暗闇検校の埼玉県の城館跡

このブログは、主に、私が1980年代に探訪した中近世城館跡について、当時の写真を交えながらお話しするブログです。

御正堀の内 (旧江南町)

2018-09-17 12:21:23 | 城館跡探訪
昨日の三本堀の内に続き、旧江南町の荒川流域低地にある御正堀の内について書きたいと思います。

調査日は2018年08月12日です。

御正堀の内は丹党の位置氏族とされる坂田氏の居館であるとされます。

館跡は浄安寺一体と言われ、坂田氏の菩提寺でもあり、坂田氏の子孫も集落に現住しております。






まず堀の内という土地についてですが、付近で地元の方に伺ってもよくわかりませんでした。

ただ、浄安寺裏の道路に沿って堀があったのは事実で、ここは、土地の共有物として堀浚いを行なう

慣行が残っていたことがわかりました。但し話の限りでは、これは農業水利の慣行ですよね。

ですから、館の防御設備としての堀としてよりも、やはり、農業用水路だったのではないですかね。

それに、この堀は、農地整理事業にかかって、既に整理・統合されてしまっているということでした。


とりあえず、浄安寺に向います。








大きな宝篋印塔があります。どうも、パーツパーツで時代が違うような気がします。


じつは、この浄安寺さんは、以前、熊谷市指定文化財、浄安寺千体地蔵があったのですが、

2013年に江南村荒川低地一帯を襲った竜巻で、地蔵堂が崩壊四散し、地蔵様も吹き飛ばされるという

災害に見舞われたのでした。現在は、本堂に658体の地蔵が安置されています。

この宝篋印塔も、瓦解の憂き目にあったことは想像だに難くありません。

竜巻の後遺症なのでしょうか、道理で、境内は未だに荒涼とした様子です。

本堂背後も砂利敷きになっていますが、地元の方によれば、元々のうちであったものが、

整理事業にかかったのだそうです。こうなると遺構はどんどんなくなってしまいますよね。


本堂の周囲には堀がめぐらされていました。でも、これっていつ掘ったものなんだ?

そこで、地元の方に本堂の周囲にめぐらされた堀についても、うかがいました。




「ああ、これは別に最近掘ったものではなく、昔からあったもので、以前は水堀だった」とのことでした。

ちょっと驚きました。

そうすると、この堀自体遺構の一部なのかもしれません。






浄安寺前に戻って見ましょう。









やはりこの地域も、三本同様、水路が多いです。

この地域は、畠山氏領-新田氏領-坂田氏領と変遷しているのですが、ただ坂田氏時代から調べたのでは

判然としない、畠山-新田時代からの歴史的経緯を調べなければ深いことは分からない仕組みに

なっているようです。

いろいろ調べてみましたが、非常に難しい館跡の事例だと考えさせられました。

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