拙い私の思考の中から導き出した一つの方策、貨幣の交換機能を重視した社会が貧富の差のない人間社会の在り方だと感じています。その方法というのは前に書いた。
2010年5月に書いた文章でだいぶ古くなってしまいましたが、前提としては生産者であり消費者であるABCDE、5人が仮にいるとします。彼らが貨幣を通して日々の生活をすることになり、最初にAが1枚の紙幣を手にするところから始まります。そしてここでは商品を作るという行為は労働をするという行為に他なりません。
『AEの関係』を参照2010-05-28 13:59:57 | Weblog
Aが自己の労働を1枚の貨幣(カネ)に換え、Bが作り出した商品と交換します。そこにはAが持っていたカネがBに渡ります。BはそのカネでCの持っている商品と交換します(つまりCの商品を買うという行為です)Aの所有していたカネがBを通してCに渡ったわけです。CはDの持っている商品を買います。DはEの持っている商品を買います。そしてEはAが持っている商品を買います。 つまりここでは簡単な例ですが最初にAが持っていた1枚のカネがB、C、D、Eを通してAに戻ってきて一巡したわけです。そしてお互いに作り出した商品が売れたということになります。
さらにまたAがBの商品を買い、その関係がEまで続きAの元へ戻ってきたとします。そこにはAからEまで2回商品を製造しなくてはなりません。たった1枚の貨幣が2回の商品製造をさせたことになります。この関係がさらにAからEを通してAまで戻ってきたとき1枚の金が3回の商品を各自に作り出させたわけです。
このことが貨幣と労働との関係だと捉えています。ただし、そこには現実の経済社会では簡単なA・Eの関係ではなく複雑な貨幣と労働との関係が行われているということです。つまり1000万の購買があれば1000万通りの貨幣と労働との交換があるということです(そのことが今まで経済をわかりにくくしてきた原因です)働くことのない子供は物を買うために親から小遣いを貰うとか、老人では現在の社会では年金というかたちで貨幣を手に入れ貨幣と他者の労働で作られた商品と交換し手に入れます。
上記書いた文章をあえて手を入れずそのまま載せました。人の社会の始まりは貨幣を通した交換ではなく物と物との交換、物々交換でした。ただし物と物との交換では欲望の二重の一致という壁に阻まれてしまいます、それらを解消させる方策として前々からあった物々交換を進化させた特定の物を交換の対象としたのが貨幣の祖先と言える物を仲介させた交換です。それが貨幣の始まりとなります。物々交換ではAの欲しがっている物をBが持っていたとしてもBの欲しがっている物をAが持っていなければ一致しないわけですから交換は成り立たないわけです。ここで私が以前書いた文を再度転載致します。
欲求の二重の一致
2009-01-06 14:59:19 | Weblog
昨日の文章で欲求の二重の一致と言う言葉を何度か使ったが、文末に注釈を入れるつもりで用語を調べたが、無いかもしくは説明不足であったため私なりの説明をしてみたい。
欲求の二重の一致とは、貨幣において商品と交換(購入)する場合と、物々交換時において交換する場合との比較である。
貨幣において商品を購入するときは、その商品を買いたい者がなんの躊躇い、または問題も無く商品を持っているものに貨幣を渡し、商品を持ち帰ることができる。だが物々交換においては交換する相手が自分が持っている物を欲しがっているかどうか、他の物との交換を望んでいれば交換するのは至難の業になる。
例を挙げてみよう。
仮にAさんが鶏肉を持っておりBさんがリンゴを持っていたとしよう。Bさんは鶏肉が欲しいがAさんは魚が欲しい。この状態では欲求が二重の一致に到達できないことになる。ここに物々交換の市場が大きくなればBさんのリンゴと交換してくれるという、探した結果のZさんが鶏肉を持っていたので交換ができた。何とか二人の欲求の一致が充足され両者が満足したことになる。ただここには大きな市場と探し回る時間が必要になるが。
では貨幣を仲介とする交換(販売・購入)の場合はどうであろうか。Bさんが鶏肉を欲しかった場合、Aさんのところに行きお金を出し鶏肉を購入する。Aさんはそのお金を持って魚を買いに行く。やがてBさんのリンゴも他の人が買いに来るはずである。貨幣を介した交換は即「欲求の二重の一致」が叶うことになる。
貨幣を介した交換は爆発的な分業を作り出すことになります。
2010年5月に書いた文章でだいぶ古くなってしまいましたが、前提としては生産者であり消費者であるABCDE、5人が仮にいるとします。彼らが貨幣を通して日々の生活をすることになり、最初にAが1枚の紙幣を手にするところから始まります。そしてここでは商品を作るという行為は労働をするという行為に他なりません。
『AEの関係』を参照2010-05-28 13:59:57 | Weblog
Aが自己の労働を1枚の貨幣(カネ)に換え、Bが作り出した商品と交換します。そこにはAが持っていたカネがBに渡ります。BはそのカネでCの持っている商品と交換します(つまりCの商品を買うという行為です)Aの所有していたカネがBを通してCに渡ったわけです。CはDの持っている商品を買います。DはEの持っている商品を買います。そしてEはAが持っている商品を買います。 つまりここでは簡単な例ですが最初にAが持っていた1枚のカネがB、C、D、Eを通してAに戻ってきて一巡したわけです。そしてお互いに作り出した商品が売れたということになります。
さらにまたAがBの商品を買い、その関係がEまで続きAの元へ戻ってきたとします。そこにはAからEまで2回商品を製造しなくてはなりません。たった1枚の貨幣が2回の商品製造をさせたことになります。この関係がさらにAからEを通してAまで戻ってきたとき1枚の金が3回の商品を各自に作り出させたわけです。
このことが貨幣と労働との関係だと捉えています。ただし、そこには現実の経済社会では簡単なA・Eの関係ではなく複雑な貨幣と労働との関係が行われているということです。つまり1000万の購買があれば1000万通りの貨幣と労働との交換があるということです(そのことが今まで経済をわかりにくくしてきた原因です)働くことのない子供は物を買うために親から小遣いを貰うとか、老人では現在の社会では年金というかたちで貨幣を手に入れ貨幣と他者の労働で作られた商品と交換し手に入れます。
上記書いた文章をあえて手を入れずそのまま載せました。人の社会の始まりは貨幣を通した交換ではなく物と物との交換、物々交換でした。ただし物と物との交換では欲望の二重の一致という壁に阻まれてしまいます、それらを解消させる方策として前々からあった物々交換を進化させた特定の物を交換の対象としたのが貨幣の祖先と言える物を仲介させた交換です。それが貨幣の始まりとなります。物々交換ではAの欲しがっている物をBが持っていたとしてもBの欲しがっている物をAが持っていなければ一致しないわけですから交換は成り立たないわけです。ここで私が以前書いた文を再度転載致します。
欲求の二重の一致
2009-01-06 14:59:19 | Weblog
昨日の文章で欲求の二重の一致と言う言葉を何度か使ったが、文末に注釈を入れるつもりで用語を調べたが、無いかもしくは説明不足であったため私なりの説明をしてみたい。
欲求の二重の一致とは、貨幣において商品と交換(購入)する場合と、物々交換時において交換する場合との比較である。
貨幣において商品を購入するときは、その商品を買いたい者がなんの躊躇い、または問題も無く商品を持っているものに貨幣を渡し、商品を持ち帰ることができる。だが物々交換においては交換する相手が自分が持っている物を欲しがっているかどうか、他の物との交換を望んでいれば交換するのは至難の業になる。
例を挙げてみよう。
仮にAさんが鶏肉を持っておりBさんがリンゴを持っていたとしよう。Bさんは鶏肉が欲しいがAさんは魚が欲しい。この状態では欲求が二重の一致に到達できないことになる。ここに物々交換の市場が大きくなればBさんのリンゴと交換してくれるという、探した結果のZさんが鶏肉を持っていたので交換ができた。何とか二人の欲求の一致が充足され両者が満足したことになる。ただここには大きな市場と探し回る時間が必要になるが。
では貨幣を仲介とする交換(販売・購入)の場合はどうであろうか。Bさんが鶏肉を欲しかった場合、Aさんのところに行きお金を出し鶏肉を購入する。Aさんはそのお金を持って魚を買いに行く。やがてBさんのリンゴも他の人が買いに来るはずである。貨幣を介した交換は即「欲求の二重の一致」が叶うことになる。
貨幣を介した交換は爆発的な分業を作り出すことになります。