本ブログで、既にふれたことがありました、市田氏館跡と久下氏館跡のうち、
市田氏館跡の写真が出てきましたので、本日は、市田氏館跡について紹介いたします。
市田は、現在、荒川対岸の旧大里村の地名ですが、その市田が、なぜ熊谷側に残されたのか?
これは江戸期の荒川の付け替え工事によって流路が変わり、地理的に分断されたためであります。
市田氏館推定地は資料によってまちまちで、現在の久下神社の向い側辺りと考えられてきましたが、
平成16年7月16日に住宅修理工事に伴って、発掘調査が行われた結果、遺構は発見できませんでした。
市田氏は久下氏の子孫であり、久下氏の祀った三島神社(内三島とも。現、久下神社)周辺にあると考えるのが
妥当とも思われるのですが、結果が出なかったのですから仕方がありません。
ここでは、『埼玉の館城跡』に基づいた場所をご紹介いたします。
その場所は推定地の南東、久下小学校正面、民家裏の堤防沿いの耕地です。
内三島の久下神社からそれほど離れているわけではありません。
写真は昭和57年、晩秋の頃のものです。

ここでのポイントは、通常、館跡、城跡の推定に使う自然堤防や微高地が、必ずしも宛てにならない
可能性があるということです。
周囲には用水路もめぐっており、水堀の可能性もあるとは思います。
個人的には、中学校時代に探し回ったこの場所を館跡だと押したいのですが・・・・。
ちなみにこのすぐ先の堤外地に、外三島神社があり、その手前の耕地が久下氏館跡というのが、
私の理解です。
ですが、『埼玉の館城跡』に基づくと、もう少し上流にある堤外の荒蕪地ということになります。

ここが『埼玉の館城跡』に基づく久下氏館跡ですが、これはあまりにもあんまりです。
枯草にまとわりつく白い影が、ビニール袋であることは言うまでもありません。
市田氏館跡の写真が出てきましたので、本日は、市田氏館跡について紹介いたします。
市田は、現在、荒川対岸の旧大里村の地名ですが、その市田が、なぜ熊谷側に残されたのか?
これは江戸期の荒川の付け替え工事によって流路が変わり、地理的に分断されたためであります。
市田氏館推定地は資料によってまちまちで、現在の久下神社の向い側辺りと考えられてきましたが、
平成16年7月16日に住宅修理工事に伴って、発掘調査が行われた結果、遺構は発見できませんでした。
市田氏は久下氏の子孫であり、久下氏の祀った三島神社(内三島とも。現、久下神社)周辺にあると考えるのが
妥当とも思われるのですが、結果が出なかったのですから仕方がありません。
ここでは、『埼玉の館城跡』に基づいた場所をご紹介いたします。
その場所は推定地の南東、久下小学校正面、民家裏の堤防沿いの耕地です。
内三島の久下神社からそれほど離れているわけではありません。
写真は昭和57年、晩秋の頃のものです。

ここでのポイントは、通常、館跡、城跡の推定に使う自然堤防や微高地が、必ずしも宛てにならない
可能性があるということです。
周囲には用水路もめぐっており、水堀の可能性もあるとは思います。
個人的には、中学校時代に探し回ったこの場所を館跡だと押したいのですが・・・・。
ちなみにこのすぐ先の堤外地に、外三島神社があり、その手前の耕地が久下氏館跡というのが、
私の理解です。
ですが、『埼玉の館城跡』に基づくと、もう少し上流にある堤外の荒蕪地ということになります。

ここが『埼玉の館城跡』に基づく久下氏館跡ですが、これはあまりにもあんまりです。
枯草にまとわりつく白い影が、ビニール袋であることは言うまでもありません。