城原城・・・「じょうはらじょう」と読むらしいのですが、
ここは、わたしが、熊谷市外の「山城」に行った、初めての場所です。
伊勢新九郎治重という、後北条氏を思わせるような人物の居城跡と伝えられています。
実は、城原城については、完全に失念しておりまして、
こういう記憶に関しては比較的長期間保存し続ける自信があったのですが、
城原城については、記録メモを取っていなければまったく思い出せなかったはずです。
ただ、記憶のインデックスは生きていて、訪問前日の、家族とのやり取りを
思い出しました。
この城原城に行った理由は、「近そうだから」の一点のみです(笑)。
ここはどこだろうかと、母に訪ねて「知るか!」と怒鳴りつけられたのを覚えています。
その日の夜は、たまたま祖母が来ており、この祖母が博覧強記の人で、滑川、東松山、
吉見、大里、江南、川島と県北部、中部各地の地史に詳しかったのですが、
この、じょうはらについては、全く心当たりがないと言って、「じょうげん」か
「じょうはら」か「しろはら」かもわからないと言われて、いやな予感がしました。
ここまでは、よく覚えているのですが、肝心の城跡のことについては、
印象に残っていることがほとんどありません。
とはいえ、民家脇から入らず、獣道のような所から、山腹に取り付き、
苦心して山に分け入ったのは覚えています。山麓に長方形の空堀跡があるということでしたから、
城址そのものは、山のふもとあるいは山腹にあるという解釈だったんでしょう。
道なき道を進むと、山腹には空堀状の溝がありましたが、なにせ、やぶの中を強引に直登した結果、
たどり着いた場所で、写真の通りものすごいやぶの中なので、わかりにくいですね。

正直、想像の山城とあまりにもちがっていたため、がっくりしました。
これは、山腹の土壇状のものの上から、その段差を強調するために、斜面の中空に向かって撮影した、
負け惜しみのような写真です。いま、案内しろと言われても無理です。

帰宅後、「堀以外に、ほとんど、なんにもない、ひどいところだった」と言って、大笑いされた記憶があります。
ここは、わたしが、熊谷市外の「山城」に行った、初めての場所です。
伊勢新九郎治重という、後北条氏を思わせるような人物の居城跡と伝えられています。
実は、城原城については、完全に失念しておりまして、
こういう記憶に関しては比較的長期間保存し続ける自信があったのですが、
城原城については、記録メモを取っていなければまったく思い出せなかったはずです。
ただ、記憶のインデックスは生きていて、訪問前日の、家族とのやり取りを
思い出しました。
この城原城に行った理由は、「近そうだから」の一点のみです(笑)。
ここはどこだろうかと、母に訪ねて「知るか!」と怒鳴りつけられたのを覚えています。
その日の夜は、たまたま祖母が来ており、この祖母が博覧強記の人で、滑川、東松山、
吉見、大里、江南、川島と県北部、中部各地の地史に詳しかったのですが、
この、じょうはらについては、全く心当たりがないと言って、「じょうげん」か
「じょうはら」か「しろはら」かもわからないと言われて、いやな予感がしました。
ここまでは、よく覚えているのですが、肝心の城跡のことについては、
印象に残っていることがほとんどありません。
とはいえ、民家脇から入らず、獣道のような所から、山腹に取り付き、
苦心して山に分け入ったのは覚えています。山麓に長方形の空堀跡があるということでしたから、
城址そのものは、山のふもとあるいは山腹にあるという解釈だったんでしょう。
道なき道を進むと、山腹には空堀状の溝がありましたが、なにせ、やぶの中を強引に直登した結果、
たどり着いた場所で、写真の通りものすごいやぶの中なので、わかりにくいですね。

正直、想像の山城とあまりにもちがっていたため、がっくりしました。
これは、山腹の土壇状のものの上から、その段差を強調するために、斜面の中空に向かって撮影した、
負け惜しみのような写真です。いま、案内しろと言われても無理です。

帰宅後、「堀以外に、ほとんど、なんにもない、ひどいところだった」と言って、大笑いされた記憶があります。