武田信俊公館は小川町横田の輪禅寺にあります。
武田信俊は長篠合戦で討死した武田信玄の異母弟、武田信実の子で、
のちに川窪氏を名乗りました。
輪禅寺は武田菱を掲げています。
ここを訪問したのは確か秋のお彼岸の頃だったと記憶しています。
陽の加減が、すでに夏のものではありません。このころは、自転車で城跡訪問することに
少し疲れていた時期だったことを思い出します。
武田信俊公館跡は現在大きな庭石で固められているようですが、
当時はいかにも館跡風の険しいものでした。
急峻な斜面中腹には、平場と堀状のものがありました。
これは輪禅寺背後の堀と土塁です。
これらの遺構は今でも残っているのでしょうか?
横田は、武田氏の里らしく、近所に「風林火山」を掲げる養昌寺というお寺があります。
養昌寺にはこの大きな坂を上っていきました。
養昌寺と武田氏の関係についてはよくわかりません。
当時は、周囲と隔絶されたような独特の雰囲気をもつ横田の里でした。
武田信俊は長篠合戦で討死した武田信玄の異母弟、武田信実の子で、
のちに川窪氏を名乗りました。
輪禅寺は武田菱を掲げています。
ここを訪問したのは確か秋のお彼岸の頃だったと記憶しています。
陽の加減が、すでに夏のものではありません。このころは、自転車で城跡訪問することに
少し疲れていた時期だったことを思い出します。
武田信俊公館跡は現在大きな庭石で固められているようですが、
当時はいかにも館跡風の険しいものでした。
急峻な斜面中腹には、平場と堀状のものがありました。
これは輪禅寺背後の堀と土塁です。
これらの遺構は今でも残っているのでしょうか?
横田は、武田氏の里らしく、近所に「風林火山」を掲げる養昌寺というお寺があります。
養昌寺にはこの大きな坂を上っていきました。
養昌寺と武田氏の関係についてはよくわかりません。
当時は、周囲と隔絶されたような独特の雰囲気をもつ横田の里でした。
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