歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪【本の紹介】石原千秋『教養としての大学受験国語』ちくま新書≫

2022-08-31 19:01:07 | ある高校生の君へ~勉強法のアドバイス
≪【本の紹介】石原千秋『教養としての大学受験国語』ちくま新書≫
(2022年8月31日投稿)

【はじめに】


 前回のブログでは、石原千秋氏の著作石原千秋『秘伝 大学受験の国語力』新潮選書、2007年[2008年版]をもとに、大学受験国語の国語力を考えてみた。
 今回のブログでは、石原千秋氏の次の著作をもとに、具体的に大学受験国語の問題を解いてみたい。
〇石原千秋『教養としての大学受験国語』ちくま新書、2000年[2008年版]
(この著作は、次のような内容が含まれている。大学受験国語の評論問題を解きながら、日本語の教養を身につけよう。また現状の受験教育制度を内在批判もしている。大学生・社会人にも必読の書ともされる)

 さて、大学受験国語の問題を解くにあたり、目次を見てもわかるように、過去問⑨⑩を選択した。
過去問⑨⑩については、問題文を掲載した。出典は、前回のブログでも出てきた次の著作である。
〇上野千鶴子『増補<私>探しゲーム』(ちくま学芸文庫、1992年)
〇岩井克人『ヴェニスの商人の資本論』(ちくま学芸文庫、1992年)

【石原千秋氏のプロフィール】
・1955年生まれ。成城大学大学院文学研究科国文学専攻博士課程中退。
・現在、早稲田大学教育・総合科学学術院教授。
・専攻は日本近代文学
・現代思想を武器に文学テクストを分析、時代状況ともリンクさせた斬新な試みを提出する。
・また、「入試国語」を中心に問題提起を行っている。





【石原千秋『教養としての大学受験国語』(ちくま新書)はこちらから】
石原千秋『教養としての大学受験国語』(ちくま新書)





〇石原千秋『教養としての大学受験国語』ちくま新書、2000年[2008年版]

【目次】
・はじめに
・序章 たった一つの方法
・第一章 世界を覆うシステム――近代
     過去問① 抑圧する近代合理主義
     過去問② 自然と共同体からの解放
・第二章 あれかこれか――二元論
     過去問③ 脱構築という方法
     過去問④ 子どもの発見と二項対立
・第三章 視線の戯れ――自己
     過去問⑤ 自我を癒す
     過去問⑥ 近代的自我からの脱却
・第四章 鏡だけが知っている――身体
     過去問⑦ 「身体をもつ」ことと「身体である」こと
     過去問⑧ 私の欲望は他者の欲望である
・第五章 彼らには自分の顔が見えない――大衆
     過去問⑨ いかなる権威をも否定する権威
     過去問⑩ 小さな差異を生きる「わたし」
     過去問⑪ 都市が大衆を生み出した
・第六章 その価値は誰が決めるのか――情報
     過去問⑫ 弱者のふりをした権力
     過去問⑬ 感性の変革の語り方
・第七章 引き裂かれた言葉――日本社会
     過去問⑭ 共同性と公共性
     過去問⑮ 個人(ホンネ①)と世間(ホンネ②)と社会(タテマエ)
・第八章 吉里吉里人になろう――国民国家
     過去問⑯ 方言は言語に憧れる
     過去問⑰ 日本語と想像の共同体
・おわりに




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・はじめに
・過去問① 抑圧する近代合理主義~第一章より
・現在の評論のあり方
・大学受験国語には、どんな文章が選ばれやすいのか?
・過去問⑨ いかなる権威をも否定する権威~第五章より
・過去問⑩ 小さな差異を生きる「わたし」~第五章より






はじめに


・この本は、大学受験国語の参考書の形をとった教養書であるという。
 (あるいは、教養書の形をとった大学受験国語の参考書であるともいう)
大学へはこれだけのことは身につけて入学してほしいという、石原氏の願いが書かせた本であるらしい。
 そして、石原氏の考える教養は、すでに社会人になっている人にもきっと役立つだろうと強調している。

・ここでいう教養とは、「思考の方法」を指すとする。
 それは、ある文章を読むときの距離の取り方を学ぶことである。
 いま、なぜ大学受験国語にそれが必要なのか。本書では、分量の問題もあって、評論だけを扱うことにしたと断っている。
・ふつう、受験国語の現代文の読解では、批評意識を持つことは許されない。
 その文章で語られていることが、あたかも絶対に「正しい」かのように読解することが求められている。(あるいは、読解の向こうにたった一つの「真実」があるかのように。)
 だが、この本の読者には、批評意識を持ってもらいたいと、石原氏は主張している。
 批評意識を持つことを実践するためには、現代文を信じすぎないことが大切だという。
 そこに書いてあるのは、一つの思想にすぎないからである。
 では、どうすれば現代文を信じすぎないですむのか。
それは、現代文に対して自意識を持つことであるという。自意識を持つということは、ある文章を読解しながら、もう一方でその文章を相対化することである。
では、どうすればそのような自意識を持てるのか。
思考のための座標軸をもつことであるとする。そして、その座標軸の中に文章を位置づけることである。それを「思考の方法」と、石原氏は呼んでいる。

・例を挙げている。たとえば、「自己」ということについて考えるとする。そのとき、「自己」とは反対の概念を思い浮かべる。それは「他者」である。すると、「自己」という概念は、この「他者」という概念との関係の中で考えればいいことになる。こういう方法を、二項対立とか二元論と呼ぶ。
 両極端を考えてみる。一つの極には、「自己とはかけがえのない個別なもの」という考えがくる。もう一つの極には、「自己とは他者である」という考えがくる(この考え方はわかりづらいが、「自己」の価値観や世界観や人生観や感じ方までもを、「他者」から学んだことだとする考え方である)。
 そして、この二つの考え方の中間には、「自己とは他者との関係によって成り立つもの」という考え方がくる。

 これで、「自己」をめぐる座標軸はできたことになる。
⇒自分の「自己」についての考えは、この座標軸の中のどこに位置するのか。
 また、いま読んでいる文章の言っている「自己」は、この座標軸のどこに位置するのか。
 そういう位置づけができることが、石原氏の言う「思考の方法」であるという。
 そして、この座標軸をできるだけたくさん持つこと、それが石原氏の言う「教養」なのだという(その意味で、「教養とは知の遠近法のことだ」ともいう)。
⇒この教養は、大学受験国語読解法そのものであると石原氏はみる。

・この教養は、大学受験国語を解くのに大きな威力を発揮するようだ。
現在、大学受験国語に出題される現代文の多くは「近代」を問い直すテーマを持った文章である。それらには、まだ十分には顔を見せていない未来形の思想が語られている。未来形の思想を理解するためにこそ、「思考の方法」、つまり、新しい思想を位置づける遠近法を身につけておくことが求められていると主張している。

(石原千秋『教養としての大学受験国語』ちくま新書、2000年[2008年版]、7頁~15頁)

過去問① 抑圧する近代合理主義~第一章より


「第一章 世界を覆うシステム――近代」の「過去問① 抑圧する近代合理主義」は、立教大学経済学部(1999年度)から出題し、出典は竹内啓『近代合理主義の光と影』(新曜社、1979年)である。
(問題文省略)
・「近代」というシステムについて、これほどシンプルかつ的確に説明した文章を、石原氏はほかに知らないという。文章も設問も素直な良問であると評している。
(ということは、実際の入試問題としてはかなりやさしい部類に属すると断っている)
・「近代」とは歴史上ある区切られた「時代」であると同時に、「近代合理主義」をその中心的な性質とするシステムだということがわかる。
 時代区分についてだけ言えば、「16、7世紀」以降ということになるが、「近代」というシステムに注目するなら、「16、7世紀」以降のみを指すものではないことになる。
・ある辞書によれば、「近代とは、一般的にはルネサンスおよび宗教改革に始まり、絶対主義からフランス革命を経て現在に至る時代の総称として古代および中世と区別される」とある。
 ルネサンスとは、ヨーロッパ史上14世紀から16世紀まで続いたいわゆる文芸復興と呼ばれる文芸の革新運動である。「近代」をシステムと考えるならば、「近代」はこの時期まで遡れることになる。
・日本では明治維新以後を「近代」と呼ぶために、この感覚はわかりにくい。
 また、日本においても、最近の江戸研究によって、江戸の後期には、限定された条件の下ではあるけれども、「近代」が成立していたと考えるようになってきた。逆に言えば、明治維新以後にも「前近代」が見いだせるということでもある。明治維新を区切りに「近世」と「近代」とにはっきり分けられるわけではない、というのが最近の研究動向である。
 もっとも、古代文学の「万葉集」歌人である大伴家持の歌は「個人の悲しみが歌われているから近代的である」というようなことが言われたことがあったから、「近代」という性質のみを取り出すと、無限定になってしまうおそれがある。
・そこで、「近代」という言葉を限定的に使うなら、産業革命(イギリス)とフランス革命が起こった18世紀を一応の区切りとしてもよさそうである。
 産業革命は資本主義制を準備し、フランス革命は「自由」と「平等」という理念(イデオロギー)を用意した。それ以降が「近代」の「確立期」である。

〇さて、問題文に戻って、「近代」の性質を考える場合、一つだけ注意すべき言葉がある。
 「世俗化」である。
 これは「世俗にまみれて」などというときの「世間のなわらし」といった意味の「世俗」とは違って、社会学の専門用語である。
 社会学者のウェーバーが深めた言葉で、「世俗化」とは、世界が宗教的価値観から離れることを言う。
 「世俗化」とは「近代」を特徴づける言葉の一つである。
(大学受験国語にもときおり出るので覚えておくといいという)
 キリスト教やイスラム教といった宗教が国家をつくる原理として機能していたのが「前近代」で、民主主義や社会主義といった政治思想(イデオロギー)がそれに取って代わったのが「近代」である、と言われることもある。
・竹内啓『近代合理主義の光と影』の主張のポイントは、<「合理主義」ならば同時代的に日本や中国など世界全体にもあったが、「近代合理主義」となると「非西欧社会」や「前近代社会」にはなく、たしかに「近代西欧社会」にしかなかった>という点にあると、石原氏は解説している。
 全体として、<合理主義=近代=西欧/非合理=前近代=非西欧>という二項対立の図式に異議申し立てを行ない、<合理主義=世界全体/近代合理=近代西欧>という新たな二項対立の図式を提出している。
 「合理主義」と「近代合理主義」との違いは、その「能動的、積極的、徹底的性格」にあると言う。
 <「近代合理主義」は、決して自己の限界を認めず、世界を「合理的」に説明し尽くそうとする>のである(主題文)。
(石原千秋『教養としての大学受験国語』ちくま新書、2000年[2008年版]、31頁~41頁)

現在の評論のあり方


・現在、われわれは「近代」的システムの中で暮らしている。
 日本が「近代」というシステムをそれなりに完成させたのは、1960年前後から1973年のオイルショックまで続いた高度経済成長期においてであろうと、石原氏はみている。
 敗戦後の日本にとって、「近代」は夢そのものであった。その一方、この高度経済成長期は、公害問題が「近代」の宿命としてはっきりと浮かび上がってきた時期でもあった。この公害問題を一つのきっかけとして、「近代」の問い直しが始まる。

・そこで、戦後日本の評論について、石原氏は次のようにまとめている。
①戦後日本においては、高度経済成長期までは、「近代」を支持する評論が進歩的であった。
②それに対して、高度経済成長期以後は、「近代」を批判する評論が進歩的になった。
 そして、現在の評論のあり方は、「近代」批判の延長線上にある。
(石原千秋『教養としての大学受験国語』ちくま新書、2000年[2008年版]、23頁)

【コメント】
・同じことは、石原氏の著作『秘伝 大学受験の国語力』(新潮選書、2007年[2008年版]、30頁)においても述べている。

大学受験国語には、どんな文章が選ばれやすいのか?


〇大学受験国語には、どんな文章が選ばれやすいのかについて、石原氏は5つのポイントを指摘している。

①トレンドの書き手の文章であること。
 大学教員は流行に敏感なのである。

②具体例が適度に入っていること。
 具体例がまったくないのは抽象的で退屈だし、多すぎると文章が長いわりには論の展開が平板で設問の数が作れない。

③論理の展開が適度にあること。
 何度も同じことをくりかえしているような文章は入試問題には不向きで、できれば起承転結がはっきりしていて、論の展開上同じことを別の論理や別の言葉で言い換えていたり、逆に違うことを同じ論理や同じ言葉で説明しているような文章だと、問題が作りやすい。

④適度の悪文であること。
 一読してすぐ意味の通じるような素直な文章は入試問題には向かない。
 本質的に難しいことを述べている文章や専門的に過ぎて難しい文章はもともと出題できない。
 とすれば、文章が下手なために、一読しただけでは文意がよく通じない程度の悪文を選ぶしかないという。

⑤出題者にとって意外に大切なのが、受験生の心に残る文章であること。
 入試問題は、受験者に真剣に読んでもらえる唯一の文章であるから、せめてこの大学の国語問題は面白かったとか、洒落ていたと思ってもらいたいという気持ちを、出題者は持っているらしい。
(そこで、学問の先端に少しでも触れている文章を選ぼうとすると、トレンドの書き手のものになるようだ)
(石原千秋『教養としての大学受験国語』ちくま新書、2000年[2008年版]、129頁~131頁)

※上記の5つのポイントの中で、興味深いのは、④適度の悪文であることを挙げている点であろう。その理由が面白い。
「一読してすぐ意味の通じるような素直な文章は入試問題には向かない。本質的に難しいことを述べている文章や専門的に過ぎて難しい文章はもともと出題できない。とすれば、文章が下手なために、一読しただけでは文意がよく通じない程度の悪文を選ぶしかない」という。言われてみれば、納得がいく。

過去問⑨ いかなる権威をも否定する権威~第五章より


「第五章 彼らには自分の顔が見えない――大衆」より、「過去問⑨ いかなる権威をも否定する権威」という問題を解いてみよう。
出典は、上野千鶴子『増補<私>探しゲーム』(ちくま学芸文庫、1992年)である。
この著作について、石原氏は次のように紹介している。
 常に時代と添い寝をしてきたフェミニストの社会学者上野千鶴子の現代社会論、というか大衆としての<私>論である。ポストモダンの消費社会のなかで自分を見失う<私>についてシニカルに語る。石原氏は、上野の本の中では一番好きだという(121頁)。

【過去問⑨】 いかなる権威をも否定する権威
次の文章を読んで、あとの問に答えなさい。

テレビのクイズ番組で「100人に聞きまし
た」というのがあった。この番組は、回答の基準
を「真・偽」から「妥当性」(もっともらしさ)
へと変えた点で、まったくエポックメーキングだ
った。
 回答者は、質問に対して自分の答えをではなく、
100人の人々の最大多数が答えそうな回答を与
えなければならない。しかもこの問いは、たとえ
ば「婚前交渉は是か非か?」という質問に対して
100人中の多数派がどう答えるか、という意見
に関するものだけでなく、「世界で一番長い川は、
ミシシッピ川かアマゾン川か?」といった真理性
に関するものをも含んでいた。回答者は、「真理」
を知っているだけでは不十分なのだ。彼もしくは
彼女は、平均的な100人が、まちがえそうな可
能性まで読んで、いちばん「もっともらしい」答
えを選ばなければならなかった。
 このクイズ番組では、勝者とは一体、誰だろ
う? かつての真偽を争うクイズ番組であれば、
正解者は知識の分野が何であれ、物知りという権
威と尊敬を獲得することができた。だが「誰もが
考えそうなこと」を全問正解した勝者は、ただ
「誰でもある一人」の大衆にすぎない。彼または
彼女は、権威や尊敬の対象ではなくなっている。
不可視な「大衆」というものの姿を、手にとるよ
うな(A)パラドクシカルなしかけで見せてくれた点で、
この番組は真に革新的だった。
 83年に流行した「いかにも一般大衆が喜びそ
うな……」というCMのコピーも、このパラドッ
クスを言説化した点で、画期的だった。コピーの
方法それ自体を言説の中に持ちこんだこのフレー
ズは、現代文学がどこまでも自己言及的になって
いくのと同じデコンストラクション(解体)過程
をたどっていて、いわば(B)解体というべきも
のだ。(C)だがクリエーターの側に自虐的自己解体の
つもりがあっても、事実上、このコピーは「一般
大衆」に受けた。
「一般大衆」と呼びかけられて、テレビを見てい
た「一般大衆」は、笑った。かつての「ちがいが
わかる男のコーヒー」の時のように、自分が「他
の誰でもない特別な私」だと考えて「一般大衆」
を笑ったのではなく、「他の誰にも似ている私」
に安堵して、笑ったのだ。「一般大衆」という言
葉は、彼らを映す(D)鏡の役割を果たした。
 しかし、この鏡は、他のすべての人々を映し出
すが、自分自身だけは映さないとくべつな鏡だっ
た。このメカニズムは、対人関係そのものだ。人
間は他人の顔は見えても自分の顔を見ることがで
きない。顔にスミがついていたら、それを笑って
教えてくれるのは、他人の反応だけである。「一
般大衆」という言葉は、大衆が大衆を認識するメ
カニズムを、目に見えるかたちで大衆自身に示し
て見せた。その自己言及性に、大衆は、自分自身
に回帰する笑いを、無抵抗に笑うしかなかったの
である。
 人気とは、妥当性の基準に支えられた、大衆社
会のリーダーシップのことである。「いかにも一
般大衆の好みそうな」人が、大衆社会のリーダー
になる。だから、大衆社会の人気者には、真理性
にもとづく権威は、ない。なぜ、ある人物に人気
があるかと言えば、「自分以外のすべての人々」
が支持しているからで、この堂々めぐりの中では、
なぜ人気があるかという理由は、誰にも説明でき
ない。伝統社会の住民が、ある民俗の由来をたず
ねられて「祖先がしていたから」と答えるように、
大衆社会の住人は「他のみんながしているから」
と答えるほかない。ただし、この大衆は、(E)大衆的
合意形成のメカニズムを自覚化するまでに爛熟し
ている大衆だ。彼らは、リーダーシップが人気と
いうえたいの知れないものによって支えられてお
り、自分たちがソッポを向けばそれまでだという
ことを承知している。
 人気者とカリスマの違いは、ここにある。カリ
スマには、権威の基盤があるが、人気者にはない。
今日のテレビの人気者たちには、かつてのような
オーラ(後光、香気)の輝くカリスマの要素はな
い。
 美空ひばりは天性のスターで、どんなに零落し
ても誰も彼女からその天稟を奪うことはできない。
だが、松田聖子は、他の誰もと同じくらい歌のう
まい一少女にすぎず、彼女が人気者なのは、「一
般大衆」が彼女を人気者だと思っている間だけな
のだ。人気がなくなれば、彼女は、あっというま
に「ふつうの女の子」に戻ってしまう。一般大衆
は、彼女のオーラは、自分たちが一時的に仮託し
たものにすぎないことを知っている、したたかな
大衆だ。権威の源泉が大衆自身にある点で、これ
は全く「民主」的なシステムである。
 大衆社会はそのリーダーを人気で選ぶ。漫才師
も、ベテラン党人政治家も、同じ土俵で選ばれる。
これをふまじめと、後者なら苦々しく思うかもし
れない。しかし、「たかが人気」のふまじめさの
中でこそ、逆説的に「民主」は保障されるのだ。
民主制とは、デカダンス(退廃)に耐える能力の
ことである。どんな(F)超越的な権威も認めない点で、
民主制は、それ自体パラドックスの中にある。
 アメリカは、1980年に、「たかがハリウッ
ドスター」のレーガンを大統領に選んだ。しかも、
「三流スター」を、である。しかし、「たかがハリ
ウッドスター」が、「強いレーガン」に変わるに
つれて、「グレート・アメリカ」の亡霊が、また
ぞろ浮かび上がる。
 アメリカ人が「たかがハリウッドスター」を大
統領に選んだことを、人気に左右される有権者の
愚昧さと、日本人は笑うだろうか。しかし、「た
かが人気者」を承知でスターを選ぶ有権者のデカ
ダンスの方が、私にはまだ健康に思われる。83
年は、ジョン・F・ケネディがダラスで暗殺され
て20年目だった。アメリカでは、「ケネディ
――その神話と現実」といった特集があふれたり
して、ケネディ人気は異常な高まりを見せたが、
私には、きまじめなアメリカが、真の権威を求め
ている、と見えた。「真の権威」がないところに
それを仮想するのは、「真の権威」がはなからな
いと承知して権威を求めないデカダンスより、こ
とによってはかえってこわい。日本のふまじめな
「一般大衆」の方が、もしかしたら、正気かもし
れないのだ。
 だが同時に、デカダンスにまっ先にあきるのも
大衆である。デカダンスに耐えるには、知性とバ
ランス能力とが必要である。大衆社会の人気の構
造が、いわば民主制の運命だとしたら、それを否
定しないで、大衆が成熟しうる道こそ求められて
いる。   (上野千鶴子『<私>探しゲーム』)



問一 文中の――線A「パラドクシカルなしかけ」について、次の問に答えなさい。
(Ⅰ)「パラドクシカル」の訳語を、本文中から抜き出して答えなさい。
(Ⅱ)「100人に聞きました」における「パラドクシカルなしかけ」とは、具体的にはどのようなことか。次の中から適切なものを選び、記号で答えなさい。
ア まちがえそうな可能性を読んだ者が、カリスマ的権威を獲得できること。
イ 大衆社会では、「誰もが考えそうなこと」を知っている者が、実は物知りであること。
ウ 真理に基づかないまちがった答えが、正解になり得ること。
エ 最大多数の答えが、そのまま100人の答えと重なってしまうこと。

問二 文中の――線B「解体コピー」とあるが、「コピーの方法それ自体を言説の中に持ちこ」むことは、なぜコピーを「解体」することになるのか。その理由として適切なものを次の中から選び、符号で答えなさい。
ア CMのコピーは、本来、決して大衆を愚弄してはならないものだから。
イ CMのコピーは、本来、大衆の求めているものを、それとは気付かれずに示すものだから。
ウ CMのコピーは、本来、大衆を自分だけ特別な人間だと思わせるようにしむけるものだから。
 エ CMのコピーは、本来、大衆の意図にもっとも敏感であるべきものだから。

問三 文中の――線C「だがクリエーターの側に自虐的自己解体のつもりがあっても、事実上、このコピーは『一般大衆』に受けた」とあるが、なぜこのコピーは「受けた」のだろうか。その理由を、次の文に当てはまるように、本文中から十五字で抜き出して答えなさい。
 この「解体コピー」が、実は(      )そのものだったから。

問四 文中の――線D「鏡の役割」について、次の問に答えなさい。
(Ⅰ)「鏡の役割」の本質を、筆者は何と述べているか。本文中から五字以内で抜き出して答えなさい。
(Ⅱ)「鏡」の比喩で説明される「大衆」とは、どのような人のことか。次の中から適切なものを選び、符号で答えなさい。
ア 他人の生活をのぞき見る人
イ 鏡のように冷たい反応しかしない人
ウ 自分だけは他人と違うと思っている人
エ 他人の視線を内面化した人

問五 文中の――線E「大衆的合意形成のメカニズムを自覚化するまでに爛熟し
ている大衆だ」について、次の問に答えなさい。
(Ⅰ)「大衆的合意」を、別の言葉で何と述べているか。次の中から適切なものを選び、符号で答えなさい。
ア 基準 イ 妥当性 ウ 真理性 エ 権威 オ 民主制
(Ⅱ)「大衆的合意形成のメカニズム」が、端的に発揮される制度は何か。本文中に述べられている内容をふまえて、本文中にはない言葉(漢字二字)で答えなさい。
(Ⅲ)筆者は、このような「爛熟している大衆」は何を持つべきだと述べているか。本文中から、五字以上十字以内で抜き出して答えなさい。

問六 文中の――線F「超越的な権威」について、次の問に答えなさい。なお、(Ⅰ)(Ⅱ)ともに、あとの語群からもっとも適切なものを選び、符号で答えなさい。
 (Ⅰ)「超越的な権威」とは何か。
(Ⅱ)「民主制」における「超越的」でない「権威」とは何か。
ア 基準 イ 真理 ウ 勝者 エ 言説 オ 他人 カ 自分 キ スター 
ク 大衆自身

問七 本文中では、「大衆」を、カギカッコを用いて様々に言い換えたり、その具体例を示したりしている。次の中で、「大衆」ではないものを一つ選び、符号で答えさない。
ア 「誰でもある一人」
イ 「他の誰でもない特別な私」
ウ 「他の誰にも似ている私」
 エ 「自分以外のすべての人々」
 オ 「ふつうの女の子」
 カ 「たかがハリウッドスター」
 キ 「たかが人気者」



・出題は、東横学園女子短期大学(1988年度推薦入学基礎学力テスト)。
 これとほぼ同じ箇所が1996年度に上智大学経済学部で出題されている。
 出典は上野千鶴子『増補<私>探しゲーム』(ちくま学芸文庫、1992年)
※古い本でも、文庫化されるとまた出題されることがあるから、マークしておく必要があると、石原氏はアドバイスしている。
 とくに、講談社学術文庫とちくま学芸文庫は要注意だという。
・上野千鶴子の言っていることは、「民主主義は「権威」ではなく「人気」に支えられている」(主題文)といったことであると、石原氏は要約している。
〇問題は全体に易しい部類に属すると評している。


【解答と解説】
問一 
(Ⅰ)答えは、93行目の「逆説的」
   パラドックスとは「一見間違っているように見えるけど、よく考えてみると正解」ということ。
 ※知っていれば有利だが、そうでなくとも民主制の仕掛けの意味がわかれば解ける設問。

(Ⅱ) 正解は(ウ)
 大衆による「真理(権威)」の否定である。
 大衆でしかない人が、まさにそれゆえに勝利する仕掛けを、上野はパラドックスと呼んだ。
 
問二 正解は(イ)
 ※自己言及がなぜ「解体コピー」になるのかを説明しているのは(イ)だけ。
 広告は、「ほら、これが一般大衆であるあなたですよ」などと大衆に向かって言ってはいけない。このタブーを破ったのが「解体コピー」である。
※技術的には、(エ)が大はずれ。(ア)と(ウ)が表と裏の関係にあることがわかれば、自動的に(イ)が選べるという。

問三 正解は「大衆が大衆を認識するメカニズム」(15字)
 ※「大衆が大衆を認識するメカニズム」(51行目~52行目)にある。
 「その自己言及性に、大衆は、自分自身に回帰する笑いを、無抵抗に笑うしかなかったの
である。」(53行目)とある。大衆は「自分自身だけは映さないとくべつな鏡」(46行目)を「あなたはこれですよ」と見せられて、顔のない自分を「これが自分だ」と思うしかなかった。
 そして、「解体コピー」によって、「一般大衆」を笑うことはとりもなおさず自分を笑うことだと知らされながら、笑うことでその事実を引き受けた。
(これが、ここで言う自己言及性の作用である)
 何も映っていない鏡を見る人、それが大衆である。つまり、大衆には顔がない。だから、この「解体コピー」は、顔のない自分を確認する、大衆の自己確認のプロセスそのものだったのである。自己確認は人を安堵(43行目)させる。

問四
(Ⅰ)正解は「自己言及」
 ※問三ができれば簡単な問題。
(Ⅱ)正解は(エ)
 ※(ウ)だけはかろうじてアヤシイ感じがするが。

問五
(Ⅰ)正解は(イ)
 ※56行目の記述を読めばすぐにわかる設問。
 引っかかるのは(オ)だが、「大衆的合意形成のメカニズム」なら(オ)でいいが、ここは「大衆的合意」の部分だけが聞かれている。

(Ⅱ)正解は「選挙」(「公選」でもいいはずという)
 ※これは自分で考えなくてはいけないが、本文の後半が「民主制」という政治の話なのだから、「選挙」という答えが出るだろう。

(Ⅲ)正解は「知性とバランス能力」(9字)
 ※「爛熟」の次に来るのはたいてい「退廃」だ。本文には、親切にも「デカダンス(退廃)」(94行目)とある。これ以降から探す。すると、「デカダンスに耐えるのは、知性とバランス能力とが必要」(120~121行目)とあるのに気づく。

問六
(Ⅰ)正解は(イ)
(Ⅱ)正解は(ク)
 ※大衆は「いかなる権威をも否定する権威」なのである。

問七 正解は(イ)
 ※イ「他の誰でもない特別な私」のこれだけが大衆ではない。
(石原千秋『教養としての大学受験国語』ちくま新書、2000年[2008年版]、121頁、153頁~165頁)



過去問⑩ 小さな差異を生きる「わたし」~第五章より


「第五章 彼らには自分の顔が見えない――大衆」より、「過去問⑩ 小さな差異を生きる「わたし」という問題を解いてみよう。石原氏は、この「過去問⑩ 小さな差異を生きる「わたし」を良問と評価している(176頁)
出典は、岩井克人『ヴェニスの商人の資本論』(ちくま学芸文庫、1992年)である。


【過去問⑩】 小さな差異を生きる「わたし」
次の文章を読んで、あとの問に答えなさい。

 マルクスはどこかで、商品世界のなかにおける
貨幣の存在は、動物世界のなかでライオンやトラ
やウサギやその他すべての現実の動物たちと相並
んで(1)「動物」なるものが闊歩しているように奇妙
なものだと書いている。貨幣とは、それによって
すべての商品の価値が表現される一般的な価値の
尺度でありながら、同時にそれらの商品とともに
それ自身人々の需要の対象にもなるという(2)二重の
存在なのである。
「広告の時代」とまで言われている現代において、
広告とは一見自明で平凡なものに見える。だが、
その実、広告というものも、貨幣と同様、いわば
形而上学的な奇妙さに満ち満ちた逆説的な存在な
のである。
 英語のどの受験参考書にも例文としてのってい
るように、“The proof of the pudding is in the
eating.”すなわちプディングであることの証明は
それを食べてみることである。( a )、分業によ
って作る人と食べる人とが分離してしまっている
資本主義社会においては、プディングは普通お金
で買わなければ食べられない。(買わずに食べて
しまったら、それは食い逃げか万引きである。)
プディングがプディングであることの証明、いや、
プディングがおいしいプディングであることの証
明は、お金と交換にしか得られない。
 たとえば、洋菓子屋の店先でどのプディングを
買おうか考えているとき、あるいは喫茶店でプ
ディングを注文しようかどうか考えているとき、
人はプディングそのものを比較しているのではな
い。人が実際に比較しているのは、ウィンドウの
中のプディングそのものを比較しているのではな
い。人が実際に比較しているのは、ウィンドウの
中のプディングの外見であり、メニューの中のプ
ディングの写真であり、さらには新聞・雑誌・ラ
ジオ・テレビ等におけるプディングのコマーシャ
ルである。これらはいずれも広い意味でプディン
グの「 甲 」にほかならない。
 すなわち、資本主義社会においては、人は消費
者としての商品そのものを比較することはできない。
人は広告という媒介を通じてはじめて商品を比較
することができるのである。
 資本主義社会とは、マルクスによれば「商品の
巨大なる集合」である。しかし、広告を媒介にし
てしか商品を知りえない消費者にとって、それは
まずなによりも「広告の巨大なる集合」として立
ち現れるはずである。そして、この広告の巨大な
る集合の中において、あらゆる広告は広告として
いやおうなしに同じ平面上に比較されおたがいに
競合する。
 もちろん、広告とはつねに商品についての広告
であり、その特徴や他の商品との差異について広
告しているように見える。だが、人がたとえばあ
る洋菓子店のウィンドウのプディングの並べ方は
他の店に比べてセンスが良いと感じるとき、
( b )ある製菓会社のプディングのコマーシャル
は別の会社のよりも迫力に乏しいと思うとき、そ
れは広告されているプディング同士の差異を問題
にしているのではない。それは、プディングと
は独立して、「広告の巨大なる集合」の中におけ
る(3)広告それ自体のあいだの差異を問題にしている
のである。
 広告と広告とのあいだの差異――それは、広告
が本来媒介すべき商品と商品とのあいだの差異に
還元しえない、いわば「過剰な」差異である。そ
れゆえそれは、たとえばセンスの良し悪しとか迫
力の有る無しとかいうような、違うから違うとし
か言いようのない差異、すなわち(4)客観的対応物を
欠いた差異そのものとしての差異としてあらわれ
る。
 だが、広告が広告であることから生まれるこの
過剰であるがゆえに純粋な差異こそ、まさに企業
の広告活動の拠って立つ基盤なのである。
 言語についてソシュールは、「すべては対立と
して用いられた差異にすぎず、対立が価値を生み
出す」と述べているが、それはそのまま広告につ
いてもあてはまる。差異のないところに価値は存
在せず、差異こそ価値を生み出す。もし広告が単
に商品の媒介にすぎず、広告のあいだの差異がす
べて商品のあいだの差異に還元できるなら、企業
にとってわざわざ広告活動をする理由はない。企
業が広告にお金を出すのは、ひとえに広告の生み
出す過剰なる差異性のためなのである。すなわち、
広告とは、それが商品という実体の裏付けをもつ
からではなく、逆にそれがそのような(5)客観的対応
物を欠いた差異そのものとしての差異を作り出し
てしまうからこそ、商品の価値に帰着しえないそ
れ自身の価値をもつのである。
 ところで資本主義においては、いかなる価値も
お金で売り買いできる商品となるといえる。
( c )、当然広告も商品となる。いや、実際、広
告に関連する企業支出はGNPの一パーセント近
くも占めている。これは、現代ではあまりにも身
近な事実であり、人をことさら驚かせはしない。
だが、それはその実、本来商品について語る媒介
としての広告が、同時にそれ自体商品となって他
の商品とともに売り買いされてしまうという、ま
さにライオンやトラやウサギとともに動物なるも
のが生息している光景とその奇妙さにおいてなん
ら変わるところのない形而上学的な逆説なのであ
る。
 貨幣についての真の考察は、それが形而上学的
な奇妙さに満ち満ちた存在であることへの驚きか
ら始まった。広告が形而上学的な奇妙さに満ち満
ちた存在であることへの驚き――それは、広告に
ついての真の考察の第一歩である。いや、少なく
ともそれは、広告という現象の浅薄さをただ糾弾
したり、広告という現象の華やかさとただ戯れた
りする言説に溢れている現代において、いささか
なりとも差異性をもった言説を作り出すはずのも
のである。

問一 空欄a~cに入る最も適当な語を、次のイ~ホからそれぞれ一つずつ選び、マークせよ。
a イ だが ロ つまり ハ もとより ニ なぜなら ホ たとえば
b イ もちろん ロ あるいは ハ けれども ニ とりわけ ホ やはり
c イ いわば ロ もっとも ハ なぜなら ニ それゆえ ホ なるほど

問二 空欄(甲)に入る最も適当な語を、次のイ~ヘから一つ選び、マークせよ。
 イ 商品 ロ 証明 ハ 味覚 ニ 本質 ホ 広告 ヘ 虚像

問三 傍線部(1)「『動物』なるものが闊歩している」とあるが、筆者は動物にカギ括弧をつけることによってどのようなことを強調しているのか。次のイ~ホから最も適当なものを一つ選び、マークせよ。
 イ 固有名詞と普通名詞とが混在していることを強調している。
 ロ 非現実的な生態系に分類していることを強調している。
ハ 概念的な存在として独立していることを強調している。
ニ 種類の異なる動物が現実社会にいることを強調している。
ホ 現実の動物と観念としての動物とが名辞を共有していることを強調している。

問四 傍線部(2)「二重の存在なのである」とあるが、これを広告についてどのように説明しているか。問題文中から五十五字以内で抜き出して記せ(句読点も字数に含むものとする)。

問五 傍線部(3)「広告それ自体のあいだの差異」の本質を筆者はどのように理解しているのか。次のイ~ホから最も適当なものを一つ選び、マークせよ。
イ 商品と商品とのあいだの差異
 ロ 客観的対応物を欠いた差異
ハ センスの良し悪しにかかわる差異
ニ 表面上で比較される差異
 ホ 広告の宿命としての差異

問六 傍線部(4)「客観的対応物を~あらわれる」とあるが、このことによって広告は何を得るといえるのか。問題文中から二十五字以内で抜き出して記せ(句読点も字数に含むものとする)。

問七 傍線部(5)「客観的対応物」はどのように言い換えられているか。次のイ~ホから最も適当なものを一つ選び、マークせよ。
 イ 価値の尺度 ロ 逆説的存在 ハ 巨大なる集合 ニ 商品という実体 
ホ 華やかな現象

問八 問題文において述べられている「広告」の意味として、次のイ~ホから最も適当なものを一つ選び、マークせよ。
イ 広告と広告との差異には、違うから違うとしか言いようのない「過剰な」差異がある。
 ロ 広告は商品の価値を比較することに意味があり、それ以上の付加価値はほとんどない。
ハ 広告と広告との差異は本来媒介すべき商品と商品とのあいだの差異に依拠するものであるといえる。
ニ 資本主義社会の中にあって消費者は広告という媒介だけでは商品そのものの比較が出来なくなっている。
 ホ 広告とはつねに商品についての広告であるとともに商品同士の差異性だけを問題にしている。

問九 問題文の内容と合致しているものを次のイ~ヘから二つ選び、マークせよ。
イ 形而上学的な現代は、広告の華やかさと戯れによって窒息状態に陥っている。
 ロ 資本主義社会においては、プディングは広告の媒介によって等価交換される。
ハ 商品同士の差異よりも広告同士の差異が、資本主義社会では問題にされる。
ニ 広告の巨大なる集合の中には、客観的な商品それ自体の過剰な差異がある。
 ホ 差異性こそが商品の過剰なる価値を生み出し、企業の広告活動をうながす。
 ヘ 商品世界における貨幣は、形而上学的な奇妙さに満ちた逆説的な存在である。

問十 問題文の表題として最も適当なものを次のイ~ホから一つ選び、マークせよ。
イ 広告の形而上学
 ロ 広告の付加価値
ハ 広告の比較検討
ニ 広告の経営戦略
 ホ 広告の商品価値

※岩井克人「ヴェニスの商品の資本論」<広告の形而上学>の一節。


〇出題は、関西学院大学商学部(1998年度)。
 出典は『ヴェニスの商人の資本論』(ちくま学芸文庫、1992年)
 1996年度に、専修大学経済学部でまったく同一の箇所が出題されているという。
 この本に収められている「ホンモノのおカネの作り方」はいくつかの高校国語の教科書にも収録されているから、見たことのある名前だと思った人も多いようだ。

<石原千秋氏のコメント>
・日本ではフランスの思想家リオタール『ポストモダン通信』(朝日出版社)も『ポスト・モダンの条件』(書肆風の薔薇、現在の水声社)も1986年の刊行で、このあたりがポストモダン思想の最盛期だった。
 『ヴェニスの商人の資本論』初版の刊行は1985年。
 ポストモダン思想の中心概念は「記号」。
 世界は記号の集成だと考えるのである。
 ⇒岩井克人の広告論はポストモダン思想の典型である。

・この文章の基本は、ソシュールの言語学にあるという。
 ソシュールによれば、言語は差異の体系である。
 ここで肝心なのは、言語は現実の事物を指し示すのではないということである。
 たとえば、「犬」という言葉は、現実の個々の犬を指し示さない。「犬」という言葉は、「猫」でも「狼」でもない、ある種の動物のグループが持つイメージを指すにすぎない。
 言語は現実から自立した差異の体系であるとする。



〇全体として、素直な良問だと、石原氏は評している。
【解答と解説】
問一 
aは、「だが」の(イ)
 ※「食べたいけど食べられない」状況だから
 bは、「あるいは」の(ロ)
 ※空欄の前後が並列関係だから
 cは、「それゆえ」の(ニ)
 ※空欄の前で理由を述べているから

問二 正解は「広告」の(ホ)
 ※36行目から39行目を読めば、すぐにわかる。直前の「コマーシャル」と同語反復。

問三 正解は(ハ)
 ※この文章では、この「動物的なるもの」は「貨幣」や「広告」と同じようなものと考えられている。「貨幣」も「広告」も商品から自立していた。

問四 正解は「本来商品について語る媒介としての広告が、同時にそれ自体商品となって他
の商品とともに売り買いされてしまう」(92~94行目、51字)
 ※「貨幣」は「一般的な価値の尺度」であり、同時にそれ自身が「商品」でもある。
 広告も同様だとすれば、「~であり、かつ商品でもある」と述べているところを探せばいいことになる。
 貨幣と広告とは、論理的に厳密な対応関係にはないから、構文で探すのであるという。
 
問五 正解は(ロ)
 ※岩井は、広告は言語のようだと言っている。言語は、現実に対応物を持たず、自立した差異の体系によって成立していた。したがって、(イ)のように商品について説明する選択肢は、これ以降の問いでも常に間違っている。
 (ホ)も気にかかるが、「『広告それ自体のあいだの差異』の本質」の説明になっていないから、排除できる。

問六 正解は「商品の価値に帰着しえないそれ自身の価値」(84~85行目、19字)
  設問の指示は25字以内だったから、「をもつ」まで入れて22字にするほうが無難。
 ※傍線部(4)「客観的対応物を欠いた差異そのものとしての差異」とは、要するに、言語のように、現実の事物に頼らずにそれ自身で自立した「差異」のことである。
 広告の場合の「客観的対応物」とは商品のことである。
 したがって、「商品の価値に帰着しえないそれ自身の価値」が正解。

問七 正解は(ニ)
 ※前の問いでもう答えは出ていた。

問八 正解は(イ)
 ※問五のところで述べたように、商品について説明した(ロ)から(ホ)まではすべて間違い。

問九 正解は(ハ)と(ヘ)
 ※(イ)は「窒息状態に陥っている」が間違い
  (ロ)は「等価交換される」のところが意味不明
  (ニ)は後半がだめ。
  (ホ)は「商品の過剰なる価値」のところが苦心の間違いだという。

問十 正解は(イ)
 ※本文に「形而上学」という言葉があふれているから、ごく自然に(イ)
 「形而上学」とは世界の根本原理を追究する学問のことを言う。
 「形而上」が「形のないもの」という意味なので、広告を形のない商品と考えて、「広告の形而上学」と呼んだのだろうと、石原氏は推測している。

<石原氏のコメント>
・岩井克人「ヴェニスの商人の資本論」<広告の形而上学>の一節によって、大衆消費社会がなぜ広告を必要とするのかがわかったことだろうという。
・上野千鶴子が「真理」ではなく、「妥当性」を現代社会(民主制)の政治思想を支える基本原理と見なしたように、岩井克人は「商品」ではなく「広告」を現代社会(資本主義)の経済思想を支える基本原理と見なしたのである。
・「実体のあるものからふわふわした記号へ」という流れが、ポストモダン思想の特徴である。
・世の中は、いま情報という新たなモノに活路を見いだそうとしている。人文諸科学も、カルチュラル・スタディーズという情報産業に参入したところだという。
(石原千秋『教養としての大学受験国語』ちくま新書、2000年[2008年版]、167頁~178頁)



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