花と山を友として

何よりも山の花が好き、山の景色が好き、山で出逢う動物が好き、そして山に登る人が好き。
写真と紀行文で綴る山親父日記

立松和平さんが亡くなったと聞いて

2010年02月10日 | 日記
立松和平さんが62歳で亡くなったという。
私よりも遙かに若いのに。

立松さんの著作は、ほとんど読んでいないのだが、一つだけ忘れられない物がある。
それは「原風景文集・山の篇」に書かれている「狂暴なふたつの太陽」というエッセイ
なのだが、読む度に戦慄するのである。

これは幕末の戊辰戦争で、三斗小屋宿が幕軍と官軍の激戦地となり、三斗小屋宿の人々が
今日は幕軍、明日は官軍という具合に、軍役に使われた事が発端であった。

そのことを明治44年に、田代音吉が「三斗小屋誌」という本を書き、その資料を立松が読み
それを引用して書いたのがこのエッセイである。

その本にはどんなことか書いてあったのかを要約して引用する

高根沢文五郎
氏は三斗小屋大黒屋の人、初め幕軍の当地に至るや厳命の下に幕兵のため 軍夫に使役せらる
ところが、後に官軍が三斗小屋宿に来たために、幕軍に協力した罪で、黒羽藩士掴まり
畑の中で一斉射撃の的撃ちにされて無惨な死をとげたのである。

また
月井源左エ門は百村の人だったが、同じく幕軍に服従したとして、百村より三斗小屋宿まで縛られたまま連れてこられ、
民家の柱に繋ぎ、炉に火をたき黒羽藩士など串をこしらえて
源左衛門の皮をはぎ、股の肉を削り取り、串に刺して炙りて食したうえ、源左衛門の口にも
その一片を押し込み、我が身を食らへと言ったという。

源左衛門はあまりの激痛に悲泣の声をあげ、その声が山や谷に響き渡り
当時逃げ遅れた老人等は、これを見て恐怖慄然きわまりなかりしと 無惨と言うも愚かなり

立松氏は言う、この無惨と言うも愚かなりと言う言葉が深い響きを伴って私の胸に迫ってきた。と

このエッセイを知って以来、三斗小屋宿周辺は、私にとって恐い場所になったのである。
いかにも源左衛門の声が山や谷にこだまして、聞こえてきそうではないか。

しかしながら、那須の山々は美しい花々を咲かせ、そのような歴史が有ったことも包み込んで
人々を迎えてくれるのである。

以下の写真は立松和平氏に捧げる。(氏が愛した那須の山々) 合掌

ひょうたん池から那須の紅葉

ひょうたん池の近くから朝日岳方面

中の大倉尾根から笹原の紅葉

三斗小屋温泉の近くに咲くノビネチドリ


赤面山で見た光彩、右下に赤面山の標柱が写っている
 

那須・朝日岳の山頂まで押し寄せた雲海、まるでひょいと乗れそうな感じだった。