暗闇検校の埼玉県の城館跡

このブログは、主に、私が1980年代に探訪した中近世城館跡について、当時の写真を交えながらお話しするブログです。

市田氏館跡(熊谷市)

2017-11-20 20:13:46 | 城館跡探訪
本ブログで、既にふれたことがありました、市田氏館跡と久下氏館跡のうち、

市田氏館跡の写真が出てきましたので、本日は、市田氏館跡について紹介いたします。

市田は、現在、荒川対岸の旧大里村の地名ですが、その市田が、なぜ熊谷側に残されたのか?

これは江戸期の荒川の付け替え工事によって流路が変わり、地理的に分断されたためであります。

市田氏館推定地は資料によってまちまちで、現在の久下神社の向い側辺りと考えられてきましたが、

平成16年7月16日に住宅修理工事に伴って、発掘調査が行われた結果、遺構は発見できませんでした。

市田氏は久下氏の子孫であり、久下氏の祀った三島神社(内三島とも。現、久下神社)周辺にあると考えるのが

妥当とも思われるのですが、結果が出なかったのですから仕方がありません。

ここでは、『埼玉の館城跡』に基づいた場所をご紹介いたします。

その場所は推定地の南東、久下小学校正面、民家裏の堤防沿いの耕地です。

内三島の久下神社からそれほど離れているわけではありません。

写真は昭和57年、晩秋の頃のものです。





ここでのポイントは、通常、館跡、城跡の推定に使う自然堤防や微高地が、必ずしも宛てにならない

可能性があるということです。

周囲には用水路もめぐっており、水堀の可能性もあるとは思います。

個人的には、中学校時代に探し回ったこの場所を館跡だと押したいのですが・・・・。

ちなみにこのすぐ先の堤外地に、外三島神社があり、その手前の耕地が久下氏館跡というのが、

私の理解です。

ですが、『埼玉の館城跡』に基づくと、もう少し上流にある堤外の荒蕪地ということになります。





ここが『埼玉の館城跡』に基づく久下氏館跡ですが、これはあまりにもあんまりです。

枯草にまとわりつく白い影が、ビニール袋であることは言うまでもありません。