リアの気まぐれな申し出に姉娘たちのゴネリルとリーガンは熱心に参加し、美辞麗句を並べて父を悦ばせる。しかし、コーディリアは口下手らしく戸惑うばかりだった。
先ずは、ゴネリルの言葉を聞いて
Cordelia : [aside] What shall Cordelia speak? Love, and be silent. コーディリア:(傍白)コーディリアは何て言えばいいのかしら? 心で愛して、黙っていましょう。
さらに、リーガンの言葉に続いて
Cordelia: [aside] Then poor Cordelia. And yet not so, since I am sure my love's More ponderous than my tongure. コーディリア: (傍白) 可哀想なコーディリア。 いいえ、そんなことないわ。だって、わたしの愛は、 わたしの舌より、ずっと重いのだもの。
そして、自分の番になる。
しかし、このリアの問いに対してコーディリアの言葉は「何も申し上げることはありません(Nothing)」であった。それを聞くと、リアは
と警告する。
'Now, our joy, Although the least, not least; to whose young love The vines of France and milk of Burgundy Strive to be interess'd; what can you say to draw A third more opulent than your sisters ?' (さて、余の大事な娘よ、 お前を一番後回しにしたが、疎かに考えているのではない。 お前の若い愛情を得ようと、フランスの葡萄とバーガンティの牛乳が競っている。 姉たちよりももっと穣の多い最後の三分の一を勝ち得るために、 お前はどんなことが言えるのか、申してみるがよい?)
しかし、このリアの問いに対してコーディリアの言葉は「何も申し上げることはありません(Nothing)」であった。それを聞くと、リアは
'Nothing will come of nothing.' (無からは無しか出てこないぞ)
と警告する。
コーディリアが口にした「無(nothing)」と言う言葉には、父であるリアに対する彼女のすべての想いが込められているのだが、リアにはそれが理解できなかった。以心伝心と言う言葉があるが、そんな都合のよいことは起こらなかった。
リアとコーディリアの言った(Nothing)には正反対の意味があって、コーディリアのは彼女のすべての想いが込められているのに対し、リアのは文字通りに何も無いということだ。
この「無(nothing)」と言う言葉には、この作品の重要なキーワードになっている。
先ず、シェークスピアの言葉に対する不信感を表していて、どんなに多くの言葉を弄しても心の真実を完全に語ることが出来ないのであって、少なからず取りこぼされる想いが残ってしまう。
逆に言葉多く語れば語るほど、その言葉は心の真実の想いからかけ離れていってしまう。ならばいっそ何も語らないほうが良い、ということを示しているのではないだろうか。
シェークスピアは、言葉の持つ力の限界を知っていて、彼の作品には随所に言葉に対する不信感や警戒感を表す台詞が現れているが、一方で、それでも人は言葉に頼らなければ生きていけないという、この世の不条理さを現わしている。
これこそがシェークスピア作品の多くに皮肉さ(アイロニー的)となって表現されている原因なのではないだろうか、と思うのだ。
さらに「無(nothing)」には、もう一つの意味を持っていると思うが、それは後ほど(おそらくラスト辺り)で述べることにする。
この「無(nothing)」と言う言葉には、この作品の重要なキーワードになっている。
先ず、シェークスピアの言葉に対する不信感を表していて、どんなに多くの言葉を弄しても心の真実を完全に語ることが出来ないのであって、少なからず取りこぼされる想いが残ってしまう。
逆に言葉多く語れば語るほど、その言葉は心の真実の想いからかけ離れていってしまう。ならばいっそ何も語らないほうが良い、ということを示しているのではないだろうか。
シェークスピアは、言葉の持つ力の限界を知っていて、彼の作品には随所に言葉に対する不信感や警戒感を表す台詞が現れているが、一方で、それでも人は言葉に頼らなければ生きていけないという、この世の不条理さを現わしている。
これこそがシェークスピア作品の多くに皮肉さ(アイロニー的)となって表現されている原因なのではないだろうか、と思うのだ。
さらに「無(nothing)」には、もう一つの意味を持っていると思うが、それは後ほど(おそらくラスト辺り)で述べることにする。