(2021年2月13日投稿)
【石川九楊『中国書史』はこちらから】
中国書史
【はじめに】
以前の私のブログで、中国と日本の書道史について考えてみた。
再録するにあたり、見出しと参考文献のリンクを貼ってみた。次のような構想で述べてみたい。
<中国の書>
・書について
・中国書道史について
・行書の起源と完成について
・王羲之について
・「蘭亭序」の系統について
・「神龍半印本蘭亭序」について
・石川九楊の「神龍半印本」に対する評価について
・「蘭亭序 八柱第三本」について
・欧陽詢と褚遂良の「蘭亭序」について
・「蘭亭序」と松本清張の推理小説について
・王羲之の草書「十七帖」について
・「蘭亭序」に関連して
・王羲之の書の魅力について
・入木道について
・王羲之の書に対する夏目房之介の見方
・王羲之の息子王献之について
・六朝代から初唐代への転移の構造について
・二折法から三折法へ
・唐の太宗と書
・唐の太宗と書家たち
・初唐の三大家について
・欧陽詢の貧相醜顔について
・欧陽詢の影響
・明朝体という活字と欧陽詢について
・欧陽詢に関連して
・写経体と中国の書家(智永、欧陽詢、虞世南)について
・結構法と欧陽詢、顔真卿の書
・褚遂良について
・褚遂良の「雁塔聖教序」について(補足)
・褚遂良臨模本について
・初唐の三大家の書について
・楷書について
・初唐の三大家の書と筆について
・「永字八法」について
・「千字文」について
・「書法流伝之図」について
・顔真卿について
・向勢と背勢について
・則天武后(623~705)の書について
・懐素の「自叙帖」について
・唐代の書の特徴について
・唐代から宋代へ
・中国の書の歴史の見方について
・唐の四大家の楷書について
・宋の四大家について
・蘇軾の書について
・蘇軾と墨
・蘇軾と「東坡肉(トンポーロウ)」
・黄庭堅の書について
・米芾の毒舌について
・宋の四大家の書について
・宋代の朱熹の書について
・元代の書について
・元代から明代へ
・清朝の康熙帝の書について
<日本の書>
・日本の書について
・王羲之と『万葉集』
・石川九楊の『万葉集』論
・空海は王羲之の書をいつどこで体得したか
・空海の「灌頂記」について
・飛白の書について
・空海の語学力について
・空海の書について
・大岡信の空海評
・伝嵯峨天皇宸筆「李嶠百詠断簡」について
・「伊都内親王願文」について
・梅から桜へ
・仮名について
・小野道風と和様
・小野道風について
・石川九楊の日本書史の見方について
・西郷隆盛の書について
・夏目漱石(1867-1916)の書について
・漱石・子規の書に対する石川九楊の評価
・漱石・子規の書に対する石川九楊の評価
・漱石と日展
・会津八一(1881-1956)と書の評
・会津の書と絵についてのエピソード
・三島由紀夫(1925-1970)の書について
・川端康成(1899-1972)の書について
・中村不折(1866-1943)と書
・内藤湖南(1866―1934)の書について
・小林秀雄(1902-1983)の書について
・星新一(1926-1997)と習字について
・大石順教(1888-1968)と口書きについて
・ダウン症の女流書家・金澤翔子について
・青山杉雨(1912-1993)という書家
・紫舟という書家
<書について考える>
・日本人、中国人の国民性の相違と書に対する評価について
・書の見方・鑑賞について
・ギリシャ美術と書
・「気韻生動」について
・参差(しんし)について
・章法とは
・石川九楊にとって書のうまさとは何か
・書のうまさとは?
・「永字八法」について
・石川九楊の中国書史と日本書史の基本的理解について
・中国と日本の書について
・漢字文化圏における書の担い手について
・中国の書と日本の書の相違について
・日本と中国の漢字の筆順
・中国と日本の書の相違点
・日本と中国の書道展の相違について
・書はどこまで国際的に理解できるか
・「書は人なり」という言葉について
・現代日本書壇とその批判について
・書は線の美か
・国際的な書とは
<むすび>
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
・書について
・中国書道史について
・行書の起源と完成について
中国の書
書について
文字である漢字を芸術にまで高めた書の歴史について考えてみたい。
漢字は単なる伝達手段であるだけでなく、書という線の美しさを表現する芸術の素材でもある。中国から伝来した書法は、多くの日本人の心を捉えて魅了した。中でも聖武天皇と光明皇后の書は注目しうる。
こうしたテーマを考える際に格好の本がある。魚住和晃『「書」と漢字―和様生成の道程』(講談社選書メチエ、1996年)などである。これらの本の内容を紹介しながら、漢字と書の関係、書の歴史について述べてみたい。
【魚住和晃『「書」と漢字―和様生成の道程』講談社はこちらから】
「書」と漢字 (講談社学術文庫)
中国書道史について
書は文字を素材として、中国に発達した特殊な芸術であるといわれる。書は、線の持つ特殊の美の総合表現であるともいえる。線の特質は、形としての役割を演ずるばかりでなく、線の太細勁軟、筆圧の軽重、運筆の遅速による持ち味、形にみる力の均衡、さては結体章法などが独自の書風をなす源泉である。
中国において書が芸術として発達した主因は、中国の文字すなわち漢字そのものの持つ特性にあった。その書の美が、どのように実現展開したかをみるのが、書道史であろう。
(平山観月『新中国書道史』有朋堂、1965年[1972年版]、1頁~2頁)
【平山観月『新中国書道史』有朋堂はこちらから】
新中国書道史 (1962年)
平山観月は中国書道史のおよその流れを次のように要約している。つまり、上古(秦より以前)に端を発した中国書道は、中古(秦漢から唐)にはいって漢末に大成し、晋魏に興り、唐にいたって整い、近古(宋から明まで)にはいっては、北宋においてくずれ、それ以後、近世(清代以後)を含めて衰退したと平山はみている。
書道の隆昌をみるのは、国家興隆のときであり、またその萎微沈滞をみるのは、国力衰退のときである。まさに書は人をあらわすと同時に、時代の精神、民族の特性を表現するものであるとみる(平山、1965年[1972年版]、21頁~26頁)。
行書の起源と完成について
一般的推論として、古文から篆隷が生まれ、隷書から楷書、楷書の速書きから行書、行書の略化から草書が生まれたであろうということになっていた。しかし20世紀になって漢代の木簡が楼蘭で発見され、この説はくつがえってしまった。
楷、行、草の三体はいずれも漢代に萌芽して漢末には完成していたが、その成立の順序は、草、行、楷と考えられるようになった。
この点を詳述すると次のようになる。漢代の隷書の特長は「曹全碑(そうぜんひ)」のように、横画の終筆を右にはね、のびのびとした流麗な波勢を長くつくっていることにある。隷書をより平易に便利に速く書きたいという要求から略化が進み、草体が生まれていった。木簡の資料が示すように、一字一字独立したいわゆる章草(しょうそう)とよばれる草書が前漢時代にすでにできていた。これは隷書の波勢をまだ残していた。これがさらに波勢を省略して下に続ける工夫が重ねられて、後漢の初めには今日の草書が確立された。
行書の成立は草書よりずっと遅れているが、漢末には完成している。行書も隷書を簡易にしたものといわれている。楷書は行書よりさらに遅れて、漢隷が波勢を失って次第に楷書の姿をあらわしたのは、漢末から三国時代のころであると考えられるようになった。
ともあれ、行書は書をより速く、より書きよく、より能率的なものにしたいという実用上の要求から、点画を続けたり、省略したり、時には筆順を変化させたりして、できあがった書体である。
たとえば、点画が省かれる場合、「雲」や「草」という字では、「雨」の左右の点や「くさかむり」を二つの点にしたり、「然」や「馬」などでは点を三つにしたり、ときには一本の線にしたりする場合がある。
行書・草書の筆順について補足しておくと、たとえば、「禾(のぎへん)」は、楷書では縦画は第三画であるが、行書では第一画からすぐ縦画に続き、その終筆から横画に続くように書く。そのほうが上から字が続いてきたときに縦の流れが出るし、また速く書け、しかも自然なのである。このように行書では筆順が変わる。
草書になると、点画の省略がいっそう激しくなり、形そのものが変わってしまう。たとえば、「人偏(にんべん)」「彳(ぎょうにんべん)」「氵(さんずい)」「言(ごんべん)」はみな同じ形に書かれる。このように、草書では部首の扁(へん)や冠(かんむり)などのほとんどが、何種類のものを同じ形に書く。たとえば、唐の孫過庭の撰書として「書譜」がある。これは草書の経典であるばかりでなく、その内容の書論は、六朝以来の諸家の書論を集大成したものである。その「書譜」の中の「断可極於所詣矣」の部分について、「詣」の字は、「臨」とか「治」とかいろいろ読まれている。この点、松井如流は「孫過庭考」において、ヘンは言ベンで、「詣」が正しいものとみなしている。その理由は、「書譜」の中に散水を棒のように書いたものはなく、また「臨」と見ることは無理があると主張している。
(松井如流『中国書道史随想』二玄社、1977年、193頁、204頁~205頁)
【松井如流『中国書道史随想』二玄社はこちらから】
中国書道史随想 (1977年)
ところで、隷書や楷書は一点一画を幾何学的に組み立てているので、厳正な整斉美を感じさせる。だから、行書や草書のような流動の美はあまりあらわれない。行書はすらすらと続けて書くから、筆脈が自然に紙面にあらわれ、点画や形に円味が多くなって、自由さと流麗さが加わり、流動感の強いものになっている。
漢代に萌芽して漢末には定形化したと思われる行書は、六朝時代になって、書聖・王羲之の出現によって、完成をとげるにいたった。王羲之は楷行草の完全な普遍的様式化に心血をそそぎ、端正典雅な書風を樹立した。その貴族的気品の高さは、宮廷を中心に中国の人々に愛され、日本においても書法の典型として今日に及んでいる。
王羲之の行書としては、「蘭亭序」、唐の僧懐仁が王羲之の書を集めてつくった「集字聖教序」、そして「興福寺碑」が名高い。「集字聖教序」は、行書の基本的用筆を理解するための千古極則であるといわれる。
行書の古名蹟を見ると、それなりの特徴をもっている。王羲之の「蘭亭序」は、背勢ですっきりとして清冽(せいれつ)そのものであり、唐の顔真卿の「争座位稿」は、向勢で素朴剛健、情熱がほとばしっているといわれる。また唐の太宗の「温泉銘」や「晋祠銘」になると、博大敦厚、悠々としてせまらざるものがあると評せられる。
(上條信山『現代書道全書 第二巻 行書・草書』小学館、1970年[1971年版]、12頁~13頁、19頁、26頁)
【上條信山『現代書道全書 第二巻 行書・草書』小学館はこちらから】
現代書道全書 第2巻 改訂新版 行書・草書
中国の書道の歴史を振り返ってみた場合、魏に鐘繇、東晋に王羲之、王献之の父子、北魏に鄭道昭が出て、中国書道の最高峰を形成した。清朝の阮元の「南北書派論」によれば、後漢の末から三国魏のころまでは、書風上に著しい区別がないが、六朝南北朝に至って書に南北の別ができ、呉・東晋・宋・梁・陳などは南派で妍妙、それが多くの法帖に伝わり、魏・周・斉・隋は北派で拙朴、そしてそれらが多くの石碑に残されているとする。
(平山観月『書の芸術学』有朋堂、1965年[1973年版]、144頁)
【平山観月『書の芸術学』有朋堂はこちらから】
書の芸術学 (1964年)
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