爺さんが伝えたいこと

寡黙に生きて来た爺さんが、一つの言葉ででも若い人達の役に立つならば、幸いです。

「死」を嘆かない

2021-11-29 19:23:58 | 日記
仁愛の心で生きるという事は、花火の様に一瞬の輝きではなく、谷川の流れの様に、絶え間なく人を優しく思いやって行くという事だ。

「自分は、どう死ねばいいのか」と、自分の死に方を考えておけば、それまで「どう生きるか」が分かる…という意見もある。

が、では「どう生まれたらいいのか」を考えて、この世に生まれて来たのであろうか。

人間は宇宙の生成力によって生まれ、命は自然に尽きて行く。

人は歳を取るに連れて、手足が不自由になったり、寝たきりになったりしてしまう。

「どう死ねばいいのか」などと考えた所で、自分が考えた様に上手くはいかない。
「死して後に已(や)む」。
それよりは、いざ宇宙からお迎えが来たら「貴重な人生を長い間ありがとう」と合掌する事だ。

次に「この世を去るのは寂しいが、自分がいつまでも生きていたら、周りの看病する人はおおいに苦しく、大変な事であろう」と、看病して下さる人の苦心を思いやり感謝して、宇宙の暖かい懐に抱かれて行こう。

「子、川のほとりに在りて曰く、逝く者は斯くの如きか。昼夜を舎(や)めず」。

孔子がある時、川のほとりに居て、流れる水を眺め、弟子たちに言った。

「死んで行く人はこの川の流れの様に、昼となく夜となく、どんどん逝ってしまう。そして、決して二度と帰っては来ない」。

孔子は、人の死を嘆いてこんな事を言っているのではない。

悲しみの言葉でもない。

二度と帰らぬ生命であるから、毎日を苦しみ悩んで生きて行くのを止めて、楽しく豊かに明るく生きて行く工夫が欲しい…と。




先に与える

2021-11-29 08:40:39 | 日記
二宮尊徳(1787~1856)先生の所へ、江戸からある商人がやって来て言った。

「いくら働いても、幸福になれない。何とか、生きがいの持てる方法を教えて下さい」…と。

尊徳先生は「ああ、そうか」と言って、その商人を箱根の湯本温泉へ連れて行った。

二人は露天風呂に身を沈めた。

尊徳先生は手を伸ばし、指を開いて、だんだん湯を胸に引き寄せた。

「こうすると、一旦は湯が自分の方へ入ってくるが、手のひらが胸もとにへ近づくにつれて、両脇へ湯が逃げて行ってしまうだろう。逆にこうして…」と、今度は胸もとの手のひらをずっと前の方に伸ばして行った。

湯はだんだん向こうの方へ、逃げて行ったが、何と両脇から胸もとへ湯が入って来る。

「お前さんは、幸福と言うものを自分の為に、掻き込もう掻き込もうとするから、幸福が脇の方へ逃げてしまうのだ。人が幸福になるように尽くしてやれば、いつの間にか自分の胸の中へ、幸福が巡って来るんだね…」と。

「仁者は獲る事を後にす」。

自分が得る事を後回しにして、人の為に尽くす。

これが「思いやり」の基本的な生活態度である。

こういう態度で生きていれば、友も失わないし、自分の命を自分で捨てる様な事は絶対にない。

が、なかなか日常生活では、この気持ちを持続する事は出来ない。

いつでもどこでも、利他の心で生きられる人は、聖人である。

こんな人は現世では、ほとんど存在しない。

が、せめて十日に一度でも、一ヶ月に一度でも、せめて愛する人には仁を実践したい。