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魔界への誘い・京に伝わる魔界伝説その34
嗤う将門の首
時代はずっと遡って天慶三年( 940 )東国で起こった将門の乱で、
平将門が斃れる。桓武天皇のひ孫にあたる高望王が平氏を名乗り、
さらにその孫にあたる将門は、
東国で新しい国家を打ち立てようとした。
朝廷に叛いた反逆者の首は、
京の都に運ばれ六条河原で晒し首にされた・
一説には都大路 (朱雀大路) だという説も??
将門の首はかっと目を見開き、声を出して嘲笑い、
その表情は都の人々を震撼させたそうです。
あるとき地面が轟き、将門の首は
自分の胴体を求めて、東国へ飛んで行ってしまった。
白い閃光を散らしながら天空を飛んだ首は、途中で力尽きて落下する。
そこは今も将門の首塚として祀られています。
東京都千代田区大手町1丁目にある
「 将門の首塚 」は東京駅からほど近く、
林立する高層ビルに挟まれながらも、
そこだけ鬱蒼とした杜が根を張っている。
神田明神の飛び地境内のようになっていて、祭りの時には神輿が渡御する。
そこから歩いて1分とかからず、すぐ先に皇居の濠が見えます。
「 朝廷の敵 」であった将門ですが、
ここでも桓武天皇のトリックが生かされており、
祀られることで、いつの間にか皇居守護の役割を担わされている。
ところでもう一説に、
将門の首は四条新町を南に下がった路地に埋められたという説が残っています。
不吉に呻く将門の首を供養したのは空海上人だという。
現在も神田明神が祀られていますがあまりにも小さくて不思議な神社です。
といのも民家の玄関の壁に埋め込まれる様に鎮座しています。
*京都 神田明神
概要
所在地:京都市 下京区 綾小路通西洞院東入新釜座町728
京都・四条通を南の綾小路通りへ少し下がった路地に民家の軒下に埋め込まれるように祀られている。
所在する新釜座町の地は、平安時代当時は左京五条三坊一保一町の町中でしたが、
その後再び町屋になったという、京でもとても古い町です。
民家軒下の壁が路地にせり出しており、
上部には格子の中に古い廚子が納められ、
下部には壁の中に石が塗りこまれていた。
その後、祠は民家の中に移設され、
祠の下部にあった石と共に祀られるようになった。という。
歴史
築土神社が祀られた頃、当時“市聖”とあがめられていた高僧の空也上人は京の都において、
将門の首が晒された地に堂を建て手厚く供養したという。
いつしか「空也供養の道場」と呼ばれるようになり、
後にこれがクウヤクヨウ…がなまってコウヤク、
細い路地に位置することから“膏薬の辻子(こうやくのずし)”として地名になったと伝わっている。
明治2年に南北に分かれていた膏薬辻子を合併し、
現在の町名(新釜座町)に変えられるまではこの名で呼ばれていた。
江戸時代の地誌類にはいくつかに掲げられている。
『京雀』「かうやくの辻子」のくだりには
「又此町の南にて行當神田明神の社有」と記載されている。
『拾遺都名所図会〜巻一〜』においても「天慶3年に平将門の首を晒したところであり、
それよりこの地に家を建てると祟りがある」
「空也上人は将門の亡霊をここに供養し、
石を建てて印とした」という内容が書かれている。
明治に入ってからの、『京都日出新聞』では将門の首塚を発見したという記事が載ったが、
大正初年の『京都坊目誌』には将門との縁を否定する文が残されている。
ここが東京の神田明神の本家であるという説もあるが、
裏付ける資料は見つかっていない。と記されている・・・・?
今回はここまで・・
続きは次回に・・
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