≪【補足 その1】フランスの歴史~木村尚三郎『パリ』より≫
(2023年8月30日投稿)
今回のブログでは、高校世界史におけるフランスの歴史について、補足しておきたい。
次の著作により、補足説明しておく。
〇浜林正夫『世界史再入門』講談社学術文庫、2008年[2012年版]
〇木村尚三郎『西欧文明の原像』講談社学術文庫、1988年[1996年版]
〇木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年
パリの中心、シテ島に建つノートル・ダム大聖堂(Cathédrale Notre-Dame de Paris)の尖塔が焼失するニュース映像が、2019年4月15日に報道されているのを見て、“フランスの魂”が崩れ落ちるかのように感じた。
パリのノートル・ダム大聖堂がいかにフランス人の精神的支柱であったことか。
ノートル・ダムとは、フランス語で「我らが貴婦人」つまり聖母マリアを指す。
かのヴィクトル・ユゴーは、『ノートル=ダム・ド・パリ』(1831年)で、架空の人物カジモドという鐘つき男を主人公に、15世紀のノートル・ダム大聖堂を舞台にして、愛情と嫉妬が渦巻く衝撃的な小説を書いた。そして、これを原作に、『ノートルダムの鐘』としてアレンジされ、映画やミュージカルで有名な作品となった。
また、来年2024年には、パリ・オリンピックが開催され、再びパリが注目されている。
いま一度、パリの歴史をフランスの歴史の中で振り返ってみることは有意義かと思う。
その際に、〇木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』(文芸春秋、1998年)は格好の著作であろう。受験とは直接的には関係ないかもしれないが、興味のある人は読んでみてはどうだろうか。
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
浜林正夫『世界史再入門』(講談社学術文庫、2008年[2012年版])から、フランス史について、補足しておく。
【フランス革命】
フランスはカトリックの国であるにもかかわらず、オーストリアのハプスブルク家に対抗するため、三十年戦争のときにはプロテスタントの側を支援し、アルザス地方に領土をひろげ、またスペインのハプスブルク家のカルロス2世が1700年に死去したあと、ルイ14世の孫をスペインの王位につけて勢力を拡大した。(中略)
ついにルイ16世は貴族の免税特権に手をつけようとしたが、貴族たちはこれに抵抗し、1615年以来ひらかれていなかった三部会の召集を要求した。1789年5月、174年ぶりに三部会がひらかれたが、第三身分(平民)の代表は身分制にもとづく三部会を国民議会に変え、憲法を制定するよう要求し、7月に憲法制定議会が成立した。しかし国王は武力によってこの議会を解散させようとくわだてていたので、7月14日、パリの民衆はバスチーユの牢獄をおそって武器を奪い、農民もまた各地で蜂起したので、議会は8月4日封建的特権の廃止を決議し、8月26日「人間および市民の権利の宣言」を採択した。
国王はこれらの決議や宣言をみとめようとしなかったので、パリの民衆はふたたび蜂起し、10月5日から6日にかけて女性が中心となってヴェルサイユ宮殿まで行進し、国王をパリへつれもどし、1791年フランス最初の憲法を制定した。この憲法は立憲君主制をさだめたものであったが、選挙権は一定額以上の国税を納めるものに限られていた。これにたいして国王は王妃マリー・アントワネットの実家であるオーストリアの援助をもとめようとして国外逃亡をはかったがとらえられ、こういう国王の裏切りに怒った革命派のなかでは穏健派のフイヤン派に代わって急進派のジロンド派が主導権を握るようになり、92年、オーストリア・プロイセン連合軍との戦争がはじまった。
一方、国内では王権は停止され、1792年9月、憲法制定会議のあとをついだ立法議会も解散されて、普通選挙による国民公会が成立し、君主制を廃止して共和制の樹立を宣言し、翌年1月、国王は処刑された。このころ、イギリス軍も革命干渉戦争に加わり、国内では食料危機などのため民衆蜂起がつづいて、ジロンド派は権力を維持することができず、これに代わって民衆蜂起に助けられてジャコバン派が権力を握った。ジャコバン派は1793年憲法を制定し、封建的特権の無償廃止、物価統制、買い占め禁止などの政策を強行し、これに反対する人びとをつぎつぎと処刑する独裁的な恐怖政治をおこなったため、ますます支持を失い、94年7月、その中心人物ロベスピエールらはとらえられて処刑された。
ここでフランス革命の進展はとまり、反動化がはじまる。革命をさらにすすめ、私有財産制を廃止しようとするバブーフの陰謀はおさえられ、もともと革命派の軍人であったナポレオンがクーデタによって1799年統領の位につき、つづいて1804年皇帝となって共和制は終わりを告げた。ナポレオンはオランダ、スペイン、イタリア、プロイセン、オーストリアを征服し、ヨーロッパ各国へ革命を「輸出」したが、ロシア遠征に失敗し、1813年、プロイセン・オーストリア・ロシア連合軍に敗れ、エルバ島へ流され、いったんこれを脱出したものの、1815年、ワーテルローの戦いでウェリントンのひきいるイギリス軍にうちまかされて、セント・ヘレナ島へ流され、そこで世を去った。
(浜林正夫『世界史再入門』講談社学術文庫、2008年[2012年版]、156頁~159頁)
12「世界史における近代」(172頁~175頁)
・一国の歴史でも世界史全体についても、これを古代、中世、近代というように、時代区分をするのがふつうである。
しかし、この時代区分は西ヨーロッパ諸国についてはわかりやすいが、それ以外の地域にこれをあてはめようとすると、難しい問題がでてくる。
たとえば、日本の場合、中世というのはいつからいつまでであろうか。
徳川時代というのは中世だろうか、近代だろうか。
中国やインドの場合には、どう区分すれがよいのか。
・じつは、古代、中世、近代という三区分がいわれるようになったのは、ルネサンス期以降のヨーロッパ人の発想によるものであった。
ルネサンス期のヨーロッパ人は当時の社会やその思想を批判するために、キリスト教以前の社会を理想化し、その理念の再生をはかったのである。
そのために古代と現代とのあいだの時期を中間の時代(ミドル・エージ)とよび、これを暗黒時代とみたのであった。
したがって、古代、中世、近代という時代区分は西ヨーロッパ人の歴史観にもとづくものであると著者は主張している。
それ以外の地域にこの三区分を適用しようとすると、どうしても無理が生ずるというのは、当然のことであるという。
・ただ、ルネサンスの時代にこういう歴史観が生まれたのは、偶然ではなく、それなりの根拠があった。
それは封建社会が危機におちいり、新しい人間と社会のあり方がもとめられていたということであった。彼らの歴史観の土台には、それなりの社会的な変化があった。
ルネサンスからなお数百年かかって、イギリスとフランスで革命がおこり、ここでようやく新しい社会が成立する。それは、市民社会とよばれる社会であった。
・市民社会の市民というのは、もともと都市の住民という意味であるが、市民社会というのは都市だけをさすのではなく、教会の支配にたいして世俗的な社会という意味である。
領主・騎士の軍事支配にたいしては文民という意味であって、市民社会の政治的側面は民主主義であった。
民主主義を思想的に準備したのは、17、8世紀のイギリスやフランスにあらわれた自然法思想であった。
イギリスではトマス・ホッブズが『リヴァイアサン』(1651年)で生存権を自然権とし、国家は生存権を保障するための契約によってつくられるという社会契約説をとなえた。
ジョン・ロックは『統治二論』(1690年)で生命・自由・財産を自然権として人民主権論を主張した。
フランスでは、モンテスキューが『法の精神』(1748年)で三権分立をとなえ、ルソーが『社会契約論』(1762年)で人民主権論を徹底した。
またディドロらは全28巻の『百科全書』を編集し、絶対王政をはげしく攻撃した。
〇こういう思想を背景として、基本的人権と国民主権という民主主義の原理を確立したのが、アメリカの独立宣言(1776年)とフランス革命の人権宣言(1789年)であった。
(浜林正夫『世界史再入門』講談社学術文庫、2008年[2012年版]、172頁~175頁)
13「世界史をふりかえって」(269頁~276頁)
世界史をふりかえって、何が見えてくるのか。
この点について、著者は次のように考えている。
世界史には、さまざまな社会、国の興亡があった。歴史のドラマをつくりだした英雄たちの活躍に目をひかれがちだが、生活を支えてきたのは黙々と働きつづけていた民衆であった。
戦争のときでも革命の最中でも、誰かが労働と生産をつづけていた。
そうした労働と生産のあり方に関心をむけることが、もっとも基本である。
労働と生産をつづけるにあたって、人間はひとりで働くのではなく、ほかの人びとと協力して働く。そこに人と人との関係ができあがる。これが社会である。
⇒人びとが生産をつづけるにあたって、どういう社会をつくったのか。
そして生産の発展にともなって社会はどのように変化してきたのか。
これが世界史の主要なテーマであると、著者は考えている。
・労働と生産をすすめるにあたって、人びとはまず血縁的なつながりによる共同体を構成する。
この共同体は血縁からしだいに地縁的な関係にうつる。そして生産力のいっそうの発展によって、共同体的な関係がくずれる。
個人(あるいは小家族)を基礎単位とする連合体的関係へと変化していく。
生産力の発展がこのような社会関係の変化をつくりだす。逆に社会関係のあり方が生産力の発展あるいは停滞を生みだす。
※世界史の基調にあるのは、このような社会のあり方とその変化であって、この基調のうえに多様な文化が成立する。
・共同体の内部からは私有制のいっそうの展開にともなって、たえず豪族層があらわれてくる。
古代国家は、「公地公民」制により、あるいは官僚制によって、こういう豪族層をおさえ(あるいは、とりこみ)、共同体国家を維持しようとする。
それに成功したところでは、私有制の発展もおさえられ、生産力の発展も停滞する。
※古代国家や古代帝国が成立しなかったところでは、豪族層は封建領主に成長する。
そのなかの最有力者が国王となって、封建国家が形成される。
これらの地域では、一般的にいって奴隷制段階は経由されず、氏族共同体の解体から豪族の領主化にともなって、農奴が生まれる。さらに農奴の自営農民化によって、領主制そのものも危機におちいる。
この危機は絶対王政の成立によって、いったん克服される。
だが、やがて市民革命によって、絶対王政は打倒される。
資本主義社会が誕生し、私有制が完成されるとともに、生産力の未曾有の発展をもたらす。
近代以降、西ヨーロッパ諸国が世界を支配することができたのは、このような生産力の発展のためであったと、著者は主張している。
※市民革命は、またフランス革命の人権宣言に典型的にみられるように、生存、自由、平等というような新しい価値理念を表明した。
これらの理念は、奴隷の蜂起や農民一揆や、あるいは哲学者や神学者などによって、さまざまな形で、地域や時代に表明される。
だが、それが体系的にまとめられ、かつ社会変革のイデオロギーとして力を発揮したのは、西ヨーロッパ諸国(とくにイギリスとフランス)の市民革命においてであった。
・近代西ヨーロッパが、この理念を十分に実現することができなかったのは、双生児として生まれた民主主義と資本主義との表裏一体の関係が間もなくくずれはじめたためである。
封建制が倒され、資本主義という新しい社会ができあがると、賃金労働者の搾取のうえになりたっている資本主義的な生産力の発展にとっては、労働者の生存権や自由、平等の主張は、かえって邪魔物になってくるからである。
こうして生存、自由、平等という価値理念を真に実現していくためには、資本主義社会をのりこえなければならないと考えるところから、社会主義の主張が生まれ、生産力もまた資本主義的な私有制の枠から解放される方が、いっそう発展すると主張された。
【著者の人類史に対する考え方】
・人類史の長い道のりは、一面では生産力の発展の過程であるとともに、もう一面では、生存と自由と平等をもとめる努力のつみかさねであったと、まとめている。
このことを象徴的にしめしているのは、君主制の衰退ということである。
かつては、アメリカやスイスのように、建国当初から共和制であった国を除いて、世界のほとんどすべての国が世襲制の君主によって支配されていた。
人間は平等であるというよりは、人間はほんらい不平等であり、支配に適した人と服従に適した人とがいるというのが、むしろ常識であった。
しかし、まず君主の権限をおさえることからはじまり、やがて君主制そのものを否定する動きがひろがる。現在、君主制の国は、世界中の国の2割弱という圧倒的少数派となった。
長いスパンでみれば、生存と自由と平等をもとめる人類の歩みは、おしととめることのできない前進をつづけている。これらの理念を普遍的とよびうる根拠もここにある。
・さらに、人類はいま地球規模での環境破壊や資源浪費などという問題に直面している。
しかし環境破壊の問題を人間と自然とのかかわり一般の問題に解消してしまうのは誤りであるという。
それでは問題解決の展望はみえてこない。
問題はむしろ、資本主義のもとでの大資本の利潤追求と、これまでの社会主義の国ぐにの無秩序な生産第一主義にあったのである。環境保護のために生産力の発展そのものをおさえようとするのは、正しくないのみでなく、不可能であると、著者はいう。
生産力の発展はほんらい人類にとって望ましいものであり、生産手段の私有制のもとでは、たしかにマルクスがいったように、生産力は「人びとにたいしてよそよそしい姿」をとるのだけれども、生産力をおさえるのではなく、生産力の発展をどのようにして人類共通の利益に合致させることができるのか、ということこそが、今日の課題であるとする。
※世界史はこのような歩みをへて、いまこのような問題状況にあるという。
これをどう打開していくのかが、いま問われている。
(浜林正夫『世界史再入門』講談社学術文庫、2008年[2012年版]、269頁~276頁)
なお、ヨーロッパのフランス史について、木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』(文芸春秋、1998年)により、補足説明しておく。
フランス史の碩学である木村尚三郎先生のエッセイ集である。ジャンヌ・ダルクとナポレオンとの関連を指摘し、フランス史の一つの見方を提示しているので、紹介しておこう。
〇「サン・トノレを攻撃したジャンヌ・ダルク」(236頁~241頁)
いま高級服飾店が立ち並ぶフォーブール・サン・トノレ通りも、その始点であるロワイヤル通り(観光客の誰もが通る、マドレーヌ寺院とコンコルド広場を結ぶ道である)に、堅固なサン・トノレ第3城門があったからである(1733年取り壊し)。城門の内側がパリ市内のサン・トノレ通り、城外がフォーブール・サン・トノレであった。
サン・トノレ通りは、パリ中央市場の創設に従って出来た、パリを東西に結ぶ重要な道であり、市場に近いためにさまざまな業種の商人が店を連ねていた。(中略)
パリ経済の心臓部とあって、サン・トノレ通りは厳重に三つの城門で固められていた。第1門は145番地、オラトワール通りと交差するところ、第2門は161番地のロアン通りとの交差点、そして第3門はロワイヤル通りとぶつかるところであった。
第1門はフィリップ・オーギュストの城壁門として1190年に作られ、1545年から48年に取り壊されている。この第1門は、サン・タントワーヌ門、サン・ドニ門、サン・ジャック門と並んで、パリ四大門の一つであった。
サン・トノレ第2門は、1380年に国王シャルル5世の城壁門として作られたものである。ときは百年戦争の時代であり、1429年9月8日、ジャンヌ・ダルクもこの第2門を攻撃している。「イギリス軍に占領されているパリを奪い返す」ためであった。1866年の検証によれば、ジャンヌ側の大砲による、直径8センチと17センチの、二つの石の弾丸跡が、城門に残っていたという。
城門の周りには 5.5メートルの深さがある空濠(からぼり)と、より城壁沿いのもっと深い水濠とがあった。その水濠の深さを槍で計ろうとしたとき、ジャンヌは城壁上から射かけられた矢に腿をやられ、ジャンヌの軍勢は退却している。ジャンヌ刑死(1431年)の後1433年10月8日、ジャンヌが味方した、国王シャルル7世をいただくアルマニャック勢は再度このサン・トノレ第2門を攻撃しているが、同じく失敗に終っている。
ジャンヌ・ダルクはサン・トノレ第2門攻撃の前夜から当日の朝にかけ、前線基地であったパリ北方の「ラ・シャペル村」で、サン・ドニ・ド・ラ・シャペル教会(現在パリ18区、ラ・シャペル通り16番地)に、夜通し祈りを捧げている。負傷して同地に帰ってからも、彼女は同教会に祈りを捧げていた。
そのときの模様を、恐らくパリの聖職者が書いた同時代の貴重な史料、『パリ一市民の日記』は、非難の思いをこめてつぎのように記している。
(ジャンヌは)何べんも、完全に武装したまま、教会(サン・ドニ・ド・ラ・シャペル)の祭壇から聖なる秘蹟を受けた。男装をし、髪を丸く刈り、穴のあいた頭巾、胴着、沢山の金具つきの紐で結わえつけられた真紅の股引きといった恰好で、である。この物笑いの服装について、何人もの立派な貴紳や貴婦人が彼女を非難した。そして彼女に対し、このような恰好の女性が秘蹟を受けるのは、主を尊ばぬことになると告げた……。
ジャンヌに対し、パリ市民は不快感、嫌悪感、敵意といったものを抱いていた。彼女が15世紀初め突如として歴史に登場したとき、パリないし北フランスは、イギリスと同盟関係にあった。したがってジャンヌを悪魔女、乱暴女として恐れおののいた。彼女が北のコンピエーニュで捕まって宗教裁判にかけられたとき、パリ大学神学部も彼女を激しく糾弾し、彼女を刑死にいたらしめている。当時のパリは終始、アンティ・ジャンヌ・ダルクであった。
にもかかわらず今日、ピラミッド広場をはじめとして、パリ市内合計4カ所にジャンヌ・ダルク像が立っているのは、なぜであろうか。それは400年近くも経って、ナポレオンが現われたからである。
彼は1804年、フランス史上はじめて、「皇帝」という位につこうとするとき、前年に「モニトゥール」紙に根回しをした。まったくといっていいほど無名だったジャンヌ・ダルクを歴史から拾い出し、栄光の座につけ、自分をジャンヌになぞらえながら、ともに新興ナショナリズムのヒーロー、ヒロインとして、祀(まつ)り上げたのであった。ピラミッド広場のジャンヌ像も、1874年フレミエの作である。
18世紀一杯までは、彼女に救われたオルレアンとか彼女の生地ドンレミ村など、ほんの一部を除いては、フランス人の誰もが、ジャンヌ・ダルクの名を知らなかった。フランス各地の広場や教会に沢山見られる「愛国の乙女」ジャンヌ像は、原則として、19世紀のものである。
19世紀近代のナショナリズムが作り出した「神話」のジャンヌ像とは違って、ジャンヌ個人はきわめて信心深く、頭もいいが、文字はAもBも知らなかったのが、実像であった。彼女は
、問題の1429年9月8日、午前8時ごろ「ラ・シャペル村」を出発し、「モンソー村」を通って、サン・トノレ門を攻撃している。(下略)
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、236頁~240頁)
木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』では、フランス史の一つの見方を提示している。
すなわち、「4 十九世紀の輝き――近代のパリ」の「パリは三度光る」において、木村尚三郎氏は、フランスの歴史について、次のようにまとめている。
(前略)
ところがパリは、これまでに二度光っている。そして1989年のフランス革命200年祭をきっかけに、三度目の光を放ち出している。一度目は、シテ島のサント・シャペルに代表される12・13世紀の輝き、二度目はこれから述べる、19世紀後半・20世紀初頭の輝きである。エッフェル塔がこの時代を象徴している。あるいはつぎのように、パリはこれまで4代の先祖によって担われ、いま5代目が光りつつある、といったほうが正しいのかも知れない。
1代目は、古代ケルト人がシテ島に住みついた前4、3世紀から、古代ローマ人、フランク王国が支配した10世紀までの原初時代である。それは今日のパリに生きているというより、痕跡として意識の奥深くに横たわっているといったほうがいい。
2代目は男として光った、10世紀末から14世紀初にかけての、カペー王朝の時代である。農業上の技術革新にもとづく、豊かな「成功した時代」であり、現代パリの、原風景が形づくられたときであった(前章)。
3代目は中世末から19世紀前半にいたる、長い「成功しない時代」である(第2章)。
ジャンヌ・ダルクの出現した百年戦争のころ(14、15世紀)から、16世紀のフランス・ルネサンス期、ルイ14世に代表される17・18世紀の絶対王政とサロン文化の時代、そしてフランス革命期は、みなこのなかに入る。技術が成熟してよりよい生き方を求め、人びとが、飲み、食べ、踊り、祭りし、旅し、文化に熱中し、そして大革命という、民衆の血ぬられた祭りまでも敢えてやったときである。コミュニケーション・交通・会合が発達し、さかんとなった、いわば女性的感覚によって、美しく装われた時代であった。
第4代は、19世紀後半の産業革命とともに始まり、20世紀初頭の「ベル・エポック」(良き時代)に、文字通り最高の輝きを見せる。第2代とともに、「男が光ったとき」であるが、光り方が違う。
第2代、つまり中世パリの光は、現代人に多少なりともの違和感があり、考え、勉強し、少し身構えながら味わう光である。これに対し第4代の近代パリの光は、理屈抜きで親近感を覚え、誰にも予備知識なしに受け入れうる光である。万人にすぐ分り、日常感覚にとりこみうる光、すなわち現代パリの直接の出発点が、第4代の19世紀パリである。
エッフェル塔が、それを象徴している。最近はライトアップされ、文字通り夜目にも美しく光り輝くようになった。いまから1世紀前、フランス革命100年を記念して、1889年5月6日パリに開催された、万国博覧会のために建設されたものである。設計者は、当時57歳のアレクサンドル・ギュスターヴ・エッフェルであった。(下略)
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、249頁~251頁)
「第六章 近代の神話」の「ナポレオンによる国民的英雄化」より
〇ジャンヌ・ダルクに関するおびただしい数の研究書・文献が出現し、同時に愛国の乙女、国民的英雄、フランスの守護神としてのイメージが形づくられ、定着したのは、19世紀になってからのことである。
これにはじめて火をつけたのは、ほかならぬナポレオンであった。
彼は、オルレアン市民が1792年に破壊されたジャンヌ・ダルク像を再建しようとしていることを知って、これに賛意をあらわし、同時にジャンヌ・ダルク祭の復活を祝して、1803年『モニトゥール』紙(1789年11月24日創刊)につぎの一文を寄せた。
フランスの国家的独立を危うくされるとき、偉大なる英雄が救いをもたらすのは、けっして奇蹟ではない。かの著名なジャンヌ・ダルクはこのことを証明した。一致団結するかぎり、フランス国民はかつて敗れたことはなかった。しかし隣国のものどもは、われらが特性である素直さや誠実さにつけこみ、われわれの間につねに不和の種をまきちらす。そこから英雄ジャンヌが生きた時代の禍いや、歴史にのこるすべての災難が生まれたのである。
すなわち、ナポレオンは、ジャンヌ・ダルクを介してみずからがフランスの英雄であることの正統化をおこない、翌年における皇帝登位のための一布石としたのであった。
そして、この一文こそは、ジャンヌについてフランス国家の側から公にされた最初の讃辞であった。
こんにちのジャンヌ・ダルク像は、19世紀フランスに復活したもの、否もっと正確には、当時の国民主義的風潮、英雄崇拝の時流に乗って、新たに創造されたものであった。19世紀は、市民的国民国家が頂点をきわめた時代であった。
ジャンヌが生きた14、15世紀の時代は、このフランス国民国家が形成への第一歩、したがって、また新たな対内的、対外的な緊張と対立の第一歩を大きく踏み出したときであった。近代国民国家の体現者ナポレオンによって、ドンレミ村の一少女が新たな生命を賦与されたのは、彼女の歴史的宿命だったといえるかもしれない。
(木村尚三郎『西欧文明の原像』講談社学術文庫、1988年[1996年版]、355頁~357頁)
「第二章 ヨーロッパの原像」の「農民の防衛的戦闘性」において、木村尚三郎氏は次のように述べている。
革命のはじまる前年、フランスはたいへんな凶作であった。そのため翌年の春からは深刻な穀物不足、穀物価格の高騰、そして飢餓がおとずれ、全国の農村は、強盗団が穀物を奪いにくるのではないかとの思いから「大恐怖」とよばれるパニック状態におちいった。こうしてすべての農村がいっせいに武装をはじめ、穀物をとられることの恐怖にかられて領主への年貢支払いを拒否したばかりでなく、領主館まで襲って年貢のもとである証拠文書を焼きすてたのである。凶作が全国の農民にひとしく自衛、土地防衛の行動を起こさせ、結果として領主権を攻撃せしめたことこそ、フランス革命を準備し、そして成功させた最大の原因であったといえよう。
この点でE・H・カーが引用している、19世紀イギリスの歴史家カーライルの『フランス革命』におけるつぎのことばは、一見古めかしいが見事にことの本質をついている。
「2500万人の人々を重たく締めつけていた飢え、寒さ、当然の苦しみ。これこそが――哲学好きの弁護士や豊かな商店主や田舎貴族などの傷つけられた虚栄心とかチグハグな哲学とかではなく――フランス革命の原動力であった。どこの国のどんな革命でも同じことであろう」
(E・H・カー、清水幾太郎訳『歴史とは何か』岩波新書)。
(木村尚三郎『西欧文明の原像』講談社学術文庫、1988年[1996年版]、186頁)
「古代ローマいらいの道、サン・ジャック通り」(225頁~229頁)より
古代ローマ人が紀元前1世紀半ばにやってくるまで、パリにいた先住民族は、前3、4世紀ごろからシテ島に住んだケルト族の一派、パリシイ(Parisii)とラテン語で表記された人たちである。ここから、パリという都市名がのちに生じる。
フランスの都市名には、このようにケルトの部族名に起源を持つものが少なくない。たとえば、大聖堂のステンドグラスで有名なシャルトル(パリ西南88キロ。パリを訪れたら、ヴェルサイユとともにぜひ同市をも訪ねたい)は、カルヌテス族(Carnutes)、リヨンはルグドネンシス族(Lugdnensis)、リモージュはレモヴィケス族(Lemovices)という名からそれぞれ発している。
ケルト人自身はパリをルテティアと呼んでいた。前52年ローマ軍がシテ島からケルト人を追い払ったあとも、ローマ人によるガリア(今日のフランス・ドイツ)支配の時代(ガロ・ローマ時代)には、パリは同じくルテティアと呼ばれていた。いま、ルテティアとかリュテースという名の宿屋とか酒場がフランスにあったとすれば、みな申し合わせたように場末の、うらぶれた存在である。その点、サン・ジャック通りの今日と、奇妙に意味合いが符合している。(中略)
ルテティアとはケルト語で、「水の中の住い」という意味だという。つまりは「中之島」である。確かにシテ島は、セーヌ川に浮かぶ船の形をしている。後ろにサン・ルイ島を従えて、西へ、川上へと、舳先を向けている。先述の「たゆたえども沈まず」というパリの標語と、帆かけ舟のパリの標識は、現実の情景にピタリ一致している。
ケルト人の住みついたシテ島が、パリの原点、心臓部だとすれば、古代ローマ人の住んだ川南のサント・ジュヌヴィエーヴ山一帯は、カルチエ・ラタンとしてパリの頭脳・知性を形づくる。ローマ人はローマでも、カピトリヌス(カンピドリオ)、パラティヌス(パラティノ)をはじめ「七つの丘」にまず定住した。丘陵地帯が好きだったのである。
いまその遺跡を、サン・ミシェルとサン・ジェルマン二本の並木大通りが交差するあたりにある、共同浴場跡(紀元200年ころ)に見ることができる。セーヌ川沿いにあるサン・ミシェル駅から並木通りの坂を上っていけば、いやでも左側に目に入る。これに隣接するクリュニー美術館は、中世美術の宝庫であり、ぜひ訪ねたい。クリュニー修道院長館として建てられたものであり、先述のサンス館、マレー地区のジャック・クール館と並んで、15世紀の品良く美しい建物である。
クリュニー美術館には、第11室にある評判の「貴婦人と一角獣」のタピスリーなどのほかに、第10室と第11室のあいだの「ローマの大部屋」に注目したい。そこにはユピテル神に捧げられた、石柱の一部がある。
それはなんと、ノートル・ダーム大聖堂内陣下から、1711年に発掘されたものである。時代は第2代ローマ皇帝の、ティベリウス帝(在位14~37)のときで、奉献したのはやはりセーヌ川の舟乗りたちであった。そこから私たちは、セーヌ川がすでにローマ(ガロ・ローマ)時代から交通・運輸の動脈であり、舟乗りたちが大きな経済力を持っていたこと、そしてキリスト教文化が文字通りローマ文化の上に成り立っていることを知ることができる。パリの国際性・普遍性も、もともとはここにローマ文化があったからである。
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、225頁~229頁)
「3 パリの原風景――中世のパリ」の「仰ぎ見るノートル・ダーム」(187頁~191頁)
パリのノートル・ダーム大聖堂は、名実ともにパリの中心である。
パリをはじめて訪れた人は、まずここに駆けつけ、その端正な姿を飽かず眺め、同時に、セーヌ川を往き来する観光船(バトー・ムーシュ)との取り合わせで、何枚かの写真を撮る。これじゃ絵葉書と同じだなと内心思いながら、しかしカメラを向けさせないではおかない魅力が、ノートル・ダーム大聖堂にはある。
大聖堂は、セーヌに浮かぶ中之島のシテ島に、スックと立ち上る。そしてパリが政治・行政上、あるいは文化的・経済的な中心であるばかりではなく、精神的にもフランスの中心であることを、堂々と示している。フランスもパリも、歴史上激情のほとばしりを何度も経験したが、ノートル・ダーム大聖堂はつねに穏やかで、つねにバランスが取れ、つねに美しい。
大聖堂前の広場、「パルヴィ・ノートル・ダーム」は、今は長さ135メートル、幅100メートルの広さがあるが、中世では今の6分の1しかなかった。それが1747年には今の4分の1にまで拡げられ、さらに1865年、オスマン・セーヌ県知事の都市計画によって、現在の形に拡大された。
ノートル・ダーム大聖堂は1163年から1345年まで、約2百年かけて建立されている。ただし、大聖堂すなわちカテドラルは司教座の置かれている、つまり司教のいる聖堂であるが、1622年まで司教座はサンス(パリの東南118キロ)にあり、パリではない。大聖堂に限らず一般にヨーロッパの教会堂は、大半が中世の最盛期、12、13世紀に建てられたか建てられはじめたかしたものである。しかしもともと教会堂の前に、広場らしい広場は作られなかったのがふつうである。広場がなければ、その全景をカメラに収めることができない。しかしそれは、現代人の歪んだ発想である。
教会堂の周りには、ノートル・ダーム大聖堂もそうであるが、もともと家が建てこんでいた。教会堂は、遠くから離れて客観的に眺めるものではない。すぐそばから、仰ぎ見るものである。少くともこれを建てた中世人は、そうやって見ていた。広場の必要などなかったのである。
カテドラル(大聖堂)の真下から真上を仰ぎ見ると、何が見えるか。
もしそれが晴れた夕方なら、入口上部空間のタンパンで演じられる、夕日に照らし出された石の彫像によるドラマが見えるはずだ。キリスト教は光を求める宗教であり、入口から中央通路(身廊)を真直ぐ奥に行ったところにある祭壇(内陣)は、太陽の出る東を向いている――ノートル・ダーム大聖堂の場合は、少し南に傾いてはいるが――。したがって入口(ファサード)は、当然西向きということになり、夕方にならないと陽光が回ってこない。これは、ヨーロッパのどこの教会堂でも同じである。
タンパンというフランス語は、楽器のティンパニーとか鼓膜のティンパヌムと同じ語源の建築用語で、教会の入口上部に、ちょうど鼓の上半分のような形をした空間があるところから、名づけられた。ノートル・ダーム大聖堂の場合は、三つあるファサードすなわち入口のうち、右入口のタンパンにある彫刻が、大聖堂のなかでもっとも古く、1170年ころの作である。タンパンには物語やドラマが刻まれており、ノートル・ダーム大聖堂では、左のタンパンが聖母マリア、中央が最後の審判、そして右が聖母マリアとキリストの情景となっている。
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、187頁~191頁)
「セカンド・ルネサンス、すなわち第二の稽古の時代」(35頁~37頁)
パリは中世いらい、フランスの首都という以上にヨーロッパの首都であった。その歴史的事実が、いま新たに強い力を発揮しつつある。なぜなら現代は、過去掘り起し(ルネサンス)の時代だからである。第一のルネサンスはフランスで16世紀前半、そしてイタリアではそれより早く、14・15世紀であった。その意味では、いまセカンド・ルネサンスのときが到来しつつある、といっていい。
ルネサンスとは再び生まれる、復活、掘り起しの意味である。ファースト・ルネサンス、つまり本来のルネサンスのときは、中世いらいの開墾運動がストップし、穀物の生産量が伸びず、人びとが栄養失調に陥り、病気に対する抵抗力を失って、疫病(ペスト)でバタバタと倒れたときであった。当時は、というより19世紀一杯までは、フランスでも穀食が中心で、肉食ではなかったからである。
農業技術は成熟し、つぎの農業革命は18世紀初めまで、産業革命にいたっては19世紀半ばまで起らないという先行き不透明の時代にあって、人びとは真剣に生きる知恵を過去に求め、人間の生き方研究に熱中した。ギリシア・ローマの古典が掘り起され、学ばれ、それを肥やしとしてその時代に生かすルネサンス運動がさかんとなった所以である。
古典を通しての人間の生き方研究こそ、日本で「人文主義」と訳されている、ヒューマニズム、ユマニスムの内容である。フランスの子どもたちが親しむ古代ギリシアの『イソップ物語』は、直接にではなく、17世紀の詩人ラ・フォンテーヌ(1621~95)の『寓話』を通してである。そこには、人間の生き方が書かれているのだ。古(いにし)えを考えて今日に生かすことが、漢字の「稽古」の本当の意味であるが、フランスの16・17世紀は、まさに稽古の時代であった。
そこで学ぶに値する、クラスでもっとも上等な稽古本、それがクラシック(古典)の本当の意味である。16・17世紀は、フランス人・ヨーロッパ人にとっての古典が生まれた、稽古本の時代であった。因みに、繰り返し学ぶに値する稽古曲が、クラシック曲である。そして先行き不透明のいま、ふたたび稽古の時代が訪れつつある。
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、35頁~37頁)
「十六世紀、パリは美しくなり出す」(126頁~127頁)
このフランス・ルネサンスとともに、16・17世紀から19世紀いっぱいにかけて、それまでの中世パリとは異なった、私たちが美しいと感じる近世・近代パリの顔が形づくられていく。イタリアないし古代ローマの建築・都市プラン・造園術が、そこで積極的に取り入れられる。近代のドイツ人が古代ギリシアに憧れたのに対し(だからこそギリシアでは今でもドイツ語が通じる)、近世・近代のフランス人がつねに帰るべき精神のふるさとは、古代ローマないしはイタリア・ルネサンスであった。
現在のルーヴル宮の造営をはじめたフランス・ルネサンス期の伊達男フランソワ1世は、彼を養育すると同時に長いあいだ彼の相談相手でもあった母親のルイーズ・ド・サヴォアのために、王宮に隣接する西側の土地を買い取った。そこがのちに、国王の息子アンリ2世の妃カトリーヌ・ド・メディシスがイタリア式庭園を作らせた、かの有名なチュイルリー庭園である(1563年。百年後の1664年、宰相コルベールの命によりル・ノートルによって美化)。
なおチュイルリーとは、瓦焼きの作業とか作業場の意味である。この土地は王室の所有になるまで、煉瓦焼きの行われていたところであった。レストランで食後のコーヒーといっしょに出てくる、瓦状をした茶色のクッキーが、チュイル(瓦)である。
このチュイルリー庭園は、イタリアの発想を取り入れフランスにはじめて出来た、散策・遊歩用の庭園である。
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、126頁~127頁)
「ルイ十五世広場からコンコルド広(和解)場へ」(162頁~166頁)
コンコルド広場は最初、「ルイ十五世広場」と呼ばれていた。
ルイ十五世がメッスでかかった病気の全快を祝して、パリ市長ならびに町のお歴々が、国王の騎馬像を建てるため、当時ほとんど水溜り、湿地だったところを、広場に整備したのである。完成は1772年のことであった。騎馬像が建てられた場所には、現在オベリスクが建っている。
当時のルイ十五世広場は、今日の白々とした感じのコンコルド広場とは違って、もっと緑と花で一杯の、優雅なところであった。周りには幅20メートルの濠が廻らされ、石の橋が六つ掛けられていた。広場の八つの隅には、四阿(あずまや)がしつらえられ、そこから下の濠に、階段で行けるようになっていた。その濠に、花と緑で一杯の庭園が拡がっていたのである。
ルイ十五世の騎馬像が除幕されたのは、1773年5月20日のことであったが、数日後すぐに悪口が馬の口のところに掛けられた。
なんとみごとな彫像だろう! なんとみごとな台座だろう!
徳は台座にあり、悪徳が馬に乗っている。
日本にも江戸時代の狂歌には、同じようなセンスと心のゆとりがあった。洋の東西を問わず、前近代には戯れ歌を作る趣味があったようで、1721年デュボワ修道院長が枢機卿(すうきけい、カルディナル、大僧正)となったとき、パリ市民たちは早速その異例の出世をひやかして、街中で歌った。
さて皆さん、お立ち会い
世にも不思議な話があるものさ
キリスト様にちと祈りゃ
たちまち奇蹟がまた起こり
イワシもタイに早変り
※「イワシもタイに」は、意訳。
原文は「サバ(マクロー)もほうぼう(ルージェ)に」となっている。
マクローは修道院長の服、赤い魚のルージェは、枢機卿の帽子や服の色のことである。
イワシもタイでも、同じ意味になる。
1792年8月11日、革命のさなかにルイ十五世像は倒され、融かされてしまった。代りに数カ月後、台座の上に乗ったのは、「自由」像である。手に槍を持ち、赤い帽子をかぶり、ブロンズ色に塗られた石と石膏の像であった。
広場そのものの名もその年、「革命広場」と改められた。ジロンド派のロラン夫人が処刑されるとき、「自由よ、自由よ、お前の名において何と多くの罪が犯されることか」と述べたのは、この「自由」像を眺めての言葉であった。
沢山の血を吸った「革命広場」は1795年、「コンコルド(調和、和解)広場」へと、三たび名前を変えた。もちろん、革命の血なまぐさい思い出を消すためである。そして、今日にいたっている。「自由」像も取り除かれ、やがて1836年10月25日、台座の上には現在のオベリスクが建てられた。紀元前13世紀のラムゼス2世時代のもので、ルクソールの廃墟から運ばれた220トンもある神殿の石柱には、古代エジプトの象形文字が一面に彫られている。エジプト太守メフメット・アリが1825年、国王シャルル10世に贈ったものである。
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、162頁~165頁)
「馬車に気をつけろ!」(166頁~171頁)より
かのジャン・ジャック・ルソーも、馬車にやられている。1776年10月24日のこと、64歳になる一人の老人が、パリのメニルモンタン街で道を横断しようとしていた。とそこへ、一頭の巨大なデンマーク犬に先導されたカロッス(大型四輪馬車)が、「ガール! ガール!(気をつけろ!)」という御者の大声とともに、猛烈な勢いで疾走してきた。老人は犬に突き倒され、その場で仰向けに倒れ、気を失ってしまった。その老人こそ、ルソーであった。大型四輪馬車の主人は後で誰を突き倒したかが分って恐縮し、ルソーのもとに人を遣わし、どのように弁償したらよいかを尋ねた。そのとき、ルソーは一言ポツンと答えたという。
「犬を放してやりなさい」
ただし、メルシエもルソーの事故を書いており、それによれば、「今後は犬をつないでおいて下さい」と云ったという。(『十八世紀パリ生活誌』(原宏訳))
正反対の内容であるが、ルソーの事故は確かだとしても、この答えの部分は、両方ともあるいは作り話なのかも知れないという。
18世紀パリの大思想家、ルソーをめぐる作り話はじつに多い。
「自然に帰れ」という、あまりにもポピュラーな「名言」も、ルソーが云ったり書いたりした証拠はない。彼はテレーズという女中と関係し、正式に結婚しないまま(最後には結婚したが)、5人の子を儲け、つぎつぎと棄児院に捨ててしまった。その名の通り、ジャンジャンと子を捨てたのである。その一方で『エミール』という、じつにすばらしい教育論を書いて、世界の古典となってるのであるから、人間とは矛盾のかたまりだと、つくづく思わざるをえない。
ある人が、ルソーに出会って云った。
「私は先生の教育論に心酔し、仰言る通りに子どもたちを育てました」
憮然たる面持で、ルソーは答えて云った。
「それは、まことにお気の毒なことをいたしました」
これも、作り話に違いない。
ルソーは、交通事故から2年後の1778年、パリ郊外のエルムノンヴィルで没している。
7月2日のことであった。同じ年の3月から9月にかけ、モーツァルトがパリに短期滞在している。66歳の不滅の世界的大思想家と、22歳の不滅の世界的天才音楽家が、たとえ地の果てからでも集う町、それが今も変らぬ、世界都市パリの魅力である。
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、169頁~171頁)
「子ども受難時代」(171頁~173頁)
「グルグル巻きの赤ん坊」(173頁~174頁)
ルソーは子どもを捨てたことがよほど気になっていたのか、次のような数字を書き残している。
パリ 1758年
死者 19202人
受洗者 19148人
結婚 4342組
捨て子(拾われた子) 5082人
(『政治断章』、ルソー全集、プレイヤード叢書、ガリマール、パリ、1964年)
18世紀が子ども受難時代であったことは、ルソー自身の一文によっても明らかにされる。
生まれたばかりの赤ん坊は、首を固定して両脚をまっすぐに伸ばし、両腕を胴体に沿ってピタリと伸ばした状態で、包帯でミイラのごとくグルグル巻きにされる。赤ん坊は、可哀そうに身動きひとつすることができない。
田舎の乳母などのところに預けられた赤ん坊は悲惨で、乳母は授乳の仕事が済むと、包帯グルグル巻きの赤ん坊を、部屋の隅の古釘か何かに引っかけて、どこかへ行ってしまう。赤ん坊は、それこそ赤くなったり青くなったりである。
『エミール』第一編で、ルソーはこのように、赤ん坊の災難をリアルに述べる。グルグル巻きは、中世いらいの慣習である。たとえばルーヴル美術館にある、前にも触れたジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1593~1652)描く「牧人たちの崇敬」(33ページ参照)は、生まれたばかりのキリストがグルグル巻きにされて、ローソクの光のもと人びとに見つめられ、祝福と礼拝を受けているシーンである。栄養不良の関係から手足が曲ってしまう子どもが少なくなく、それを防ごうとして、添え木で若木をしつけるごとく、手足を伸ばしグルグルと巻いてしまったのではないか、と思う。
グルグル巻きは生後、7、8カ月までつづけられ、これによって赤ん坊の成育は、どれほど妨げられたことであろうか。森に捨てられる子どもも多く、18世紀はまさに子ども受難時代であった。子どもを猫可愛がりするか子どもを産まないかの現代も、子どもの側に立ってみれば、18世紀に劣らず子ども受難時代である。
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、171頁~174頁)
さて、その33ページには、ラ・トゥールの絵「牧人たちの崇敬」(ルーヴル美術館)の絵が載せられて、次のように述べている。
フィリップ・アリエスの名著『アンシアン・レジーム下の子どもと家族』(1960年、邦題『<子供>の誕生』杉山光信・杉山恵美子訳、みすず書房、1980年)は全世界の知識人層に読まれたが、そこで描かれたフランス近世の幸せは、子どもを中心に両親が結び合い、そしてその両親一人一人の背後に守護聖者がついているという、「家族宗教の姿」であった。それをそのまま絵に描いたのが、ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1593~1652)の「牧人たちの崇敬」である。当時もまた、農業技術はとうの昔に成熟し、産業革命は未だしの、先行き不透明な、長い踊り場の時代であった。
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、33頁~34頁)
「クロワッサンとは、「三日月パン」のこと」(154頁~156頁)
マリー・アントワネットには、なぜかパンの話がついて廻る。パリのホテルで朝必ず出るクロワッサン、これは彼女が、実家のウィーンからもってきたというのである。(中略)
クロワッサンというフランス語は、「三日月」のことであり、「三日月パン」の意味である。三日月はイスラム教諸国のしるしであり、クロワッサンの頭文字Cを大文字で書けば、「イスラム教国」の意味である。
ときに1683年、ウィーンはイスラム教徒の軍勢に、58日間にわたって包囲された。大宰相カラ・ムスタファ指揮のオスマン・トルコ歩兵軍30万が、まさにトルコ・マーチを演奏しながら、10万のウィーン市民を取り囲んだのであった。
ウィーン市民は恐怖のどん底に陥れられ、数千人の市民が飢えで死んでいった。生きている者はネコ、ロバ、その他、食べられる物は何でも食べて命をつないだのであった。ウィーンの陥落が迫り、いよいよもう駄目となって、市内のパン屋がなけなしの粉をかき集め、やむなくトルコ軍歓迎の意味をこめて焼いたのが、「三日月パン」であった。ところが最後の段階になって、9月12日にドイツ・ポーランド連合軍が駆けつけてウィーンを救い、解放された市民は、今度は勝利を祝って「三日月」パンをムシャムシャ食べてしまった。
ときは変って1770年5月16日、オーストリア女帝マリア・テレジアの末娘マリー・アントワネットは、14歳でウィーンからヴェルサイユへと輿入れした。その日宿命の夫、15歳の王太子ルイ(16世)との盛大な結婚式が行われたのである。このとき「キプフェル」も彼女とともにあり、今度はパリのパン屋が王太子妃を歓迎する意味で、これを作るようになった、といわれる。名前をキプフェルからクロワッサンに変えて、である。
クロワッサンは、よほど「歓迎パン」に縁があるようだ。そしていまもパリのホテルは、暖かくて香ばしくて柔らかな、14歳のマリー・アントワネットを思わせるクロワッサンで、私たちを歓迎してくれる。
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、154頁~156頁)
「コンシエルジュリーの囚われ人たち」(157頁~160頁)
マリー・アントワネットは断首台に上るまでの2カ月半、1793年8月2日から10月16日まで、「ギロチン待合室」といわれたコンシエルジュリーに閉じこめられていた。セーヌ川に浮かぶ中之島、シテ島の西半分にある王宮の一部で、14世紀のものである。
シテ島の右岸(北岸)を、サマリテーヌ百貨店から東へメジスリー河岸を歩けば、そこにコンシエルジュリーが、中世の優美でロマンチックな王宮の姿を、四つの塔とともに眼前一杯に展開してくれる。手前から右端の「ボンベックの塔」、ついでお伽の国の塔のような、丸屋根の「銀の塔」と「セザールの塔」、そして左端の四角い「時計の塔」がそれである。「時計の塔」にはその名の通り、1370年にパリ最初の街頭時計がつけられたが、1793年いらい取り外され、現存しない。
ふつうコンシエルジュといえば、アパートの入口に住む管理人のことである。郵便物はコンシエルジュが一括して配達人から受け取り、各戸に配る。コンシエルジュの生活費は各戸が負担し、そのほかに、年末とか年始に「おひねり」の付け届けをせねばならない。
コンシエルジュリーのコンシエルジュは王宮官房長のことであり、彼の統轄する建物という意味である。1392年、ときの国王シャルル6世が狂気の発作を起し、医者の勧めで王宮を離れ、気晴らしのためにマレー地区の「サン・ポール館」に移るとともに、コンシエルジュリーは牢獄となった。フランス革命のときはさらに大改造が行われ、約2千6百人の犠牲者がここで断頭台までの人生最後のときを過すところとなり、美わしくロマンチックな建物に、もっともいまわしく陰惨な、暗いイメージと思い出がつきまとうこととなる。マリー・アントワネットの独房も、塔とは反対側の一面にあり、当時の模様が復元されている。
ジロンド派の才媛ロラン夫人も、コンシエルジュリーの独房に囚われていた。彼女は美貌と才能に恵まれ、同志議員たちを彼女のサロンに集めて鼓舞するとともに、1792年以降は夫の後ろ楯として、事実上の内務大臣であった。したがって過激派の「山岳派」(モンタニャール)からは、夫以上に敵視され、ついに逮捕されてしまう。断頭台に上った彼女は、つぎの有名な言葉を残したのであった。
自由の名において、何と多くの罪が犯されることでしょう。
わずか39歳の、しかし輝かしくも立派な生涯であった。
マリー・アントワネットが処刑されてから約1カ月後、11月8日のことである。
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、157頁~159頁)
「革命のモットーは「兄弟愛」」(147頁~149頁)
修道院の修道士たちが、出身地、階層その他の違いを超えてみなひとしく「兄弟」であるように、パリのカフェもパリそのものも、やはり巨大な修道院であり、人びとは誰もが平等なパリ市民なのである。
リベルテ(自由)・エガリテ(平等)と並んで、フランス革命のモットーの一つとなっているフレテルニテは、「兄弟愛」のことで「博愛」ではない。「博愛」に当てはまるのは、フィランソロピーという言葉である。普遍的な人類愛にもとづいて、難民救済とか世界の医療水準や教育レベルの向上、文化や人の交流につとめるのが、英語のフィランソロピーである。
フランス語のフラテルニテは、「兄弟」を表わすフレールからきている。英語のブラザー、ドイツ語のブルーダーと同じである。中世では商人や手工業者など、職種ごとに同業者が集い、飲んだり食べたりして義兄弟の盃を交わし合い、同業者組合を作った。この組合を表わすコンフレリーという言葉も、「ともに兄弟になり合う」の意味である。
人間すべてに広く遍くではなく、特定の人と兄弟になり合う「兄弟愛」が、フラテルニテの適訳であるといっていい。(中略)
1789年のフランス革命における「兄弟愛」とは、この革命を阻止しようとするイギリス、そしてまたそれまで農民に対する支配権を事実上掌握していた国際組織のカトリック教会に対して、フランス国民の結束を呼びかけたものである。というか、当時はまだ地方に生きる意識のほうが一般的で、貴族・都市民・農民三身分の、身分差の意識もまた支配的であった。その地方意識、身分意識に対して、みなひとしく自由・平等な同胞、兄弟同士ではないかと、新たに国民意識を生み出すために用いられた標語が、フラテルニテすなわち「兄弟愛」であった。
革命によるフランスの近代化、国民国家・近代市民社会の形成は、1789年の大革命によって完成されたのではない。その後も、七月革命(1830年)、二月革命(1848年)と、フランスの国家と社会は右に左に揺れ動き、フランス第三共和制の発足、パリ・コミューン(1871年)までの1世紀が、フランスの近代化のために費やされた。つまりは19世紀も最後の四分の一世紀になって、フランスの輝かしい近代が本格的に開始される。
それまでの19世紀の大半は、近代に向っての激動期であった。新生児が母体から生まれ出ながら、まだ完全には母体を離れ切ってはいないときであった。
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、147頁~149頁)
「自由の木」(149頁~151頁)
その激動期に、革命が起るたびパリ市民は「自由の木」を市内に植えた。
フランス語でシェーヌ、英語でオーク、ドイツ語でアイヘといわれる木である。
これまでわが国では一般に「カシ」の木と訳してきたが、全くの誤りであり、「ナラ」の木が正しい。カシは常緑樹であるが、ナラは落葉樹で、ヨーロッパを代表する樹木の王様である。
ナラは家屋にも家具にも船にも一般的に使われ、丈夫で長命な木であり、当時、田舎にはどこにでも生えていた。今は、パリの北80キロのコンピエーニュその他、特定の森林に行かないとナラの木は見られない。ナラの森は落葉によって豊かな腐植土を形成し、これを切り拓けば、いい小麦畑になったからである。いまヨーロッパを西から東に貫く豊かな小麦生産地帯は、もともとナラの森が変身したものであるといっていい。
パリといえばマロニエが有名だが、これはトチの木である。イギリスでホース・チェスナット(馬グリ)、ドイツでカスタニエンという。クリのような実は、秋の歩道に沢山落ちるが、クリのイガは見られない。日本ではトチの実を水でさらし、灰汁で煮てあくを抜き、トチ餅を作ったが、ヨーロッパでは洗濯物を白くするのに用いた。ちなみに、マロン(クリ)・グラッセのクリの木は、フランス語でシャテニエという。また、マロニエと同じく街路樹のプラタナスは、中国の柳絮(りゅうじょ)の如く春先に綿毛のような白い花を一面に飛ばし、幻想の世界を醸し出す。
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、149頁~150頁)
「自由の木」(149頁~151頁)
革命に際し、パリ市民が「自由の木」を植えている絵は、カルナヴァレ博物館(セヴィニエ通り23番地)にある。
ヴォージュ広場の近くであり、それこそ散歩がてらに立ち寄ったらいい。パリの歴史に関する資料が集められているが、なかんずく革命に関する人物像や情景描写の絵画・彫刻など豊富であり、勉強になる。
革命と直接関係はないが、当時を生きた「レカミエ夫人像」などは、男ならほれぼれする。
レカミエ夫人(1777~1849)は、リヨン生まれで銀行家の妻となったが、その美貌と愛人の多さで有名である。
肖像画は最初、ナポレオンの戴冠式の大作を描いたことで有名な、宮廷画家のダヴィッドに依頼されたが、彼女の気に入らず、下絵に終ってしまった(ルーヴル美術館)。
1805年改めて注文を受けたのが、この画の作者、フランソワ・ジェラール(1770~1837)である。
彼女28歳の姿は、可愛らしい小さな頭、豊かな胸と腰、なまめかしい素足の爪先(つまさき)が、柔らかな曲線美でまとめ上げられており、ふるいつきたい魅力である。画家35歳の作品で、この絵と向い合っていると、描く方も描かれるほうも、そして時代そのものも若々しく、力強く、生き生きとして、魅力が一杯であったことを肌で感じ取ることが出来る。激動の時代が、五感を鋭敏に研ぎすましたのであろう。
<【挿絵】フランソワ・ジェラール「レカミエ夫人像」カルナヴァレ博物館>
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、150頁~151頁)
「パリを一変させたセーヌ県知事オスマン」(277頁~280頁)
このような「世紀末の輝き」が、やがて20世紀を生み出すことになる産業技術の誕生によるものだとすれば、そのパリの輝きを社会的に準備したのが、セーヌ県知事オスマン(1809~91)であった。彼は第二帝政下にナポレオン3世の支持を受け、1853年から1870年初めまで、17年もセーヌ県知事をつとめるあいだ、パリの徹底的な大改造を行った。
彼は結果として8億フランの負債を残すこととなったが、オペラ座をはじめとする公共建築物の建築、上下水道と橋、広場と道路の整備を、過去の破壊によってつぎつぎと大胆に実現していった。彼の名は、リヴォリ通りの北を東西に走る全長3530メートルのオスマン並木通りに残されている。もちろん彼が1857年に開いたものであり、ミュニック(ミュンヘン)大通りがその犠牲となって消えた。
それまで、街の多くを占めていたのは中世パリの顔であった。道は細く曲りくねって不規則に走り、市民がバリケードを築いて反乱を起すには、恰好の場であった。それがときの皇帝ナポレオン3世の憂鬱であり、オスマンは皇帝の意向を受け、中世の翳(かげ)を色濃く落すパリを、明るく「風通しのよい」近代パリに一変させたのであった。
道を太く直線状の、反乱を未然に防げる見通しのよいものとしたのであり、ここに合理主義的・古典主義的な、幾何学的に均整のとれが、現代パリの原型が姿を現わすこととなった。それはまさに、「都市計画」と呼ぶにふさわしい最初の大規模なものであった。(中略)
凱旋門そのものはナポレオン1世によって、1806年8月15日に着工された。完成はルイ・フィリップの治下、1836年のことである。もともと凱旋門は、かつて戦いに勝利しローマに帰還する皇帝がくぐるべき門であり、したがって市心を背に、市外に向かって建てられている。自らローマ皇帝の後継者たらんとしたナポレオンが、その着工を思い立ったのも無理はない。
エトワールの凱旋門に上ってみれば、市外にはラ・デファンスの巨大なグランド・アルシュ(新凱旋門)がそびえ立ち、反対側の市内には、シャンゼリゼ大通りの向うに、コンコルド広場、チュイルリー公園、カルーゼルの凱旋門、そしてルーヴル美術館が、ともに一直線上に並んでいる。それは、日本とはまったく異質の感覚であり、大きなスケールの見事な都市計画のあり方には、感嘆させられる。
カルーゼルの凱旋門も、1805年のナポレオンの戦勝を祝して、1806年から1808年にかけて造られたものである。しかし凱旋門それ自体は、ナポレオンの専売特許ではない。彼の前にもたとえば国王アンリ2世(在位1547~59)は、かつて東のナシオン広場にあったサン・タントワーヌ城門に、凱旋門を建てた。
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、277頁~280頁)
「「新凱旋門」――次の時代のランドマーク」(42頁~43頁)
「百三十五日間のパリ防衛」(44頁~45頁)
パリ西北郊のラ・デファンスは、「パリのマンハッタン」といわれる超高層のビジネス・センターが出来つつあるが、ここに1989年建設されたグランド・アルシュ(大きな箱舟)、日本語での「新凱旋門」は、そのなかにパリのノートル・ダーム寺院がすっぽりと入る、巨大な正方形である。それはまさに新しいパリへの、あるいは新時代への入口を象徴している。実際はガラスと白大理石の巨大なビルを上方で結んだものであり、それにより、コミュニケーション感覚も同時にイメージされている。世界の人と人とを結び、旧時代と新時代を結び、行政上の在来パリと新しいパリ市圏を結ぶ入口、門である。
ここから本来の凱旋門(エトワール、ナポレオンの命により1806年にはじまり、国王ルイ・フィリップにより1836年完成)、そしてコンコルド広場は、ほぼ一直線上に見える。ただし冬は天気が悪く、視界が利かずに、見通せないことが多い。一辺110メートルの正方形をなすグランド・アルシュは、19世紀の古い小パリと21世紀の新しい大パリを結ぶ、次の時代のランドマークとなろうとしているといえよう。
ここから発する大通りは、セーヌ川を渡るヌイイ橋を通って凱旋門、シャンゼリゼ大通りとつづいている。道幅70メートルのシャンゼリゼも、ノートル・ダーム寺院と同じく、この「門」のなかにすんなりと入ってしまう。
因みに、この設計者はデンマーク人のオットー・フォン・スプレッケルセンで、完成を待たず1987年3月16日、癌で亡くなっている。しかしながらこれもまた、パリが外国人の知恵とエネルギーを貪欲に呑み込みながら、すべてをパリ文化として消化し新たな成長を遂げていく、巨大な胃袋的存在であることを示す一つの事例である。
ラ・デファンス(国防、防衛)という名は、1870~71年の普仏戦争におけるパリ防衛を記念して、パリで生まれ、パリで死んだ彫刻家のバリアス(Barrias ルイ=エルネスト, 1841~1905)が、1883年、「パリの防衛」と題する彫像を、今のラ・デファンスに隣接する、クールブヴォワの円形広場(ロン・ポワン)に建てたところからきている。いまその彫像は、ラ・デファンス大通りのど真ん中、アガム泉水のほとりに建てられている。(中略)
普仏戦争により、パリは1870年9月19日から、プロイセンの二つの軍隊によって135日間も包囲された。パリ市民は35万人が194大隊に分れて銃を取り、パリの防衛に当ったが、火攻め、兵糧攻めに遭って、市民は文字通り塗炭の苦しみの下に置かれざるをえなかった。かてて加えて、マイナス摂氏13度(1870年12月22日)という例外的な寒さに襲われ、飢えと寒さによる死者は、その当時、通常の年末ならパリで週に900人なのに対して、5000人も達した。
このころの具体的な描写は、『ゴンクール日記』や大佛次郎の『パリ燃ゆ』に詳しい。
食肉はまったく底をつき、市民はネズミや猫、犬を食べて飢えをしのいだ。そしてついに動物園に手が伸び、象が食用としてつぎつぎと殺された。1頭目は12月29日のカストール、2頭目は12月30日のポリックス――いずれも、象の名前である――、3頭目は明けて1871年1月2日のことであった。そして1月28日パリはついに、統一が成り立ったばかりのドイツに降伏するのである。
しかしその後も、これを不満とするパリ市民は、時の国防政府に抵抗して革命的自治政権(コミューン)を結成し、3月から5月にかけて戦い、「血の週間」に2万人から3万人の犠牲者を出して崩壊した。これが、史上名高いパリ・コミューンである。このときの死者は、なんと1793年から94年にかけての、フランス革命中の恐怖政治下の死者よりも、数が多かった。
フランス革命は事実上、いわゆる1789年勃発のフランス革命から1871年のパリ・コミューンまで、約1世紀を必要としたのであった。
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、42頁~45頁)
【ラ・デファンスのグランド・アルシュの写真】(筆者撮影 2004年)
「「門」の思想」(49頁~51頁)
ラ・デファンスのグランド・アルシュと同じような「門」、入口、玄関、コミュニケーションの発想は、パリ市内の新建築に、随所に見出すことができる。
たとえば、同じく1989年に完成したバスチーユ広場の新オペラ座、並びに市心のルーヴル宮から同じく東南のベルシー地区に移った新大蔵省は、いずれもコの字を縦にした入口部分を具えている。フランス大蔵省の場合はグランド・アルシュに似て、道を建物の中に取り込んだ形となっている。
因みに、1998年に淡路島と本州の間に明石大橋が架けられるのを記念して、フランスから贈られる日仏友好モニュメントも、80メートルのガラスの柱の上に、300メートル余の青銅の板を渡し、柱の礎石には1億年前のフランスの花崗岩を使うというものである。ここでも門、入口、玄関、そして橋・コミュニケーションという、現代フランス人の心を捉えるイメージが、鮮明に表現されている。
その、コミュニケーション(フランス語ではコミュニカシオン)とは何なのだろうか。
頭文字にあるコム comという字は、ラテン語のクム cumからきており、英語で云えばウィズ、つまり「ともに」の意味である。一人で生きるのは寂しく不安だから、あなたと一緒に生きましょうという意味での「ウィズ・ユー」、すなわち「つなぎ」とか「結び合い」こそ、コミュニケーションの本義である。
コミュニケーションを求める心とは、現代人に共通する個々人の孤独感・不安感である。ひとり生きうる自信があれば、コミュニケーション感覚は不必要である。現代フランスの歴史学界でしきりと使われる言葉に、コンヴィヴィアリテ(convivialité)がある。新語であるからふつう辞書には見当たらないが、コンヴィーヴ(convive, 会食者)から出た言葉である。ともに食事し合う者同士のように、違いは違いとして認め合いながら、親しみ相和して仲良くやっていこうとする心が、コンヴィヴィアリテである。
嫁・姑のケンカもそうであるが、環境・文化・風土を異にする者同士が出会い、触れ合えば、必ずといっていいほど説明のつかぬ苛立ち、摩擦が発生する。違いを違いとして認め合うということは、理屈ではなく情感に属する問題だけに、現実にはなかなか難しい。その心を互いに開くために不可欠なのは、互いに食べ合ったり飲み合ったりして、楽しい時間と空間を互いに重ね合わせる努力である。さあ友だちになろうと、目を三角にして握手しても効き目はないが、一緒に食事し合えば、心は自ら開けてくる。
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、49頁~51頁)
(2023年8月30日投稿)
【はじめに】
今回のブログでは、高校世界史におけるフランスの歴史について、補足しておきたい。
次の著作により、補足説明しておく。
〇浜林正夫『世界史再入門』講談社学術文庫、2008年[2012年版]
〇木村尚三郎『西欧文明の原像』講談社学術文庫、1988年[1996年版]
〇木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年
パリの中心、シテ島に建つノートル・ダム大聖堂(Cathédrale Notre-Dame de Paris)の尖塔が焼失するニュース映像が、2019年4月15日に報道されているのを見て、“フランスの魂”が崩れ落ちるかのように感じた。
パリのノートル・ダム大聖堂がいかにフランス人の精神的支柱であったことか。
ノートル・ダムとは、フランス語で「我らが貴婦人」つまり聖母マリアを指す。
かのヴィクトル・ユゴーは、『ノートル=ダム・ド・パリ』(1831年)で、架空の人物カジモドという鐘つき男を主人公に、15世紀のノートル・ダム大聖堂を舞台にして、愛情と嫉妬が渦巻く衝撃的な小説を書いた。そして、これを原作に、『ノートルダムの鐘』としてアレンジされ、映画やミュージカルで有名な作品となった。
また、来年2024年には、パリ・オリンピックが開催され、再びパリが注目されている。
いま一度、パリの歴史をフランスの歴史の中で振り返ってみることは有意義かと思う。
その際に、〇木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』(文芸春秋、1998年)は格好の著作であろう。受験とは直接的には関係ないかもしれないが、興味のある人は読んでみてはどうだろうか。
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
・フランス革命以降の歴史の捉え方~浜林正夫『世界史再入門』より
・ジャンヌ・ダルク~木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』より
・フランス史の一つの見方~木村尚三郎氏のエッセイ「パリは三度光る」より
・フランス革命の補足~木村尚三郎『西欧文明の原像』講談社学術文庫、1988年[1996年版]
<木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』>からのエッセイ
〇ルテティア
〇ノートル・ダーム大聖堂
〇フランス・ルネサンス
〇フランス・ルネサンス期の伊達男フランソワ1世
〇コンコルド広場
〇ルソーとパリ
〇ルソーと子ども受難時代
〇マリー・アントワネットとパン
〇コンシエルジュリーとマリー・アントワネットとロラン夫人
〇フランス革命の標語「フラテルニテ」
〇「自由の木」
〇レカミエ夫人とダヴィッドとジェラール
〇セーヌ県知事オスマン
〇ラ・デファンスに関連して
〇「門」の思想
※執筆項目のタイトルは、もとの著作の見出しとは異なる。内容にそったタイトルを筆者がつけたものである。
フランス革命以降の歴史の捉え方~浜林正夫『世界史再入門』より
浜林正夫『世界史再入門』(講談社学術文庫、2008年[2012年版])から、フランス史について、補足しておく。
第5章近代世界の成立 【フランス革命】
【フランス革命】
フランスはカトリックの国であるにもかかわらず、オーストリアのハプスブルク家に対抗するため、三十年戦争のときにはプロテスタントの側を支援し、アルザス地方に領土をひろげ、またスペインのハプスブルク家のカルロス2世が1700年に死去したあと、ルイ14世の孫をスペインの王位につけて勢力を拡大した。(中略)
ついにルイ16世は貴族の免税特権に手をつけようとしたが、貴族たちはこれに抵抗し、1615年以来ひらかれていなかった三部会の召集を要求した。1789年5月、174年ぶりに三部会がひらかれたが、第三身分(平民)の代表は身分制にもとづく三部会を国民議会に変え、憲法を制定するよう要求し、7月に憲法制定議会が成立した。しかし国王は武力によってこの議会を解散させようとくわだてていたので、7月14日、パリの民衆はバスチーユの牢獄をおそって武器を奪い、農民もまた各地で蜂起したので、議会は8月4日封建的特権の廃止を決議し、8月26日「人間および市民の権利の宣言」を採択した。
国王はこれらの決議や宣言をみとめようとしなかったので、パリの民衆はふたたび蜂起し、10月5日から6日にかけて女性が中心となってヴェルサイユ宮殿まで行進し、国王をパリへつれもどし、1791年フランス最初の憲法を制定した。この憲法は立憲君主制をさだめたものであったが、選挙権は一定額以上の国税を納めるものに限られていた。これにたいして国王は王妃マリー・アントワネットの実家であるオーストリアの援助をもとめようとして国外逃亡をはかったがとらえられ、こういう国王の裏切りに怒った革命派のなかでは穏健派のフイヤン派に代わって急進派のジロンド派が主導権を握るようになり、92年、オーストリア・プロイセン連合軍との戦争がはじまった。
一方、国内では王権は停止され、1792年9月、憲法制定会議のあとをついだ立法議会も解散されて、普通選挙による国民公会が成立し、君主制を廃止して共和制の樹立を宣言し、翌年1月、国王は処刑された。このころ、イギリス軍も革命干渉戦争に加わり、国内では食料危機などのため民衆蜂起がつづいて、ジロンド派は権力を維持することができず、これに代わって民衆蜂起に助けられてジャコバン派が権力を握った。ジャコバン派は1793年憲法を制定し、封建的特権の無償廃止、物価統制、買い占め禁止などの政策を強行し、これに反対する人びとをつぎつぎと処刑する独裁的な恐怖政治をおこなったため、ますます支持を失い、94年7月、その中心人物ロベスピエールらはとらえられて処刑された。
ここでフランス革命の進展はとまり、反動化がはじまる。革命をさらにすすめ、私有財産制を廃止しようとするバブーフの陰謀はおさえられ、もともと革命派の軍人であったナポレオンがクーデタによって1799年統領の位につき、つづいて1804年皇帝となって共和制は終わりを告げた。ナポレオンはオランダ、スペイン、イタリア、プロイセン、オーストリアを征服し、ヨーロッパ各国へ革命を「輸出」したが、ロシア遠征に失敗し、1813年、プロイセン・オーストリア・ロシア連合軍に敗れ、エルバ島へ流され、いったんこれを脱出したものの、1815年、ワーテルローの戦いでウェリントンのひきいるイギリス軍にうちまかされて、セント・ヘレナ島へ流され、そこで世を去った。
(浜林正夫『世界史再入門』講談社学術文庫、2008年[2012年版]、156頁~159頁)
〇第5章「近代世界の成立」12「世界史における近代」
12「世界史における近代」(172頁~175頁)
・一国の歴史でも世界史全体についても、これを古代、中世、近代というように、時代区分をするのがふつうである。
しかし、この時代区分は西ヨーロッパ諸国についてはわかりやすいが、それ以外の地域にこれをあてはめようとすると、難しい問題がでてくる。
たとえば、日本の場合、中世というのはいつからいつまでであろうか。
徳川時代というのは中世だろうか、近代だろうか。
中国やインドの場合には、どう区分すれがよいのか。
・じつは、古代、中世、近代という三区分がいわれるようになったのは、ルネサンス期以降のヨーロッパ人の発想によるものであった。
ルネサンス期のヨーロッパ人は当時の社会やその思想を批判するために、キリスト教以前の社会を理想化し、その理念の再生をはかったのである。
そのために古代と現代とのあいだの時期を中間の時代(ミドル・エージ)とよび、これを暗黒時代とみたのであった。
したがって、古代、中世、近代という時代区分は西ヨーロッパ人の歴史観にもとづくものであると著者は主張している。
それ以外の地域にこの三区分を適用しようとすると、どうしても無理が生ずるというのは、当然のことであるという。
・ただ、ルネサンスの時代にこういう歴史観が生まれたのは、偶然ではなく、それなりの根拠があった。
それは封建社会が危機におちいり、新しい人間と社会のあり方がもとめられていたということであった。彼らの歴史観の土台には、それなりの社会的な変化があった。
ルネサンスからなお数百年かかって、イギリスとフランスで革命がおこり、ここでようやく新しい社会が成立する。それは、市民社会とよばれる社会であった。
・市民社会の市民というのは、もともと都市の住民という意味であるが、市民社会というのは都市だけをさすのではなく、教会の支配にたいして世俗的な社会という意味である。
領主・騎士の軍事支配にたいしては文民という意味であって、市民社会の政治的側面は民主主義であった。
民主主義を思想的に準備したのは、17、8世紀のイギリスやフランスにあらわれた自然法思想であった。
イギリスではトマス・ホッブズが『リヴァイアサン』(1651年)で生存権を自然権とし、国家は生存権を保障するための契約によってつくられるという社会契約説をとなえた。
ジョン・ロックは『統治二論』(1690年)で生命・自由・財産を自然権として人民主権論を主張した。
フランスでは、モンテスキューが『法の精神』(1748年)で三権分立をとなえ、ルソーが『社会契約論』(1762年)で人民主権論を徹底した。
またディドロらは全28巻の『百科全書』を編集し、絶対王政をはげしく攻撃した。
〇こういう思想を背景として、基本的人権と国民主権という民主主義の原理を確立したのが、アメリカの独立宣言(1776年)とフランス革命の人権宣言(1789年)であった。
(浜林正夫『世界史再入門』講談社学術文庫、2008年[2012年版]、172頁~175頁)
〇第7章「現代の世界」13「世界史をふりかえって」
13「世界史をふりかえって」(269頁~276頁)
世界史をふりかえって、何が見えてくるのか。
この点について、著者は次のように考えている。
世界史には、さまざまな社会、国の興亡があった。歴史のドラマをつくりだした英雄たちの活躍に目をひかれがちだが、生活を支えてきたのは黙々と働きつづけていた民衆であった。
戦争のときでも革命の最中でも、誰かが労働と生産をつづけていた。
そうした労働と生産のあり方に関心をむけることが、もっとも基本である。
労働と生産をつづけるにあたって、人間はひとりで働くのではなく、ほかの人びとと協力して働く。そこに人と人との関係ができあがる。これが社会である。
⇒人びとが生産をつづけるにあたって、どういう社会をつくったのか。
そして生産の発展にともなって社会はどのように変化してきたのか。
これが世界史の主要なテーマであると、著者は考えている。
・労働と生産をすすめるにあたって、人びとはまず血縁的なつながりによる共同体を構成する。
この共同体は血縁からしだいに地縁的な関係にうつる。そして生産力のいっそうの発展によって、共同体的な関係がくずれる。
個人(あるいは小家族)を基礎単位とする連合体的関係へと変化していく。
生産力の発展がこのような社会関係の変化をつくりだす。逆に社会関係のあり方が生産力の発展あるいは停滞を生みだす。
※世界史の基調にあるのは、このような社会のあり方とその変化であって、この基調のうえに多様な文化が成立する。
・共同体の内部からは私有制のいっそうの展開にともなって、たえず豪族層があらわれてくる。
古代国家は、「公地公民」制により、あるいは官僚制によって、こういう豪族層をおさえ(あるいは、とりこみ)、共同体国家を維持しようとする。
それに成功したところでは、私有制の発展もおさえられ、生産力の発展も停滞する。
※古代国家や古代帝国が成立しなかったところでは、豪族層は封建領主に成長する。
そのなかの最有力者が国王となって、封建国家が形成される。
これらの地域では、一般的にいって奴隷制段階は経由されず、氏族共同体の解体から豪族の領主化にともなって、農奴が生まれる。さらに農奴の自営農民化によって、領主制そのものも危機におちいる。
この危機は絶対王政の成立によって、いったん克服される。
だが、やがて市民革命によって、絶対王政は打倒される。
資本主義社会が誕生し、私有制が完成されるとともに、生産力の未曾有の発展をもたらす。
近代以降、西ヨーロッパ諸国が世界を支配することができたのは、このような生産力の発展のためであったと、著者は主張している。
※市民革命は、またフランス革命の人権宣言に典型的にみられるように、生存、自由、平等というような新しい価値理念を表明した。
これらの理念は、奴隷の蜂起や農民一揆や、あるいは哲学者や神学者などによって、さまざまな形で、地域や時代に表明される。
だが、それが体系的にまとめられ、かつ社会変革のイデオロギーとして力を発揮したのは、西ヨーロッパ諸国(とくにイギリスとフランス)の市民革命においてであった。
・近代西ヨーロッパが、この理念を十分に実現することができなかったのは、双生児として生まれた民主主義と資本主義との表裏一体の関係が間もなくくずれはじめたためである。
封建制が倒され、資本主義という新しい社会ができあがると、賃金労働者の搾取のうえになりたっている資本主義的な生産力の発展にとっては、労働者の生存権や自由、平等の主張は、かえって邪魔物になってくるからである。
こうして生存、自由、平等という価値理念を真に実現していくためには、資本主義社会をのりこえなければならないと考えるところから、社会主義の主張が生まれ、生産力もまた資本主義的な私有制の枠から解放される方が、いっそう発展すると主張された。
【著者の人類史に対する考え方】
・人類史の長い道のりは、一面では生産力の発展の過程であるとともに、もう一面では、生存と自由と平等をもとめる努力のつみかさねであったと、まとめている。
このことを象徴的にしめしているのは、君主制の衰退ということである。
かつては、アメリカやスイスのように、建国当初から共和制であった国を除いて、世界のほとんどすべての国が世襲制の君主によって支配されていた。
人間は平等であるというよりは、人間はほんらい不平等であり、支配に適した人と服従に適した人とがいるというのが、むしろ常識であった。
しかし、まず君主の権限をおさえることからはじまり、やがて君主制そのものを否定する動きがひろがる。現在、君主制の国は、世界中の国の2割弱という圧倒的少数派となった。
長いスパンでみれば、生存と自由と平等をもとめる人類の歩みは、おしととめることのできない前進をつづけている。これらの理念を普遍的とよびうる根拠もここにある。
・さらに、人類はいま地球規模での環境破壊や資源浪費などという問題に直面している。
しかし環境破壊の問題を人間と自然とのかかわり一般の問題に解消してしまうのは誤りであるという。
それでは問題解決の展望はみえてこない。
問題はむしろ、資本主義のもとでの大資本の利潤追求と、これまでの社会主義の国ぐにの無秩序な生産第一主義にあったのである。環境保護のために生産力の発展そのものをおさえようとするのは、正しくないのみでなく、不可能であると、著者はいう。
生産力の発展はほんらい人類にとって望ましいものであり、生産手段の私有制のもとでは、たしかにマルクスがいったように、生産力は「人びとにたいしてよそよそしい姿」をとるのだけれども、生産力をおさえるのではなく、生産力の発展をどのようにして人類共通の利益に合致させることができるのか、ということこそが、今日の課題であるとする。
※世界史はこのような歩みをへて、いまこのような問題状況にあるという。
これをどう打開していくのかが、いま問われている。
(浜林正夫『世界史再入門』講談社学術文庫、2008年[2012年版]、269頁~276頁)
ジャンヌ・ダルク~木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』より
なお、ヨーロッパのフランス史について、木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』(文芸春秋、1998年)により、補足説明しておく。
フランス史の碩学である木村尚三郎先生のエッセイ集である。ジャンヌ・ダルクとナポレオンとの関連を指摘し、フランス史の一つの見方を提示しているので、紹介しておこう。
〇「サン・トノレを攻撃したジャンヌ・ダルク」(236頁~241頁)
いま高級服飾店が立ち並ぶフォーブール・サン・トノレ通りも、その始点であるロワイヤル通り(観光客の誰もが通る、マドレーヌ寺院とコンコルド広場を結ぶ道である)に、堅固なサン・トノレ第3城門があったからである(1733年取り壊し)。城門の内側がパリ市内のサン・トノレ通り、城外がフォーブール・サン・トノレであった。
サン・トノレ通りは、パリ中央市場の創設に従って出来た、パリを東西に結ぶ重要な道であり、市場に近いためにさまざまな業種の商人が店を連ねていた。(中略)
パリ経済の心臓部とあって、サン・トノレ通りは厳重に三つの城門で固められていた。第1門は145番地、オラトワール通りと交差するところ、第2門は161番地のロアン通りとの交差点、そして第3門はロワイヤル通りとぶつかるところであった。
第1門はフィリップ・オーギュストの城壁門として1190年に作られ、1545年から48年に取り壊されている。この第1門は、サン・タントワーヌ門、サン・ドニ門、サン・ジャック門と並んで、パリ四大門の一つであった。
サン・トノレ第2門は、1380年に国王シャルル5世の城壁門として作られたものである。ときは百年戦争の時代であり、1429年9月8日、ジャンヌ・ダルクもこの第2門を攻撃している。「イギリス軍に占領されているパリを奪い返す」ためであった。1866年の検証によれば、ジャンヌ側の大砲による、直径8センチと17センチの、二つの石の弾丸跡が、城門に残っていたという。
城門の周りには 5.5メートルの深さがある空濠(からぼり)と、より城壁沿いのもっと深い水濠とがあった。その水濠の深さを槍で計ろうとしたとき、ジャンヌは城壁上から射かけられた矢に腿をやられ、ジャンヌの軍勢は退却している。ジャンヌ刑死(1431年)の後1433年10月8日、ジャンヌが味方した、国王シャルル7世をいただくアルマニャック勢は再度このサン・トノレ第2門を攻撃しているが、同じく失敗に終っている。
ジャンヌ・ダルクはサン・トノレ第2門攻撃の前夜から当日の朝にかけ、前線基地であったパリ北方の「ラ・シャペル村」で、サン・ドニ・ド・ラ・シャペル教会(現在パリ18区、ラ・シャペル通り16番地)に、夜通し祈りを捧げている。負傷して同地に帰ってからも、彼女は同教会に祈りを捧げていた。
そのときの模様を、恐らくパリの聖職者が書いた同時代の貴重な史料、『パリ一市民の日記』は、非難の思いをこめてつぎのように記している。
(ジャンヌは)何べんも、完全に武装したまま、教会(サン・ドニ・ド・ラ・シャペル)の祭壇から聖なる秘蹟を受けた。男装をし、髪を丸く刈り、穴のあいた頭巾、胴着、沢山の金具つきの紐で結わえつけられた真紅の股引きといった恰好で、である。この物笑いの服装について、何人もの立派な貴紳や貴婦人が彼女を非難した。そして彼女に対し、このような恰好の女性が秘蹟を受けるのは、主を尊ばぬことになると告げた……。
ジャンヌに対し、パリ市民は不快感、嫌悪感、敵意といったものを抱いていた。彼女が15世紀初め突如として歴史に登場したとき、パリないし北フランスは、イギリスと同盟関係にあった。したがってジャンヌを悪魔女、乱暴女として恐れおののいた。彼女が北のコンピエーニュで捕まって宗教裁判にかけられたとき、パリ大学神学部も彼女を激しく糾弾し、彼女を刑死にいたらしめている。当時のパリは終始、アンティ・ジャンヌ・ダルクであった。
にもかかわらず今日、ピラミッド広場をはじめとして、パリ市内合計4カ所にジャンヌ・ダルク像が立っているのは、なぜであろうか。それは400年近くも経って、ナポレオンが現われたからである。
彼は1804年、フランス史上はじめて、「皇帝」という位につこうとするとき、前年に「モニトゥール」紙に根回しをした。まったくといっていいほど無名だったジャンヌ・ダルクを歴史から拾い出し、栄光の座につけ、自分をジャンヌになぞらえながら、ともに新興ナショナリズムのヒーロー、ヒロインとして、祀(まつ)り上げたのであった。ピラミッド広場のジャンヌ像も、1874年フレミエの作である。
18世紀一杯までは、彼女に救われたオルレアンとか彼女の生地ドンレミ村など、ほんの一部を除いては、フランス人の誰もが、ジャンヌ・ダルクの名を知らなかった。フランス各地の広場や教会に沢山見られる「愛国の乙女」ジャンヌ像は、原則として、19世紀のものである。
19世紀近代のナショナリズムが作り出した「神話」のジャンヌ像とは違って、ジャンヌ個人はきわめて信心深く、頭もいいが、文字はAもBも知らなかったのが、実像であった。彼女は
、問題の1429年9月8日、午前8時ごろ「ラ・シャペル村」を出発し、「モンソー村」を通って、サン・トノレ門を攻撃している。(下略)
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、236頁~240頁)
フランス史の一つの見方~木村尚三郎氏のエッセイ「パリは三度光る」より
木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』では、フランス史の一つの見方を提示している。
すなわち、「4 十九世紀の輝き――近代のパリ」の「パリは三度光る」において、木村尚三郎氏は、フランスの歴史について、次のようにまとめている。
(前略)
ところがパリは、これまでに二度光っている。そして1989年のフランス革命200年祭をきっかけに、三度目の光を放ち出している。一度目は、シテ島のサント・シャペルに代表される12・13世紀の輝き、二度目はこれから述べる、19世紀後半・20世紀初頭の輝きである。エッフェル塔がこの時代を象徴している。あるいはつぎのように、パリはこれまで4代の先祖によって担われ、いま5代目が光りつつある、といったほうが正しいのかも知れない。
1代目は、古代ケルト人がシテ島に住みついた前4、3世紀から、古代ローマ人、フランク王国が支配した10世紀までの原初時代である。それは今日のパリに生きているというより、痕跡として意識の奥深くに横たわっているといったほうがいい。
2代目は男として光った、10世紀末から14世紀初にかけての、カペー王朝の時代である。農業上の技術革新にもとづく、豊かな「成功した時代」であり、現代パリの、原風景が形づくられたときであった(前章)。
3代目は中世末から19世紀前半にいたる、長い「成功しない時代」である(第2章)。
ジャンヌ・ダルクの出現した百年戦争のころ(14、15世紀)から、16世紀のフランス・ルネサンス期、ルイ14世に代表される17・18世紀の絶対王政とサロン文化の時代、そしてフランス革命期は、みなこのなかに入る。技術が成熟してよりよい生き方を求め、人びとが、飲み、食べ、踊り、祭りし、旅し、文化に熱中し、そして大革命という、民衆の血ぬられた祭りまでも敢えてやったときである。コミュニケーション・交通・会合が発達し、さかんとなった、いわば女性的感覚によって、美しく装われた時代であった。
第4代は、19世紀後半の産業革命とともに始まり、20世紀初頭の「ベル・エポック」(良き時代)に、文字通り最高の輝きを見せる。第2代とともに、「男が光ったとき」であるが、光り方が違う。
第2代、つまり中世パリの光は、現代人に多少なりともの違和感があり、考え、勉強し、少し身構えながら味わう光である。これに対し第4代の近代パリの光は、理屈抜きで親近感を覚え、誰にも予備知識なしに受け入れうる光である。万人にすぐ分り、日常感覚にとりこみうる光、すなわち現代パリの直接の出発点が、第4代の19世紀パリである。
エッフェル塔が、それを象徴している。最近はライトアップされ、文字通り夜目にも美しく光り輝くようになった。いまから1世紀前、フランス革命100年を記念して、1889年5月6日パリに開催された、万国博覧会のために建設されたものである。設計者は、当時57歳のアレクサンドル・ギュスターヴ・エッフェルであった。(下略)
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、249頁~251頁)
フランス革命の補足~木村尚三郎『西欧文明の原像』講談社学術文庫、1988年[1996年版]
ナポレオンとジャンヌ・ダルク
「第六章 近代の神話」の「ナポレオンによる国民的英雄化」より
〇ジャンヌ・ダルクに関するおびただしい数の研究書・文献が出現し、同時に愛国の乙女、国民的英雄、フランスの守護神としてのイメージが形づくられ、定着したのは、19世紀になってからのことである。
これにはじめて火をつけたのは、ほかならぬナポレオンであった。
彼は、オルレアン市民が1792年に破壊されたジャンヌ・ダルク像を再建しようとしていることを知って、これに賛意をあらわし、同時にジャンヌ・ダルク祭の復活を祝して、1803年『モニトゥール』紙(1789年11月24日創刊)につぎの一文を寄せた。
フランスの国家的独立を危うくされるとき、偉大なる英雄が救いをもたらすのは、けっして奇蹟ではない。かの著名なジャンヌ・ダルクはこのことを証明した。一致団結するかぎり、フランス国民はかつて敗れたことはなかった。しかし隣国のものどもは、われらが特性である素直さや誠実さにつけこみ、われわれの間につねに不和の種をまきちらす。そこから英雄ジャンヌが生きた時代の禍いや、歴史にのこるすべての災難が生まれたのである。
すなわち、ナポレオンは、ジャンヌ・ダルクを介してみずからがフランスの英雄であることの正統化をおこない、翌年における皇帝登位のための一布石としたのであった。
そして、この一文こそは、ジャンヌについてフランス国家の側から公にされた最初の讃辞であった。
こんにちのジャンヌ・ダルク像は、19世紀フランスに復活したもの、否もっと正確には、当時の国民主義的風潮、英雄崇拝の時流に乗って、新たに創造されたものであった。19世紀は、市民的国民国家が頂点をきわめた時代であった。
ジャンヌが生きた14、15世紀の時代は、このフランス国民国家が形成への第一歩、したがって、また新たな対内的、対外的な緊張と対立の第一歩を大きく踏み出したときであった。近代国民国家の体現者ナポレオンによって、ドンレミ村の一少女が新たな生命を賦与されたのは、彼女の歴史的宿命だったといえるかもしれない。
(木村尚三郎『西欧文明の原像』講談社学術文庫、1988年[1996年版]、355頁~357頁)
フランス革命について
「第二章 ヨーロッパの原像」の「農民の防衛的戦闘性」において、木村尚三郎氏は次のように述べている。
革命のはじまる前年、フランスはたいへんな凶作であった。そのため翌年の春からは深刻な穀物不足、穀物価格の高騰、そして飢餓がおとずれ、全国の農村は、強盗団が穀物を奪いにくるのではないかとの思いから「大恐怖」とよばれるパニック状態におちいった。こうしてすべての農村がいっせいに武装をはじめ、穀物をとられることの恐怖にかられて領主への年貢支払いを拒否したばかりでなく、領主館まで襲って年貢のもとである証拠文書を焼きすてたのである。凶作が全国の農民にひとしく自衛、土地防衛の行動を起こさせ、結果として領主権を攻撃せしめたことこそ、フランス革命を準備し、そして成功させた最大の原因であったといえよう。
この点でE・H・カーが引用している、19世紀イギリスの歴史家カーライルの『フランス革命』におけるつぎのことばは、一見古めかしいが見事にことの本質をついている。
「2500万人の人々を重たく締めつけていた飢え、寒さ、当然の苦しみ。これこそが――哲学好きの弁護士や豊かな商店主や田舎貴族などの傷つけられた虚栄心とかチグハグな哲学とかではなく――フランス革命の原動力であった。どこの国のどんな革命でも同じことであろう」
(E・H・カー、清水幾太郎訳『歴史とは何か』岩波新書)。
(木村尚三郎『西欧文明の原像』講談社学術文庫、1988年[1996年版]、186頁)
<木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』>からのエッセイ
ルテティア
「古代ローマいらいの道、サン・ジャック通り」(225頁~229頁)より
古代ローマ人が紀元前1世紀半ばにやってくるまで、パリにいた先住民族は、前3、4世紀ごろからシテ島に住んだケルト族の一派、パリシイ(Parisii)とラテン語で表記された人たちである。ここから、パリという都市名がのちに生じる。
フランスの都市名には、このようにケルトの部族名に起源を持つものが少なくない。たとえば、大聖堂のステンドグラスで有名なシャルトル(パリ西南88キロ。パリを訪れたら、ヴェルサイユとともにぜひ同市をも訪ねたい)は、カルヌテス族(Carnutes)、リヨンはルグドネンシス族(Lugdnensis)、リモージュはレモヴィケス族(Lemovices)という名からそれぞれ発している。
ケルト人自身はパリをルテティアと呼んでいた。前52年ローマ軍がシテ島からケルト人を追い払ったあとも、ローマ人によるガリア(今日のフランス・ドイツ)支配の時代(ガロ・ローマ時代)には、パリは同じくルテティアと呼ばれていた。いま、ルテティアとかリュテースという名の宿屋とか酒場がフランスにあったとすれば、みな申し合わせたように場末の、うらぶれた存在である。その点、サン・ジャック通りの今日と、奇妙に意味合いが符合している。(中略)
ルテティアとはケルト語で、「水の中の住い」という意味だという。つまりは「中之島」である。確かにシテ島は、セーヌ川に浮かぶ船の形をしている。後ろにサン・ルイ島を従えて、西へ、川上へと、舳先を向けている。先述の「たゆたえども沈まず」というパリの標語と、帆かけ舟のパリの標識は、現実の情景にピタリ一致している。
ケルト人の住みついたシテ島が、パリの原点、心臓部だとすれば、古代ローマ人の住んだ川南のサント・ジュヌヴィエーヴ山一帯は、カルチエ・ラタンとしてパリの頭脳・知性を形づくる。ローマ人はローマでも、カピトリヌス(カンピドリオ)、パラティヌス(パラティノ)をはじめ「七つの丘」にまず定住した。丘陵地帯が好きだったのである。
いまその遺跡を、サン・ミシェルとサン・ジェルマン二本の並木大通りが交差するあたりにある、共同浴場跡(紀元200年ころ)に見ることができる。セーヌ川沿いにあるサン・ミシェル駅から並木通りの坂を上っていけば、いやでも左側に目に入る。これに隣接するクリュニー美術館は、中世美術の宝庫であり、ぜひ訪ねたい。クリュニー修道院長館として建てられたものであり、先述のサンス館、マレー地区のジャック・クール館と並んで、15世紀の品良く美しい建物である。
クリュニー美術館には、第11室にある評判の「貴婦人と一角獣」のタピスリーなどのほかに、第10室と第11室のあいだの「ローマの大部屋」に注目したい。そこにはユピテル神に捧げられた、石柱の一部がある。
それはなんと、ノートル・ダーム大聖堂内陣下から、1711年に発掘されたものである。時代は第2代ローマ皇帝の、ティベリウス帝(在位14~37)のときで、奉献したのはやはりセーヌ川の舟乗りたちであった。そこから私たちは、セーヌ川がすでにローマ(ガロ・ローマ)時代から交通・運輸の動脈であり、舟乗りたちが大きな経済力を持っていたこと、そしてキリスト教文化が文字通りローマ文化の上に成り立っていることを知ることができる。パリの国際性・普遍性も、もともとはここにローマ文化があったからである。
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、225頁~229頁)
ノートル・ダーム大聖堂
「3 パリの原風景――中世のパリ」の「仰ぎ見るノートル・ダーム」(187頁~191頁)
パリのノートル・ダーム大聖堂は、名実ともにパリの中心である。
パリをはじめて訪れた人は、まずここに駆けつけ、その端正な姿を飽かず眺め、同時に、セーヌ川を往き来する観光船(バトー・ムーシュ)との取り合わせで、何枚かの写真を撮る。これじゃ絵葉書と同じだなと内心思いながら、しかしカメラを向けさせないではおかない魅力が、ノートル・ダーム大聖堂にはある。
大聖堂は、セーヌに浮かぶ中之島のシテ島に、スックと立ち上る。そしてパリが政治・行政上、あるいは文化的・経済的な中心であるばかりではなく、精神的にもフランスの中心であることを、堂々と示している。フランスもパリも、歴史上激情のほとばしりを何度も経験したが、ノートル・ダーム大聖堂はつねに穏やかで、つねにバランスが取れ、つねに美しい。
大聖堂前の広場、「パルヴィ・ノートル・ダーム」は、今は長さ135メートル、幅100メートルの広さがあるが、中世では今の6分の1しかなかった。それが1747年には今の4分の1にまで拡げられ、さらに1865年、オスマン・セーヌ県知事の都市計画によって、現在の形に拡大された。
ノートル・ダーム大聖堂は1163年から1345年まで、約2百年かけて建立されている。ただし、大聖堂すなわちカテドラルは司教座の置かれている、つまり司教のいる聖堂であるが、1622年まで司教座はサンス(パリの東南118キロ)にあり、パリではない。大聖堂に限らず一般にヨーロッパの教会堂は、大半が中世の最盛期、12、13世紀に建てられたか建てられはじめたかしたものである。しかしもともと教会堂の前に、広場らしい広場は作られなかったのがふつうである。広場がなければ、その全景をカメラに収めることができない。しかしそれは、現代人の歪んだ発想である。
教会堂の周りには、ノートル・ダーム大聖堂もそうであるが、もともと家が建てこんでいた。教会堂は、遠くから離れて客観的に眺めるものではない。すぐそばから、仰ぎ見るものである。少くともこれを建てた中世人は、そうやって見ていた。広場の必要などなかったのである。
カテドラル(大聖堂)の真下から真上を仰ぎ見ると、何が見えるか。
もしそれが晴れた夕方なら、入口上部空間のタンパンで演じられる、夕日に照らし出された石の彫像によるドラマが見えるはずだ。キリスト教は光を求める宗教であり、入口から中央通路(身廊)を真直ぐ奥に行ったところにある祭壇(内陣)は、太陽の出る東を向いている――ノートル・ダーム大聖堂の場合は、少し南に傾いてはいるが――。したがって入口(ファサード)は、当然西向きということになり、夕方にならないと陽光が回ってこない。これは、ヨーロッパのどこの教会堂でも同じである。
タンパンというフランス語は、楽器のティンパニーとか鼓膜のティンパヌムと同じ語源の建築用語で、教会の入口上部に、ちょうど鼓の上半分のような形をした空間があるところから、名づけられた。ノートル・ダーム大聖堂の場合は、三つあるファサードすなわち入口のうち、右入口のタンパンにある彫刻が、大聖堂のなかでもっとも古く、1170年ころの作である。タンパンには物語やドラマが刻まれており、ノートル・ダーム大聖堂では、左のタンパンが聖母マリア、中央が最後の審判、そして右が聖母マリアとキリストの情景となっている。
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、187頁~191頁)
フランス・ルネサンス
「セカンド・ルネサンス、すなわち第二の稽古の時代」(35頁~37頁)
パリは中世いらい、フランスの首都という以上にヨーロッパの首都であった。その歴史的事実が、いま新たに強い力を発揮しつつある。なぜなら現代は、過去掘り起し(ルネサンス)の時代だからである。第一のルネサンスはフランスで16世紀前半、そしてイタリアではそれより早く、14・15世紀であった。その意味では、いまセカンド・ルネサンスのときが到来しつつある、といっていい。
ルネサンスとは再び生まれる、復活、掘り起しの意味である。ファースト・ルネサンス、つまり本来のルネサンスのときは、中世いらいの開墾運動がストップし、穀物の生産量が伸びず、人びとが栄養失調に陥り、病気に対する抵抗力を失って、疫病(ペスト)でバタバタと倒れたときであった。当時は、というより19世紀一杯までは、フランスでも穀食が中心で、肉食ではなかったからである。
農業技術は成熟し、つぎの農業革命は18世紀初めまで、産業革命にいたっては19世紀半ばまで起らないという先行き不透明の時代にあって、人びとは真剣に生きる知恵を過去に求め、人間の生き方研究に熱中した。ギリシア・ローマの古典が掘り起され、学ばれ、それを肥やしとしてその時代に生かすルネサンス運動がさかんとなった所以である。
古典を通しての人間の生き方研究こそ、日本で「人文主義」と訳されている、ヒューマニズム、ユマニスムの内容である。フランスの子どもたちが親しむ古代ギリシアの『イソップ物語』は、直接にではなく、17世紀の詩人ラ・フォンテーヌ(1621~95)の『寓話』を通してである。そこには、人間の生き方が書かれているのだ。古(いにし)えを考えて今日に生かすことが、漢字の「稽古」の本当の意味であるが、フランスの16・17世紀は、まさに稽古の時代であった。
そこで学ぶに値する、クラスでもっとも上等な稽古本、それがクラシック(古典)の本当の意味である。16・17世紀は、フランス人・ヨーロッパ人にとっての古典が生まれた、稽古本の時代であった。因みに、繰り返し学ぶに値する稽古曲が、クラシック曲である。そして先行き不透明のいま、ふたたび稽古の時代が訪れつつある。
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、35頁~37頁)
フランス・ルネサンス期の伊達男フランソワ1世
「十六世紀、パリは美しくなり出す」(126頁~127頁)
このフランス・ルネサンスとともに、16・17世紀から19世紀いっぱいにかけて、それまでの中世パリとは異なった、私たちが美しいと感じる近世・近代パリの顔が形づくられていく。イタリアないし古代ローマの建築・都市プラン・造園術が、そこで積極的に取り入れられる。近代のドイツ人が古代ギリシアに憧れたのに対し(だからこそギリシアでは今でもドイツ語が通じる)、近世・近代のフランス人がつねに帰るべき精神のふるさとは、古代ローマないしはイタリア・ルネサンスであった。
現在のルーヴル宮の造営をはじめたフランス・ルネサンス期の伊達男フランソワ1世は、彼を養育すると同時に長いあいだ彼の相談相手でもあった母親のルイーズ・ド・サヴォアのために、王宮に隣接する西側の土地を買い取った。そこがのちに、国王の息子アンリ2世の妃カトリーヌ・ド・メディシスがイタリア式庭園を作らせた、かの有名なチュイルリー庭園である(1563年。百年後の1664年、宰相コルベールの命によりル・ノートルによって美化)。
なおチュイルリーとは、瓦焼きの作業とか作業場の意味である。この土地は王室の所有になるまで、煉瓦焼きの行われていたところであった。レストランで食後のコーヒーといっしょに出てくる、瓦状をした茶色のクッキーが、チュイル(瓦)である。
このチュイルリー庭園は、イタリアの発想を取り入れフランスにはじめて出来た、散策・遊歩用の庭園である。
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、126頁~127頁)
コンコルド広場
「ルイ十五世広場からコンコルド広(和解)場へ」(162頁~166頁)
コンコルド広場は最初、「ルイ十五世広場」と呼ばれていた。
ルイ十五世がメッスでかかった病気の全快を祝して、パリ市長ならびに町のお歴々が、国王の騎馬像を建てるため、当時ほとんど水溜り、湿地だったところを、広場に整備したのである。完成は1772年のことであった。騎馬像が建てられた場所には、現在オベリスクが建っている。
当時のルイ十五世広場は、今日の白々とした感じのコンコルド広場とは違って、もっと緑と花で一杯の、優雅なところであった。周りには幅20メートルの濠が廻らされ、石の橋が六つ掛けられていた。広場の八つの隅には、四阿(あずまや)がしつらえられ、そこから下の濠に、階段で行けるようになっていた。その濠に、花と緑で一杯の庭園が拡がっていたのである。
ルイ十五世の騎馬像が除幕されたのは、1773年5月20日のことであったが、数日後すぐに悪口が馬の口のところに掛けられた。
なんとみごとな彫像だろう! なんとみごとな台座だろう!
徳は台座にあり、悪徳が馬に乗っている。
日本にも江戸時代の狂歌には、同じようなセンスと心のゆとりがあった。洋の東西を問わず、前近代には戯れ歌を作る趣味があったようで、1721年デュボワ修道院長が枢機卿(すうきけい、カルディナル、大僧正)となったとき、パリ市民たちは早速その異例の出世をひやかして、街中で歌った。
さて皆さん、お立ち会い
世にも不思議な話があるものさ
キリスト様にちと祈りゃ
たちまち奇蹟がまた起こり
イワシもタイに早変り
※「イワシもタイに」は、意訳。
原文は「サバ(マクロー)もほうぼう(ルージェ)に」となっている。
マクローは修道院長の服、赤い魚のルージェは、枢機卿の帽子や服の色のことである。
イワシもタイでも、同じ意味になる。
1792年8月11日、革命のさなかにルイ十五世像は倒され、融かされてしまった。代りに数カ月後、台座の上に乗ったのは、「自由」像である。手に槍を持ち、赤い帽子をかぶり、ブロンズ色に塗られた石と石膏の像であった。
広場そのものの名もその年、「革命広場」と改められた。ジロンド派のロラン夫人が処刑されるとき、「自由よ、自由よ、お前の名において何と多くの罪が犯されることか」と述べたのは、この「自由」像を眺めての言葉であった。
沢山の血を吸った「革命広場」は1795年、「コンコルド(調和、和解)広場」へと、三たび名前を変えた。もちろん、革命の血なまぐさい思い出を消すためである。そして、今日にいたっている。「自由」像も取り除かれ、やがて1836年10月25日、台座の上には現在のオベリスクが建てられた。紀元前13世紀のラムゼス2世時代のもので、ルクソールの廃墟から運ばれた220トンもある神殿の石柱には、古代エジプトの象形文字が一面に彫られている。エジプト太守メフメット・アリが1825年、国王シャルル10世に贈ったものである。
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、162頁~165頁)
ルソーとパリ
「馬車に気をつけろ!」(166頁~171頁)より
かのジャン・ジャック・ルソーも、馬車にやられている。1776年10月24日のこと、64歳になる一人の老人が、パリのメニルモンタン街で道を横断しようとしていた。とそこへ、一頭の巨大なデンマーク犬に先導されたカロッス(大型四輪馬車)が、「ガール! ガール!(気をつけろ!)」という御者の大声とともに、猛烈な勢いで疾走してきた。老人は犬に突き倒され、その場で仰向けに倒れ、気を失ってしまった。その老人こそ、ルソーであった。大型四輪馬車の主人は後で誰を突き倒したかが分って恐縮し、ルソーのもとに人を遣わし、どのように弁償したらよいかを尋ねた。そのとき、ルソーは一言ポツンと答えたという。
「犬を放してやりなさい」
ただし、メルシエもルソーの事故を書いており、それによれば、「今後は犬をつないでおいて下さい」と云ったという。(『十八世紀パリ生活誌』(原宏訳))
正反対の内容であるが、ルソーの事故は確かだとしても、この答えの部分は、両方ともあるいは作り話なのかも知れないという。
18世紀パリの大思想家、ルソーをめぐる作り話はじつに多い。
「自然に帰れ」という、あまりにもポピュラーな「名言」も、ルソーが云ったり書いたりした証拠はない。彼はテレーズという女中と関係し、正式に結婚しないまま(最後には結婚したが)、5人の子を儲け、つぎつぎと棄児院に捨ててしまった。その名の通り、ジャンジャンと子を捨てたのである。その一方で『エミール』という、じつにすばらしい教育論を書いて、世界の古典となってるのであるから、人間とは矛盾のかたまりだと、つくづく思わざるをえない。
ある人が、ルソーに出会って云った。
「私は先生の教育論に心酔し、仰言る通りに子どもたちを育てました」
憮然たる面持で、ルソーは答えて云った。
「それは、まことにお気の毒なことをいたしました」
これも、作り話に違いない。
ルソーは、交通事故から2年後の1778年、パリ郊外のエルムノンヴィルで没している。
7月2日のことであった。同じ年の3月から9月にかけ、モーツァルトがパリに短期滞在している。66歳の不滅の世界的大思想家と、22歳の不滅の世界的天才音楽家が、たとえ地の果てからでも集う町、それが今も変らぬ、世界都市パリの魅力である。
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、169頁~171頁)
ルソーと子ども受難時代
「子ども受難時代」(171頁~173頁)
「グルグル巻きの赤ん坊」(173頁~174頁)
ルソーは子どもを捨てたことがよほど気になっていたのか、次のような数字を書き残している。
パリ 1758年
死者 19202人
受洗者 19148人
結婚 4342組
捨て子(拾われた子) 5082人
(『政治断章』、ルソー全集、プレイヤード叢書、ガリマール、パリ、1964年)
18世紀が子ども受難時代であったことは、ルソー自身の一文によっても明らかにされる。
生まれたばかりの赤ん坊は、首を固定して両脚をまっすぐに伸ばし、両腕を胴体に沿ってピタリと伸ばした状態で、包帯でミイラのごとくグルグル巻きにされる。赤ん坊は、可哀そうに身動きひとつすることができない。
田舎の乳母などのところに預けられた赤ん坊は悲惨で、乳母は授乳の仕事が済むと、包帯グルグル巻きの赤ん坊を、部屋の隅の古釘か何かに引っかけて、どこかへ行ってしまう。赤ん坊は、それこそ赤くなったり青くなったりである。
『エミール』第一編で、ルソーはこのように、赤ん坊の災難をリアルに述べる。グルグル巻きは、中世いらいの慣習である。たとえばルーヴル美術館にある、前にも触れたジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1593~1652)描く「牧人たちの崇敬」(33ページ参照)は、生まれたばかりのキリストがグルグル巻きにされて、ローソクの光のもと人びとに見つめられ、祝福と礼拝を受けているシーンである。栄養不良の関係から手足が曲ってしまう子どもが少なくなく、それを防ごうとして、添え木で若木をしつけるごとく、手足を伸ばしグルグルと巻いてしまったのではないか、と思う。
グルグル巻きは生後、7、8カ月までつづけられ、これによって赤ん坊の成育は、どれほど妨げられたことであろうか。森に捨てられる子どもも多く、18世紀はまさに子ども受難時代であった。子どもを猫可愛がりするか子どもを産まないかの現代も、子どもの側に立ってみれば、18世紀に劣らず子ども受難時代である。
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、171頁~174頁)
さて、その33ページには、ラ・トゥールの絵「牧人たちの崇敬」(ルーヴル美術館)の絵が載せられて、次のように述べている。
フィリップ・アリエスの名著『アンシアン・レジーム下の子どもと家族』(1960年、邦題『<子供>の誕生』杉山光信・杉山恵美子訳、みすず書房、1980年)は全世界の知識人層に読まれたが、そこで描かれたフランス近世の幸せは、子どもを中心に両親が結び合い、そしてその両親一人一人の背後に守護聖者がついているという、「家族宗教の姿」であった。それをそのまま絵に描いたのが、ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1593~1652)の「牧人たちの崇敬」である。当時もまた、農業技術はとうの昔に成熟し、産業革命は未だしの、先行き不透明な、長い踊り場の時代であった。
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、33頁~34頁)
マリー・アントワネットとパン
「クロワッサンとは、「三日月パン」のこと」(154頁~156頁)
マリー・アントワネットには、なぜかパンの話がついて廻る。パリのホテルで朝必ず出るクロワッサン、これは彼女が、実家のウィーンからもってきたというのである。(中略)
クロワッサンというフランス語は、「三日月」のことであり、「三日月パン」の意味である。三日月はイスラム教諸国のしるしであり、クロワッサンの頭文字Cを大文字で書けば、「イスラム教国」の意味である。
ときに1683年、ウィーンはイスラム教徒の軍勢に、58日間にわたって包囲された。大宰相カラ・ムスタファ指揮のオスマン・トルコ歩兵軍30万が、まさにトルコ・マーチを演奏しながら、10万のウィーン市民を取り囲んだのであった。
ウィーン市民は恐怖のどん底に陥れられ、数千人の市民が飢えで死んでいった。生きている者はネコ、ロバ、その他、食べられる物は何でも食べて命をつないだのであった。ウィーンの陥落が迫り、いよいよもう駄目となって、市内のパン屋がなけなしの粉をかき集め、やむなくトルコ軍歓迎の意味をこめて焼いたのが、「三日月パン」であった。ところが最後の段階になって、9月12日にドイツ・ポーランド連合軍が駆けつけてウィーンを救い、解放された市民は、今度は勝利を祝って「三日月」パンをムシャムシャ食べてしまった。
ときは変って1770年5月16日、オーストリア女帝マリア・テレジアの末娘マリー・アントワネットは、14歳でウィーンからヴェルサイユへと輿入れした。その日宿命の夫、15歳の王太子ルイ(16世)との盛大な結婚式が行われたのである。このとき「キプフェル」も彼女とともにあり、今度はパリのパン屋が王太子妃を歓迎する意味で、これを作るようになった、といわれる。名前をキプフェルからクロワッサンに変えて、である。
クロワッサンは、よほど「歓迎パン」に縁があるようだ。そしていまもパリのホテルは、暖かくて香ばしくて柔らかな、14歳のマリー・アントワネットを思わせるクロワッサンで、私たちを歓迎してくれる。
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、154頁~156頁)
コンシエルジュリーとマリー・アントワネットとロラン夫人
「コンシエルジュリーの囚われ人たち」(157頁~160頁)
マリー・アントワネットは断首台に上るまでの2カ月半、1793年8月2日から10月16日まで、「ギロチン待合室」といわれたコンシエルジュリーに閉じこめられていた。セーヌ川に浮かぶ中之島、シテ島の西半分にある王宮の一部で、14世紀のものである。
シテ島の右岸(北岸)を、サマリテーヌ百貨店から東へメジスリー河岸を歩けば、そこにコンシエルジュリーが、中世の優美でロマンチックな王宮の姿を、四つの塔とともに眼前一杯に展開してくれる。手前から右端の「ボンベックの塔」、ついでお伽の国の塔のような、丸屋根の「銀の塔」と「セザールの塔」、そして左端の四角い「時計の塔」がそれである。「時計の塔」にはその名の通り、1370年にパリ最初の街頭時計がつけられたが、1793年いらい取り外され、現存しない。
ふつうコンシエルジュといえば、アパートの入口に住む管理人のことである。郵便物はコンシエルジュが一括して配達人から受け取り、各戸に配る。コンシエルジュの生活費は各戸が負担し、そのほかに、年末とか年始に「おひねり」の付け届けをせねばならない。
コンシエルジュリーのコンシエルジュは王宮官房長のことであり、彼の統轄する建物という意味である。1392年、ときの国王シャルル6世が狂気の発作を起し、医者の勧めで王宮を離れ、気晴らしのためにマレー地区の「サン・ポール館」に移るとともに、コンシエルジュリーは牢獄となった。フランス革命のときはさらに大改造が行われ、約2千6百人の犠牲者がここで断頭台までの人生最後のときを過すところとなり、美わしくロマンチックな建物に、もっともいまわしく陰惨な、暗いイメージと思い出がつきまとうこととなる。マリー・アントワネットの独房も、塔とは反対側の一面にあり、当時の模様が復元されている。
ジロンド派の才媛ロラン夫人も、コンシエルジュリーの独房に囚われていた。彼女は美貌と才能に恵まれ、同志議員たちを彼女のサロンに集めて鼓舞するとともに、1792年以降は夫の後ろ楯として、事実上の内務大臣であった。したがって過激派の「山岳派」(モンタニャール)からは、夫以上に敵視され、ついに逮捕されてしまう。断頭台に上った彼女は、つぎの有名な言葉を残したのであった。
自由の名において、何と多くの罪が犯されることでしょう。
わずか39歳の、しかし輝かしくも立派な生涯であった。
マリー・アントワネットが処刑されてから約1カ月後、11月8日のことである。
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、157頁~159頁)
フランス革命の標語「フラテルニテ」
「革命のモットーは「兄弟愛」」(147頁~149頁)
修道院の修道士たちが、出身地、階層その他の違いを超えてみなひとしく「兄弟」であるように、パリのカフェもパリそのものも、やはり巨大な修道院であり、人びとは誰もが平等なパリ市民なのである。
リベルテ(自由)・エガリテ(平等)と並んで、フランス革命のモットーの一つとなっているフレテルニテは、「兄弟愛」のことで「博愛」ではない。「博愛」に当てはまるのは、フィランソロピーという言葉である。普遍的な人類愛にもとづいて、難民救済とか世界の医療水準や教育レベルの向上、文化や人の交流につとめるのが、英語のフィランソロピーである。
フランス語のフラテルニテは、「兄弟」を表わすフレールからきている。英語のブラザー、ドイツ語のブルーダーと同じである。中世では商人や手工業者など、職種ごとに同業者が集い、飲んだり食べたりして義兄弟の盃を交わし合い、同業者組合を作った。この組合を表わすコンフレリーという言葉も、「ともに兄弟になり合う」の意味である。
人間すべてに広く遍くではなく、特定の人と兄弟になり合う「兄弟愛」が、フラテルニテの適訳であるといっていい。(中略)
1789年のフランス革命における「兄弟愛」とは、この革命を阻止しようとするイギリス、そしてまたそれまで農民に対する支配権を事実上掌握していた国際組織のカトリック教会に対して、フランス国民の結束を呼びかけたものである。というか、当時はまだ地方に生きる意識のほうが一般的で、貴族・都市民・農民三身分の、身分差の意識もまた支配的であった。その地方意識、身分意識に対して、みなひとしく自由・平等な同胞、兄弟同士ではないかと、新たに国民意識を生み出すために用いられた標語が、フラテルニテすなわち「兄弟愛」であった。
革命によるフランスの近代化、国民国家・近代市民社会の形成は、1789年の大革命によって完成されたのではない。その後も、七月革命(1830年)、二月革命(1848年)と、フランスの国家と社会は右に左に揺れ動き、フランス第三共和制の発足、パリ・コミューン(1871年)までの1世紀が、フランスの近代化のために費やされた。つまりは19世紀も最後の四分の一世紀になって、フランスの輝かしい近代が本格的に開始される。
それまでの19世紀の大半は、近代に向っての激動期であった。新生児が母体から生まれ出ながら、まだ完全には母体を離れ切ってはいないときであった。
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、147頁~149頁)
「自由の木」
「自由の木」(149頁~151頁)
その激動期に、革命が起るたびパリ市民は「自由の木」を市内に植えた。
フランス語でシェーヌ、英語でオーク、ドイツ語でアイヘといわれる木である。
これまでわが国では一般に「カシ」の木と訳してきたが、全くの誤りであり、「ナラ」の木が正しい。カシは常緑樹であるが、ナラは落葉樹で、ヨーロッパを代表する樹木の王様である。
ナラは家屋にも家具にも船にも一般的に使われ、丈夫で長命な木であり、当時、田舎にはどこにでも生えていた。今は、パリの北80キロのコンピエーニュその他、特定の森林に行かないとナラの木は見られない。ナラの森は落葉によって豊かな腐植土を形成し、これを切り拓けば、いい小麦畑になったからである。いまヨーロッパを西から東に貫く豊かな小麦生産地帯は、もともとナラの森が変身したものであるといっていい。
パリといえばマロニエが有名だが、これはトチの木である。イギリスでホース・チェスナット(馬グリ)、ドイツでカスタニエンという。クリのような実は、秋の歩道に沢山落ちるが、クリのイガは見られない。日本ではトチの実を水でさらし、灰汁で煮てあくを抜き、トチ餅を作ったが、ヨーロッパでは洗濯物を白くするのに用いた。ちなみに、マロン(クリ)・グラッセのクリの木は、フランス語でシャテニエという。また、マロニエと同じく街路樹のプラタナスは、中国の柳絮(りゅうじょ)の如く春先に綿毛のような白い花を一面に飛ばし、幻想の世界を醸し出す。
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、149頁~150頁)
レカミエ夫人とダヴィッドとジェラール
「自由の木」(149頁~151頁)
革命に際し、パリ市民が「自由の木」を植えている絵は、カルナヴァレ博物館(セヴィニエ通り23番地)にある。
ヴォージュ広場の近くであり、それこそ散歩がてらに立ち寄ったらいい。パリの歴史に関する資料が集められているが、なかんずく革命に関する人物像や情景描写の絵画・彫刻など豊富であり、勉強になる。
革命と直接関係はないが、当時を生きた「レカミエ夫人像」などは、男ならほれぼれする。
レカミエ夫人(1777~1849)は、リヨン生まれで銀行家の妻となったが、その美貌と愛人の多さで有名である。
肖像画は最初、ナポレオンの戴冠式の大作を描いたことで有名な、宮廷画家のダヴィッドに依頼されたが、彼女の気に入らず、下絵に終ってしまった(ルーヴル美術館)。
1805年改めて注文を受けたのが、この画の作者、フランソワ・ジェラール(1770~1837)である。
彼女28歳の姿は、可愛らしい小さな頭、豊かな胸と腰、なまめかしい素足の爪先(つまさき)が、柔らかな曲線美でまとめ上げられており、ふるいつきたい魅力である。画家35歳の作品で、この絵と向い合っていると、描く方も描かれるほうも、そして時代そのものも若々しく、力強く、生き生きとして、魅力が一杯であったことを肌で感じ取ることが出来る。激動の時代が、五感を鋭敏に研ぎすましたのであろう。
<【挿絵】フランソワ・ジェラール「レカミエ夫人像」カルナヴァレ博物館>
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、150頁~151頁)
セーヌ県知事オスマン
「パリを一変させたセーヌ県知事オスマン」(277頁~280頁)
このような「世紀末の輝き」が、やがて20世紀を生み出すことになる産業技術の誕生によるものだとすれば、そのパリの輝きを社会的に準備したのが、セーヌ県知事オスマン(1809~91)であった。彼は第二帝政下にナポレオン3世の支持を受け、1853年から1870年初めまで、17年もセーヌ県知事をつとめるあいだ、パリの徹底的な大改造を行った。
彼は結果として8億フランの負債を残すこととなったが、オペラ座をはじめとする公共建築物の建築、上下水道と橋、広場と道路の整備を、過去の破壊によってつぎつぎと大胆に実現していった。彼の名は、リヴォリ通りの北を東西に走る全長3530メートルのオスマン並木通りに残されている。もちろん彼が1857年に開いたものであり、ミュニック(ミュンヘン)大通りがその犠牲となって消えた。
それまで、街の多くを占めていたのは中世パリの顔であった。道は細く曲りくねって不規則に走り、市民がバリケードを築いて反乱を起すには、恰好の場であった。それがときの皇帝ナポレオン3世の憂鬱であり、オスマンは皇帝の意向を受け、中世の翳(かげ)を色濃く落すパリを、明るく「風通しのよい」近代パリに一変させたのであった。
道を太く直線状の、反乱を未然に防げる見通しのよいものとしたのであり、ここに合理主義的・古典主義的な、幾何学的に均整のとれが、現代パリの原型が姿を現わすこととなった。それはまさに、「都市計画」と呼ぶにふさわしい最初の大規模なものであった。(中略)
凱旋門そのものはナポレオン1世によって、1806年8月15日に着工された。完成はルイ・フィリップの治下、1836年のことである。もともと凱旋門は、かつて戦いに勝利しローマに帰還する皇帝がくぐるべき門であり、したがって市心を背に、市外に向かって建てられている。自らローマ皇帝の後継者たらんとしたナポレオンが、その着工を思い立ったのも無理はない。
エトワールの凱旋門に上ってみれば、市外にはラ・デファンスの巨大なグランド・アルシュ(新凱旋門)がそびえ立ち、反対側の市内には、シャンゼリゼ大通りの向うに、コンコルド広場、チュイルリー公園、カルーゼルの凱旋門、そしてルーヴル美術館が、ともに一直線上に並んでいる。それは、日本とはまったく異質の感覚であり、大きなスケールの見事な都市計画のあり方には、感嘆させられる。
カルーゼルの凱旋門も、1805年のナポレオンの戦勝を祝して、1806年から1808年にかけて造られたものである。しかし凱旋門それ自体は、ナポレオンの専売特許ではない。彼の前にもたとえば国王アンリ2世(在位1547~59)は、かつて東のナシオン広場にあったサン・タントワーヌ城門に、凱旋門を建てた。
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、277頁~280頁)
ラ・デファンスに関連して
「「新凱旋門」――次の時代のランドマーク」(42頁~43頁)
「百三十五日間のパリ防衛」(44頁~45頁)
パリ西北郊のラ・デファンスは、「パリのマンハッタン」といわれる超高層のビジネス・センターが出来つつあるが、ここに1989年建設されたグランド・アルシュ(大きな箱舟)、日本語での「新凱旋門」は、そのなかにパリのノートル・ダーム寺院がすっぽりと入る、巨大な正方形である。それはまさに新しいパリへの、あるいは新時代への入口を象徴している。実際はガラスと白大理石の巨大なビルを上方で結んだものであり、それにより、コミュニケーション感覚も同時にイメージされている。世界の人と人とを結び、旧時代と新時代を結び、行政上の在来パリと新しいパリ市圏を結ぶ入口、門である。
ここから本来の凱旋門(エトワール、ナポレオンの命により1806年にはじまり、国王ルイ・フィリップにより1836年完成)、そしてコンコルド広場は、ほぼ一直線上に見える。ただし冬は天気が悪く、視界が利かずに、見通せないことが多い。一辺110メートルの正方形をなすグランド・アルシュは、19世紀の古い小パリと21世紀の新しい大パリを結ぶ、次の時代のランドマークとなろうとしているといえよう。
ここから発する大通りは、セーヌ川を渡るヌイイ橋を通って凱旋門、シャンゼリゼ大通りとつづいている。道幅70メートルのシャンゼリゼも、ノートル・ダーム寺院と同じく、この「門」のなかにすんなりと入ってしまう。
因みに、この設計者はデンマーク人のオットー・フォン・スプレッケルセンで、完成を待たず1987年3月16日、癌で亡くなっている。しかしながらこれもまた、パリが外国人の知恵とエネルギーを貪欲に呑み込みながら、すべてをパリ文化として消化し新たな成長を遂げていく、巨大な胃袋的存在であることを示す一つの事例である。
ラ・デファンス(国防、防衛)という名は、1870~71年の普仏戦争におけるパリ防衛を記念して、パリで生まれ、パリで死んだ彫刻家のバリアス(Barrias ルイ=エルネスト, 1841~1905)が、1883年、「パリの防衛」と題する彫像を、今のラ・デファンスに隣接する、クールブヴォワの円形広場(ロン・ポワン)に建てたところからきている。いまその彫像は、ラ・デファンス大通りのど真ん中、アガム泉水のほとりに建てられている。(中略)
普仏戦争により、パリは1870年9月19日から、プロイセンの二つの軍隊によって135日間も包囲された。パリ市民は35万人が194大隊に分れて銃を取り、パリの防衛に当ったが、火攻め、兵糧攻めに遭って、市民は文字通り塗炭の苦しみの下に置かれざるをえなかった。かてて加えて、マイナス摂氏13度(1870年12月22日)という例外的な寒さに襲われ、飢えと寒さによる死者は、その当時、通常の年末ならパリで週に900人なのに対して、5000人も達した。
このころの具体的な描写は、『ゴンクール日記』や大佛次郎の『パリ燃ゆ』に詳しい。
食肉はまったく底をつき、市民はネズミや猫、犬を食べて飢えをしのいだ。そしてついに動物園に手が伸び、象が食用としてつぎつぎと殺された。1頭目は12月29日のカストール、2頭目は12月30日のポリックス――いずれも、象の名前である――、3頭目は明けて1871年1月2日のことであった。そして1月28日パリはついに、統一が成り立ったばかりのドイツに降伏するのである。
しかしその後も、これを不満とするパリ市民は、時の国防政府に抵抗して革命的自治政権(コミューン)を結成し、3月から5月にかけて戦い、「血の週間」に2万人から3万人の犠牲者を出して崩壊した。これが、史上名高いパリ・コミューンである。このときの死者は、なんと1793年から94年にかけての、フランス革命中の恐怖政治下の死者よりも、数が多かった。
フランス革命は事実上、いわゆる1789年勃発のフランス革命から1871年のパリ・コミューンまで、約1世紀を必要としたのであった。
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、42頁~45頁)
【ラ・デファンスのグランド・アルシュの写真】(筆者撮影 2004年)
「門」の思想
「「門」の思想」(49頁~51頁)
ラ・デファンスのグランド・アルシュと同じような「門」、入口、玄関、コミュニケーションの発想は、パリ市内の新建築に、随所に見出すことができる。
たとえば、同じく1989年に完成したバスチーユ広場の新オペラ座、並びに市心のルーヴル宮から同じく東南のベルシー地区に移った新大蔵省は、いずれもコの字を縦にした入口部分を具えている。フランス大蔵省の場合はグランド・アルシュに似て、道を建物の中に取り込んだ形となっている。
因みに、1998年に淡路島と本州の間に明石大橋が架けられるのを記念して、フランスから贈られる日仏友好モニュメントも、80メートルのガラスの柱の上に、300メートル余の青銅の板を渡し、柱の礎石には1億年前のフランスの花崗岩を使うというものである。ここでも門、入口、玄関、そして橋・コミュニケーションという、現代フランス人の心を捉えるイメージが、鮮明に表現されている。
その、コミュニケーション(フランス語ではコミュニカシオン)とは何なのだろうか。
頭文字にあるコム comという字は、ラテン語のクム cumからきており、英語で云えばウィズ、つまり「ともに」の意味である。一人で生きるのは寂しく不安だから、あなたと一緒に生きましょうという意味での「ウィズ・ユー」、すなわち「つなぎ」とか「結び合い」こそ、コミュニケーションの本義である。
コミュニケーションを求める心とは、現代人に共通する個々人の孤独感・不安感である。ひとり生きうる自信があれば、コミュニケーション感覚は不必要である。現代フランスの歴史学界でしきりと使われる言葉に、コンヴィヴィアリテ(convivialité)がある。新語であるからふつう辞書には見当たらないが、コンヴィーヴ(convive, 会食者)から出た言葉である。ともに食事し合う者同士のように、違いは違いとして認め合いながら、親しみ相和して仲良くやっていこうとする心が、コンヴィヴィアリテである。
嫁・姑のケンカもそうであるが、環境・文化・風土を異にする者同士が出会い、触れ合えば、必ずといっていいほど説明のつかぬ苛立ち、摩擦が発生する。違いを違いとして認め合うということは、理屈ではなく情感に属する問題だけに、現実にはなかなか難しい。その心を互いに開くために不可欠なのは、互いに食べ合ったり飲み合ったりして、楽しい時間と空間を互いに重ね合わせる努力である。さあ友だちになろうと、目を三角にして握手しても効き目はないが、一緒に食事し合えば、心は自ら開けてくる。
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、49頁~51頁)
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