「手術は最後の段階の直後まで順調だった。が、医師が切開部を縫合しているとき、なにかが起き、サラの心臓の鼓動が止まった。麻酔合併症か、血液の電解質障害に見落としがあったのか、あるいは潜在的な心臓欠陥によるものなのか。心臓血管モニターは突然、心室細動を告げた。これは心筋細胞がばらばらに収縮と弛緩をくり返す危機的な状態で、そうなると心臓は血液を送り出すことができない。しかし麻酔医が手術室に備えつけの救急救命装置で除細動を施すと、緊急事態は一分もしないうちに終わった。
手術を終えたサラは、胆石を摘出した横腹に痛みを感じた。除細動器の同心円状の電極が彼女の胸に赤い輪を残していた。しかし、彼女にはそういったこと以外に人々に知らせたいことがあった。自身と手術チームを当惑させるような体験をしたからだ。麻酔で意識を失っているはずの彼女が手術室の光景を見たのである。心停止が起きたときの外科医と看護婦との緊迫したやりとり。手術室の配置。外の廊下の手術予定表に書いてあった走り書き。手術台にかかっていたシーツの色。手術室付き主任看護婦のヘアスタイル。廊下のはしにある医師控室で、手術が終わるのを待っていた外科医の名前。あるいは麻酔医が左右別々の靴下をはいていたというような些細なことまで、全身麻酔によって意識がなかった手術中と心停止時に見ていたのだ。
しかも、彼女の見たビジョンでさらに驚かされるのは、彼女が生まれつき視力がなかったという事実である」
これは「魂の再発見」(ラリー・ドッシー著/春秋社)の一節である。最近耳にする「臨死体験」であるが、驚いたことには生まれつき目の見えなかった女性が、肉体を離れたとたん完全な自分になっているというのである。
「見落とされているのは、心の非局在的な性質である。現在の科学では、心は空間と時間のなかのある特定の場所に局在していると仮定されている。心が存在するとされている空間は人間の脳である。時間的には、心が存在するのはいまであり、生まれてから死ぬまでの間であるとされている。このように、心は個人というものに個別的に割り当てられている。さらに悪いことに、それは肉体と共に滅び去るものだとされてきた。脳が機能を停止すれば心も消滅すると考えられているのだ。こうした局在的な考え方、人間の心を研究する西洋のすべての試みにほぼ共通している。西洋は心を局在化し、時間と空間のなかに位置づけようとする。しかし、それは誤りだったと私は考えている。
本書でこれから述べるように、心が局所的なものでないことを証明する明らかな証拠はたくさんある。」
と、著者のラリー・ドッシーは心が肉体の中に限定されていないと断言する。瞑想やリラクゼーションを通して自分の体内に入っていって悪性腫瘍を疑う医師の検査より早く、イメージのなかで卵巣を見て悪性でないことを知ったエリザベスという女性や、ヒーリングセラピーで免疫系の働きを意識的にコントロールする例を紹介している。また、モーツァルトの偉大な作曲が一瞬のうちに完成されたかたちで現れたことやマイケル・ファラデー(英国物理学者)の思考パターンが脳の機能を超越していることに言及している。
スピンドリフトという組織が行っている「祈りの実験」を紹介しているが、「祈り」には効果があり、ベテランと素人の「祈り」ではベテランの方が良くて、遠くであろうが近くであろうが効果に距離はまったく関係ないと。また、物理的条件が悪かったり、生体にストレスがかかっているときのほうが効果は高かったという結果や、対象が明らかになっていればいるほど良いとか、特定の目標を心に抱いた「指示的な祈り」より、最も良い状態になれば良いとする「無指示的な祈り」の効果が大きかったとしているのは興味深かった。
本文のなかで、ノーベル物理学賞を受賞した「シュレーディンガーの猫」で有名なエルヴィン・シュレーディンガー(物理学者)は、
『多くの心または意識は一つであるということである。それらが多様に見えるのは単にみせかけだけのものにすぎない。事実、心は一つしかないのである。』(『生命とはなにか』)
『物質とエネルギーは構造を持った微粒子のように見える。<生命>も同じだ。しかし心はそうではない』(『生命とはなにか』)
『心には特殊なタイムテーブルがあり、心はつねにいまに存在しているために不滅なのだと、私はあえて言いたい。心にとって時間の前後というものは存在しない。記憶や期待を含むいましか存在しないのだ。現代物理学理論は、心が時間によって破壊されないことを強く示唆している私は思う。』(『生命とはなにか』)
『時間はもはや世界を支配する巨大な力ではなく、原始的な実体でもなく、むしろ現象それ自体から生まれる何かである。時間は私の思考がつくり出すものである。ある人たちが信じるように、時間が私の思考に終わりをもたらすかどうかは、私の理解を超える問題だ。神話においても、時の神クロノスは親ではなく自分の子どもをむさぼり食っているではないか』(『科学の精神』)
と、『不滅なる<一つの心>』を主張していることに触れている。これはユングの「原型」とも通ずるものであるが、他にも数学者のクルト・ゲーデルや物理学の先端を行く科学者たちアインシュタインやデービッド・ボーム、ニールス・ボーア、ヘンリー・マージノウ等の考え方や言葉を引用して「普遍的な心」「一つの心」が「ウパニシャッド」にある「ブラフマン」や「アートマン」のように存在し、不滅であると考えていることをラリー・ドッシーは主張する。
本書の内容を十分に紹介できないのは残念である。できれば本書にあたって欲しいが、じつはこの本はすでに絶版になっている。八年ほど前、肺がんの友人の見舞いの際、この本を読ませてあげたいと思った。普段なら新しい本を買って返してもらわなくても構わないようにするのだが、あいにくその時店頭になかった。大事な本なので迷ったが、読み終えたら返してもらうつもりで持参したら、それから一ヶ月もしないうちに彼が亡くなってしまった。時機を逸して、一年忌のときに彼の母親に本のことを尋ねたら知らないという返事で、とうとう行方不明になってしまった。その後本屋で注文したら絶版になっていて駄目だった。なんとか探そうと、出張の折など、博多の大きな本屋を覗いたり、早稲田や神田の古書街を探し回ったが見つからなかった。六年越しにネットで手に入ってほんとうに嬉しかった。定価より高かったが、ちっとも惜しくはなかった。(残念ながら今ではアマゾンでも現在は手に入らないようだ。)
「サヴァン症候群」という不思議な能力がある。以前、知的障害者の福祉施設に勤めたとき、このような能力を持った子が六十名ぐらいのなかに四、五人はいたのを知っている。わたしが試してみたのは曜日を当てるものだったが、すぐ確かめられる十年前後ぐらいの曜日を尋ねてみたら、瞬時に答え、百発百中だった。他にも円周率を何桁の部分とか、何番目と聞くと瞬時に答えられる能力もあれば、一度聞いた曲をすぐに演奏できるというような不思議な能力を見せる。これらもラリー・ドッシーのいう「心の非局在性」ではないだろうか。
神経学者のワイルダー・ペンフィールドは「脳と心の正体」の著書のなかで、脳は電波を受信するラジオのようなもので、「心は脳のどこにも局在しない」と語っている。
物理学者たちが言う「一つの心」や「普遍的な心」、個々の心(生命、存在)は「神」と繋がってひとつであるという実感をわたしはまだ持ちきれないが、この世界はわれわれが今認識しているような、限定されたちんまりした存在ではなく、もっと変化に富んで想像を超える存在ではないかと信じるようになった。われわれの心が脳や身体に閉じ込められ、直線的な時間に拘束されるものではないと疑うようになったし、この宇宙の広がりに比して八十年ぐらいの寿命というのはあまりに短すぎるのではないかと思いはじめている。
手術を終えたサラは、胆石を摘出した横腹に痛みを感じた。除細動器の同心円状の電極が彼女の胸に赤い輪を残していた。しかし、彼女にはそういったこと以外に人々に知らせたいことがあった。自身と手術チームを当惑させるような体験をしたからだ。麻酔で意識を失っているはずの彼女が手術室の光景を見たのである。心停止が起きたときの外科医と看護婦との緊迫したやりとり。手術室の配置。外の廊下の手術予定表に書いてあった走り書き。手術台にかかっていたシーツの色。手術室付き主任看護婦のヘアスタイル。廊下のはしにある医師控室で、手術が終わるのを待っていた外科医の名前。あるいは麻酔医が左右別々の靴下をはいていたというような些細なことまで、全身麻酔によって意識がなかった手術中と心停止時に見ていたのだ。
しかも、彼女の見たビジョンでさらに驚かされるのは、彼女が生まれつき視力がなかったという事実である」
これは「魂の再発見」(ラリー・ドッシー著/春秋社)の一節である。最近耳にする「臨死体験」であるが、驚いたことには生まれつき目の見えなかった女性が、肉体を離れたとたん完全な自分になっているというのである。
「見落とされているのは、心の非局在的な性質である。現在の科学では、心は空間と時間のなかのある特定の場所に局在していると仮定されている。心が存在するとされている空間は人間の脳である。時間的には、心が存在するのはいまであり、生まれてから死ぬまでの間であるとされている。このように、心は個人というものに個別的に割り当てられている。さらに悪いことに、それは肉体と共に滅び去るものだとされてきた。脳が機能を停止すれば心も消滅すると考えられているのだ。こうした局在的な考え方、人間の心を研究する西洋のすべての試みにほぼ共通している。西洋は心を局在化し、時間と空間のなかに位置づけようとする。しかし、それは誤りだったと私は考えている。
本書でこれから述べるように、心が局所的なものでないことを証明する明らかな証拠はたくさんある。」
と、著者のラリー・ドッシーは心が肉体の中に限定されていないと断言する。瞑想やリラクゼーションを通して自分の体内に入っていって悪性腫瘍を疑う医師の検査より早く、イメージのなかで卵巣を見て悪性でないことを知ったエリザベスという女性や、ヒーリングセラピーで免疫系の働きを意識的にコントロールする例を紹介している。また、モーツァルトの偉大な作曲が一瞬のうちに完成されたかたちで現れたことやマイケル・ファラデー(英国物理学者)の思考パターンが脳の機能を超越していることに言及している。
スピンドリフトという組織が行っている「祈りの実験」を紹介しているが、「祈り」には効果があり、ベテランと素人の「祈り」ではベテランの方が良くて、遠くであろうが近くであろうが効果に距離はまったく関係ないと。また、物理的条件が悪かったり、生体にストレスがかかっているときのほうが効果は高かったという結果や、対象が明らかになっていればいるほど良いとか、特定の目標を心に抱いた「指示的な祈り」より、最も良い状態になれば良いとする「無指示的な祈り」の効果が大きかったとしているのは興味深かった。
本文のなかで、ノーベル物理学賞を受賞した「シュレーディンガーの猫」で有名なエルヴィン・シュレーディンガー(物理学者)は、
『多くの心または意識は一つであるということである。それらが多様に見えるのは単にみせかけだけのものにすぎない。事実、心は一つしかないのである。』(『生命とはなにか』)
『物質とエネルギーは構造を持った微粒子のように見える。<生命>も同じだ。しかし心はそうではない』(『生命とはなにか』)
『心には特殊なタイムテーブルがあり、心はつねにいまに存在しているために不滅なのだと、私はあえて言いたい。心にとって時間の前後というものは存在しない。記憶や期待を含むいましか存在しないのだ。現代物理学理論は、心が時間によって破壊されないことを強く示唆している私は思う。』(『生命とはなにか』)
『時間はもはや世界を支配する巨大な力ではなく、原始的な実体でもなく、むしろ現象それ自体から生まれる何かである。時間は私の思考がつくり出すものである。ある人たちが信じるように、時間が私の思考に終わりをもたらすかどうかは、私の理解を超える問題だ。神話においても、時の神クロノスは親ではなく自分の子どもをむさぼり食っているではないか』(『科学の精神』)
と、『不滅なる<一つの心>』を主張していることに触れている。これはユングの「原型」とも通ずるものであるが、他にも数学者のクルト・ゲーデルや物理学の先端を行く科学者たちアインシュタインやデービッド・ボーム、ニールス・ボーア、ヘンリー・マージノウ等の考え方や言葉を引用して「普遍的な心」「一つの心」が「ウパニシャッド」にある「ブラフマン」や「アートマン」のように存在し、不滅であると考えていることをラリー・ドッシーは主張する。
本書の内容を十分に紹介できないのは残念である。できれば本書にあたって欲しいが、じつはこの本はすでに絶版になっている。八年ほど前、肺がんの友人の見舞いの際、この本を読ませてあげたいと思った。普段なら新しい本を買って返してもらわなくても構わないようにするのだが、あいにくその時店頭になかった。大事な本なので迷ったが、読み終えたら返してもらうつもりで持参したら、それから一ヶ月もしないうちに彼が亡くなってしまった。時機を逸して、一年忌のときに彼の母親に本のことを尋ねたら知らないという返事で、とうとう行方不明になってしまった。その後本屋で注文したら絶版になっていて駄目だった。なんとか探そうと、出張の折など、博多の大きな本屋を覗いたり、早稲田や神田の古書街を探し回ったが見つからなかった。六年越しにネットで手に入ってほんとうに嬉しかった。定価より高かったが、ちっとも惜しくはなかった。(残念ながら今ではアマゾンでも現在は手に入らないようだ。)
「サヴァン症候群」という不思議な能力がある。以前、知的障害者の福祉施設に勤めたとき、このような能力を持った子が六十名ぐらいのなかに四、五人はいたのを知っている。わたしが試してみたのは曜日を当てるものだったが、すぐ確かめられる十年前後ぐらいの曜日を尋ねてみたら、瞬時に答え、百発百中だった。他にも円周率を何桁の部分とか、何番目と聞くと瞬時に答えられる能力もあれば、一度聞いた曲をすぐに演奏できるというような不思議な能力を見せる。これらもラリー・ドッシーのいう「心の非局在性」ではないだろうか。
神経学者のワイルダー・ペンフィールドは「脳と心の正体」の著書のなかで、脳は電波を受信するラジオのようなもので、「心は脳のどこにも局在しない」と語っている。
物理学者たちが言う「一つの心」や「普遍的な心」、個々の心(生命、存在)は「神」と繋がってひとつであるという実感をわたしはまだ持ちきれないが、この世界はわれわれが今認識しているような、限定されたちんまりした存在ではなく、もっと変化に富んで想像を超える存在ではないかと信じるようになった。われわれの心が脳や身体に閉じ込められ、直線的な時間に拘束されるものではないと疑うようになったし、この宇宙の広がりに比して八十年ぐらいの寿命というのはあまりに短すぎるのではないかと思いはじめている。
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