できる。時代状況を見ても、様々な分野で「市民への情報公開」が善とされる大きな価値観が存在するなかでは、そうした議論が出てくるのは当然だ。
しかし、そのような不満・不安をもとに、今回のようなプロセスによって、非公開が前提の文書をなし崩し的に公開してしまったことは、歴史上の大きな「汚点」となり得る。なぜなら、結果的にではあるが、政府が設置した公式の事故検証の場である事故調において「政府が情報提供者との間に定めた契約を破った」という前例をつくったからだ。ましてや、今回は、吉田氏が亡くなり「死人に口なし」で反論を許されない状態のうえで「情報公開」が進んだ。
これは、今後、社会を揺るがすような事故があって事故調がつくられた際、「事故検証」に協力しない人、あるいは、協力しても口を噤む人が出てくる可能性を高める。
前回述べた通り、事故検証とは誰かの責任追及をするためではなく、事実関係を明確にし、未来への教訓を残すことにある。これまでも様々な事故に関する事故調がつくられ、検証作業が行われてきた。そこでは、「責任追及をしない代わりに、これまで出てこなかった事実も含めて証言してもらう」という前提が設けられることも多かった。
その点で、今回のケースについて「非公開が前提の証言を(政府の圧力に屈せず!)そのまま公開すれば、私たちは真実に近づき、公正な社会を実現できる」と考えるのは、浅薄な発想と言わざるをえない。同様の事態が発生した場合、集めるべき情報の収集を困難にするからだ。事故調に協力しても、それが責任追及の道具や、スキャンダル消費のネタとして一人歩きするのならば、そもそも調査自体が成立しなくなり、社会の真実や公正の確保は遠のく。
繰り返しになるが、「未来への教訓を残すため」との約束が破られる前例をつくってしまったことは大きな汚点だ。「市民への情報公開は進められるべき」という価値観を持つことやその実現は重要だが、必ずしもそれは、無条件に何に対してでも進められるべきことではない。いま重要なのは、私たちが教訓を得られる情報をいかに獲得できるのか、である。
また吉田調書のスクープ自体にも、様々な「非公開情報」が隠れていることは意識されるべきである。例えば、そもそも誰が朝日新聞にリークしたのか、という問題がその一つだ。
報道順を言えば、NHK、読売、共同、毎日だが、その裏では激しい調書獲得競争が行われていた。吉田調書のコピーの入手について、朝日・産経の後を追って取材した記者たちからは「相当、苦労した」と聞いている。吉田調書は、検証が終わってからは厳重に管理され、事故調関係者も含めて、基本的には外部への持ち出しができない文書である。手元に持つ人がいるとしても、一部の政府関係者だけだ、と。
そうであるとすれば、朝日・産経やその他の報道機関は、単に「記者が取材をしていたら、偶然、文書を見つけてしまった」というシナリオではなく、政府関係者なのか、あるいは、そこから入手した第三者等から調書を入手している可能性は高い。情報提供する側も、わざわざそうすることには何らかの「思い」があるのかもしれない。しかし、そうした極めて重要な背景情報は、後追い報道をした他メディアも含めて、記事には書かれていない。
もちろん、これは「情報源の秘匿」の問題である。これが守られなければ情報提供できなくなってしまうという意味では、先の話と同様だ。ただ、そうした背景事情を深める余地はまだあるのかもしれない。
いずれにせよ、必要な情報公開はなされるべきだ。しかし、情報公開を絶対視するあまりに、本来得られなければならない情報を集めることに支障をきたすのであれば、その点は再考すべきだ。
当初、政府は「吉田調書をはじめとする政府事故調の調書を原則的に非公開とすべき」とした。その判断には一定の正当性があった。もし、それでも非公開情報の公開をすべきだとするならば、現在ありがちな議論のように、ただ「国は自分たちの都合のために隠蔽している」「とにかくすべての情報を開示せよ」という話を続けるのではなく、事故検証はじめ、必要な情報を可能な限り社会で共有できる制度がいかにあり得るか考えるべきだ。
例えば、アメリカ等での公文書の取り扱いのように、「当面は非公開とした公文書も、一定期間を置いて情報公開して、社会のために役立てることができるようにする」制度をつくる必要があるだろう。いつまでも「市民への情報公開は無条件に礼賛されるべきで、それに反する議論は全て批判すべき」というようなレベルの話をしていても仕方ない。
日本はまだ、「市民への情報公開」を進める余地がある。今回を機に、社会に必要な情報をいかに集め、共有すべきか考えなおさなければならない。
前代未聞のメディア・イベントはいかに成立したのか
前回の記事では、吉田調書の内容の多くは政府事故調の報告に織り込み済みであり、朝日新聞の9割撤退スクープの検証に資する情報以外に、大きな新事実はない、という旨を述べた。それに対して、「新事実がないならば、なぜ朝日新聞は、命令違反で社員の9割が逃げたと報道したのか?」という疑問を何人かから投げかけられた。
たいした新情報もない文書を元に、なぜ朝日新聞はスクープを報じようとしたのか。これは非常に重要な問いだ。
結論としては、その明確な理由はわからない。
いや、大方の予想はつく。「ウケ狙い」だ。「とにかく原発・放射線が危ない」「東電はけしからん」「政府は不都合なことを隠蔽しているんだ」「真実から阻害された市民は立ち上がれ」という、朝日新聞はじめ一部メディアがこの3年間何度も繰り返してきたパターン。これは3.11以降、権力批判志向の強いメディア・知識人が繰り出せば大ウケする「鉄板ネタ」となった。それに味をしめて——。だが、本当にそんなどうしようもない理由で記者が動いたのだろうか。その答えは今回の事件を引き起こした当事者にしかわからないし、そうでないことを願いたい。
いずれにせよ、「新事実がないならば、なぜ朝日新聞は、命令違反で社員の9割が逃げたと報道したのか?」という問いへの明確な理由は、すでに朝日新聞が経緯の概略を説明している部分もあるものの、詳細を理解するのには不十分なのが現状だ。吉田調書問題を追いかけている他の報道機関の記者に聞いても、「なぜ、あんな脇の甘いことをしたのかわからない」「吉田氏が、第二原発に行ったことをあとから肯定的に評価している、という部分を入れても記事は成立したはずだ。なぜ、わざわざ『悪質な歪曲』と突っ込まれそうなことをしたのか」といった疑問の声を聞くばかりだ。
ここでは、彼らの主観から見て「なぜそうしたのか」(Why)ではなく、客観的に「大手紙幹部の進退を左右することにまでなったメディア・イベントが、いかに成立したのか」(How)を簡単に整理しておこう。
一般に、メディアが何らかの情報を入手し、それが多くの人の興味を引くものだとしても、無条件にスクープしていいわけではない。例えば、犯罪の具体的な手法を流すことは模倣犯につながり、自殺者が出た際にそれを配慮なく報じることはさらなる自殺者を生む。テロの鎮圧や検察のガサ入れも、事前にメディアに情報が出回っていたとしても、当然それをむやみに報じることはない。外交や株式市場に影響を与える情報や、病気・災害に関するあいまいな情報も、精査されなければデマ・風説が大きな害を生むこともある。
なされるべき情報公開がいま以上に進むことは必要だが、常に一人歩きする可能性を持つ情報の取り扱いには、細心の注意を払う必要がある。今回も、まさに吉田氏が懸念した通りに一人歩きをしているのが実情だ。
朝日新聞が、非公開情報を死者の遺志に背いてまで公開した背景には、それが社会のために役立つはずだという「正義」があったはずだ。しかし、結果はどうだっただろうか。朝日新聞の当初のスクープは、「情報独占」を足場として成立していたものといえるだろう。
誰も確認できない、確認できても吉田氏本人やそこに書かれた人は反論できない立場にいる。その構図のなかで、手元の情報に一定の解釈を加えて、自らの「正義」を主張する記事にする。
ところが、8月後半、情報が他の媒体にも共有されて「情報独占」が崩れ、多角的な検証が始まると、その「解釈」に「歪曲・曲解」の色が強いという疑問が提示され出した。当初から朝日を強く批判していた産経のみならず、読売・毎日等も、吉田調書の現物を確認したうえでの批判を展開し始めている。
実は、それ以前から、一部の週刊誌やジャーナリストが「朝日新聞の吉田調書報道の偏り」を主張していたが、それらに対して朝日側がしてきたことは「抗議文を送る」などの対応だった。いまになって抗議文の取り下げを行ったものの、当初の反省・自己検証をする素振りも見せず、法的手段をちらつかせるという手法は、現時点から振り返れば「言論の自由」への圧力と言われても仕方ない側面もある。
元の記事はいまでもWebで確認できるので再読いただきたいが、朝日新聞の当初報道と他報道機関の後追い報道の論点を端的にまとめると、以下のようになるだろう。
そもそものポイントはこういうことだ。
A)津波による電源喪失のなか、福島第一原発の状況が様々に悪化すると、吉田所長は作業員たちに、いまいる福島第一原発内の安全な場所に退避するように命じた。
B)ところが、結果として多くの所員がバスや自家用車に乗って福島第二原発に移動してしまう。
問題はA)とB)の間に何が起こったのか、どう解釈できるのか、ということだ。朝日新聞以外の産経・読売・毎日などの新聞は、吉田調書のコピーを入手したうえで、A)とB)の間を、現場での「誤解」であり、当事者間の「意図せざる結果」だと見ている。大雑把にまとめると、以下のようになるだろう。
・吉田所長から、約700人の福島第一原発の現場所員への情報伝達のプロセスで誤解が生じた。
・「誤解」とは、吉田氏が福島第一原発内部の建物内などに退避するよう言ったことを、現場で指示を出す所員が第二原発に退避するものと捉えてしまったことである。その所員は、他の所員にバスや自家用車で向かうよう伝えた。
・その結果、たしかに一時的に所員の9割に当たる650人ほどが第二原発に向かった。しかし、その誤りに気づき、幹部などはすぐに帰ってきた。
・調書のなかで吉田氏は、第二原発に向かった判断を「意図的に命令に反した撤退」と捉えることはなく、むしろ、あとから振り返れば現場所員の正しい判断だった評価している。
以上である。
一方、朝日新聞の報道は「9割の作業員が、組織の統制が取れていない故に、こともあろうに撤退した」という趣旨で報じた。いや、「報じた」というと語弊があるかもしれない。
朝日新聞の当初報道を細かく読んだうえで正確に言うと、1)必ずしも「9割の所員が吉田所長の命令を知ったうえで敵前逃亡した」とは断定できないように、慎重な言葉使いで書いている部分があるものの、2)結果として「9割の所員が吉田所長の命令を知ったうえで敵前逃亡した」かのように情報が流れるメディア・イベントが成立した(あるいは、意図的に成立させた)。そのように読むことができるかもしれない。
まず、1)については、朝日新聞の当初報道を読み進めると、所員が命令に「反して」「違反して」という言葉使いのもとで、B)の帰結に至ったと論理を詰める。これだけ見れば、証拠(=手元にある調書)に基づき、丁寧にA)とB)との間の矛盾を指摘し、事実関係を整理しているだけにも見える。
しかし、その事実関係に、独自の解釈を印象づけるような描写があるのも確かだ。例えば、福島第一原発に最後まで残った50人を「フクシマ・フィフティー」と称える、原発事故直後に流通した物語に対しては、「フクシマ・フィフティーの真相」内で以下のように表現している。
「しかし、吉田自身も含め69人が福島第一原発にとどまったのは、所員らが所長の命令に反して福島第二原発に行ってしまった結果に過ぎない。所長が統率をとれず、要員が幹部社員も含めて一気に9割もいなくなった福島第一原発では、対応が難しい課題が次々と噴出した」
所長の命令に反したのが、「統率の欠如」の問題だと強調した。そのうえで、以下のようにも主張する。
「所員が大挙して所長の命令に反して福島第二原発に撤退し、ほとんど作業という作業ができなかったときに、福島第一原発に本当の危機的事象が起きた可能性がある」
つまり、「組織のコントロールが不能になったうえに、原発事故のコントロールも不能になった」と、恣意的に特定の印象づけをしようとする意図があるように見える。
テキストを精査して言えるのはここまでだ。もしかすると、情報の「送り手」たる朝日新聞の担当者は、こう弁解するかもしれない。「9割の所員が吉田所長の命令を知ったうえで敵前逃亡した」という印象操作の意図はなく、それは「受け手」(読者・他報道機関)の深読みだ、と。
しかし事実として、その情報の「受け手」(読者・他報道機関)は「特定の印象」、すなわち「9割の所員が吉田所長の命令を知ったうえで敵前逃亡したという印象」を持っていた。これは偶然ではない。今般のメディア・イベントが成立するいくつかの要因、つまり「舞台装置」があった。そのうえでなされる「送り手」と「受け手」の相互コミュニケーションが、一つのメディア・イベントを成立させたのだ。では、いかなる舞台装置があったのか見ていこう。
その一つは、当時、受け手の中に「9割の所員が吉田所長の命令を知ったうえで敵前逃亡した」という印象が成立するバイアスがかかりやすい状況があったということだ。それが重要な「舞台装置」となった。具体的に言えば、「セウォル号事件」が国際的なニュースになっていたことが大きい。
吉田調書のスクープが始まった5月20日当時、4月16日に沈没した大韓民国の大型旅客船「セウォル」(世越)のニュースはピークを越したものの、まだ多くの人の脳裏に焼きついていた。沈没した船の船長らは我先にと逃げ、乗客を見殺しにし、運営上の様々な不手際も明るみに出て、政府が激しい避難を浴びていた。そこに「所員が命令違反し撤退」と煽り立てることは、仮に「送り手」(朝日新聞)には何の意図もないと主張したとしても、「受け手」(読者・他報道機関)がそのような認識に至るバイアスがかかりやすい状況を生んだことは確かだろう。
読売新聞等の検証記事では、韓国でソウル新聞が「福島の事故でもセウォル号の船員たちのように…」、国民日報が「日本版のセウォル号事件と注目されている」と伝えたことが書かれている。明らかに「セウォル号事件」を「福島第一原発ネタ」とパラレルに捉え、「日本版セウォル号事件」として認識していた。
これは韓国だけではない。同じく読売新聞等の検証記事内では、米紙ニューヨーク・タイムズが「命令に反し、パニックに陥った所員は原発から逃げ出した」と述べるなど、海外メディアが一斉に「福島第一原発の9割の所員が現場を放棄し、約10キロ離れた福島第二原発に逃げた」と報じたことを指摘している。
事実として、他国においては「福島第一原発の所員は敵前逃亡した」という誤った社会的リアリティが構築されていったのだ。そして、言うまでもなく、国内でも同様に「9割の所員が吉田所長の命令を知ったうえで敵前逃亡した」という認識がもたらされ、先述の通り、いくつかの雑誌や何人かのジャーナリストがその誤りを指摘するに至った。
ただ、それではやはり「送り手」たる朝日新聞はそこまでは言っていない、「受け手」が勝手に偏った認識を持っただけだ、という話も出てくるかもしれない。しかし、それは明らかに違っている。それがもう一つの大きな「舞台装置」である、「都合のいいイデオローグ」(理論家)の活用だ。
先に述べた通り、吉田調書スクープの記事だけならば、もしかしたら「言い逃れ」をできる余地はあったかもしれない。「9割の所員が吉田所長の命令を知ったうえで敵前逃亡した」は「受け手」(読者・他報道機関)の勝手な誤解だ、と。しかし、そのような言い訳は通じない。「送り手」たる朝日新聞の紙面の中に、そのような論調をつくる動きは確実にあったからだ。
例えば、社会学者の小熊英二は、6月10日の朝日新聞夕刊において、吉田調書スクープを受け「(思想の地層)法の支配と原発 残留の義務、誰にもなかった」という意見記事を書く。それは「福島第一原発の所員の9割が敵前逃亡した」という事実を無批判に措定しつつ、「法の支配」「あるべき民主主義」「原発の再稼働の是非」などについて崇高な理念を論じようとするものだ。
しかし、吉田調書スクープ記事のコメント部分をバイアスを持たずに追えば、前提となる「福島第一原発の所員の9割が敵前逃亡した」と解釈すること自体に無理があった。事実、先述の通り、この時点ですでに吉田調書スクープへの疑問を提示する媒体・論者はいる。にもかかわらず、曖昧な事実を精査することもなく「結論ありきの理屈付け」がなされ何百万というその読者に誤った印象をつけた。
このように「曖昧な事実」も「都合のいいイデオローグ」とセットにすることで、あたかもそれが真実であるかのように社会的リアリティが立ち上がることは、しばしばある。それは、原発事故後「御用学者」と呼ばれるようになった人々を思い浮かべればいいだろう。原発推進を前提とした安全神話イデオロギーを正当化するために、「曖昧な事実」であろうとも、「結論ありきの理屈づけ」をする「都合のいいイデオローグ」が原発事故の前提を整えた。そして、3.11を経て、原発推進から脱原発へとイデオロギーを反転させつつも、入れ替え可能な構造がそこに生まれていた。
今回の誤報・歪曲の成立に加担した「都合のいいイデオローグ」の責任は極めて重い。朝日新聞幹部は記者会見をして責任を取ろうとしたが、「都合のいいイデオローグ」はこのままだんまりを決め込むだろう。しかし、彼らのような影の立役者がいてこそ、このメディア・イベントが成立したことを見逃してはならない。当然、「知らなかった」では済まされる問題でもない。
これをどう評価するかは人によるだろう。「脱原発のイデオロギー実現のためには、多少の事実の捻じ曲げも構わない」と牽強付会を肯定する人もいるだろうし、「やはり、公正に議論する前提を作らなければ自由な社会の実現は遠ざかるのではないか」と懸念する人もいるはずだ。いずれにせよ、歪んだイデオロギーの実現にしたり顔で加担する「都合のいいイデオローグ」を支えるのは、メディア以上にオーディエンスだ。社会に害悪を与えるまがい物の「都合のいいイデオローグ」が生まれないようにするためには、オーディエンス自身が変わらなければならない。
最後の「舞台装置」は、「受け手」の持つ「吊し上げ・糾弾」願望だ。それは、とりわけ福島第一原発事故後、政府・東電に対するはけ口の一つが向けられてきたものであるし、インターネット上の議論のなかで増幅されてきたものだとも言えるかもしれない。
今回の吉田調書問題について、公開された記事の「内容」自体についての言及に比べ、その公開の「形式」について触れる議論は少ない。しかし、吉田調書は通常の新聞記事とは違って、特殊な「形式」の中で公開された。
スクープ記事は、通常の新聞紙面での展開だけでなく、オンラインでもセンセーショナルに展開された。メールマガジン等での事前告知や、ビジュアルを重視して特殊なつくりをしたWebによる大々的キャンペーン。それは狙いどおり相当な「バズり」(ネット上での拡散)を生み、震災から3年が経って久方ぶりの「原発の脅威」「東電のどうしよもなさ」を煽り得るネタとして、体よく「吊し上げ・糾弾」願望を満たした結果でもあった。
朝日新聞をかばうつもりはないが、こうしたオンライン展開自体は決して悪いものではない。むしろ、新しいジャーナリズムを見据えた先取り精神にあふれる取り組みだった。詳細は省くが、ここで用いられた手法は、オンライン・ジャーナリズムの先端的な手法である、データ・ジャーナリズムやイマーシブ・ジャーナリズムと呼ばれる系譜に並ぶものである。アメリカの大手メディアでは、この手法を用いながら、権威あるジャーナリズムの賞である「ピューリッツァー賞」受賞などの実績も出し始めていた。
朝日新聞でもそのような世界の最先端に並ぼうと、2013年にメディアラボを社内につくるなど、様々な挑戦を進めているところで、今回の展開にはそういった「攻め」の側面があったと言えるだろう(木村伊量社長はメディアラボを「既成概念にとらわれない自由な発想で、寝てもさめても世の中をあっと言わせる新商品開発に熱中し、大胆な企業買収や事業展開を考えるための部門」としていた)。
その点では吉田調書スクープは訴求力があったし、インターネットとジャーナリズムの新たな関係の扉を開く可能性を含んだものであった、と評価することもできる。ただし、報道の「形式」は高く評価できるものであっても、その記事の「内容」に問題があったが故に、このような結果になってしまったのは残念だ。
朝日新聞は、同様の手法を使って浅田真央のソチ五輪での演技と足跡を記事にした「ラスト・ダンス」と同時に、「吉田調書」についても新聞業界で権威を持つ「新聞協会賞」に応募していたという。有効な技術自体が悪いわけではないし、それを支える若手スタッフたちもこのような記事の歪曲、その背景にある大衆的な「吊し上げ・糾弾」願望へのおもねりを知らなかったのではないか。だがいずれにせよ、素晴らしい技術が、結果的に悪い形で効果を発揮してしまったのは確かだろう。
かくして、記事のテキスト自体や「送り手」のみがこの前代未聞のメディア・イベントを成立させたわけではなく、「受け手」の置かれた状況、イデオロギーとイデオローグ、テクノロジーといった社会背景も関わりながら、これは起こったのだ。
そうして見たときに、吉田調書問題の根底にあるものは、「吉田調書だけの問題」ではなく、ジャーナリズムとは何か、あるいはそれを支える学問や批評、IT等はいかにあるべきなのかを考える、極めて現代的な問題だと見ることもできるだろう。
歪んだ議論が震災への無関心を加速させる
吉田調書ほか政府事故調の調書公開が始まったなかで、いま議論の中心にあるべきなのは「とにかく、市民のためにすべてを情報公開すべき」という主張でも、「新たな吊し上げ・糾弾の対象を探すべき」という下劣な目標を立てることでもない。しつこく繰り返してしまうが、いかにそこから教訓を得るかということだ。
そして、歪曲・捏造と見なされることをしてしまった事実に対して、私たちがなすべきなのは、それでも朝日新聞の吉田調書報道の全てが間違っているわけではないと「擁護」したり、無理に公開に至らしめた「意義」を見い出そうとしたりすることではない。歪曲・捏造と見なされることを二度としないために考え、溜まった膿を出しきり、具体的な行動に落とし込むことに他ならない。その認識を、もちろん問題を起こした当事者自身が持つべきであるが、それ以上に、私たちオーディエンスも真摯に持つべきだ。さもなくば、同様のメディア・イベントは再発する。そのうえで、すでに進んでいる無関心化にいかに抗うか、ということが重要になる。
吉田調書問題で改めて反省すべき大きなポイントの一つは、この報道によってもたらされた「原発作業員は原発事故に怖気づいて逃げた」という事実と違うイメージのもとで、原発作業員への大いなる侮辱・冒涜がなされたということだ。いまも、現場でリスクを抱え、もがきがながら働いている作業員がいる。彼らを尊重することなしに、原発事故の問題は解決しない。
しかし、彼らは東電や東電関連会社の社員である場合も多く、何を言われても自分たちの考えを言いづらい立場にもある。にもかかわらず、遠くから、上段から、一面的な見方を押し付ける圧力は常にかかり続ける。もし8月以降の検証作業がなかったならば、彼らへの蔑みの眼差しは是正されることはなかっただろう。
また、彼らの多くは地元出身の被災者でもあることを忘れてはならない。被災者でありながら当時の収束作業に励んた人々のなかにはPTSD(心的外傷後ストレス障害)を抱える人も多くいる。今回の件は、彼らへのセカンド・レイプにも等しい暴行だったと言っても過言ではない。仮に、背景に「権力監視」への義務感や「正義」があったとしても、である。
福島第一原発での地下水等の処理の問題、中間貯蔵施設の搬入の開始など、目の前には大きな課題もある。本来は、このような解決し難い問題にこそ、知恵と関心を集めるべきだ。恐怖を煽ったり、悪者探しをしたりすることで関心を引こうとする志向は、被災地の問題を置き去りにし、その議論を消費し尽くしたあとには何も残らない。これまでも、そうしたセンセーショナルな議論に、被災地は散々翻弄されてきた。
原発作業員への眼差しの問題から離れても、吉田調書スクープのような報道は、一部の人には今後も評価され続けるだろう。「ほら、やっぱり原発は人の手に負えないではないか。東電は無責任だ。原発も東電もダメなんだ。危ない放射能をまき散らして」と、これまで何度も繰り返されてきたパターンの議論を、いまでも強く欲し、望む人はいる。
とにかく東電・政府を叩けば賞賛され、とにかく原発・放射線が危険だと煽れば喝采される。そこにいくら石を投げ続けても、自分に石を投げ返されることはない。なされるべき冷静な批判も、科学的検証も熱狂にかき消される。それによって、なおさら賞賛・喝采を求める「調査報道」が続けられる。極端な言い方かも知れないが、3年半のうち知らぬ間にそんな経路依存性ができてきていないか。
たしかに、東電・政府に批判されるべきことはあり、原発・放射線の状況も注視しなければならない。その側面があることを認めたうえで、事実の検証は「思い入れ」やイデオロギーとは分けてなされるべきだ。さもなくば、3.11以前、見るべき事実を見て見ぬふりし、恣意的な解釈を積み重ねることでの歪みが「安全神話」を産んだのと同様に、これからも、社会の暗部を不可視化・固定化して「漂白」する力はかかり続ける。
いまもなお、今回の報道に「朝日 vs. 産経(&読売・毎日等)」という二項対立を読み込み、「産経がまた朝日・民主党叩きしている」「官邸が慰安婦問題・吉田証言以降の朝日吊し上げの空気に乗じている」と解釈するのみで済ませようとする議論が一定数ある。
たしかに、吉田調書問題は、かねてよりあった「ありがちな構図」のうえで行われている、メディア・イベントの側面を持っていることも確かだ。しかし、そのような安直な枠組みのなかで認識し、済ませるべきことではない。なぜ、復興の現場の最先端で苦心する人を貶めるような報道が、正義然となされてしまったのか。思い入れとバイアスのなかで、歪んだ議論がなされていったのか。これらは大いに検証がなされていく必要がある。
多くの人は、今回のような議論の混迷のなかで「また原発についてわけわからないことが起きている」と、原発議論自体への不信感を強めるとともに、無関心にもなるだろう。もし吉田調書スクープの背景に、「このようなセンセーショナルな報道をすれば、原発問題や被災地への関心が再び高まるはずだ」という「善意」があったのだとすれば、それはまったくの逆効果だ。
3.11後の原発や被災地をめぐる報道には、恐怖心を煽ることや政局に絡めることに偏った、センセーショナルな議論が蔓延してきた。しかし、これまでの多くの議論がそうであったように、吉田調書問題の議論が消費し尽くされた先に何も残されないとすれば、より持続性のある議論の仕方を考えなければならない。
スキャンダルが出てきたときだけ騒いだり、「毎年3月になったら特集して終わり」ではなく、これをきっかけにいかに持続的な議論をする場をどうつくるか考えるべきなのだ。
<ちゃんとわたしたちにわかるように書いている。交通整理もうまいですよ。>
http://diamond.jp/articles/-/59001より転載 【第485回】 2014年9月12日
「吉田調書」を正しく読み解くための3つの前提
「朝日 vs. 産経」では事故の本質は見えてこない——社会学者・開沼 博

前提1:そもそも事故調の目的は「責任追及」ではなく「教訓の抽出」
「後世に事故から得られる教訓を残し、再発を防ぐこと」
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前提2:吉田調書そのものに重要な新情報はそれほどない。
「まず、3つの事故調の報告書を読め」
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前提3:「作業員9割命令違反撤退問題」と
「東電幹部撤退検討問題」は別。
「東日本が壊滅」は特筆すべき新情報ではない。
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2014年9月11日、当初は非公開とされていた「吉田調書」が公開された。公開のきっかけとなったのは「所員の9割が命令違反で撤退した」という朝日新聞の記事である。その真偽をめぐり報道合戦は過熱し、残念ながら、調書を取り巻く議論は本質を見失っているのが現状だ。私たちは、吉田調書の公開をどのようにとらえるべきなのか。『「フクシマ」論』で衝撃を与えた社会学者であり、現在は福島大学で特別研究員を務める開沼博が語る。
■報道合戦で事故検証の議論は退化した
2014年9月11日、「吉田調書」が公開された。
本来、非公開資料であったそれは、2014年5月の朝日新聞のスクープ以来、様々な話題を生み出してきた。大手メディアは、すでにそのコピー等を入手したうえで検証報道を進めているため、今後、どれだけ新たな事実が炙りだされるかは未知数だ。だが、吉田調書自体が、後世に残る重要な資料となることは間違いないだろう。
その一方で、「どう読めばいいのか、何が論点なのかよくわからない」という声も耳にする。それもそのはずだ。約400ページにも及ぶ膨大な資料の大部分は、原子炉の構造や事故対応の方法等に一定の予備知識がなければ、その価値を判断しかねる極めてテクニカルな話である。
事故当時の福島第一原発所長であり、2013年7月に亡くなった吉田昌郎氏が、当時の首相であった菅直人を「おっさん」と呼ぶなど、一般の人の関心を集める部分もあるが、それは議論の枝葉末節にすぎない。
そのように「わかりにくい」が故に、メディアではわかりやすそうな部分を切り出して報じることも多かった。そこでは「隠蔽して逃げる悪 vs. それを懲らしめる正義の味方」や「朝日 vs. 産経」の二項対立など、吉田調書に限らず、機会があるごとにメディアで何度も再生産される「わかりやすい構図」が繰り返されてきた。センセーショナリズムに走り、その根本に迫ろうとするものは少なかったと言わざるをえない。
結論から言うならば、私はこのような「逃げたか否か」「官邸・東電・現場の誰が本当のことを言っているのか」という「悪者吊し上げ型」の消費のあり方に大いに疑問を持っている。「吊し上げ」よりも重要なのは、この吉田調書からどれだけ新しい教訓を得られるのかということだ。しかし、現状の吉田調書を取り巻く議論は、新しい教訓を得るどころか、事故検証に関する議論を退化させているとさえ感じている。
震災からそれほど時間が経たないなかで成し得たものとしては、それなりに価値のある事故検証をないがしろにし、その一部を切り取ってセンセーショナルに消費し尽くすさまには、いささかの生産性もない。この原稿を通して、そうした議論を少しでも是正できればと考えている。
吉田調書の公開にあたり、私たちはそれをどう読むべきなのか。そのための前提を大きく3つ提示したい。
■事故調の目的は責任の追及ではない
前提1:そもそも事故調の目的は「責任追及」ではなく「教訓の抽出」
吉田調書は「政府事故調」の聞き取りに、吉田氏が応えた際の調書だ。まず、この「事故調」について簡単に振り返っておこう。
事故調には大きく、政府事故調(東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会)、国会事故調(東京電力福島原子力発電所事故調査委員会)、民間事故調(福島原発事故検証委員会)の3つがある。東電が自ら作成した事故調など、他にも民間レベルで細かい事故検証がなされた事例はいくつもあるが、幅広い関係者への聞き取り調査を実施し、新聞等で「事故調」と言及される際に参照されるのがこの3つだ。
では、3つの事故調は何が違うのか。
たとえば、ある事故調関係者が「政府事故調は官僚、国会事故調はコンサルタント、民間事故調は学者がつくった」と整理したのを聞いたことがある。たしかに、それぞれの事故調での中心で実作業を担ったといわれる人々を思い浮かべると、この整理の仕方が妥当な側面もある。もしかしたら、「官僚は細かいことを地道に調整し、コンサルタントは鮮やかに事態の特異性を示し、学者は緻密に理論枠組みや解釈を提示する」というイメージを持ちながら報告書を読み比べることで、その特徴を把握できるかもしれない。
いずれにせよ、事故検証の結果に大枠では大きな差はないものの、展開する議論には一定のズレがある。それは、それぞれの情報収集のあり方や関わっているスタッフの差によるものといえるだろう。
吉田調書はその中でも、「政府事故調」が吉田氏に聞き取りをし、それをA4用紙で400ページにわたる調書にまとめたものだ。この調書は、吉田氏から聞き取りができなかった国会事故調の報告書を作成する際にも利用された。
この報告書がいかなる価値を持つのかを理解するには、そもそも、事故調がどのようなプロセスで実施され、何を目的に行われるかを簡単に把握しておく必要があるだろう。
事故調が事故検証を進める過程は、組織犯罪の裁判や推理小説に似ている。
被告や関係者が多数いて、それぞれの言うこと、見てきたものへの認識はバラバラと食い違う。なかには、嘘を言っている人や事実誤認をしている人もいる。そのため、それぞれの人が持つ事件に関する記憶をとりあえず聞き出していく。そして、全員の証言を並べてみて、全員に一致する明白な客観的事実と、そうでないものを分け、後者については言葉の論理関係や状況証拠などから、誰の見解が事実なのか特定していく。
ただし、事故調の目的は裁判や推理小説とはまったく異なる。事故調は、誰かを犯人として断定し、責任追及することを目的としていない。その役割は、あくまで「後世に事故から得られる教訓を残し、再発を防ぐこと」にある。
なお、3つの事故調はそれぞれ、何百人という協力者から証言や状況証拠、前提知識を把握し、何十人というスタッフがそれを丁寧に検証し、「ここまでは事実として間違いない」という点を報告書にまとめたものだ。それぞれの報告書は出版され、Webから閲覧できる資料なども残っている。
■吉田調書に新情報はほとんどない
前提2:吉田調書そのものに重要な新情報はそれほどない。
吉田調書を巡る議論を追っていくと「吉田調書が公開され、他の非公開調書も公開されていけば、そこには新情報があふれているはずだ」という強い期待を持っている人がいることに気づく。また、「政府やマスコミは真実を知りながらそれを隠蔽している」という陰謀論が好きな人や、そうでなくても「原発は危ない」ということを改めて強調するために、利用可能な論拠を調書に求めている人もいる。あるいは「ほら、やっぱりこんなとんでもないことになっていたではないか。だから、当初は調書を非公開にしたに違いない」と。
しかし、残念ながら、吉田調書自体にはそうした意図に応えてくれる新情報はほとんどない。
最大の理由は、「重要な論点はすでに事故調報告書に記載されている」ということにある。先に述べた通り、事故調はそれぞれ膨大な数の証言(政府が772人、国会が1167人、民間が約300人)を収集したうえで事実関係を特定している。これに対して吉田調書は、現場を統括する立場にいた責任者の証言である。そこに記述された重要な事実の多くが、多角的に検証されており、すでに事故調報告書には盛り込まれているのだ。
事故発生当時から現在まで、事故を取材し続けてきたある新聞社の記者は、「意外と普通のことが書いてあるだけなんですけどね。なんでこんなに大騒ぎになっているんだか」と語っていた。まさにその通りで、吉田調書自体は非公開情報であったが、実は、吉田調書に書かれている内容の多くは、すでに事故調報告書に存分に公開されている。加えて、周辺の人々の証言からの補足情報や事実関係の吟味もなされている。
その点では、私たちは吉田調書をいかに読むべきかという問いへの答えは明確だ。
「まず、3つの事故調の報告書を読め」
そのうえで、今回公開された吉田調書などを見ながら、細かいズレを確認する作業をすべきだ。
吉田調書のそれぞれの証言は、事故調報告書にとっては、あくまでも何千とある証拠資料の一つにすぎない。事実誤認や個人的な思いで誇張された表現が紛れていることは踏まえなければならない。
また、それを相対化するためには、すでに入手できる他の関係者の証言・回想も参照すべきだ。例えば、福山哲郎副官房長官(当時)が書いた『原発危機』(筑摩書房)など、キーパーソンがそれぞれの立場から事故のプロセスを詳述した公開証言は多数ある。
なお、政府事故調が集めた調書が他の証言と違う点があるとするならば、それが非公開前提であるため「ぶっちゃけ話」が入っている可能性が高いということだ。だが、それもまた政府事故調・国会事故調の検証スタッフら多くの人がすでに目を通し、その要点は報告書に落とし込まれている。そのため、仮に事故調報告書に書いていないように見える部分があったとしても、冷静に信ぴょう性等を検討すべきだ。
■結論ありきで都合よく解釈してはいけない
前提3:「作業員9割命令違反撤退問題」と「東電幹部撤退検討問題」は別。「東日本が壊滅」は特筆すべき新情報ではない。
先月、産経新聞が朝日新聞の吉田調書報道について検証記事キャンペーンを始めてから、当時の首相であった菅直人氏は、Twitterやブログで自らの意見を発表してきた。そこでの主張はいくつかあるが、その一つが「調書公開への歓迎」で、調書公開によって事実検証がさらに進むことへの期待が表明されている。もう一つが「原子炉冷却のための注水を止めたのは東電。そのうえ、東電幹部は事故現場から撤退を検討したいと伝えてきた」ということだ。
後者の詳細については菅氏のブログ等を読み直していただきたいし、先に触れた福山哲郎の『原発危機』など、当時の官邸関係者の見解も参照すべきだ。少なくとも官邸は、事実として菅氏が主張するような形で東電に翻弄され続けたという認識を持っていて、それにもかかわらず、起こったことの多くが官邸の責任にされることに疑問を抱いているのも読み取れる。
たしかに、民間事故調報告書の発表時など、一部の新聞は菅氏に帰責される部分を誇張するような報じ方をしたものもあり、その後も、事実誤認に基づいた菅政権・民主党批判がなされてきた部分もあった。前者については、私自身も所属していた民間事故調ワーキンググループ内部で「そういうことを書いているわけではない」という声が上がったことを記憶している。菅氏や当時の官邸関係者が言及することの検証は、今後も慎重に深められるべきだと考えている。
しかし、この「東電幹部撤退検討問題」と、今回の朝日新聞が「福島第一原発の現場で9割の作業員が所長命令に違反し撤退した」と断じたことに発する議論とは、まったく異なる次元にある話だ。
つまり、2014年の8月後半に吉田調書が話題になってからの、菅氏の主張する「東電幹部撤退検討」と、今回の調書公開に至ることとなった「作業員9割命令違反撤退問題」との間には一定のズレがある。菅氏の立場からその主張を続ける「気持ち」はわかるものの、そこに引っ張られることは議論の根底を見失わせる。
たとえば、菅氏の主張などを組み込みつつ「やはり、東電が撤退しようとしたのは間違っていなかったではないか」などと受け止めるむきもあるようだ。だが、それは「東電幹部撤退検討問題」に関するものであって、「作業員9割命令違反撤退問題」とは区別しながら事実関係を検討すべきだ。
同様に、議論の核からズレる論点として「東日本壊滅認識」の問題がある。たとえば、共同通信は8月末の調書入手直後の記事で「元所長『イメージは東日本壊滅』『吉田調書』の全容判明」という見出しを立てて、吉田氏の「東日本壊滅認識」を強調した記事を配信した。
これはショッキングな内容であり、特筆すべき新情報のように感じる人もいるかもしれない。しかし、残念ながらこれまで積み上げられてきた福島第一原発事故検証の文脈の中では、必ずしも「新情報」ではない。
たとえば、原子力委員会の近藤駿介委員長(当時)が、2011年3月25日の段階で官邸に提示していた「最悪のシナリオ」は、事故について少しでも調べれば出てくる話だ。「最悪のシナリオ」とは、福島第一原発の状況が悪化して手が付けられなくなった場合を想定し、福島第一原発から250キロ以遠の「移転」「首都圏3000万人避難」を示唆したシナリオのことだ。
このシナリオを知った時は衝撃的で、大きな脅威を私も感じた。ただ、このシナリオ自体は、すでに事故調報告書の中でも明確に言及されている。また、このシナリオを別にしても、官邸も現場も有識者も「東日本壊滅認識」を感じ、踏まえていたこと自体は、改めて針小棒大に論じるほどの新情報ではない(共同通信は吉田調書の第一報での他紙との抜き合いで遅れをとっている。仮に「産経・読売と同じ切り口でいくわけにもいかないし、朝日の切り口にはのれない」となった際に、記事の独自性を打ち立てる必要が生じて、このようなセンセーショナルな部分を切り取ったのならば、それは展開戦術の一つとして理解できなくもない)。
いずれにせよ、ここで重要なのは、論点は何か、何が新情報で何がそうではないのかを意識して、「とにかく原発は絶対危険だから、その危険性を煽れる限り煽りたい」「朝日が憎い」「産経が嫌い」といったイデオロギー、結論ありきの議論に陥らないよう注意すべきということだ。
以上、3つの前提踏まえたうえで、次回ではより具体的な論点をあげたい。
後編の公開は9月16日(火)を予定。
N.KさんのFBより
デモ終了後は辺野古に基地をつくらせない大阪行動にGO!

9月23日(火) 会場を代々木公園から亀戸中央公園に移して開催
「さようなら原発全国大集会」
呼びかけ人、
大江健三郎、内橋克人、澤地久枝、落合恵子、鎌田 慧に加え、広瀬 隆さん、河合弁護士