本日は、独立系武将の増田四郎重富の本拠地であった、増田氏館跡について
紹介いたします。
増田氏は深谷市と旧妻沼町の境界線付近の、利根川氾濫原の増田地区に力を持っており、
北条氏、上杉氏の両者と距離を持っていました。
上杉氏にとっては、独立系の増田氏が邪魔であったらしく、増田の地から駆逐されてしまい、
比企丘陵に逃亡します。
ここからが増田氏の凄いところで、比企丘陵上の文珠寺、さらに四ツ山に本格的な城館を築いて、
増田の地を奪還するべく、抵抗を続けることです。
写真は昭和60年(1985年)頃の写真です。ここも高校の帰り道に、自転車で回り込むという
無茶をして訪問しました。

館跡は自然堤防上にありました。堀も土塁も残っていましたが、田んぼのあぜ道と水路位のものでした。

館跡には、宝篋印塔も残されておりました。
地元では、未だに増田氏をお祀りする行事があると聞いています。
また、この地域から妻沼町にかけては増田姓の有力者が多いのです。
細かく再調査のために、再訪してみたい館跡の一つです。
紹介いたします。
増田氏は深谷市と旧妻沼町の境界線付近の、利根川氾濫原の増田地区に力を持っており、
北条氏、上杉氏の両者と距離を持っていました。
上杉氏にとっては、独立系の増田氏が邪魔であったらしく、増田の地から駆逐されてしまい、
比企丘陵に逃亡します。
ここからが増田氏の凄いところで、比企丘陵上の文珠寺、さらに四ツ山に本格的な城館を築いて、
増田の地を奪還するべく、抵抗を続けることです。
写真は昭和60年(1985年)頃の写真です。ここも高校の帰り道に、自転車で回り込むという
無茶をして訪問しました。

館跡は自然堤防上にありました。堀も土塁も残っていましたが、田んぼのあぜ道と水路位のものでした。

館跡には、宝篋印塔も残されておりました。
地元では、未だに増田氏をお祀りする行事があると聞いています。
また、この地域から妻沼町にかけては増田姓の有力者が多いのです。
細かく再調査のために、再訪してみたい館跡の一つです。