日日の幻燈

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【note】美味なる馬刺しを求めて松本へ(3)-もうひとつの五稜郭・龍岡城-

2017-09-17 | 日日の幻燈

富岡製糸場を後にして、いよいよ馬刺しが誘う松本へ。富岡市から国道254号を西進し、内山峠を越えて長野県の佐久へ入ります。ここから先、ナビは上信越道を長野方面へ北上して、そこから南下して松本へ行くのがいいんじゃない?と盛んに勧めてきますが、当初の予定では、佐久からそのまま西へ進み美ヶ原を経由して松本へ抜けようとしていたので、さてどうしたものか?
心で迷い、道にも迷い、ウロウロしていると、標識に「龍岡城」の文字が。

おお、龍岡城が近いのか!

これは行くしかあるまい。松本へのルートは改めて考えるとして、一路、龍岡城へ。


【3】9月9日(土)龍岡城

五稜郭といえば函館。ところが、長野県の片隅にもうひとつ五稜郭があることを、世間のみんなは知っているのかいないのか?
それが、龍岡城。
長野出身の私とW氏は、知ってはいるけど見たことはない。いつか見に行きたいぞ…と語り合っていた仲なので、千載一遇のチャンス!とばかりに心を躍らせたのでした(もうひとりの同行者M氏は、さほど興味なさそうでしたが…)。

【龍岡城1・大手門付近】


龍岡城の大手門付近の堀です。大手門の前には、であいの館(観光案内所)があるので、ここで城に関する知識を得てから向かうとよろしいかと(お茶をごちそうになりました)。
龍岡城の築城が始まったのは、幕末の1864(元治元)年。当時ここを治めていた田野口藩1万6000石の藩主・松平乗謨(まつだいら・のりかた)は、小大名、しかも20代という若さで若年寄、老中(格)、陸軍総裁を歴任した人物です。西洋の知識にも触れていたようなので、混迷を深める時代の中、旧来の城よりも、今後を見据えて西洋式を取り入れたということなのでしょうか。
そしてこの龍岡城が、歴史上「最後の築城」とされるそうです。ただ、ここには天守閣や櫓といった、一般的な城を連想させるものは造られず、藩主の住居も兼ねていた政務を執り行う御殿、藩士の小屋、番屋、火薬庫などが置かれたとのこと。田野口藩は城を持つ資格がない大名だったためだとか。
完成したのは1867(慶応3)年の4月。とは言いながら、実際には未完成の部分も多かったようです。

【龍岡城2・城内】


大手門から城内へ入ると、目の前に広がる景色は…何と、小学校の校庭。城内は現在、田口小学校の敷地となっています。平日の昼間に、もし観光客が押し寄せたら、どうなるのかな?(押し寄せるほど観光地化されていないようですが)
特に入場(入城?)規制については出ていませんでした…。

【龍岡城3・お台所】


城内の隅、というか校庭の隅に、御殿の一部「お台所」が残されています(校庭の写真の右奥の建物です)。この建物、明治になり城が取り壊された後、校舎として使用され、昭和になってから半解体復元工事が行われたとのこと。内部は事前予約すれば見学可能とのことですが、この日はもちろん見られませんでした。資料館のようになっているそうです。

【龍岡城4・大給恒(松平乗謨)像】


龍岡城を築城した松平乗謨は、明治になると大給恒(おぎゅう・ゆずる)と姓名を改め、元老院議官など明治政府で要職に就きました。また、メダル取調御用掛(後には賞勲局総裁に就任)として日本の勲章の導入に大いに貢献したそうですが、何といっても彼の功績として第一に挙げられるのは、日本赤十字社の創設に寄与したこと。殿様と赤十字社。何だかイメージに合わない気もするのですが、封建制度が終わり文明開化の時代、進む道は多岐に渡ったということなのでしょうか。

【龍岡城5・北側の堀】


城は廃藩置県とともに廃城となり、石垣を残して取り壊しとなりましたが、お台所をはじめ、転用、移築された建物もあったようです。
函館の五稜郭よりも規模はかなり小さいのですが(小学校の敷地ひとつ分+αといえばイメージが湧くかと)、それだけに、堀端を歩けば城の形を実感できるというメリットはあります。もちろん全景を確認するには高いところから見るしかないのですが…。
国史跡に指定されているとはいえ、もっと全国的に名が知れてもよいのでは?と思う、もうひとつの五稜郭なのでした。


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