本日は、増尾氏関連遺跡の一つ、小川町の八幡神社について書きたいと思います。
調査日は2019.02.03です。
八幡神社は中城跡の西側にあります。
この台地は梅香岡と呼ばれており、眺望に優れています。
八幡神社は1333年、鎌倉幕府の滅亡に際して、当時、将軍の座にあった守邦親王が増尾氏を頼って
この地に仮寓した際の館跡で、守邦親王が勧請したものとされています。
ただ、守邦親王は幕府瓦解後、3か月で崩御されたといわれているため、この地が終焉の地だったのかもしれません。
ただ、この地では守邦親王は流鏑馬をしたと伝えられてもいることから、必ずしも身体を壊していたとも思われず、
謎の多いことであります。親王の墓所もあるいはこの地に隠されているのかもしれません。
このような特別な重みをもつ八幡神社ですが、祭礼の日以外はどなたもいらっしゃらないようです。
八幡神社境内は周囲よりも一段盛り上がっております。
境内は広いです。
親王滞在中の遺構のようなものもあります。神社正面には土塁があります。
境内地内にもかなり崩れかけてはいますが、土塁上の盛り上がりがあり、外側の土塁と併せて2重土塁のように
なっていたのではないでしょうか。神社前の道は空堀跡と考えられます。
神社にはなぜかハトが・・・・。
これは戦後に奉納されたものでしょうね?
古い狛犬がありました。
往時の増尾氏の威勢を感じさせられます。
調査日は2019.02.03です。
八幡神社は中城跡の西側にあります。
この台地は梅香岡と呼ばれており、眺望に優れています。
八幡神社は1333年、鎌倉幕府の滅亡に際して、当時、将軍の座にあった守邦親王が増尾氏を頼って
この地に仮寓した際の館跡で、守邦親王が勧請したものとされています。
ただ、守邦親王は幕府瓦解後、3か月で崩御されたといわれているため、この地が終焉の地だったのかもしれません。
ただ、この地では守邦親王は流鏑馬をしたと伝えられてもいることから、必ずしも身体を壊していたとも思われず、
謎の多いことであります。親王の墓所もあるいはこの地に隠されているのかもしれません。
このような特別な重みをもつ八幡神社ですが、祭礼の日以外はどなたもいらっしゃらないようです。
八幡神社境内は周囲よりも一段盛り上がっております。
境内は広いです。
親王滞在中の遺構のようなものもあります。神社正面には土塁があります。
境内地内にもかなり崩れかけてはいますが、土塁上の盛り上がりがあり、外側の土塁と併せて2重土塁のように
なっていたのではないでしょうか。神社前の道は空堀跡と考えられます。
神社にはなぜかハトが・・・・。
これは戦後に奉納されたものでしょうね?
古い狛犬がありました。
往時の増尾氏の威勢を感じさせられます。
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