暗闇検校の埼玉県の城館跡

このブログは、主に、私が1980年代に探訪した中近世城館跡について、当時の写真を交えながらお話しするブログです。

三本堀ノ内:渡唐神社2018年+1986年(旧江南町)

2018-09-16 12:48:42 | 城館跡探訪
熊谷市旧江南地区は中世期の居館、陣城、城郭の遺構が数多く残っています。

江南台地上には上杉氏に関係する陣城・城郭の遺構が多いですが、

荒川流域低地には、武装した開拓者である中世的独立自営農民にまつわるとみられる

館跡と伝えられる場所が点在しています。

また、そのような伝承は無くとも、空堀・土塁と見られる構築物に囲まれた神社などもあり、

かなり興味をかき立てられます。

三本堀ノ内もそうした館跡の一つです。渡唐神社(ととうじんじゃ)を含む一帯が館跡だと

されているので訪ねてみました。調査日は2018年08月11日です。


荒川流域の水田地帯ですので、用水路が多い地域です。

まず、渡唐神社に行ってみます。







正直、なぜ「とからじんじゃ」じゃないんだと思う渡唐神社です。

もう、ダイレクトに渡来人系の開拓者集団の存在があったように思うのです。


神社の背後には、道路沿いに空堀・土塁状のものがあります。











奥の民家の庭内にもこの構築物が続いています。










この周辺の集落に渡唐神社と同じ程度の規模の神社が、ぽつぽつとあり、

そうした神社には同様の空堀・土塁のセットがみられます。


渡唐神社の境内に戻ります。



境内社に、順海社、厳島社の名前が見られます。両者とも、水に関係があるわけですが、

こうした境内社の存在を見ると、渡唐神社のもつ性格が特異なものであったと思わざるを得ないのです。











三本の字も、水本の可能性があったのでは?

みずの読みが、みつ、みっつに転訛することは、知られています。

例えば、茨城の水戸ですが、かつては「みと」ではなく「みっと」と読まれていました。

「みつと」→「みっと」→「みと」になったわけです。


さて、渡唐神社の前の水路です。



こうなってしまうと、遺構の堀跡なのか、基盤整備によってつくられた堀なのかわからなくなってしまいます。


最後になりましたが、わたしが1986年に同地を訪れて撮影したものです。



三本堀の内のキャプションがついていたので、間違いないと思います。

私も三本堀の内を訪問した記憶はちゃんとあり、渡唐神社のことも記憶していたのですが、

この、場所の記憶についてはまったくありませんでした・・・・。

風景の記憶力には自信があったのですが、今回この写真の場所を探しても、

それらしい場所はありませんでした。

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