楢篠賢司の『人間とは』

人間とは何かを研究しています。現在は経済学を自分のものにしたいと目下勉強中です。

貧富の差の起源 Ⅱ

2016-02-29 11:06:24 | Weblog
 
 貧富の差が歴史の中でどのように変わってきたか、そのやり方は二つあるかと言える。一つは貨幣の発生以前の貧富の差であり、またもう一つは貨幣の発生後の貧富の差と言える。そこから貨幣の発生以前であれば、そこには階級があり武力的な要素で貧富の差が作られたと言われている。極端な例としていえば富める者としての主人があり、貧としての奴隷制の下の奴隷ということになる。それは地主と農奴ということであり、そこには力による支配のもと貧富の差が決定付けられてきた。

 そのような状況の中での救いとなるやり方として支配するものが考え出した方法として、生きていることこそ神の御心であり、どのような境遇に置かれても死後天国で幸せに暮らせるという人間が代弁した神の心である。そこに宗教を利用した貧富の差の解消方法を作り出し、その教えを守らせるために武力が使われたことは言うまでもない。はからずも大変失礼な言い方であるが、弁護士から衆議院議員となった人がアメリカの現大統領の祖先は奴隷であったと世界を驚かせた発言は同じ日本人として恥ずかしい限りだ。

『奴隷(どれい)とは、人間でありながら所有の客体即ち所有物とされる者を言う。人間としての名誉、権利・自由を認められず、他人の所有物として取り扱われる人。所有者の全的支配に服し、労働を強制され、譲渡・売買の対象とされた[1]。奴隷を許容する社会制度を特に奴隷制という。』ウィキペディア奴隷より引用

 そしてもう一つの貧富の差となるのは、その貧富は治安という武力は持っているが表面だった武力ではなく民主主義という名を被り貧富の差を作り出し拡大させている。それを可能にさせたものが物々交換社会から幾多の進歩を経て、貨幣を主体とした社会、現在の貨幣経済社会ということになる。 

貧富の差の起源

2016-02-14 09:41:48 | Weblog
  前の書き込みで貧富の差という問題を書きましたが、他の人が論じている貧富の差云々という記事を読んでみると現在という時代だけで論じていると思えてしまいます。しかしその発生が歴史の中にあるということですし、どのように発生し、拡大してきたのかが重要なことです、それをこれから少しずつ書いていきたいと考えています。

 その前に話は横道にそれますが最近驚いたことは金融政策においてゼロ金利を通り越してマイナス金利という形が日銀総裁の黒田東彦氏から発表されたことです。私が考えるにはこの政策は一つの革命かとも言えます。なぜなら貨幣(お金)を考えるうえで未来社会においては、保存機能に制限を加えるということから保存される貨幣には、貯金であり預金であり、交換機能を失った貨幣としてマイナス金利、もしくは預かりの手数料という形で貨幣自体が減価していく仕組みが大切なことと言えます。まさに資本主義下において保存機能を否定したことになるマイナス金利は驚きのことでした。

 私の論になりますが資本主義という体制自体、貨幣が持つ保存機能に立脚していると考えています。つまり投資にしろ、投機にしろ、金が金を生むという行為があって動いてきたのではないでしょうか。金が金を生まなくなったときそれは資本が目減りしていくことになるかと思われます。

 日銀総裁がやらんとしていること、なぜ景気が落ち込んだかという分析もなく、ただ景気を浮揚させるため保存機能を抑え交換機能を最重要視したという結果だと言えます。そして貨幣の交換機能は今の社会的情勢、世界的経済情勢の中では消費は伸びないということだと結果として気が付かされたことになります。つまり思ったように交換機能は働かないということになります。

 マイナス金利というやり方は市中に金をだぶつかせても消費は伸びないことから、最後の手段として預金しても損だよというメッセージを消費者に送っただけであり、消費者はそのメッセージからそんなに景気が良くなかったのかという逆の心理を働かせてしまう結果に終わってしまうと思われます。

 多分未来社会では今と違った経済体制下で、貨幣の交換機能を重視した社会になり、減価する貨幣としてマイナス金利という金融政策の社会になるだろうと言えます。つまりそこから今の社会で黒田日銀総裁は金融革命を起こしたことになると言えます。

貧富の差について

2016-02-13 08:38:08 | Weblog
このブログは自分の故郷のような気が致します。

 貧富の差をどこで判断するのかということです。貧富の差というものはあくまでも経済的なものです。しかし貨幣がなかったとしても日々人が生きていく中で人間一人では生きていけません、そこには他者とのかかわりがあるはずです。つまり狩猟・採集社会においても経済という言葉が使われています。狩猟採集経済というように。そこから考えられることは人々の間に当然のこと交換が成り立っているということです。逆に言えば山の中で一人で暮らしている、仙人その人は自給自足で生きていくしかありませんが、その仙人の生活においては自給自足経済という言葉ではなく一人の場合は自給自足生活になるのではないでしょうか。

 自給自足経済という状態を表すには複数の人達の生活を指しているということだと言えます。つまり小さな集団においても生きていく中で何らかの交換が成り立っている社会。狩猟・採集社会であろうとも交換経済という枠組みの中ではその社会は狩猟採集経済ということができます。そこには小さな集落の中で助け合いの精神が生きていたと言えます。それが我々の祖先である縄文時代だと言えます。

 大分昔になりますがその当時私は縄文時代に興味を持ち1週間以上東北の遺跡を巡ってきました。その当時まだ自分なりの考えができていなかったのでただ見てきたということかもしれません。ですが現在新たに発掘された縄文遺跡を改めて調べて解ったこと、そこには人間社会の原型があるということに気が付きました。大陸から離れていたことにより農作とかの技術文化は入ってきませんでしたが、階級社会という力による支配もありませんでした。そして今一番気になっている遺跡は大湯環状列石です。やがては縄文時代という東北から北海道にかけての遺跡は世界遺産になると言えます。その前にまた東北の遺跡を再度訪ねてみたいと考えています。縄文時代という1万年以上の時間がありながら貧富の差のない時代がこの日本にあったということです。そして弥生時代を経て現在に至るまで2千数百年、その間文明という技術的な物を発達させてはいますが人が人を殺しあい、最大の貧富の差を作り出した2千年でした。

 



貨幣の保存機能は両刃の剣である 結論から導き出されるもの

2014-12-31 06:46:11 | Weblog

 今回の文章を書いてきて感じたこと、貨幣の保存機能が人間として生きているこの社会での、悪の面を持っていたということが私なりの結論になってしまった。そしてその出発点を振り返ってみると人間社会になぜ貧富の差があったのかという一言に尽きてしまう。

 そこで考えてみたのが「人間とは何か」という疑問の中で過去の歴史の中から思想の基礎としての考え方が、貧富の差から出発しそれなりの理論を組み立てた人が誰かを考えてみると、私の浅い知識ではあるが人間社会の「貧富の差」からの出発点として最初に考えられるのは・・・

『富者が神の国に入るより、ラクダが針の穴を通るほうが易しい』確かキリストの言葉だと思うがその考え方の出発点は『貧富の差』の戒めを説いたものだと考えられる。

そして次に考えられるのは「労働者団結せよ」と貧富の差が労働の搾取からきていると考えたのが他ならぬカール・マルクスであった。

 キリストは宗教のもとに貧富の差をなくそうと考えたが、やがてその考え方は宗教性を政治に取り入れれば人々を支配できると逆に人の支配に利用されたのが「王権神授説」となった。
 以下はウイキキペディアより引用

「王権神授説(おうけんしんじゅせつ)とは、「王権は神から付与されたものであり、王は神に対してのみ責任を負い、また王権は人民はもとよりローマ教皇や神聖ローマ皇帝も含めた神以外の何人によっても拘束されることがなく、国王のなすことに対しては人民はなんら反抗できない」とする政治思想のことである。
ヨーロッパの絶対王政期において、長らく「神の代理人」とされてきたローマ教会の権威・権力からの王権の独立と、国民に対する絶対的支配の理論的根拠となった。」
そしてマルクスでは宗教性からの脱皮として共産主義社会という人間社会の建設が貧富の差からの脱却であると説いた。
しかし現在その主義のもと国家を建設した国々にはその夢が崩れてしまっている。

 この次は次回とします。

貨幣が持つ保存機能は両刃の剣 Ⅳ

2014-12-30 06:43:33 | Weblog


  今回以前書いた文章の引用から。『A・Eの関係』という言葉は私のブログで何回か使われた言葉ですが、これからの文章でも頻繁に使いますのでここに独立した項目として載せておきます。この関係を理解することでアダム・スミスの『見えざる手』が『見える手』になるかと思います。

Aが自己の労働を1枚の貨幣(カネ)に換え、Bが作り出した商品と交換します。そこにはAが持っていたカネがBに渡ります。BはそのカネでCの持っている商品と交換します(つまりCの商品を買うという行為です)Aの所有していたカネがBを通してCに渡ったわけです。CはDの持っている商品を買います。DはEの持っている商品を買います。そしてEはAが持っている商品を買います。  つまりここでは簡単な例ですが最初にAが持っていた1枚のカネがB、C、D、Eを通してAに戻ってきて一巡したわけです。そしてお互いに作り出した商品が売れたということになります。

 さらにまたAがBの商品を買い、その関係がEまで続きAの元へ戻ってきたとします。そこにはAからEまで2回商品を製造しなくてはなりません。たった1枚の貨幣が2回の商品製造をさせたことになります。この関係がさらにAからEを通してAまで戻ってきたとき1枚のお金が3回の商品を各自に作り出させたわけです。 

 このことが貨幣と労働との関係だと捉えています。ただし、そこには現実の経済社会では簡単なA・Eの関係ではなく複雑な貨幣と労働との関係が行われているということです。つまり1000万の購買があれば1000万通りの貨幣と労働との交換があるということです(そのことが今まで経済をわかりにくくしてきた原因です)働くことのない子供は物を買うために親から小遣いを貰うとか、老人では現在の社会では年金というかたちで貨幣を手に入れ貨幣と他者の労働で作られた商品と交換し手に入れます。

 上記文章AEの関係は貨幣が物(労働によって作られた商品)を買うことによって消えてしまうのではなく、他人との労働の交換によって限りなく循環していくものだということです。そして永久運動としての循環をストップさせてしまうのが貨幣の保存です。小さな保存機能の使用であれば社会全体での交換機能の阻害にはなりませんが富者(全人口の何パーセントにも満たない人たち)が金融機関の通帳なりその他の方法で保存してしまえば市中に出回る貨幣の量を著しく減少させてしまう。つまり経済を停滞させてしまう現象となります。さらにその機会を利用し金利を付け必要としている人に貸すことによって富者はさらに富者となっていく。

 全人口の数パーセントにも満たない人たちの保存方法が両刃の剣の悪の面と言えます。
同じ太古の時代から継続してきた保存機能が現代社会ではより拡大されてしまった。そのことにより経済が停滞してしまえば保存している者から金利を付けて借り入れ、市中にお金をつぎ込んでいく、それが国債発行ということになれば富者をより富者にさせその分国債残高の増加という道を歩んでしまう。一時しのぎであり根本にある問題を注視することなく、単に市中に金をつぎ込んでも何ら問題解決になっていないということを、現代に生きる人たちはそろそろ気が付いてもいいのではないかと考えるが。

            貨幣が持つ保存機能は両刃の剣である。

貨幣が持つ保存機能は両刃の剣 Ⅲ

2014-12-29 07:43:43 | Weblog
貨幣が持つ保存機能は両刃の剣という題名をつけて書いてきたが、その意味は当然良い面もあれば悪い面もあるということになる。
では良い面とはどのような面なのかというと最初の文で書いているように、子供たちがお年玉を貰いそれを親が無駄遣いの癖を付けないように銀行または郵便局その他の金融機関に預金をさせる。つまり本来お金とは物(商品)を買うためにあるのであるから預金(保存機能を使う)してしまえば大きく言えばその分経済は停滞してしまう。老人が老後に備えてお金を貯めていくこともしかり。青年男女、大人になっても家を買うため車を買うため、ローンの頭金としていくばくかの貯蓄をしていく。それらは当然保存機能という機能の元に動いているといえる。
 
 そしてその機能つまり考え方は人が人として、いや、リスなり動物が冬の寒さを乗り切るために木の実を貯めているのと同じように、はるか昔から食べ物に限って保存機能が使われてきた。
 人が人の社会、人間社会になったときその機能は食物に限ったことにではなく全般的な保存に生かされてきた。そしてやがて人間だけが作り出すことができる貨幣へとその機能は引き継がれてきた。

 現代社会で人(子供から老人まで)がお金を貯めるという、または貯めたいという気持ちがあることに何ら不思議はない。大昔から続いてきた、貯めときたいという気持ちの継続が現代でも何ら不自然なものと感じなく自然と人々の行動なり心理に入り込んでいる。

 ただ上にあげた保存機能からお金を貯めたい(貯めることができればの話だけれど)という行動はどのように社会が変化しても否定できるものではないと私自身は考えている。つまり保存機能の両刃の良い面といえる。

 では両刃の悪い面とはどのようなことなのか。多分これを読み進まれている方は気が付いていることだと思う。

 交換価値から保存できるものとして金属貨幣に変わってきた。そしていくらでも印刷できる紙のお金、紙幣へと変わってきた。それは金融機関に持っていけばいくらでも保存することができる貨幣である。そしてそれは金額という数字の末尾にいくらでもゼロ(0)を付けることができる機能にと変化してきた。もてる者、富者は資産という形の中で+という数字を羅列させることにより、もっと儲けたいという心理が働き、より数字の羅列を誇るように行動をしていく。それは株であり先物でありその他のお金を増やす方法を考えだし、そこに自己の労働をつぎ込んでいく。お金を持つものはよりお金を増やすことができる仕組み、それが子供や老人のお金を何かあったときのために預金をしていくという保存方法、両者の考え方が同一の保存機能から出ているものである。当然後者の保存方法は両刃の件が持つ悪しき面の機能といえる。

次回はなぜ後者の保存方法が悪といえるのかを考察してみたい。

貨幣が持つ保存機能は両刃の剣 Ⅱ 昨日の続き

2014-12-12 05:58:15 | Weblog
   昨日は金属貨幣、金であり銀でありがそのままの価値ある物として、余裕のある人が保存してしまえば市中の貨幣が不足し貨幣不足からくる社会全体の経済が停滞してしまうと書いた。

そこから考え出されたのが金属貨幣では限界があるためいくらでも印刷できる紙の貨幣(紙幣)に替えてきた。不足すればいくらでも印刷できることからそれで一安心と考え、経済低迷からくる社会不安が暴動へ発展するのを防げるはず。貨幣が不足し日常の生活で交換する元となるお金を何らかのかたちで不足している庶民に与える、そこで考え出されたのが政府が金を出し公共投資で働かせ賃金として庶民に持たせる。そのような理論を考えた人が過去にいた。しかしその政策はいっときのカンフル剤でしかならないと現在の良識を持った人々は考えている。

 つまりなぜ経済が停滞してしまうのかの理論を考えないでその場限りの政策でごまかしてしまう。今回の選挙でアベノミクスなる理論を創り、貨幣を持てるものから借入れて社会にばらまく、その政策を継続させてくれと声高らかにうたいあげて庶民の関心を引っ張っている。昨日の新聞では保守が3分の2の勢力に逼迫しているという状況が言われている。3分の2とは憲法を改正することができる勢力となる。憲法改正すればなんでもできてしまう。危険ではないのだろうか。

 ただ私が書こうとしているのは、もしできるとするなら。私なりの新しい理論を作り上げたいと感じている。なぜならこれは私の独りよがりになってしまうが、今の政治家、自民、民主、公明、共産、社民、維新,その他、等の政治家が政権をとったとしても人々を説得し納得させる「理論」を作り上げ社会から経済停滞に陥る状況を無くせるのかとということに尽きる。経済停滞に陥る状況の根本原因を解明し、その理論が人々の支持を受けた社会が未来社会であると考える。

 今の保守、または野党といえども未来社会(例えば50年後100年後)の展望を持っているのかを今回の選挙の前に聞いてみたい。それが未来社会の理論ではないだろうか。

貨幣が持つ保存機能は両刃の剣 Ⅱ

2014-12-11 04:54:33 | Weblog
 貨幣はモノの価値を持続させるために自然に発現されてきたものと言える。
 物々交換の時代には交換する物が相手が必要とするものであればたとえ野菜とか魚であったとしてもなんでもよかったが、それ等は消費期限が限られてしまう。つまり腐敗してしまうもので保存価値としてはゼロに等しい。

 過去の時代それ等の淘汰の中から残ってきたものが最初時は貝殻等であったが、やがては腐敗しない物、いつまでも品質を保てるもの、保存ができ希少価値に優れているものとして唯一残ってきたものが金でありそれに続く金属となった。

 ただ時代変遷の中でやがて管理する者が現れその地位が親から子そして孫へと世襲されてきた。それ等は保存機能に裏打ちされた物であり、保存された量がより多くまた価値の高いものであれば、それらを利用して人々の上に君臨することができた。

 だが時代の進む中で産業が高度化され、当然そこで作り出された商品を多くの人が手に入れる時代となると、全ての商品なり他者の労働といつでも交換することができる利便性が優先され、金属貨幣は価値が減じ得ない物として一部の人たちの保存先として優先されてしまう。当然交換価値から始まった貨幣であるから、市中の量は限られたものであり、そこに一部の人々が保存してしまえば市中の貨幣は減少してしまう。その状態をデフレというのかもしれない。

 金属には限界があることから大量に市中に出すことはできない。少量となった貨幣を人々は争って求めることになるが、貯められてしまった貨幣を再度市中に呼び戻すか、停滞していく経済状態に甘んじていくかの選択となる。

 そこでは経済停滞の原因をつくつた者が一部の人間であることが分かったとしても、いや太古の時代から飼い慣らされてきた人々にはその原因は理解することができないのではないだろうか。

 当然労働と労働の仲介物である貨幣の減少は経済停滞を招く、つまり貨幣が手に入らない状態は商品が売れない、売れなければ商品も作れない、やがて失業者の増大となり、ある意味社会不安となっていく。

貨幣が持つ保存機能は両刃の剣

2014-12-07 08:20:31 | Weblog
 貨幣には3つの機能があると言われている。一つ目は最重要の交換機能であり二つ目は保存機能である。そして最後は私が疑問と考えている比較機能という3種類の機能ということになる。

 一つ目の機能は特に問題となるものではないが、二番目の保存機能は人間にとって両刃の剣になると考えている。そして最後の三つめの機能、比較機能は私には貨幣にはその機能は言われているような比較というものではなく、比較機能は貨幣以前の物々交換の時代からあったものであり、貨幣が持つ独自の機能とは言えないようである。これは拙著『新・貨幣論 悠久の貨幣の謎に挑む』という本に書いているし、また以前のブログでも書いたと思っているのでここでは省略させてもらおう。

 問題となるのは2番目の保存機能であるが、保存機能には良い面と悪い面があると私は感じている。子供がお年玉を貰い自身の預金通帳を作り預金する。それも貨幣が保存できることによるものであり、老人が老後の生活防衛のために日常生活をある面犠牲にしてまで少しでも蓄えをしていく。それも保存機能になるものだ。現代の保存機能ははるか過去の時代の「物」としての保存とは違い貨幣が持つ金額という単位で預金通帳に数字が打ち込まれ、それを必要とするときにはいつでも引き出して使うことができる。つまり市場での交換機能に早変わりする。

 誰もがそのような便利なものを持ちたがる、それが金銭に対する欲望といえる。しかし一般のサラリーマンであり労働者でもあればその貨幣を手にするには相当の努力をしなくてはならない。ましては現代のように、いや過去の時代もそうであったが労働を売ることの難しさを日々痛感しているのが現代の時代ともいえる。企業に就職すること、それがいつまでもその企業で働くことができ、給料がこの先何年でも保障されているものではないということをすべての労働者(ここでは正社員も)が知っている時代ともいえる。ましてや非正規労働者が就職口を探し、いつまで働かしてもらえるのかを疑問として感じてもいる。

 貨幣を貯めておく、つまり保存機能を使い金融機関に預け、何かあった時のためにと考えたとしても預ける(保存機能)だけの余裕すらない人も多いといえる。多くの人たちには貨幣が持つ保存機能は縁のない機能といえるのではないだろうか。

 そこには多くの人たちにとって保存機能はある意味無くてもいいものだといえる。つまりこの機能が持つ考え方と行いはは貧者にとっては両刃の剣の悪い面になっている物であり、その反対に保存機能を有利に使うことは富者をより富者にする機能だともいえる。これからこのブログで両刃の剣の面を私なりに解明していきたいと考えている。

 ただ書くことに最近苦痛になっている自分を感じていることから、また頭の回転が悪くなっているので時間がかかるかと思いますがご容赦願います。

暫く休んでいましたが、また少しずつ書いていきたいと思います

2014-11-25 08:08:02 | Weblog
 3月10日から本日(11月25日)までブログを書いていませんでした。

 理由としては10代後半からの趣味の写真を始めだしからです。毎日カメラを片手に瞬間の1枚を撮影すべく歩き回っていました。たかが趣味の写真といっても写真の撮り方から始まり、撮った写真をパソコンに移し編集ソフトを使いトリミングをし、A3ノビでプリントアウトをし、額装までの一連、そこまでが写真の趣味と考えていましたので時間がかかりました。

 何とかそこまでの行程をこなし現在は写真は趣味として考えられるようになり、また以前のブログに戻れる余裕が生まれたわけです。

 そこには書きたいこととしていくつかの問題提起があります。①としてなぜ人間は国債なるものを考えだし、現在では当たり前のように不自然さを感じなく使ってきたのか、それは全ての人間のためになっているのかというような疑問があるからです。

 また②としてなぜ現在アメリカドルがこうまで強く日本円が弱くなってしまったのか。情報量の少ない私ですが推論として、貨幣とは何かを理解していると自負をしている私なりの答えを出したいと思っています。
 
 休んでいたブランクがありますがこれから少しずつ書いていくことによってはっきりと捉えていけるのではないかと考えています。