楢篠賢司の『人間とは』

人間とは何かを研究しています。現在は経済学を自分のものにしたいと目下勉強中です。

日本版アラブの春の風は吹くのだろうか

2013-10-15 06:18:32 | Weblog
 土曜日入れて休日・祭日と3日間休んでしまった。今日は何とか書かなくてはと思いパソコン立ち上げた。昨日までの元気今日はどこへ行ったのか。休みボケ…うぅううん。
 
 ではお金の話、これはあくまでも自分なりの考え方になるが人に強要するものでもありませんので。

 ただただいつも不思議に感じることがある。それはなぜ国の借金(国債発行残高)がどの国々においてもどんどんと積み上がってしまうのか、この先に来るものは何?景気が悪くなるから国債を発行し景気を良くする、これは政府主導そしてそれを国民が望んでいるから?国民が望んでいるのは決して国の借金を増やしその付けを子孫に残すことでは無いと言える。しかし現実にはまた政府主導のOOノミクスという名の下に国債の残高を増やしてしまう。しかしそのやり方に国民は文句を言わずに付いていってしまう。

 今までいつのときも同じように文句を言わなかったから現在の国の負債残高になってしまったのではなかったか。そして今回も文句を言わない。結果今までと同じように残高を膨らませてしまうと私は感じるが。言えることは打つ手はないといえる。ただ打つ手がないゆえにまた借金を重ねる。それは景気がどんどん落ちていくことを何とか防ごうとしているだけに過ぎないと言える。今のままでは人々が生き残るためにコスト競争に勝つしかない。結果、物(商品)の値段を下げていく。それをデフレスパイラルといっていた。しかし現在一部の人を除いては大部分の人々の懐が暖かくなったわけではなく、コスト転化に走れば物が売れないという状況になってしまう。そこで売れるのは住宅が上がるという思惑から一部の人たちが住宅購入をしているだけという状況ではないだろうか。はたしてこのような状態で全体的な経済活性が可能なのだろうか。国民の末端までの波及効果が考えられるのか。

 今一番経済が良くなるのを期待しているのは年収が高い人ではなくカスカスの生活を余儀なくさせられている低所得の人たちである。その人たちの対策もあまりせず国際的な評価(国債残高が1千兆円を超えてしまったことで政府として財政再建に取り組んでいるという表明)を得るために消費税を来年から上げることが決定されてしまった。

 底辺の人達が見捨てられたのではなかったのか(毎日のごとく人身事故による電車が止まる)このような状況が続けば日本版アラブの春が日本を襲うかもしれない、アラブの春とは国民が政治家を信用しないために主権在民という「民」が国の元であるという意識から自然発生的に湧き上がったものであるといえる。そして既存の政治家が一番恐れているのも日本版アラブの春が起きるということではないだろうか。

 次回はアラブの春がエジプトなどでなぜ失敗したのかを書いてみたい。これはあくまでも私個人の思い込みかも知れないが。

何としても「政教分離」

2013-10-11 08:30:53 | Weblog
昨日からの続き
確かに他の動物から社会が守ってくれることから捕食はされない。そして生きるための食ということでは全ての(一部を除いた)人間はその不安はなくなったといえる。
だがそれに変わる不安感は逆に増大したのではないだろうか。それは経済的・精神的(病気・身近な者の死等)な不安感は逆に増大しているといえる。

 またスポーツ選手が自己を最高のコンディションに持っていくためイメージトレーニングという方法を取る。それは一種の自己催眠といえる。自身の心に対し自分が望む方向を思い描きそこに神経を集中させていく。それは決して自分が負けるかもしれないという恐怖心(不安)を自己の心の中から追い出すことでしかない。もし失敗を恐れ頭の中にその姿がよぎれば体が硬直してしまう。そこには最善の結果を得ることができないと知っているからに他ならない。つまり自己催眠をかける事によって不安を追い払い、よりよい結果に導いていく。これが集団であればどうであろうか当然同じ方向に全体が勝つことをイメージし試合に臨む。結果としてその試合(例えばバレーボール等)に勝てば最高の美酒に全体がありつける。それは個人として勝つよりも数倍の快感となるはずである。団体競技においてはひとつの方向に向かう集団催眠と言えるのではないか。

 なぜ人間はそのような自己催眠・集団催眠にかかってしまうのだろうか。宗教も同じように心の不安を自己及び集団によって催眠状態となり心の不安を取り除けると思ってよいのではないだろうか。神がいるからではなく、神にすがれるのではなく、神が守ってくれるのではなく、自分自身の心が作り出した自己催眠によって、また同じような同士の下、集団催眠によって不安を解消させているといえる。

 人間はなぜこのような状態に入れるのか。それは生物全体が持つもの、進化の過程から来たものであるといえる。人間は「食」に対しては他の動物を捕食する側ではあるが、捕食される恐れはないと言える。また自然界を改革し自らが「食」を作り出すことができる動物であることから、少なくとも現在のところ「飢え」という心配から開放されている。しかし進化の過程から受け継がれてきた環境に対する不安感は拭うことができない。それに変わる知識を持った人間が持つ不安、また人間関係から来る不安感を解消するための精神的なよりどころとしての宗教ということになると言える。

 私からみれば宗教指導者は神を認識している人ではないといえる。私が「時間と空間を描いたとしたら」という無限性を持つ暗黒の空間を頭の中に描き周りを見渡したとしても「神」の存在を確認する考えは浮かばなかった。そこから人間がなぜ宗教を取り入れるのかという疑問が出てきたことで「人間と宗教」を追求してみることになった。
 
 最後に付け加えたいこと、私は決して宗教が人間にとって不必要だと思っているわけではない。むしろ精神的なよりどころとして必要であると考える。ただ人間の弱さを利用しそれを権力(政治)に利用することには反対である。あくまでも人間が人間らしく生きるには「政教分離」しかあり得ない。

 人間と宗教はこれで終わり、次回は貨幣論に取り掛かるつもりです。


人間と宗教 宗教は進化の過程が持つイメージから創り出されたされたもの

2013-10-10 06:31:31 | Weblog
 全ての生物に共通しているもの、子孫を残すためにどのように自分を環境に合わせ姿を変えていくかと言うことになる。環境にあわせ姿を変えていく(進化)をしていく前提となるのが不安感から来るその状態からの脱出をしていかなくてはならない、そこには無意識のうちに自己を変化させていきたいというイメージングが行われる。

 それは前の書き込みで書いたように食を得るため、または捕食者から逃れるためにより早く走ることでありより早く水中を泳ぐことでもある。弱い魚達(イワシやアジなど)は捕食者から逃れるために集団でより大きな塊となり敵を欺く、それは誰から教わったことでもない、そこには如何に子孫を残していくかということから導き出されたものだといえる。ある意味それは集団催眠といえるものと言える。

 子孫を残していくための捕食者からの回避、食われてしまうという不安がやがて全体を1つのイメージで結び付けていく。それが弱い魚達が取る進化としての魚柱となった物と言える。それは何万年・何十万年・何百万年という長い時間をかけた進化の結果だといえる。

 ここで言えることは全ての生物が現在でも環境に合わせるため進化という過程を歩んでいると考えられる。

 そこで生物の最上部に君臨している人間はどうなのかと言うことになる。人間は進化していかないのか?いかないとしたらなぜなのかと言うことになる。人間だけが環境の変化に対しても進化を止めてしまった。なぜなのだろうを考えてみたい。

 人間・ホモサピエンスは進化の原動力となった環境に対する不安感が無くなってしまったのか?決して無くなってはいないと考えるが、そのことは後で述べるが、まず言えることは「食」という一面を考えてみよう。少なくとも飢えという面から戦争でも起こさない限り逃れることができる。それは農耕を人間が取り入れたことにより自然という環境に左右されなくなったことから始まったのではないか。やがて農耕から作り出された余剰生産物は他の動物にも分け与えられた。それは牛馬を飼うことであり、養豚・養鶏と言う道に入ることである。このことから極度の天候異変がない限り人間は他の動物を捕食はするが、他の捕食者から逃れる術としての火器を持つこともできたことから捕食はされないという自然界ではありえないという状況を作りだしてしまった。

人間とは」を書いていく上で必要な宗教をここに移します。

2013-10-09 07:29:34 | Weblog
  人間と宗教を書く前提としてどうしても進化から入らなければならない。そこで今まで他のブログで書いてきたものを抜粋してこのブログで書き直していきたい。
元になったブログ名はkyonmiku2000  http://blog.livedoor.jp/kyonmiku2000/?p=7 を参照してほしい。
 
進化には二通りの道があるように感じる。根底にあるのはいかにして子孫を残していくかというだと考えるが。

 今まで書いたように他の動物から捕食される状況から逃げ出す方法をどのようにして手に入れたのかということ。また捕食する側が逃げていく餌となる動物にたいし、自己をどのように変化させていけば逃げていく餌となる動物を捕らえることができるかという、二通りの進化方法があるように感じる。

 ただ私はあくまでも人間と宗教の関係を書いていこうとしているので生物の進化にたいしては私自身の推論でしかない。

 全体的な動物に言えることは、人間を含めて体を維持するために食べなくてはならないという一点に集約される。そこには「食」ということが最大の関心事となる。水の中に棲んでいた生物がなぜ陸に上がり、やがて空を飛ぶように進化してきたのか、多分彼は他の動物の餌となるのを恐れ逃げ回ることによってその難を逃れようとした。そこではより速く水中を走り回れるかが生き残りのチャンスとなり、そこで生き残ったものの遺伝子だけが受け継がれていく。それはやがて空へと逃げ場を探していくことになる。

 ただその過程において相当な不安感がその生物を襲っていたことになる。
そして相手を餌として追いかける側も食にありつけなければ飢えという恐怖、空腹に耐えなければならない、追いかける側も無意識に感じている空腹と餓死、そこには無意識の不安感がある。なんとしても捕らえなくてはならない彼は全力で獲物を追いかけていく。やがて追いつき獲物を捕獲したとき、またその獲物を待つている子供を入れた家族のもとえ持って行く。そのときの彼は先ほどの飢えへの不安感から意気揚々とした態度で家族の元に帰る。そのことは自分を含めた家族を餓死させなくても済んだということになる。それは遺伝子を受け継がせることができたとも言える。

10月7日本日午後から時間が取れるようになりました

2013-10-07 14:21:22 | Weblog
 上記タイトル。何故かと言いますとある病?で入院することなったためです。今までも書き物は殆ど何らかの病で入院していた時期に書いたものでした。ただ病に対してはそれほど深刻に考えないことにしています。それよりも今までは6時の起床から9時の消灯まで殆どパソコンを動かしていました。今回は年齢的にそれができるか今の時点では解りませんが、できるだけ書き込みを続けていきます。

 ただ書くことの真の目的は何かといいますと、社会を変えたいというものがあります。ではどのようにそれを実行に移すかということになりますが、それをこれから徐々に書いていきます。
 最初は「時間と空間を描いたとしたら」という書き込みの延長線として「人間と宗教」が完結していないので(最後がどうしても編集が開かなかったため書き込みができなかった)このブログを使い完結させたいと考えています。それはあくまでも宗教とは精神的なよりどころとしての必要性であり、政治と宗教が結びつくことの危険性つまり政教分離の大切さを書きたいと考えています。現在でもイスラエルを中心としたユダヤ教・イスラム教・キリスト教の争いで多くの人々がこの世を去っています。いやこの世ということではなく貴重なただ一度の生を無駄にしている。これはあの世があるか無いかということではなく死後個別性を持った「我)があるのかという論理が構築できるのかと言うことになります。

 一日少しずつですが進めていきます。


更新無し約2ヶ月

2013-09-25 17:28:32 | Weblog
 色々と事情がありまして更新できませんでした。そして以前の文章で9月27日から時間がとれて新しい文章を書くつもりでしたが、延期となり10月7日からになってしまいました。多分2ヶ月ぐらいの時間が取れるつもりでいます理由は、あまり良い理由ではありませんがこれも私の運命?かと思っています。

 内容的にはせっかく「時間と空間」を書いていますので神を理解できる立場から無神論の線として個別性云々というかたちの中で如何に政教分離が人間社会にとって必要なものかを書きたいと考えています。その後に貨幣論の続きとして未来社会では今のような貨幣の使用方法でいいのだろうかと投げかけてみたいと考えています。

 多分今の元気さでは書けると考えています。拙い私の文章を読んでくださる方々に感謝して今は2ヶ月の空白を埋めるべく日々を忙しく過ごしています。

時間と空間を描いたとしたら

2013-07-29 11:40:00 | Weblog
 今までの文章は大分昔に書いたものでしたが、推論の域をでず、いやこれから先も理解のしようがない領域かも知れませんが、ただ哲学的にはこのように理論付けすることができると言う意味で書いてみました。

 人間とは何か?貨幣論・経済論も大切なことかも知れませんが、それらもやはり考えの域を出ない推論でしかありません。

 そのように考えると時間的空間的な中で人間が置かれている状況も決して繋がりが無いわけではなく大きな状況(時間空間)の中から小さな個人を考える必要があります。

 当然その理論的追求は自分が現に存在している個としての自分から、なぜ存在しているのか?そしてやがては死を迎える、そのとき死後があるのか、あるとしたならどのようなかたち…

 そこからこのような文章「時間と空間」を書いた次第です。最後にタイトルにもありますように時間と空間を描いたとしたらということでワードで組んだ文章を変換し載せておきます。時間には最初も無ければ最後もないということで描けませんが空間は無限ということで描くことができます。


時間と空間 Ⅱ 1からの続き

2013-07-25 17:53:14 | Weblog
そこに、やはりいい言葉があった「ていかん「諦観」という言葉である、永遠という時間の中であまりにも短い《生》それは生きるに値する価値も無い人生、もし明日をも生きようとするならば、そこには「諦観」つまり人生を諦めの中で生きて行くという捨て鉢な感覚でしかない。ただその中で真理を知ったという気持ちだけは残っていた。全てに価値を失った中では真理を知ったとしても何の慰めにもならなかったが、旺盛な知識欲だけが誰も入り込めなかった世界を知ろうと、読書だけが唯一の慰めとなった。
 
 大分横道にそれてしまったが、本来の目的である「時間と空間」に話を戻そう。それはあくまでも私なりの時間と空間のとらえ方であり。結論から先に言えば時間は永遠であり、空間は無限ということになる。
その前に有限という意味を考えて見たい。
有限とは何か、ただ単に限りがあると言うだけでは無限に対比させる説明にはならない。限りがあるもの、単刀直入に言えばそれは数えられるという一語に尽きる。例えば片手で掴(つか)めるだけの小石を掴んだとする、そしてそれを数えたとき、ある数で数え終わる、つまり掴める小石に限りがあったという事。有限だと言うことである。例えそれをバケツ一杯の砂をコップで量ったとしても何十何杯かで数え終わる。より小さなコップだとしても何百何十何杯かで数え終わる。そこで二桁目以上の数を無視し最後の一桁目の数を重視したとき、数え終わった数量は1から0と言う数の1つになる。つまり12345678910と言う数字の一つで止まる。1になるか、3になるか、7になるか、又は数十としての0になるかは計り終わった時、解ることであるが、1から0という数字の中のある数で計り終わることは確かだ。今度は砂を一粒一粒数えたとする、やはり数多くの数字が並ぶが2桁目以上の数を無視し最後の1桁目だけの数を見たとき、やはり一から0という数字のどこかに当てはまる。このように考えると仮に地球全体の水、つまり海の水、河川の水、そして雲が持つ水分、動植物が持つ水分、地球が持つ全ての水分を水としてコップで量ったとしても最後の一桁目に来る数字は1から0迄の数字の中の一つに当てはまる。つまり限りがあり有限だという事である。そして宇宙全体の物質をコブシ状の塊(かたまり)として数えたとしても、時間と空間の中で絶えず物質が生成されない限り、二桁目以上の数字がどのように並んだとしても最後に来る一桁目の数字は必ず1から数十としての0という数字の中のある数字で止まる。つまり物質は宇宙(空間)の中で現在も生成されていない限り有限であるという事だ。
 
 では、時間に関しては、どうであろうか、時間が有限だとしたならば時間の最後に来る数字の一桁目が1から0という数字の一つで止まらなくてはならない、しかし時間は流れて行きその数を飛び越えてしまう。二桁目以上の数字がたとえ地球の表面を覆い尽くす程並んだとしても然りである。そう、時間には最後の一桁目で止まる数字が無い、ゆえに空間と共に唯一永遠性を持ったものといえる。時間の流れは何時から始まったということもなく、最後があるということもない、永遠に流れて行くものとしか考えられない。
 では空間はなぜ無限なのだろうか。

 それを書く前に存在とは何かという事を考えてみたい。また結論から先に言えば時間、空間は存在でもなければ、非存在でもなく存在以前のものと言える。なぜならば、ある物が存在すると言う時、必ずその物が存在しない状態を考えることが出来るからだ。つまり私の前に何も無いということだ。存在すると言う言葉を使う時には、逆に存在しないという状態が考えられる時にしか使えないようである。幽霊が存在する、幽霊は存在しない、そこに微生物が存在する、そこには微生物は存在しない、私の死後、私は魂となって存在する。私の死、私の脳が破壊されたことによって脳の停止と共にもはや私は存在しない。存在とは、存在しない状態を理解できる時にしか使えない言葉である。では時間、空間はどうであろうか、時間空間に関して言えば唯一存在するという言葉が使えないようである。それは時間が存在しない、空間が存在しないと言うことを考えることは不可能だからだ。空間が存在しないと言うときには、その空間を埋めている物、つまり物質をそこに置き換えなければならない、物質が無いというとき、そこは空間であり、空間が無いという時、そこに物質があるという式しか成り立たないからである。時間に関して言えば、空想的には時間の停止は考えられるが、理論としては時間が停止した状態を考えることは不可能だといえる。今、私が時間は停止したと言ったとしよう、しかしその言葉の一語一語に時間の流れがあるのであり、現在、つまり今を中心として言葉の一語一語に現在がありそして過去として消えて行く。それが時間の流れなのである。そして無限の空間、果てし無き空間の全域に我々が感じる同一の時間が同一のものとして流れているのであり。宇宙空間の小さな領域の中での時間を問題にし、そのことにより無限の空間の時間を語ることは、それこそ無意味に等しい事なのである。むしろ時間という意味を理解していないと言っても過言ではない。ある物理的な見方として時間が停止し逆戻りするという考え方もある。しかし無限の空間に無限という領域で広がる時間に、ほんの小さな領域の時間が切り離され、停止もしくは逆戻りするとでもいうのであろうか、または全体的な時間を停止させたり逆戻りさせたりということがあり得るとでも言うのだろうか、神の力を持ってしてもそれは不可能かと思える、また神が行う事としてはあまり意味のないことのように考えられる。空間の無限という問題に戻してみよう。空間がなぜ無限なのか、その前に空間が有限だと考えたとしよう、そのとき宇宙の果て、いやそれ以上先の、空間を取り囲むような物質を考えなくてはならない、ゴム毬(ごむまり)で例えるならばゴムの部分、空間を丸く囲っている物質としてのゴムの部分にあたる物をこの広大な空間に当てはめなくてはならない、仮に広大な空間に、それを取り囲むような物質を想定したとしてもその向こう側が何なのかと言ったとき空間か物質の継続を考えなくてはならない。つまりそんな物質があるわけもないし考えることもでき得ない、その事ゆえ古来より空間は無限だと言ってきたものと考えられる。
 
 そして我々が住む地球、宇宙、そこから広がる広大な領域、それらは時間、空間、そ
して物質の三つの要素で成り立っている。時間、空間は存在でもなければ非存在でもない存在以前のものと前に書いたが、物質が在るということは物質の存在が最初から在ったという事になる。この広大な空間に物質の元となるものが時間、空間と共にありビックバンが始まる以前の、収縮が起きた時点から宇宙の創造が始まったものと考えられる。そしてそれは我々が住む地球を取り囲む宇宙空間以外の無限空間の中にあっては、どこで起きたとしても何ら不思議は無いのである。つまり無限空間の中においては我々の存在している宇宙と同じ物が複数個あったとしても不思議は無いのであり、そしてそれが自然だと言える。また、無限とは何なのかという事に戻してみよう、今、地球上にいる私から空間に向けて空間の果て迄の距離を測ったとしよう、そしてその単位を光年としたとしても無限ということは二桁目以上の数字が無限大に並べられたとしても一桁目の数字が1から0という数字の中のある数で止まらないという事である。空間を取り囲む物質が無い限り…。



 この文章は数年前ホーキング博士が来日した当時書いた文章を今改めて加筆したものです。本来、私が書きたい文章は「人間とは何か」ということです、20代の時から問い続けていますが、まだ実現させていません。「人間とは何か」それは釈迦、キリスト、マホメット、等の宗教的聖人とそれ以前の宗教者、思想家としてのマルクス等が理解し「人間はいかに生きるべきか」という形で我々の前に提示し、それが現代と言う時代に混乱を引き起こしているものと考えられます。本来「人間は如何に生きるべきか」ということは各個人が決めるべきことであり(真理は一つしかない)哲学者、宗教者はまず「人間とは何か」という事を人々の前に提示し、生き方を押し付けるべきではないものと私なりに思っております。

 私が書きたいもの、それは「人間とは何か」という部分だけであり、如何に生きるかということは書くつもりはありません…。

参考文献 
 ❋ホーキング宇宙を語る‥ビックバンからブラックホールまで
  ステイーブン・W・ホーキング、林 一 訳  早川書房               
 ❋宇宙の果て・激突する宇宙論
  チモシイ・フエリス  斎山 博 訳 地人書館
 ❋ 宇宙の運命・新しい宇宙論
  リチャード・モリス  湯浅 学 訳  BLUE BACKS
他       
文章中❋印 現在では130億光年~180億光年といわれていますが、150億光年としておきます。        


時 間 と 空 間 Ⅰ

2013-07-22 17:40:05 | Weblog
「時間と空間」この文章は4、50年前に書いた文章ですが、前々回の文章で宇宙空間云々を書きましたが物足りなさを感じましたので古いパソコンにまだ残っていましたのを何回かに分けて投稿させていただきます。
 
 理解しがたい事がある。考え方の違いと言うことになるのであろうが、それは、時間と空間に対しての考え方である。私の考え方を述べる前に次の文を引用させてもらおう。
         
       ホーキング宇宙を語る。
2,時間と空間より。
 1915年以前には、空間と時間は固定された競技場のようなものと考えられていた。その中では事象は起こっているが、競技場はその内部で起きている事に影響されることはない。このことは特殊相対論についても言える。物体は動き、力は引き付けたり反発したりする。だが空間と時間はひたすら持続し影響されない。空間と時間は永遠に続くと考えるのが当然だった。
 しかしながら、一般相対性理論では状況はがらりと変わる。空間と時間はいまや動的な量である。物体が動くか、あるいは力が働くかすれば、空間と時間の湾曲にその効果が及ぶ、そして逆に、今度は時空の構造が物体の動き方と力の働き方に影響を与える。空間と時間は宇宙の中で起こるすべてのことに影響するだけでなく、それから影響も受ける。空間と時間という観念をもたずに宇宙の中の出来事について語る事が出来ないのと同じように、一般相対論では宇宙の限界の外にある、空間と時間について語ることは無意味になった。

ここで簡単にこの文を説明させてもらおう。一般相対性理論が出る前の1915年以前には哲学的解釈として時間と空間は固定されており、物質的にどのような変化が起きたとしても時間と空間には何の変化も起きないと考えられていた、ということであり。一般相対論が出た段階では宇宙空間の外にある空間に対しては(当然そこに時間もあるのであるが)時間と空間を問題にすることはないと言い切っているのである。しかしそこでは宇宙の限界の外と言っているように宇宙空間と限界の外にある空間を意識しているのであり宇宙空間の外にある空間、そこには時間もあるのであるが、「空間と時間」と言いながら問題にしないということの方が私には理解しがたいことなのである。ここで言えることは物理では物を対象として考えることを出発点としているということであり、哲学、それも形而上のであるが、物を通り越し、本質を知ろうとする点からの出発であり、出発点での相違があるといえるのではないかと思われる。古来、時間と空間という概念が出た時それは物理的なものではなかったはずであり、そこでは同じように神、たましい魂、死、等というような概念と同時に発生してきたものと言える。そして、あえてまた取り上げさせてもらえるならばホーキング博士の言うように宇宙の限界の外にある空間と時間について考えることは無意味になった。というように言うことは、❋半径150億光年という宇宙空間、その後ろにある無限の空間の中では、この我々がいる宇宙空間でさえ無限の空間の中においては野球のボール、はたまた小さな砂の一粒にも満たないのだということを理解していないのではないかとも考えられる。
宇宙というものをもう一度定義しながら文を進めたい。
 広辞苑によれば「宇宙とは」時間、空間内に存在する事物の全体ということであり、簡単に言えば物質が存在している空間と言うことになる。または空間内に物質が存在している範囲ということでもある。
 
ビックバンという火の玉から生まれた宇宙は、150億光年たった現在10億光年ごとに5%乃至10%の割合で膨張しているという。そして現在まだ発見されていない何等かの物質が発見されない限り膨張を止めるに必要な物質の10分の1しかないのである。つまり我々が見ている星々はやがて暗黒の空間に消え去っていくようだ。それは今から100億年後1,000億年後であるかもしれない。そして現在我々が存在しているこの空間は暗黒の空間として残るはずであるが、ここで私が何を言おうとしているかもうお解りかと思う。暗黒の空間、そこでは物質はいっさい存在していないかも知れないのだが空間はあるのである。はたまた5,000億年後、一兆年後といったとしても、その時間は確実に来るのであり。これらのことも時間と空間の問題である。
物理と哲学、それも形而上と書いたが、哲学的な時間と空間とは何かということを私なりに書いて見たい。
まず時間とは、空間とは何かという問いの出発点として「私とは何か」という疑問から入っていくと言える。現在という時間空間内に存在している「私」そして過去と未来という時間内で自己の存在を考えたとき、神及び魂としての存在を信じられなければ、未来に於ける私の時間は「死」と共に消滅してしまう、この私の周りから出発している無限の空間で時間が永遠に続いたとしても、私にとっての時間は無いのである。なぜなら死によって私は永遠に消滅してしまうからである。では現在「存在」している「私」にとっての過去とは何か、私がこの地上に生を受けた時、それは私を生んだ母であり、またその母を産んだ女性と遡って行ったとき、私がこの地上、または現在という時間空間内に存在しているという感覚としての意識が何千年何万年…はたまた何億年と遡り(さかのぼり)生命の発生地球の誕生、宇宙空間の出現(物質が存在しだした)へと私の意識を遡らせていく。そしてそのことはもしそれ等が無かったならば、否、その内の一つでも欠けていたならば確実に「私」は存在していないからである。そこでは「神とは」「魂とは」「生命とは」「死とは」そして「人間とは何か」ということが日常の生活の中で、電車や船に乗り旅をしているのと同じ感覚で「人生」という旅をしているのだという思いを味わいながら日々の生活を送っているのである、そこで確実に言えることは、ありふれた言い方をすれば1秒1秒が死に向かっているということであり、カミユの言葉を借りれば、「本当に重大な哲学の問題は自殺である、人生が生きるに値するか否かを判断すること」と言うように、そこに哲学の出発点があると考えられる。またベルグソンという哲学者の言葉を借りれば「哲学的直感」という書の中で《より深く潜れば潜るほどより多くの物を引き出してくる》それは20代の時の多感な青年時代の悩みであったかも知れない、神に近づけなかった為に、それは神が作り話の世界に過ぎないと言う自らが下した回答の中で、人生が生きるに値するかを真剣に考えた時期があった。     次回に続く

 多分9月に入れば貨幣論の続きを書く事ができる環境に入ることができるかと思います。

2013-07-20 06:56:50 | Weblog
前の投稿に書きましたが9月に入れば続きを書くことができる。それは思索をする環境に入れるという意味です。今も書くことはできますが集中力という点ではやはり現在では気分が乗りません。自分を追い詰めていくこと。書くことが自分の日々の過ごし方、今まで書いてきたことのように朝6時に起きて夜9時に寝る。来る日も来る日もこの状態であれば自分を見失いなくためにも書いていく。その環境が9月27日からということに決定しました。現在はそのときのために資料集めです。

 昨日のニュースではアメリカのデトロイト市の破産が大きく取り上げられました。入るよりも出て行くほうが多い、そこに年金の支払いが市の財政を圧迫している。当然破たん処理のために最初に手を付けるのが年金であろう。そこで厳しさを増すのが年金生活者、老人がターゲットになる。

 この問題は何もデトロイト市だけではなく日本にもやがては訪れることになる。
そしてアメリカの億万長者といえる層にも不安が広がっている。それはやがてアラブの春と同じようなことが世界を席巻するのではないかという不安、彼等は富裕層の税金を上げても良いのではないかといっていることがその証明になっている。

 ただ現在の格差は富裕層の税金を上げるだけでは解決するものでもない。もっと根本にあるものに、人間は気がつきそれを修正することをしない限り解決するものではない。

 私は想う、富裕層も入れた全ての人たちがこのような社会は間違っていると気が付いてきたのではないかと。

 それには理論を創っていくことの一言に尽きる。それが9月27日からということに決定した次第です。