死んだらどうなるのだろうか。
小学校四年生の頃だった。部屋でひとり眠ろうとしているときにふとそう考えた。死んだら真っ暗闇、というより無になってしまう。自分を自分だと認識するこの存在は消えてなくなる。世界はそのまま続いていくのに自分だけがいなくなる。しかもずっと永遠に、二度とこの世界に戻って来ることはできない。こうして生活していくことも二度とできない。絶対に。もし生まれ変わりがあったとしても、自分を自分と意識しなければそれはまったく別人だから自分が現れたことにはならない。何万年、何百万年前にも「自分」はいなかったし、死んでしまえば未来永劫、永遠に、ずっと、ずーっと二度とこの世界にでてくることはない。絶対に。百兆年経とうが二度と戻って来ることはできない。家族も友達もみんないなくなって、この地球も消滅してしまって、永遠にこの世界も消えてなくなってしまう。まったく完全に消滅していなくなる。完全に、もう一度という願いは絶対に叶わず、永遠に、未来永劫、二度と自分を自分と意識できる「私」はいなくなってしまう。
そう考え始めたら恐ろしくなって、大声を上げてその考えを頭から振り払わなくては今にも発狂してしまいそうになった。ようやく向こうの部屋で談笑している家族のなかに飛び込んで行って気を紛らわしてホッとしたことがある。
その後何度かその考えが浮かんだが解決はつかず、かといって考え続ける勇気もなく、何かに注意を向けてそのことを忘れてしまうようにしていた。
高校三年のときだったか、隣の席の女生徒に死ぬことを考えて怖くなったことはないかと聞いたことがあるが、すると「ない」と言下に否定され、なに馬鹿なことを聞くのかという顔をされたことがある。もちろん死んでしまえば恐怖も何もない。恐ろしいと考える自分がいなくなるのだから、何も心配するにあたらないという人はいる。死の恐怖が生きているうちのものであるというのは重々承知している。生きている自分がこの生を永遠に失うというのが恐ろしいのである。死んでしまったらそんなことは気にしない。
比較的女性はこのような恐怖は感じないように思う。問題が抽象的過ぎるのかもしれない。自分の死が怖いというより、両親の死とか伴侶の死の方が怖いということがある。問題の性質が違うと思うのだが。
読売ウィークリー(平成20年10月12日号)が、三十代から五十代の男女五百人を対象に行ったアンケート調査で、「(自分が余命半年と診断されて)どんな手段を尽くしても延命を望みたいですか?」の質問に対して、
全体 延命を望む15.6% 延命を望まない58% わからない26.4%
と回答している。これを男女年代別に見ると、
「(どんな手段を尽くしても)延命を望む」
三十代(男性23%女性7%)四十代(男性18%女性13%)五十代(男性22%女性12%)
と男性より女性の方が死に対する執着がないようだ。
また、朝日新聞社が(1993年9月)2,147人に調査したアンケートでは、
延命を望む17% 延命を望まない77%
と似たような比率なっているからこのような傾向にあると見ていいのではないか。
そして、告知についてのアンケート結果は、
「あなたは癌にかかったら」 ※()内は同年3月のアンケートの数値
知らせて欲しい76%(59%) 知らせないで欲しい19%(34%)
となっている。同じような傾向を示しているから男女差も同じような数値になっているのだろう。ただ、これらの人たちがはたして死に切迫した経験をもっていただろうかと考えるとにわかにこの数値を鵜呑みにすることはできないだろう。
「告知しますか?」のブログを読んで友人がメールを送ってくれた。わたしの主張は理屈では間違っていないが「人間には感情がある」これは簡単に覆せるものではないと言う。彼は「告知しないで欲しい」立場だ。彼は昔腎臓を悪くして八年ほど人工透析を受けていたことがある。透析の場合、すぐにできるようにあらかじめ静脈と動脈を結ぶシャントという処置を行う。そこから管をつないで透析を行うのだ。最初は手の甲に、しかし何度もやっているうちにシャントは劣化して使えなくなってくる、次に反対の手、腕、やがて太ももにと位置を変えていく。透析によって全身の血管もボロボロになってくるから十年が限度と言われていた。逃れようもなく迫る死と向き合っていたのである。幸い、長兄から腎臓移植を受けることができて今はまったく支障のない日常生活を送っている。しかし、そのときの恐怖は忘れることはないだろう。わたしには彼のような経験がないから軽々には断言できないが、死は見ないようにすればなくなるものではないのだ。怖いから見ない、怖いから知らないでいいというものではないと思うのだ。「それはおまえが強いからだ」と言われたが、強い弱いではないと思う。逃れようもない運命なら、直面せずに済ますことはできないと思うのだ。痛みは考えなければ痛くなくなるわけじゃない。どうせ痛むならその痛みを認め、受け入れ味わいつくすべきではないか。
まだ、結論は出せないが、次回はわたしの死の恐怖を和らげてくれた本を紹介したい。
小学校四年生の頃だった。部屋でひとり眠ろうとしているときにふとそう考えた。死んだら真っ暗闇、というより無になってしまう。自分を自分だと認識するこの存在は消えてなくなる。世界はそのまま続いていくのに自分だけがいなくなる。しかもずっと永遠に、二度とこの世界に戻って来ることはできない。こうして生活していくことも二度とできない。絶対に。もし生まれ変わりがあったとしても、自分を自分と意識しなければそれはまったく別人だから自分が現れたことにはならない。何万年、何百万年前にも「自分」はいなかったし、死んでしまえば未来永劫、永遠に、ずっと、ずーっと二度とこの世界にでてくることはない。絶対に。百兆年経とうが二度と戻って来ることはできない。家族も友達もみんないなくなって、この地球も消滅してしまって、永遠にこの世界も消えてなくなってしまう。まったく完全に消滅していなくなる。完全に、もう一度という願いは絶対に叶わず、永遠に、未来永劫、二度と自分を自分と意識できる「私」はいなくなってしまう。
そう考え始めたら恐ろしくなって、大声を上げてその考えを頭から振り払わなくては今にも発狂してしまいそうになった。ようやく向こうの部屋で談笑している家族のなかに飛び込んで行って気を紛らわしてホッとしたことがある。
その後何度かその考えが浮かんだが解決はつかず、かといって考え続ける勇気もなく、何かに注意を向けてそのことを忘れてしまうようにしていた。
高校三年のときだったか、隣の席の女生徒に死ぬことを考えて怖くなったことはないかと聞いたことがあるが、すると「ない」と言下に否定され、なに馬鹿なことを聞くのかという顔をされたことがある。もちろん死んでしまえば恐怖も何もない。恐ろしいと考える自分がいなくなるのだから、何も心配するにあたらないという人はいる。死の恐怖が生きているうちのものであるというのは重々承知している。生きている自分がこの生を永遠に失うというのが恐ろしいのである。死んでしまったらそんなことは気にしない。
比較的女性はこのような恐怖は感じないように思う。問題が抽象的過ぎるのかもしれない。自分の死が怖いというより、両親の死とか伴侶の死の方が怖いということがある。問題の性質が違うと思うのだが。
読売ウィークリー(平成20年10月12日号)が、三十代から五十代の男女五百人を対象に行ったアンケート調査で、「(自分が余命半年と診断されて)どんな手段を尽くしても延命を望みたいですか?」の質問に対して、
全体 延命を望む15.6% 延命を望まない58% わからない26.4%
と回答している。これを男女年代別に見ると、
「(どんな手段を尽くしても)延命を望む」
三十代(男性23%女性7%)四十代(男性18%女性13%)五十代(男性22%女性12%)
と男性より女性の方が死に対する執着がないようだ。
また、朝日新聞社が(1993年9月)2,147人に調査したアンケートでは、
延命を望む17% 延命を望まない77%
と似たような比率なっているからこのような傾向にあると見ていいのではないか。
そして、告知についてのアンケート結果は、
「あなたは癌にかかったら」 ※()内は同年3月のアンケートの数値
知らせて欲しい76%(59%) 知らせないで欲しい19%(34%)
となっている。同じような傾向を示しているから男女差も同じような数値になっているのだろう。ただ、これらの人たちがはたして死に切迫した経験をもっていただろうかと考えるとにわかにこの数値を鵜呑みにすることはできないだろう。
「告知しますか?」のブログを読んで友人がメールを送ってくれた。わたしの主張は理屈では間違っていないが「人間には感情がある」これは簡単に覆せるものではないと言う。彼は「告知しないで欲しい」立場だ。彼は昔腎臓を悪くして八年ほど人工透析を受けていたことがある。透析の場合、すぐにできるようにあらかじめ静脈と動脈を結ぶシャントという処置を行う。そこから管をつないで透析を行うのだ。最初は手の甲に、しかし何度もやっているうちにシャントは劣化して使えなくなってくる、次に反対の手、腕、やがて太ももにと位置を変えていく。透析によって全身の血管もボロボロになってくるから十年が限度と言われていた。逃れようもなく迫る死と向き合っていたのである。幸い、長兄から腎臓移植を受けることができて今はまったく支障のない日常生活を送っている。しかし、そのときの恐怖は忘れることはないだろう。わたしには彼のような経験がないから軽々には断言できないが、死は見ないようにすればなくなるものではないのだ。怖いから見ない、怖いから知らないでいいというものではないと思うのだ。「それはおまえが強いからだ」と言われたが、強い弱いではないと思う。逃れようもない運命なら、直面せずに済ますことはできないと思うのだ。痛みは考えなければ痛くなくなるわけじゃない。どうせ痛むならその痛みを認め、受け入れ味わいつくすべきではないか。
まだ、結論は出せないが、次回はわたしの死の恐怖を和らげてくれた本を紹介したい。
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