暗闇検校の埼玉県の城館跡

このブログは、主に、私が1980年代に探訪した中近世城館跡について、当時の写真を交えながらお話しするブログです。

忍藩陣屋跡と千形神社(熊谷市)

2018-05-02 22:19:57 | 城館跡探訪
熊谷市の老舗デパート、八木橋百貨店の裏には熊谷直実の館跡、熊谷寺があります。

その門前の細い通りは、かつては熊谷市の中心街を形成していた場所で、

古い町並みが今でもわずかながら残っています。


その通り沿いに千形神社という神社があり、その社殿の敷地に並んで忍藩の陣屋がありました。

下の写真は1984年当時のものです。



江戸期につくられたこの陣屋は、県の城館跡資料からは除外されており、跡地には、

かつての陣屋跡をしのばせるものはほぼ皆無のように見えます。



まあ、普通なら、ここで打ち切ってしまいますが、それでは面白くないので、当時の痕跡をわずかでも

探し回ってみたいと思います。調査日は2018.02.03です。



陣屋跡は現在広場のような駐車場のようなものになっています。



いきなり裏に回ってみます。

写真は裏通りです。





お気づきになったと思いますが、陣屋跡裏通りには、石垣が残り、周囲よりも一段高くなっているのです。

これが、千形神社裏まで続きます。千潟神社の裏の方が高くなっているようです。



路地に入ると、千形神社裏に入る入り口があります。



こういうもの見つけると、大分、陣屋跡らしい雰囲気が出てきます。

千形神社裏です。






千形神社の正面に回ってみます。陣屋に関する埋設版があげられています。



千形神社の参道、社殿です。







千形神社の創建については、熊谷直貞が大きな熊を退治した際に血が流れた地に千形明神として

祀ったものされていますが、実際の創建は不明です。ただし、宝暦年間(1751-1764)から、

境内で「千形相撲」という草相撲を奉納していたといわれているので、そのころにはあったのでしょう。

社殿も比較的新しいもののようです。


以上、一通り周囲を見て回った結果、遺構らしきものとして確認できたのは、陣屋跡が周囲よりも高く、

石垣が残っているということだと言えます。

真光寺安貞板碑

2018-05-02 00:43:21 | 神社仏閣・その他
私が小学校の頃、高学年になるとスクラップ帳というものを

作っておりまして、自分の関心のあるテーマの新聞記事を切り抜いて

ノートに貼っていくわけです。

投じ男子の間で最も人気があったのは歴史記事、科学記事で

政治記事をスクラップしているような奴はよほどの変わり者でしたが、

わたしは歴史と政治の記事を集めて、際限なくノートに張り付けておりました。

歴史系の記事はめったやたらに掲載されることはないので、

1週間も何もない日が続くのが寂しかったので、ついつい、集めてしまったわけです。

この記事は、スクラップ帳について何か言いたいわけではありませんが、

スクラップ帳がきっかけになっていました。

スクラップ帳はとっくにどこかに行ってしまったので、

日付まで覚えておりませんが、青石塔婆としては全国第2にの古さの板碑が発見されたという

ニュースが出ておりまして、わたしはあまりよく意味も分からないまま、しっかりとキープいたしました。

やがて。高校生になったころ、とっくになくなっていたと思ったスクラップ帳が出てきて、

そこから見つけたのが、真光寺安貞板碑の記事でした。

当時はまだ地面につきたてられた状態で撮影されていました。


これを見て、わたしは真光寺さんに拓本を録らせていただきに行ってしまいました。

当時、板碑は風化を避けるために既に本堂に遷されて保管されておりました。

今なら考えられませんが当時は、わたしの御願いに快く応じていただき、録ったのが写真の拓本です。

今はもう録ることができないと考えれば、それなりに貴重なものかもしれません。



真光寺阿弥陀一尊種子板碑, 安貞二年(1228年)