本日は、東秩父村の浄蓮寺大河原氏館跡について書きたいと思います。
調査日は2019.02.03です。
大河原氏は丹党の武士です。
現在の館跡は浄蓮寺一帯とされていますが、ある種突き詰めにくい雰囲気があるというか・・・。
まあ、その突き詰めにくいものの正体をまずお見せしましょう。
それは、これです。
この立派な石垣は、大河原氏時代よりもかなり後になって組まれたものとされているのですが、
上田氏の廟所があるお寺なので、上田氏の庇護を受けている時代に組まれたものなのか?
この通路は堀跡とされています。
まあ普通の感覚だと、2枚目の写真辺りで打ち切りですな・・・。
しかし、それでは、何のために来たのやらということにもなります。
そこでバリバリと行くことにしました。
大河原氏の館を見にきて浄蓮寺本堂裏を見る奴っていうのは少ないでしょう。
ちょっと意外にあれていますが、奥の本堂裏の方が一段高くなっているのがわかります。
土塁遺構の残存はむしろ山際にあるのかなと感じました。
それからコンクリートの塀ですが、どうも堀跡ギリギリにたてられているように見えます。
恐らく隣家の敷地の方に堀遺構が入っているのではないでしょうか。
浄蓮寺正門に回ります。
境内地も緩やかな斜面を削平して平場を作り、段差を設けたという感じです。
三十番神のお堂の左側を見ていただくと、もう一つお堂があるのに気づかされます。
浄蓮寺の隣は学校敷地になっており、校庭につきだす形で浄蓮寺の瘡守明王のお堂があります。
校庭からも一枚撮影してみましたが、小学校校庭側からはっきりわかるように、浄蓮司の山際の張り出して部分を
削平して作っているわけですね。
恐らく、館跡の中心はは境内地の3分の2ほど、山際の南半分、本堂、三十番神、瘡守明王のお堂があった辺りに
あったのではないかと推測いたします。
調査日は2019.02.03です。
大河原氏は丹党の武士です。
現在の館跡は浄蓮寺一帯とされていますが、ある種突き詰めにくい雰囲気があるというか・・・。
まあ、その突き詰めにくいものの正体をまずお見せしましょう。
それは、これです。
この立派な石垣は、大河原氏時代よりもかなり後になって組まれたものとされているのですが、
上田氏の廟所があるお寺なので、上田氏の庇護を受けている時代に組まれたものなのか?
この通路は堀跡とされています。
まあ普通の感覚だと、2枚目の写真辺りで打ち切りですな・・・。
しかし、それでは、何のために来たのやらということにもなります。
そこでバリバリと行くことにしました。
大河原氏の館を見にきて浄蓮寺本堂裏を見る奴っていうのは少ないでしょう。
ちょっと意外にあれていますが、奥の本堂裏の方が一段高くなっているのがわかります。
土塁遺構の残存はむしろ山際にあるのかなと感じました。
それからコンクリートの塀ですが、どうも堀跡ギリギリにたてられているように見えます。
恐らく隣家の敷地の方に堀遺構が入っているのではないでしょうか。
浄蓮寺正門に回ります。
境内地も緩やかな斜面を削平して平場を作り、段差を設けたという感じです。
三十番神のお堂の左側を見ていただくと、もう一つお堂があるのに気づかされます。
浄蓮寺の隣は学校敷地になっており、校庭につきだす形で浄蓮寺の瘡守明王のお堂があります。
校庭からも一枚撮影してみましたが、小学校校庭側からはっきりわかるように、浄蓮司の山際の張り出して部分を
削平して作っているわけですね。
恐らく、館跡の中心はは境内地の3分の2ほど、山際の南半分、本堂、三十番神、瘡守明王のお堂があった辺りに
あったのではないかと推測いたします。
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