歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪足田輝一『樹の文化誌』を読んで≫

2022-12-29 19:36:20 | ガーデニング
≪足田輝一『樹の文化誌』を読んで≫

【はじめに】


 今回も、引き続き、樹木についてみていこう。
 照葉樹林については、以前のブログで触れたことがある。
〇≪仏花の選び方と育て方≫(2019年12月29日投稿)
〇≪【新刊紹介】榧野尚先生の『反り棟屋根』≫(2021年5月3日投稿)
 これらのブログでは、中尾佐助氏、上山春平氏などによる照葉樹林、照葉樹林文化についての議論を紹介した。その際に、次のような参考文献を挙げた。
・中尾佐助『栽培植物と農耕の起源』岩波書店、1966年
・中尾佐助『花と木の文化史』岩波新書、1986年[1991年版]
・上山春平編『照葉樹林文化 日本文化の深層』中公新書、1969年
・上山春平・佐々木高明・中尾佐助『続・照葉樹林文化 東アジア文化の源流』中公新書、1976年[1992年版]
・佐々木高明『照葉樹林文化の道 ブータン・雲南から日本へ』NHKブックス、1982年[1991年版]

 この照葉樹林文化が、日本の文化のルーツのような存在であることは知られていた。私も十分心得ていたつもりである。
 それが、日本文化、とりわけ庭園文化とどのように関わるのかについては、正直、私は思いが至らなかった。
 ところが、足田輝一氏の次の著作を読むと、照葉樹林が日本庭園の中でどのような位置を占めるのかが、浮かび上がってくる。
〇足田輝一『樹の文化誌』朝日新聞社、1985年

 そして、日本庭園(たとえば桂離宮)の思想的背景すら垣間見えてくるような気がする。
 今回は、このような観点から、この足田氏の著作を紹介してみることにする。

【足田輝一(あしだ・てるかず)氏のプロフィール】
・1918年、兵庫県生まれ。
 1941年、北海道大学理学部動物学科を卒業
 朝日新聞社出版局に入り、週刊誌記者などを経て、『科学朝日』『週刊朝日』の各編集長や、図書第一部長、出版局長などを歴任。
 1973年、定年退職後は、ナチュラリストとして活動。

<主な著書>
・『草木の野帖』(朝日新聞社)、『雑木林の博物誌』(新潮社)など




【足田輝一『樹の文化誌』(朝日新聞社)はこちらから】
足田輝一『樹の文化誌』(朝日新聞社)





〇足田輝一『樹の文化誌』朝日新聞社、1985年

【目次】
樹々の物語への口上
第一部 サクラ文化の系譜
 “ハナ・ハト”から軍国の花へ
 町人文化のなかに咲く
 室町ルネッサンスの芸能
 王朝の庭に咲き匂う
 万葉人のかざした花
 民俗の遠い地平より
 海の彼方のチェリー

第二部 樹々の博物誌
 能と舞台の背景――マツ
 憧れの高原に生きる――シラカバ
 照葉樹林の聖樹――ツバキ
 てまり唄の系譜――エゴノキ
 大津絵の世界に咲く――フジ
 ユートピアの花――モモ
 万葉人の情緒――ハギ
 神の住む森――スギ
 雑木林文化の代表――クヌギ
 シカと組んだ秋の景物――モミジ
 武蔵野のシンボル――ケヤキ

第三部 日本の庭の歩み
 漱石山房の庭をしのぶ
 江戸の残映をうつして
 桂離宮にみる照葉樹林
 枯山水は中国の自然から
 『源氏物語』に描かれた秋草
 万葉人の庭の眺め
 雑木林の庭への展望

第四部 神々の森からの道
 ミツナガシワと古代の生活
 伊勢神宮の火きり具
 サカキをめぐる民俗
 「心の御柱」の源をさぐる
 太古は照葉樹林だった
 年輪と樹姿が生みだすもの
 宇宙樹への道程

 あとにひとこと
 参考にした本




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・照葉樹林に関連して
・照葉樹林の聖樹――ツバキ
・サカキをめぐる民俗
・太古は照葉樹林だった
・桂離宮にみる照葉樹林
・『源氏物語』の植物
・マツと日本文化






照葉樹林に関連して


さて、目次をみてもわかるように、照葉樹林に関連した項目は次のようなものが挙げられる。
〇第二部 樹々の博物誌 照葉樹林の聖樹――ツバキ(192頁~)
〇第三部 日本の庭の歩み 桂離宮にみる照葉樹林(318頁~)
〇第四部 神々の森からの道 サカキをめぐる民俗(413頁~)
〇第四部 神々の森からの道 太古は照葉樹林だった(441頁~)

 これらの各部各章に、照葉樹林について、どのようなことが述べられているのか、紹介してみたい。

照葉樹林の聖樹――ツバキ


〇第二部 樹々の博物誌 「照葉樹林の聖樹――ツバキ」(192頁~201頁)には、次のようなことが述べられている。
・ツバキに関連してまっさきに眼に浮かんでくるのは、速水御舟(はやみぎょしゅう)の『名樹散椿』という重要文化財に指定されている名画だという。
⇒金砂子のまきつぶしという大画面に、ゆたかに樹勢をひろげた五色椿が、豪華に咲き誇って、散りしいた花びらの姿にも、たけなわの春が匂うようである。
 この作品が描かれたのは、昭和4年(1929)、当時の第16回院展に出品され、さらにその翌年、ローマでひらかれた日本美術展覧会にも出された。
 このツバキの絵は、最初は京都の愛宕山にある大きいサクラの樹を描くつもりだったのが、結局ツバキになった、といわれている。
 もうひとつ、非常に良い朱を手に入れることができたので、それを使ってみようと考えたのが、サクラからツバキへ画題の移った動機でもあったらしい。

※ツバキの構想をもって、京都の椿寺へ行った時は、もう花の季節ではなかったが、名木の樹勢を写生するには、かえって都合がよかったようだ。この構図の上に、彼の自宅の庭に咲いていた五色散り椿の花を配置して、いま目にすることのできる、名画が生まれてきた。
 御舟の絵のモデルになったのは、京都は洛西の北野、一条西大路にある地蔵院であるそうだ。
 この庭の五色散り椿というのは、枝によって白い花や、紅色の花、または白地に紅のまだらなど、さまざまに咲きわけて、その花びらは八重なのだが、深くさけているので、満開をすぎると一枚ずつばらばらに散る。
 寺のいい伝えによると、朝鮮の役の時に、加藤清正が持って帰り、豊臣秀吉に献じたことになっているが、これは後世につくられたフィクションであろう、と著者はいう。
 
<奈良の春日山のヤブツバキ>
・著者は、山深く咲いているヤブツバキが好もしいという。
 とりわけ、奈良の春日山のヤブツバキは印象深かったようだ。
 いわゆる照葉樹林といわれる、森の姿をじっくりと眺めることができたからである。
 
<日本の原風景としての照葉樹林>
※日本列島に、まだ人間があまり住んでいなかった原初のころ、この列島の南の大部分をおおっていたのは、照葉樹林だった、と想像される。
 これは、広い葉の表面に光沢をもった常緑の樹種、例えば、シイ類、カシ類、クスノキ、ヤブツバキなどが主となっている林である。
 こういう日本の原風景は、数千年の文化の歴史のなかで、次第に開発され、変貌をとげ、ほとんど原初の姿を消してしまった。
 ただ、鎮守の森といわれるような、神社や寺院の聖域に属していたところでは、わずかにその面影を残している場合がある。
 春日神社の神山であった春日山原始林とか、伊勢神宮の神域林は、そういう意味で、照葉樹林がひろい面積で保存されている、貴重な自然なのである。

〇この日本の照葉樹林を代表する樹のひとつが、ヤブツバキなのである。

・ツバキ、正しくはヤブツバキは、日本列島の本州、四国、九州、朝鮮半島の南部に野生しているが、中国大陸には分布していない。
 古代の中国、隋や唐の時代に、東方の日本から渡ってきた珍しい樹として、海石榴とよび、詩歌によみこんでいる。
 石榴とはザクロのことだが、西域から伝わってきたザクロに対し、海の彼方からきた石榴という名で、ツバキを観賞したようだ。
 しかし、同じ海石榴の字をあてて、ヒメザクロもしくはチョウセンザクロを意味する場合もあるから、注意がいる。

・多くのツバキの園芸品種は、野生のツバキから育成されたものだが、ワビスケやウラクツバキのように、まったく別の種とされているものもあり、その系統は、複雑である。
 ワビスケというツバキは、京都大徳寺の総見院に古樹がある。これは、千利休が豊臣秀吉から賜わったとか、堺の侘助という人からもらったとか伝えられている。あるいは、中国から渡ってきたという説もある。
 ワビスケは、チャとヤブツバキの雑種といわれる。
 同じく京都高台寺の月真院にあるウラクツバキは、織田有楽斎の遺愛の樹と、寺伝にある。
 これは、おそらく中国から伝来の系統だろうと、植物学者は推察している。

<椿という漢字>
・ツバキの園芸品種のなかには、中国の系統と思われるものもあるが、ヤブツバキは中国には生えていない樹であるそうだ。
 椿という字も、日本でつくられた国字という方が適切である、と著者はいう。
 ツバキこそ、日本の照葉樹林ばかりでなく、日本人の草木文化を象徴しているとする。
 
・漢字にも、椿という字がある。
 しかし、この字は、ツバキとはまったく別のセンダン科のチャンチンという樹、漢名でいえば、香椿または椿という植物のことであるそうだ。
 現代の中国でも、香椿、春芽樹、椿、紅椿、椿樹などといっているが、ツバキとはやや縁の遠い植物で、葉も羽状複葉で、まったく違った姿をしている。

<ヤブツバキと日本の照葉樹林文化>
 ヤブツバキが、植物生態学の立場からみると、日本の照葉樹林の標徴となる樹なのである。
(だから、学者は、生態からの分類として、日本の照葉樹林をヤブツバキ・クラスとよんでいる)
 つまり、ヤブツバキという樹は、日本人の祖先が、はるかな昔から暮らしてきた、照葉樹林を象徴していることになる。
 ヤブツバキこそ、私たちのふるさとのシンボルなのである。
(ここでヤブツバキといってきたのは、日本の山野に野生していて、カメリア・ヤポニカというラテン名でよばれるツバキのことである)

※ヤブツバキ・クラスともいわれるように、この樹は、日本の照葉樹林のシンボルである。
 そして、日本の原始宗教であった神道は、この照葉樹林の樹々と、深い因縁をもっている。
 神事に用いられる、サカキ、シキミなども、そういう照葉樹のひとつである。
 その照葉樹林のなかで、真紅の花をひらくツバキは、古代人の心に、神秘的な印象をあたえ、彼らの生活のなかで、神聖の樹として存在してきたのであろう。
 遠い昔は神聖の樹として、屋敷の内に植えることもはばかられ、庭の樹となったのは、中世以後のことだといわれる。
(ともあれ、ヨーロッパの人々にとって、『椿姫』の華麗な美女を想わせる花も、私たちには、深い心の故郷を呼びおこすようだ。それも、ツバキと日本人との、長いつきあいの歴史の結果なのであろう)
(足田輝一『樹の文化誌』朝日新聞社、1985年、192頁~201頁)

サカキをめぐる民俗


〇第四部 神々の森からの道 「サカキをめぐる民俗」(413頁~421頁)には次のようなことが述べられている。
・神道の行事において、サカキが重要な役割をもつことは、日常に経験するところである。
 これは、伊勢神宮においても、同じである。
 古来、神宮で使われるサカキは、三重県一志郡久居町(現久居町)榊原および七栗、松阪市漕代町高木(現高木町)から奉納されてきた。
 神宮においては、また、廻榊(めぐりさかき)といわれる神事も行われた。
 『伊勢参宮名所図会』によれば、外宮の玉串所(たまくしところ)に一本のサカキがあって、その下で宮司が玉串をとり、サカキの東を廻り、同じく禰宜が玉串をもって、サカキの西を廻るという。

・また、毎年の神嘗祭には、斎王による太玉串(おおたまくし)をたてまつる儀式があった。
 これは、長さ4から5尺(1.5メートル前後)のサカキの枝に、ユウ(木綿)をとりつけたもので、これを内玉垣御門前に立てた。
 ユウとはコウゾの樹皮の繊維を水さらしして、細い糸状にしたものである。
 この神事の意味は、斎王が大神への奉仕者であると同時に、“大神の御杖代(みつえしろ)”であることをも象徴していて、サカキの枝は重要な依り代であることがわかる。
 この儀式も、明治以後は絶えたようだ。

〇サカキという樹は、ツバキ科の常緑小高木である。
 暖帯から亜熱帯にわたって分布する。
 本州では茨城県―石川県より南西、四国、九州、済州島から台湾、中国にわたって生育する。
 サカキというのは、栄木の意味である。賢木とも書く。榊は日本で作られた国字である。
 また、境木(さかき)の意味で、磐境(いわさか)、つまり神の鎮まる地の境界を示す樹であるという説もある。
 昔は、常緑広葉樹の総称のように用いられ、サカキ、ヒサカキ、オガタマノキ、シキミ、カナメモチ、モクセイ、マサキなども含んでいたものである。

【サカキの写真(2022年11月17日撮影)】


・平安時代の『和名類聚抄』の祭祀具の項に、竜眼木という言葉に佐賀岐(サカキ)の和名をあて、「坂樹刺立テテ神ヲ祭ルノ木ト為ス」という『日本紀私記』を引用している。
 いま中国で、竜眼または竜眼樹というのは、ムクロジ科の果樹で、日本でも熱帯果物のリュウガンとして知られているものである。
 サカキのことは、竜眼木とはいわないで、楊桐または紅淡といわれている。
 日本のサカキと同種で、揚子江流域から南の各省に分布している。

・五代の毛文錫の『茶譜』には、楊桐(サカキ)のことがのっている。
 湖南の長沙では、4月4日に楊桐の葉をつんで、その汁をつき出し、米にまぜて、餻糜(こうび)のように蒸して食べる。
 この時は、必ず石楠(シャクナゲ)の芽からとった茶をすする。
 こうすると中風よけになるし、暑中に飲むともっとも宜しい。
(餻糜というのは、羊羹や外郎[ういろう]のような蒸しものである)
・また宋代の『歳時広記』には、寒い季節になると、楊桐の葉をとって飯に入れてたくと、色が青くなって光る、これを食べると陽気をたすける、これを楊桐飯という、とある。

※昔の中国においては、このようにサカキは食用されていたらしいが、日本の伝統の如く、宗教的な意味はもっていなかったようである。
 サカキの樹に、宗教的な神性をみとめたのは、日本列島に住んだ日本人の祖先の特色であったようだ。
・『古事記』では、天照大神が天の岩戸にかくれた時、その前で、
「天の香山(あめのかぐやま)の五百津(いほつ)の真賢木(まさかき)を根掘(ねこ)じにこじて、上枝(ほつえ)に八尺(やた)の勾璁(まがたま)の五百津の御統(みすまる)の玉を取り著(つ)け、中枝に八尺の鏡を取り繋(か)け、下枝(しづえ)に白和幣青和幣(しらにきてあをにきて)を取り垂(し)でて」神々がおどりうたう。
 ここに、日本古来からの神性のシンボルである、玉と鏡と麻緒を、サカキにかける。
 この樹は、現代のサカキに限らず、ひろく清浄な常緑樹と考えてよいが、こういうサカキを含めた常緑樹が神と密接に関係した神性の樹であったことは、この神話からも推察される。
 ※シラニキテはコウゾの繊維、アヲニキテはアサの繊維といわれる。
  ニキテは、剣に代えられる場合もある。

・『万葉集』に、大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)の神を祭る歌がある。
「奥山の、賢木の枝に、白香(しらか)著(つ)け、木綿(ゆふ)とりつけて」とうたわれている。
 ※シラカはアサの繊維、ユウはコウゾの繊維。
 神を招く聖所に、これらの布をかけたサカキをもうけたことは、神話と同じである。

〇サカキをはじめとする常緑樹信仰は、こういう古代から日本人の宗教思想のなかに生きてきたものである。これは、照葉樹林における古代生活から発生したものに違いない、と著者はいう。
 神社の行事に限らず、ひろく日本人の植物民俗のなかに、こういうサカキの利用は続けられてきた。
 伊勢においては、サカキを門松の代わりとする習俗があったが、同様の風習はそのほかにもみられる。

※もともと門松という風習は、後世に日本国内にひろがったもので、年の神の依り代である常盤木(ときわぎ)を庭とか門前にたてるのに始まったと思われる。
 その年の木を切ってくることを、松迎えと総称しているが、マツに限らず、サカキ、シイノキ、クリ、ツバキ、シキミなどが年木とされた。
 『徒然草』にも、「大路(おおぢ)の様、松立て渡して、花やかに嬉しげなるこそ、またあはれなれ」と正月風景を描いている。
⇒門松は、このように、平安の中期以後から鎌倉時代のころより、都の風俗としてひろがったものであろう。

〇神事行事一般にみられる、サカキの重用は、こういう常緑樹信仰に根ざしていて、日本列島南部の大半が照葉樹林におおわれていたころの、古代人の生活から生まれ、神々の暮らしを神事として反映したものであろう。
・明治8年に制定された、現行の神社祭式では、神社の社頭に、サカキを2本たて、向かって右のサカキに玉を上枝に、鏡を中枝にかけ、左のサカキに剣をとりつけるのを定式としている。
 これも神を招きいれるための、いまに続く依り代のサカキである。
〇サカキと同じツバキ科のヒサカキも、サカキの代用として、あるいはサカキよりもひろく、神事に用いられる樹である。
 サカキの分布が、本州では茨城と石川より西部で、西日本が多いのに対し、ヒサカキは岩手、秋田から南に分布している。
 そのため、関東から東北の神事用は、主としてヒサカキが使われ、特に東京では年間70トンのヒサカキが八丈島から送られているそうだ。
(足田輝一『樹の文化誌』朝日新聞社、1985年、413頁~421頁)

太古は照葉樹林だった


〇第四部 神々の森からの道 「太古は照葉樹林だった」(441頁~454頁)には、次のようなことが述べられている。

・考古学者の鳥居龍蔵は、大正14年に刊行した『武蔵野及其有史以前』のなかで、有史以前(石器時代)の武蔵野の内陸部の景観を、次のように想像している。

 洪積層の高台は概して照葉樹の森林が多くあったと見てよろしいのである。しかもそれがほとんど横断の出来ない原生林である。どういう木が生えて居ったかというと、樫・欅・椎……こういうふうのものが多くあった。それが段々火の作用や色々の作用によって、あるいは焼かれあるいは伐り尽くされたので、今日のような武蔵野になって仕舞ったのである。

・大正の末期、まだ東京の近郊は、雑木林が多い田園風景であったろうが、鳥居は、太古における武蔵野は濶葉樹の森林であったといっている。
(現在の言葉でいえば、武蔵野は照葉樹林におおわれていた)

・同じく、考古学者の直良信夫の『古代人の生活と環境』(昭和40年)によると、
 前期の縄文式文化期の関東地方の植生は、こういう構成であったという。
 千葉県の加茂遺跡から発掘された植物のリストは次のようなものである。
 針葉樹には、モミ、イヌガヤ、カヤ、マキ、ナギ
 濶葉樹には、オニグルミ、アカシデ、クリ、クヌギ、ツブラジイ、シイ、マテバシイ、
  アカガシ、アラカシ、コナラ、ムクノキ、ケヤキ、クロウメモドキ、サカキ?、トネリコの類、エゴノキなど。

⇒この樹種構成からみると、このあたりは、若干の針葉樹と落葉広葉樹をまじえた照葉樹林であったといえる。
 その針葉樹も、現在では紀伊半島より南に分布するナギや、房総半島南部を東限とするマキなどを含み、全体としては暖帯的要素の濃い植生であった。

※歴史学上の文献による、古代の日本列島の植生については、『万葉集』や『日本書紀』『古事記』などの記述から想像するとしても、それ以前の縄文時代や弥生時代の植生を推定する文献史料はない。
ところが、弥生時代後期の3世紀ごろの日本については、古代中国の文書である『魏志倭人伝』が述べている。
(昨今の“邪馬台国論”をおこしている記述である)

・日本の植生について記録しているのが、注目される。
 倭の地は温暖、冬夏生菜を食す。……其の木には枏[だん](くす)・杼[ちょ](とち)・豫樟(くすのき)・楺[ぼう](ぼけ)・櫪(くぬぎ)・投・橿[きょう](かし)・烏號(やまぐわ)・楓香(おかつら)有り。
 その竹には篠・簳(やだけ)桃・支(かづらだけ)・薑[きょう](しょうが)・橘・椒[しょう](さんしょう)、蘘荷[じょうか](みょうが)有るも、以って滋味と為すを知らず。
(和田清・石原道博編訳『魏志倭人伝ほか』岩波文庫、昭和51年)

・ここに『魏志倭人伝』と通称されるのは、中国正史のうち、晋の陳寿(?~297)の撰んだ『三国志』のなかの、東夷伝の倭人の条をさしている。
 3世紀ごろの中国側からみた日本列島の事情である。
 ここに記された植物名が、日本のどの植物をさしているかは問題のあるところである。
 古来から植物の漢名を日本の植物名にあてはめる場合に、誤った場合が少なくない。

〇歴史学者の解釈のほかに、植物学者の方からも、意見が提出されているようだ。
 そのひとつが、苅住昇の『邪馬台国植生考』(『林業技術』334号)である。
 以下、次のように解釈している。
・まず、枏について
 諸橋の『大漢和辞典』をはじめ、和田清らはクスと読解している点に苅住昇は疑問を投げている。
 後に出る豫樟も同じくクスノキとして、二重になっている。
 枏という字は、楠の古字ではあるが、楠は、中国ではクスの仲間に用いず、むしろタブノキ属をさしている。
 だから、枏は、タブノキとした方が妥当という。
 豫樟の方は、中国古代の辞典『爾雅』からみても、クスノキにあてはまる。

・杼について
 杼はトチノキではなく、中国古文献でも薪炭用樹種の同じ仲間として、杼[ちょ]・栩[く]・柞[さく]・櫟[れき]をあげているから、コナラ属の樹とする。
 
・楺について
 楺はボケとされているが、ボケは中国原産の植物で、江戸時代に中国から渡来したといわれるから、ここではクサボケとみる方がよい。

・櫪について
 櫪は、櫟と同じで、コナラ属の総称らしいが、クヌギにもあてはまる。

・投について 
 投は、おそらく柀の誤りと思われるが、柀は、別名は榧樹とか野杉で、日本のカヤに近いものだから、カヤをさしたと考えている。

・橿について
 橿については、カシとしているが、コナラ属のうち常緑のアカガシ、シラカシ、ツクバネガシ、イチイガシなどの総称と解されるが、ここでは照葉樹林の重要メンバーであるイチイガシと考えたいという。

・烏號について
 烏號のヤマグワは、中国産のハリグワに似た、同じクワ科のカカツガユを想定している。

・楓香について
 楓香をオカツラとしているが、中国の楓香樹はマンサク科のフウをさしていて、これは日本には野生していない。
 日本では、昔から楓の字をカエデ科の樹に誤用してきた。
 ここでは、葉の形が似ている日本のカエデ属をさしているものだろうとする。

・篠・簳・桃・支
 篠はメダケ属やササ属、簳は日本のヤダケにあたり、桃支はよくわからないがシュロではないかと推定している。

〇こうして植物学の見地から、『倭人伝』の文章をいまいちど読んでみると、苅住昇は次のように訳している。

「その木には、タブノキ・コナラ・クスノキ・クサボケ・クヌギ・カヤノキ・カシ類・カカツガユ・カエデ類があり、竹にはササ類、矢に用いるササ類・シュロ類がある。ショウガ・タチバナ・サンショウ・ミョウガが有るが、それらがおいしいたべものであることを知らない」

・これらの樹種は、いずれも照葉樹林の森林植生に属している。
 地理的には、九州の大部分、四国や中国の海岸地帯、近畿の南部、東海や関東の南沿岸の一部などにあてはまるが、タチバナ、カカツガユ、シュロなどの分布からみると、九州地方がもっともふさわしいという。
・邪馬台国が、どの地方に存在したかは別として、魏から日本へ派遣された使節が、見聞した風景は、このような照葉樹林の景観であったろう。
・この『倭人伝』に登場する植物は、おそらく外国からの旅行者の目にとまった、主なる草木を記録したものだろうが、マツが入っていない点が、注目される。
 マツは、有史以来の日本人の生活には、欠くことのできない重要な樹種であったが、天然のままの照葉樹林では目立つものではなかったと思われるという。
 弥生時代より後、人口も増え、周囲の自然が破壊されるとともに、二次林としてのマツ林が出現してきて、マツは重要な樹木となってきたのであろうとする。

〇考古学の立場から、同じく弥生時代の代表的な遺跡である、静岡県の登呂遺跡から出土した、植物のリストをあげている。

 イヌガヤ、ナギ、イヌマキ、アカマツ、クロマツ、モミ、ツガ、スギ、ヒノキ、サワラ、ヤナギ、
 ヤマナラシ、オニグルミ、カバノキ、クリ、シイノキ、マテバシイ、ナラ、イチイガシ、シラカシ、
 アラカシ、アカガシ、ケヤキ、エノキ、ムクノキ、ホオノキ、クスノキ、タブノキ、カゴノキ、サネカズラ、
 マンサク、サクラ属、モモ、ナシ、リンボク、ネムノキ、サイカチ、フジ、コクサギ、
 カラスザンショウ、ドクウツギ、モチノキ、マユミ、モクレイシ、トチノキ、ヤマブドウ、ホルトノキ、
 モッコク、ツバキ、ナツツバキ、サカキ、ナツグミ、アキグミ、マルバグミ、タラノキ、アオキ

⇒これらの樹種の数をかぞえてみると、針葉樹と広葉樹の割合は、19対81となる。
 広葉樹のうち落葉樹と常緑樹の割合は、61対39となる。
 これらの植物名は、自生していたもののほか、植栽されたものや、生活材として他から運ばれてきたものもあろう。
 それらも考慮して、弥生時代の登呂付近の植物景観を推定すると、スギ、イヌガヤ、シラカシ、クスノキ、エノキなどの茂る森林であったろう、と植物学者の亘理俊次はいっている。

〇また、登呂遺跡の研究家である森豊は、クスノキ、タブノキ、ホルトノキなどを主として、その下にリンボク、モッコク、アオキなどの低木が生え、これに落葉樹や針葉樹もまじり、低湿地にはスギが多く、周囲の山地渓谷にはトチノキ、オニグルミ、クリ、ヤマブドウ、ナシなどが茂っていたと想像している。
 これは、現在の暖地の農山村の自然環境とたいして変わりはなく、それよりもわずかに暖地性の強い常緑広葉樹林の風景であった。

※この日本列島に、人類が住みはじめた痕跡の残っているのは、ほぼ3万年くらい昔からであるという。
 地球上では、最後の氷河時代にあたるウルム氷期が、約7万年前に始まり、その後、一時的に温暖な亜間氷期もはさまっているが、日本列島では、3万年前くらいのころは寒冷な時代であったようだ。
⇒東京の山の手にある江古田付近で、江古田針葉樹林化石層が発見されている。
 ちょうどこの時代にあたるそうだ。
 ここでは、アオモリトドマツ、カラマツ、イラモミ、チョウセンマツ、コメツガ、ブナノキなど、寒冷地あるいは亜高山性の植物遺体が発見されている。
※東日本の低地における、現在の気候に比べると、年平均気温が3、4度低く、人類の文化段階からいうと、前期旧石器時代と後期旧石器時代の中間にあたる。

・このころから、気候はまた寒さを加え、2万年から1万8000年前には、最終氷期の最寒冷期がおとずれた。年平均気温は現在よりも7、8度低くなった。
(だいたい、東京の位置が札幌と同じくらいの気候になっていた)

※こうした気候の変化があったから、地上の植物景観も、時代によってずいぶんと変遷している。
 これらの事情は、次の研究に詳しいという。
 広島大学の安田喜憲『環境考古学事始』日本放送出版協会、昭和55年
 神戸市立教育研究所の前田保夫『縄文の海と森』蒼樹書房、昭和55年

・照葉樹林(常緑広葉樹林)は、この最寒冷期には西南の方へ逃れて、九州と陸続きであった屋久島、種子島から南西諸島へ後退していたと考えられている。
(また、本州の紀伊半島や四国南部の海岸線にも、生き残っていただろう。房総半島にも、残留していたかもしれないという。)

・縄文時代早期にあたる9000年前くらいになると、気候は少しずつ温暖化してきた。
 だから、照葉樹林帯も、九州の平地、瀬戸内海周辺から四国、さらに近畿から東海地方、房総半島までの海岸線に回復してくる。
・約3000年昔の縄文時代晩期にいたると、九州の中央山地をのぞくほぼ全域、中国、四国、近畿の山地以外の地帯、東海地方の平野部から関東平野の全部、海岸線では、太平洋岸では仙台の南あたり、日本海側では新潟くらいまでが、照葉樹林帯に回復している。
(植物生態学からみた、現在の照葉樹林帯とほとんど一致している。)

※こういう原風景からみると、日本の文化の起源を縄文時代までさかのぼれば、少なくとも西日本では、やはり照葉樹林のなかの生活から始まったと考えることができる。
 照葉樹林文化という言葉は、吉良竜夫や中尾佐助など京都大学系の学者の提唱したものである。
※現在にまで続く照葉樹林帯は、7000年ぐらい前に回復したもので、それも日本列島の全体をおおっていたわけではなく、列島の北部から山岳地帯にかけては、落葉広葉樹林や針広混合林、亜寒帯針葉樹林が生育しており、そこにも日本人の祖先の生活があった。

<福井県の鳥浜貝塚について>
・この鳥浜貝塚は、縄文時代早期から前期にかけての遺物が出土している。
 安田喜憲は、この地方の植生変化を次のように分けている。
 これは、花粉分析の方法、つまり地中に残留していた花粉を採取し、その層位と花粉の種類から当時の植物の状態を推定したものである。それによると、
・1万1200年から1万200年前は、ブナ林の時代である。
 ブナ属の花粉がもっとも多い。ついで、コナラ亜属、トチノキ属、クルミ属、シナノキ属などの落葉広葉樹が多い。
(トウヒ属、モミ属、ツガ属、ゴヨウマツ属などの亜寒帯針葉樹もわずかにある。)

・ついで、1万200年から6500年前までは、ナラ林の時代である。
 コナラ亜属、クリ属、スギ属が、ブナ属に代わって多くなる。
 気候の温暖化を示していて、縄文時代早期の押型文土器をつくった人々は、この林で暮らしていたと考えられている。

・6500年前になると、鳥浜でも、大きい環境の変化があり、照葉樹林の時代に入っていく。
 花粉も、アカガシ属、シイノキ属、ツバキ属、モチノキ属などの常緑広葉樹が増え、エノキ属、ムクノキ属、スギ属も増加する。
 文化としては、縄文時代前期の始まりにあたる。
 弓、丸太舟、石斧柄、盆などの木器が出現する。土器の底部は、とんがり底から平底や丸底
に変化する。
 栽培植物として、ヒョウタンと緑豆があらわれ、漆も使われ始める。

・5700年昔のころになると、スギの花粉は全出土花粉の50パーセント以上となり、スギ林の時代となる。
 このころの降水量の増加とともに、人類による照葉樹林の破壊の跡へスギ林がひろがったようだ。
 発掘された板材の大半がスギ材で、土木や建築用にスギ材が多く使われるようになってきた。

【参考】弥生時代の登呂遺跡の場合
・弥生時代の登呂遺跡でも、スギ材が多く使用されているが、スギ材の利用は、縄文時代早期にまでさかのぼっていた。

〇日本民族の出自の問題は別としても、大和時代からの古代日本の、文化的あるいは政治的な中心は、九州から近畿地方にいたる照葉樹林帯にあったことは、事実である。
 しかし一方、縄文時代の遺跡の分布や貝塚の分布をみると、それらの多かったのは、むしろ関東地方から東北地方にかけての東日本であり、ナラ林の多かった落葉広葉樹林帯である。
※日本列島においても、照葉樹林帯の及ばない、地域および年代に生活していた人々の文化を、照葉樹林文化にならって、“ナラ林文化”と提唱しようという人々がある。
(安田喜憲、中尾佐助も、この言葉を提案している)

※想定されるナラ林文化圏は、中国大陸北部から朝鮮半島の大半、本州の中部地方以北から北海道南部を含む地帯である。照葉樹林帯のすぐ北に接する、北方農耕文化の地帯である。
 代表的な樹木としては、日本のミズナラ、中国北部のモンゴリナラ、黄河地帯のリョウトウナラがあげられる。
 この地帯にみられる作物としては、エンバク、コムギ、オオムギなどのある種の系統、野菜では、カブ、ネギ、ゴボウ、ダイズなどがあげられている。
 また、この地域は、騎馬民族の地域でもあった。
<著者の見解>
〇このように、日本列島は、北方系の色彩の強いナラ林文化と、南方系の照葉樹林文化が相接して消長してきた。
 縄文時代における、このような文化圏の地域差が、後年にまで尾をひいて、東日本と西日本の生活文化に、明らかな対比が生まれてきた、とみることもできる。

※日本の歴史が、あまりにも大和政権あるいは後の平安朝廷、後年にはその代行者としての江戸幕府あるいは明治政府を中心にして理解されてきたことは、事実であろう。そのため、東日本あるいは東北地方の文化が、地方文化として無視されがちであった。その意味で、照葉樹林文化に対して、ナラ林文化を想定することは、大きい意味がある。
 しかし、一方、日本人の祖先を問うとともに、アジア大陸から日本列島へと人類の文化が伝播してきた経路として、照葉樹林文化の道は、深い意義をなくしてはいない。 
 
※照葉樹林文化の要素として、中尾佐助があげているものは、チャなどの樹を茶として飲むこと、カイコのはく糸で絹をつくること、ウルシの樹液を漆塗りに使うこと、穀類のデンプンからカビによって酒をつくること、柑橘類やシソを食べること、などである。
 これらの農耕文化は、おそらく西端はヒマラヤ南麓のアッサムあたりから、ビルマやベトナムの奥地、中国の雲南省から、東は湖南省にいたる、三角形をした地帯が、その起源地であろうとされている。

(これを東亜半月弧とよんでいる。この名称は、西アジアのチグリスやユーフラテスの流域で、古く農耕文化が始まり、古代オリエント文明の発祥の地となった、三日月形の地帯、“肥沃なる半月弧”(ファータイル・クレスセント)にならったものである)

<福井県の鳥浜貝塚のなかの照葉樹林文化の証拠>
〇福井県三方郡三方町にある鳥浜貝塚の発掘によって、縄文時代の早期から前期にかけての遺物が数多く出土したが、そのなかには、照葉樹林文化の証拠として注目されるものがある。
①ひとつは、赤い漆塗りの櫛である。
 これが、いまのところ日本最古の漆製品であるという。
 中国でウルシの樹を利用するのは、揚子江以南の照葉樹林帯が中心となっており、おそらく日本列島へも中国大陸からウルシが入ってきたと考えられる。
 これが、縄文前期に発見されたわけである。

②また、ここではヒョウタンの果皮も出土している。
 いままで縄文時代後期や晩期の千葉県多古田遺跡や埼玉県真福寺遺跡でヒョウタンが出土しているが、この縄文時代前期の遺物にも発見されている。
 ヒョウタンは、アフリカやインドが原産地と推定されているが、これが食物として、容器と
して、または楽器として、照葉樹林帯を通じて、早くも伝播していたらしい。
 ヒョウタンの伝播は非常に古く、ポリネシアなどの南太平洋にもひろがっているが、中国の雲南省やタイ高地の少数民族は、ヒョウタンを楽器にしていて、これが笙(しょう)の起源ではないか、といわれている。
 
⇒これらの諸点から考えると、少なくとも西日本の照葉樹林地帯に住んでいた、日本人の祖先たちは、東亜半月弧あたりに起源する照葉樹林文化の影響をうけながら、縄文時代から弥生時代へ、さらに、古墳時代へと、その生活文化を発展させていったものだろう。
・照葉樹林に基礎をおく生活の文化は、また同時に、その精神文化の形成にもかかわってくる。
 日本人の伝統的な宗教である神道が、やはり照葉樹林を背景として発生し、後年にその祭祀行事が発展した後までも、照葉樹林における祖先の暮らしを、神々の暮らしの跡と受けとめて、その神事のなかに照葉樹林の色彩を色濃く残してきたものであろう。

※日本列島における文化の発達は、原初の姿である照葉樹林景観を、急速に消滅させ、自然破壊の後に生まれてきた二次林の、マツ林風景が、日本の代表的景観とみなされるようになってしまう。しかし、それでも、日本人は照葉樹林的な常緑樹信仰を維持し続ける。
 現代では、それも消えさろうとしているが、鎮守の森の姿が、日本人のふるさとである。
 照葉樹林のかつての景色を、象徴している。
 このように、著者は、人類の歴史と関連して、照葉樹林のもつ意味を考えている。
(足田輝一『樹の文化誌』朝日新聞社、1985年、441頁~452頁、498頁)

桂離宮にみる照葉樹林


「第三部 日本の庭の歩み」の「桂離宮にみる照葉樹林」(318頁~329頁)には、次のようなことが述べられている。
 
・ブルーノ・タウトは、ナチスのドイツを亡命した、進歩的な建築家であった。
 数年間、日本滞在の間に深く日本文化に傾倒し、いくつかの著作を通じて、日本人の眼にも新しい日本文化の見方を示唆した。桂離宮への再見も、そのひとつだった。
 当時、柳宗悦らの民芸運動などにも、共鳴していた著者は、タウトの説くところを聞いて、眼からうろこの落ちる思いであったという。
 タウトの著書『日本文化私観』(昭和16年刊)にも、次のようなことが書かれている。
 日本の建築の歴史において、まったく対蹠的な二つの作品、桂離宮と日光廟、一方は純粋建築術の真髄を、他方は外面的な技巧の熟練を、明確に示している。

・タウトは、もちろん建築家なので、桂離宮の建築的な考察は、ほかの著書にも詳しいが、庭園についてはあまり語っていないという。
 それでも、自然に一致するものを造ろうとする建築家は、風土との調和を心掛けねばならないし、日本の古い家屋は、廂を備えて眼を守り、また庭園へ眼を向ける習慣があると、説いている。
 この庭は、ほとんど緑一色で、欧風の花園の華麗さはまったくみられない。その特質は、屋内から外部へ向っての眺めが、どんな天候のときも、雨でも、雪でも、常に同じように美しい。雨の日は、ことに美しく、古い日本にとって芸術のなかでも特に情熱的に、雨はあつかわれている。そして、重要な部屋がすべて南向きで、陰をつくり、雨を防ぐ廂のあることは、日本建築にとって、当然の現象だった。
 
⇒これらの言葉は、また、桂離宮の建築と庭園についても、すべてあてはまるだろう、と著者はいう。
 著者は、昭和30年代、『週刊朝日』という雑誌の記者であり、『新・平家物語』を連載していた吉川英治氏らとともに、この桂離宮を拝観したそうだ。

〇桂離宮の庭園は、廻遊式庭園の集大成であり、典型である。
 古書院よりの観賞だけでなく、ひとたび庭の小径におりたって、橋を渡り、あまたの灯籠をたどりつつ、茶亭から茶亭へとめぐると、どの角度からも建築物と樹石の配分が美しく構成されている。
 これが、日本の伝統的な大庭園のひとつのタイプである。
 私たちの古い型の庭は、こういう大庭園の一角を切り出すところに、ひとつの目安があったようだ。
 東京においては、六義園、浜離宮などの大庭園を、いま観賞しても、その構成の骨組みにおいては、桂離宮と共通したものを含んでいる。



☆この日本の伝統庭園において、共通した印象として受けとるものを、庭木の面から、著者は考えている。
・庭の景観として眼にする構成要素は、石、灯籠、垣、道などの建造物もあるが、主として庭の視野を占めるものは、樹木にほかならない。
 ただ、いままでの日本の庭園史においては、石組みなどに比べると、樹木についての考究が、少なかったようだ。
 例えば、有名庭園の測定図などをみても、建物や石の配置は明示されているが、樹木は栽植位置の指定はあっても、その樹種の記されていないものが多い。
(最近の庭園の解説を読んでも、同様に、植えられている樹木の種類をあげたものが、ほとんどない)
⇒桂離宮についても、一般の目にふれる解説書では、ここにどんな樹木が植えられているか、はっきりしない。

〇さいわいに、『庭』(別冊20号、建築資料研究社、昭和56年)の「桂離宮の石灯籠」には、庭内の多くの灯籠の周辺の実測図が集められている。
 桂の庭には、24基の灯籠があり、松琴亭舟着の織部灯籠、笑意軒道の雪見灯籠、月波楼蹲踞の生込灯籠など、庭をめぐる廻遊路の足もとを照らす仕組みになっている。
 これらの灯籠をめぐる一角は、まわりの植栽とともに、茶庭らしい小景観を形成している。
 この各灯籠をめぐる小区域が、実測されて見取図となり、ここには植樹の名称も記入されているので、これを科別に整理してあげてみると、次のようになるという。
(この樹種をみただけでも、この庭園を構成している植物的景観は、ほぼ想像がつく)

・(ソテツ科)ソテツ
・(マツ科)アカマツ
・(スギ科)スギ
・(ヒノキ科)アスナロ
・(ブナ科)アラカシ シイ
・(ツゲ科)ツゲ
・(モチノキ科)イヌツゲ ウメモドキ
・(ツバキ科)ツバキ チャ ヒサカキ サカキ モッコク
・(ヤブコウジ科)ヤブコウジ マンリョウ
・(バラ科)サクラ シダレザクラ ウメ カマツカ カナメモチ
・(ツツジ科)ツツジ ミツバツツジ オオムラサキツツジ アセビ
・(モクセイ科)ヒイラギ
・(クマツヅラ科)ムラサキシキブ

※この庭内には、蘇鉄山といわれる築山があって、この部分だけは特異な風趣をみせている。
 ソテツは、中国南部、八重山以北の琉球列島、九州南部に分布する植物で、桃山時代に流行した異国趣味から、醍醐の三宝院など京都近辺の庭園に琉球から将来したものが、庭樹としての初めである。
・また、ウメは、中国大陸から渡来した園芸植物だが、桂離宮の造営された江戸時代初期には、ごく一般に普及していたようだ。

・これらの外来の樹木を除き、多く植栽されている常緑樹の、アラカシ、シイ、ツバキ、ヒサカキ、サカキ、ヤブコウジ、ヒイラギなどは、いずれも常緑広葉樹林のなかでも、日本列島の南半分をおおっているヤブツバキ・クラスと生態学的に分類される森林に、ことに多くみられえる樹木である。
 つまり、桂離宮の庭園の、重要な構成要素をつくっている樹木は、京都付近はもとより、日本列島の暖帯域にかつて自然に生育していた森林の植物が、主となっている。
 そこには、原始の自然が破壊された後に生まれる二次林の、主要樹種となるべきアカマツ、ツツジ、アセビなどもあり、落葉樹のサクラ、モミジなど、古くからの庭樹も含まれる。

※こういう庭園の樹種構成は、桂離宮をその代表としてとりあげたが、室町時代から江戸時代に造営された多くの名園、それらは今日でも日本各地の寺院や邸宅や公園で見ることができる。
 また、現代の住居の小庭園にいたるまで、ほぼ等しい傾向をもっている。
 つまり、日本の伝統的な庭園の多くは、その庭樹を、照葉樹林に由来しているといえる。
 これは、日本列島の自然の、立地から当然に帰結される、造園法則があっただろう。
・しかし、一面、日本の庭園が、照葉樹林源の樹木で構成されているのは、自然的立地によるばかりでなく、その常緑性という、樹木のもつ特性にも原因があるようだ。

※室町時代からは、中国大陸からあらたに禅文化が入ってくるとともに、日本の庭園技術も大きい影響を受けたであろう。
 いわゆる枯山水の始まるのも、このころからである。
 こういう庭園造形の変化から、現代における抽象芸術のように、樹石をもって美的形象をつくりあげる風潮が生まれてきた。
 そういう造形的要求から、四季によって樹勢が大きく変化する落葉広葉樹よりは、四季の変化の少ない常緑広葉樹および常緑針葉樹でもって、庭の景観を造りあげることが、始まったのではないか、と著者はみている。

※鎌倉時代から室町時代へかけて、庭樹としてとり入れられた常緑樹には、シイ、ヒサカキ、ビャクシン、イヌツゲ、シャクナゲ、ヒイラギ、マキ、カシなどがあり、これらの樹種は、平安の庭ではみられなかったものである。

※享保20年(1735)、北村援琴のあらわした『築山庭造伝』という、造園の指導書にも、庭樹についての記述がある。
 土手見越しの樹、つまり築山の背景をつくる樹は、マツがよく、あるいはカシ、モミ、トガ、マキなどもよし、とする。
 庵添えの樹、軒近く植えるものは、マツが第一で、クリ、カキがこれにつぐ。池際の樹は、何でもよい。そして、葉の落ちる冬木は、面前に植えないこと。
 江戸中期にいたると、こういう造園の原則は、ほぼできあがっていたようである。

〇桂離宮は、その後の江戸時代の武家庭園、例えば先にあげた小石川後楽園や六義園などにも、その様式を受けつがれた、いわゆる廻遊式庭園の完成された姿であった。
・これは、後陽成天皇の弟だった八条宮智仁(としひと)親王が、元和3年(1617)、京の西郊にあたる下桂村に創設した別荘である。
 このあたりは、清和天皇の皇子貞保親王の桂河山荘をはじめ、貴族たちの別業が多く営まれた土地で、桂川の流れに臨む田園地帯だった。
 教養豊かな親王は、唐の白楽天の庭園思想の影響なども受けながら、平安時代以来の貴族の庭園であった寝殿造りの庭を、さらに壮大華麗に展開して、ここに廻遊式林泉を実現した。

〇露地といわれる庭園様式は、茶道の始まるとともに行われてきたもので、室町時代以後の発生であり、桃山時代に形を整えた。
 武野紹鷗の京都四条の庵における“坪の内”は、その濫觴であろう。千利休において、この形式も大成される。

・ところで、露地の植栽については、茶道においていくつかの約束があるようだ。
 『茶の湯六宗匠伝記』によると、次のようである。
 庭木花ある木を嫌ふ、勿論草花の分嫌ふ、葉落易きものも嫌ふ、其外楓は格別也口伝、植ゑて能き物、松、梅、楓、たも、もつこく、南天、杉、椎、樫、もち、ゆづり葉、榊、柊、らかん樹(イヌマキ)、いぶき、びやくしん、たらゆ(タラヨウ?)、あて(アスナロ)、檜、枇杷、かなめ、槙、犬槙、やとめ(ツゲ)、蘇鉄、棕櫚、銀杏、虎の尾、ほう、柏、真弓、山うるし、夏はぜ、とろさ(不明)、糸すすき、をもと、熊笹、石菖、青木、白鳥花、竹の類也。

・現代においても維持されている茶庭の多くは、ほぼこれらの樹種で構成されているようだ。
 ウメ、ソテツ、イチョウなどの外来の園芸植物は別として、ここにあげられている樹木は、照葉樹林系の常緑樹を主として、照葉樹林相の変遷した後に発生する二次林にみられる落葉樹をまじえている。
前者は、カシ、シイ、ユズリハ、モチ、モッコクなどの常緑樹であり、落葉樹には、カエデ、マユミ、ヤマウルシなどがあげられる。

・現代の露地において、よく植えられる上木には、針葉樹に、マツ、スギ、ヒノキ、サワラ、マキ、コウヨウザシなど。
 常緑樹に、カシ、シイ、モチノキ、モッコク、ツバキ、サザンカ、サカキ、ヒサカキ、トベラ、タラヨウ、モクセイなど。
 落葉樹では、サクラ、ウメ、アオギリ、ヤナギ、カエデ、サルスベリ、ザクロなどがあげられる。
 そのほか、ニシキギ、ハクウンボク、イチョウ、ハゼ、ネムノキ、ケヤキなどが植えられることもある。 
 このほか、下木として、ナンテン、ヒイラギ、ヤブコウジ、ヤツデなどの多くの低木が添えられる。

・これらの植栽景観は、やはり照葉樹林的風景を主幹として、それに二次林的な落葉樹林を加味したものといえる。
 こうしてみると、室町時代いらいの廻遊式庭園に発して、江戸時代の武家庭園、あるいは露地や茶庭、ひいては明治以後の民家庭園の植物的水源は、やはり日本列島の照葉樹林に由来している、と著者は考えている。
(足田輝一『樹の文化誌』朝日新聞社、1985年、318頁~329頁)

『源氏物語』の植物


・『源氏物語』は、一編の王朝の小説である。
 ただ、そこに描きこまれている人情や風俗には、平安時代における貴族社会の実相が、しのばれることが多い。
 広川勝美編の『源氏物語の植物』を参考にして、著者はそこに登場する植物名を数えている。

・“桜”という文字は、『源氏物語』のなかで、64回使われている。
 これに“樺桜”“山桜”の場合を加えると、71回になるそうだ。
(この場合は、植物の名称として“桜”を用いた場合のほか、比喩や修辞として、あるいは色名、人物名、そのほかの事物の名称として用いられたものも含んで、勘定している。)

・同じように、“梅”については、40回出てくる。
 それに、“紅梅”の23回、“梅花”の1回を加えると、64回になる。
※この点では、万葉時代にくらべて、サクラに対してウメが優勢でなくなって来たことを示す。
 それとともに、ウメのなかでも紅梅が好まれて来たことも意味している。

・また、藤原一族に因縁の深かった植物としてのフジの場合を数えてみると、“藤”の字は61回出てくる。
 
※こういう数字を並べてみても、『源氏物語』のなかでは、サクラという植物が、相当に重い役割をもっていたことがわかる。
 
・この物語では、貴族たちの生活の背景としての、四季の季節感は、きわめて重要な意味を持っている。
 現代にいたるまで、日本人の文化的な伝統、文芸や美術のなかに生きてきた季節感は、ここでも、芸術的感興に必要な触媒として働いている。

☆そこで、万葉のころから日本の知識人たちが好んできた論争、春と秋といずれが優れているか、という、いわゆる春秋論はしばらくおくとして、『源氏物語』のなかで、“春”の支持者として描かれているのは、紫の上である。
 光源氏をめぐる女たちのなかでも、紫の上の位置からいって、彼女が“春”に擬せられているということは、意味深いことである。
 したがって、サクラは、『源氏物語』の背景をつくる植物のなかでも、もっとも重要なもののひとつになっている、と著者はみている。

・光源氏が、六条院に壮大な邸宅を新築することは、乙女(おとめ)の巻に語られる。
 南東には春の庭をつくり、ここには最愛の紫の上が住む。
 北東は夏の庭で、花散里に当てられる。
 西南は秋の庭、ここはかつての秋好中宮(あきこのみのちゅうぐう)の旧邸を改造したので、中宮がそのままに住居とした。
 西北の冬の庭は、明石の上を迎えた。
 
・なかでも、春の庭の美しさは、次のように描かれている。
  南の東(ひむがし)は山高く、春の花の木、数をつくして植ゑ、池のさま面白くすぐれて、御前(おまへ)ちかき前栽(せんざい)、五葉(ごえふ)、紅梅、桜、藤、山吹、岩躑躅(いはつつじ)などやうの、春のもてあそびをわざと植ゑて、秋の前栽をばむらむら仄(ほのか)にまぜたり。

 こういう四季の趣きをこらした四方の庭に、源氏にゆかりの深い美女たちが、それぞれに住んで、華やかな絵巻のような生活を展開していく。

・春三月のある日、秋好中宮の女房たちは池に舟を浮べて、水続きの紫の上の庭を訪れる。
 春の庭は、「外には盛過ぎたる桜も、今盛にほほゑみ、廊を繞(めぐ)れる藤の色もこまやかに」、龍頭鷁首(りょうとうげきす)の美しい唐様の船からは楽の音が流れ、この世ならぬ仙境に遊ぶ想いの春の宵が、ふけていく。

やがて栄華の日々も過ぎ、紫の上もはかなくなって、「外の花は一重散りて、八重咲く花桜さかり過ぎて、樺桜はひらけ、藤は後れて色づきなど」している庭前に、源氏は亡き人を淋しく偲ぶ。
 光源氏と、紫の上との愛の生活の背景には、このように春の花のサクラが、はなやかな色どりを添えてきた。

・花宴(はなのえん)の巻は、「二月(きさらぎ)の廿日(はつか)あまり、南殿(なでん)の桜の宴せさせ給ふ」というくだりから、始まっている。
 紫宸殿の左近の桜の花盛りをめでながら、宮廷での宴会が描写される。
 若い光源氏は、こういう貴族たちの宴会の場でも、ひときわ輝く存在である。
 冠にさすかざしのサクラの花を賜って、春鶯囀(しゅんのうてん)という舞楽を一曲舞えとせめられるので、ほんの一段だけ舞うのだが、水ぎわだった舞い振りだった。
 その夜、酔って御所の庭をさまよった光源氏は、朧月夜(おぼろづくよ)の君と結ばれる。

〇“南殿の桜”は、王朝文化における、サクラの位置を象徴する存在である。
 このサクラの由来については、本居宣長は『玉勝間』のなかで、このように記している。
  歴代編年集成ニ云ク、南殿ノ桜ノ樹ハ、本ハ是レ梅ノ樹也、桓武天皇遷都ノ時、植被ルル所也、而ルニ承和年中ニ及ヒテ枯失セヌ、仍テ仁明天皇改メ植被ル也、今度ノ焼亡ニ焼失セ畢ヌ、造内裏ノ時、李部王ノ家ノ桜樹ヲ移サ被ルル所也、件ノ樹、本ハ吉野山ノ桜ト云ヘリ。

※ここで、今度の焼亡といっているのは、天徳3年(959)のことである。
 そして庭前のもう一本のタチバナの樹については、こう記している。
  或記ニ云く、遷都ノ時、彼ノ樹ノ在ル所、橘大夫ト称スル者ノ家ノ後園也、件ノ後園ニ橘有リ、即チ南殿ノ前ナリ、以テ賞翫ス、其後回禄ノ後、彼ノ東三条ノ樹ヲ栽被ルト云ヘリ。

※回禄とは、火災のことである。
 ここに橘大夫と記されているが、当時の平城京の地は帰化人であった秦氏によって開拓され、内裏のあたりは、秦川勝(はたのかわかつ)の屋敷跡だとされている。

・これらを見ると、平安京が創設された当時の、桓武帝の内裏では、紫宸殿の前庭に、ウメとタチバナの樹があったことがわかる。
 このウメは、いつのころかサクラに変わって、村上帝の天徳のころにはすでにサクラであった。
 これがいつごろウメからサクラに変わったのか、古記録の上からもう少し追ってみる。
 『続日本後紀(しょくにほんこうき)』の承和12年(845)の2月のところに、
「天皇紫宸殿ニ御シテ侍臣ニ酒ヲ賜ウ。是ニ於テ殿前ノ梅花ヲ攀(ひ)キ、皇太子及ヒ侍臣等ノ頭ニ挿シ、以テ宴楽ヲ為ス」と書かれている。
 さらに、『三代実録』の貞観16年(874)の8月24日には、
「大風雨、樹ヲ折リ、屋ヲ発ク。紫宸殿前ノ桜、東宮ノ紅梅、侍従局ノ大梨等、樹木名ノ有ルモノ皆吹倒レヌ」とある。

⇒こういう記録から推察してみると、紫宸殿の前のウメは、仁明帝の承和年間までは存在したが、清和帝の貞観年間にはサクラに変わっている。
 この間の約30年の、おそらくは『玉勝間』にある仁明天皇のころに、サクラに改められたものであろう、と著者はみる。
 
・以来千余年にわたって、現在の京都御所の庭にいたるまで、“左近の桜”と“右近の橘”として、その伝統が保たれてきた。
(足田輝一『樹の文化誌』朝日新聞社、1985年、96頁~100頁)

マツと日本文化


「第一部 サクラ文化の系譜」の「“ハナ・ハト”から軍国の花へ」には、マツについて次のように述べている。

・著者は、『日本唱歌集』(岩波文庫版)によって、明治の初めから昭和20年の敗戦まで、日本の子供たちによって歌われ、また私たちも愛してきた唱歌140曲について、登場植物を調べてみたそうだ。
 その結果、マツ13曲、サクラ12曲、ヤナギ10曲がベスト・スリーだったという。
・ここでマツが最多となっており、これにつぐのはサクラである。
マツは、常緑の樹として道徳的意義をも表現し、また国民に親しい風景の一素材であるのに対して、サクラは日本の古い情緒をうけつぐものである。
・ここで興味のあるのは、唱歌のなかではマツやヤナギが多く、また戦前戦後を通じて流行歌曲にもヤナギが多く歌われていることである。
 マツは、日本に昔から生えていた樹であるが、ヤナギは古代に中国から渡来してきた栽培植物である。

・日本人が遠い昔から、これらのマツやヤナギを愛好してきたのは、何に由来しているのだろうか。
 中国の古代思想をみると、マツもヤナギも神性のある樹木として、信仰の対象となっていたものである。
 日本でも松竹梅というように、中国ではマツは樹木の第一位であった。
 松の字は、百木の長として、公の爵位になぞらえて与えたといわれる。
 “社木”として、先祖をまつる社稷(しゃしょく)の中央に植えられ、一族繁栄の象徴としたり、また墓の標識樹ともされた。

・ちなみに、ヤナギは、大陸北部の乾燥地帯における唯一の緑の樹として、狩猟地や農耕地の目標とされて、呪術的な霊能のある信仰の対象となってきた。
 春もっとも早く芽をふくヤナギは、邪を払う力あるものと信じて、北京の清明節のえんぎものとして使われた。

・日本におけるマツやヤナギに対する畏敬は、遠くこの中国思想から由来するものではないか、と著者はみている。
 そして長い日本の歴史を通じて、独自の日本の情緒をも加えて、われわれのマツやヤナギについての感銘を、熟成させてきたのであろう。
 芭蕉の言葉に、不易と流行ということがある。時代の流れにかかわらず変わらないものと、時の世情より生まれきたるもの、というほどの意味であろう。
 もしわれわれの植物についての嗜好にも、不易と流行というものがあるとすれば、マツやヤナギは“不易の樹”であり、サクラやバラは“流行の樹”といえなくもない。
(足田輝一『樹の文化誌』朝日新聞社、1985年、23頁~25頁)

〇「第二部 樹々の博物誌」の「能と舞台の背景――マツ」には、マツについて次のように述べている。

・上野の博物館には、長谷川等伯の『松林図屏風』がある。
 墨一色で描かれた、霧雨にけむるアカマツの林は、むしろ科学的といえるまで、その生態をいきいきと描写しつくしている。
 等伯は、能登の七尾の出身である。
 アカマツは、一般に低山地帯に多い。海岸の風景を特色づけるのは、主にクロマツなのだが、この能登地方ではアカマツが海岸にまで分布しているそうだ。
 この故郷の、アカマツ林を等伯は筆にしたものだろうか。
 いまも、石川県羽咋地方の加賀街道には、『松林図』にそっくりのアカマツの並木があるという。
 しかし、日本の美術の歴史のなかで、アカマツがはっきりと描かれたことは、あまり多くないようだ。美術の世界では、むしろクロマツの方が主役であった。
 同じ桃山時代の、狩野永徳の描く『松鷹図』は、明らかにクロマツである。
 江戸時代の琳派の俵屋宗達などのモチーフとしたのも、クロマツであった。
 
・松の図といえば、すぐに思い出すのが、歌舞伎や能の舞台である。
 おなじみの『勧進帳』のような芝居の背景には、苔むした太い幹もみごとな、クロマツの老樹が描かれている。
 能舞台においても、ほぼ同じ図柄の老松がある。
(歌舞伎の方では、これを松羽目といい、こういう背景が演じられる外題を、松羽目物という。これらは、謡曲に由来している演題だから、この舞台装置も、能舞台を模したものである)

・『春日大宮若宮御祭礼図』という古本があるそうだ。
(原本は、寛保2年(1742)の刊行だが、大正10年(1921)に春日神社から復刻刊行された)
 この本は、奈良の春日神社の、若宮の祭の次第を、記述したもので、昔の祭礼の風俗が記されている。
 そのひとつに、『松之下之図』がある。
 11月27日、若宮の祭神をお旅所(たびしょ)に移し、渡りの行列が影向(ようごう)の松の前で、猿楽や田楽などを行う。

 このマツは、神の依り代(よりしろ)とされ、それに対して、芸能を奉納するわけである。この行事は、いまでも12月17日に行われている。

・今日の能は、室町時代の猿楽に由来するものであるが、大和にいた猿楽の座たちが、春日の影向の松の前で奉納した故事を、やがて能台芸能となって後にも背景として残したものだといわれている。
 能では、このマツの描かれた背景を鏡板という。豊臣秀吉が天正9年(1581)に桃山城内の能舞台に描かせたのが最初だといわれる。
(この舞台は、現在は京都西本願寺に移されて、国宝となっている)

・折口信夫博士は、この鏡板の由縁について、さらに民俗学の立場から、その説明を加えている。
 古から、神木であるマツを伐ってきて、民家の庭にひきいれて、その前ではやす祝福芸能があって、これを松拍(まつばやし)といった。この形式が、庭から舞台へと移され、老木を描くようになったというのである。

・春日の影向の松も、その神降しのひとつの形式であり、こういう松拍の思想は、いまでも日本各地の神事や民俗行事のなかに、いろいろな形で残されているそうだ。
 京都の祇園祭に登場している鉾(ほこ)も、そのひとつだろうし、かつては大阪の夏祭に出てきた「だいがく」という出し物も、その流れであったようだ。
(『夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ)』という芝居で、団七九郎兵衛の殺しの場面の背景に、遠くを通る提灯の並んだ竿が「だいがく」で、この夏の宵の浪花情緒も、いまは消えてしまった。)

・これらの風俗も、日本の長い伝統のなかから生まれてきた、マツ信仰からの名残りであった。
 しかし、このマツ信仰は、太古から日本人の本来のものであったか。
 この点、著者は少し疑問を抱いている。
 著者は、伊勢神宮の神域林を訪れたことがあるという。
 神宮の前を流れる五十鈴川の上流へさかのぼって、神山とされる神路山や島路山の森林へ入っていく。ここは1000年にわたって、神宮の領域とされ、その造営の資材を伐り出すために営まれてきた森である。
 その歴史には、曲折はあったが、日本の原初に近い森林の姿が、比較的に保たれてきたところである。
この神域林では、シイ類、カシ類、クスノキなどの、いわゆる照葉樹林にまじって、アカマツ、スギ、ヒノキなどの針葉樹が、美しい常緑の森をつくっている。

・例えば、縄文時代にさかのぼってみると、人口のまだ少なく、農耕も発達していなかった日本列島の、東北部や高地を除くほとんどの山野は、ほのぐらいまで茂った照葉樹林に覆われていた、と想像されている。
 照葉樹林とは、シイ、カシ、クスノキ、ツバキなど、葉の表面に光沢のある常緑樹を主にした森林のことである。
 地球上では、ヒマラヤの麓から、中国大陸の中南部、朝鮮半島の南部を経て、日本列島の大部分に帯状にひろがっていたと思われる、森林の原型なのである。

・おそらく、日本人の祖先はこの照葉樹林のあった大陸から渡ってきたものだろうし、私たちの農耕文化の多くも、この照葉樹林のなかで発生したものであったろう。
 だから、日本人の原生の宗教であった神道も、この照葉樹林のなかから生まれてきたものではなかろうか。神事に用いられる植物を調べてみると、照葉樹林の草木が多く登場してくることも、それを物語っている。
 一例をあげれば、神事に必ず使われるサカキやヒサカキも、照葉樹の仲間である。
 神域林をたずねた時、伊勢神宮の神事についても、聞いてみたそうだ。
 毎朝の神饌は土器にトクラベという木の葉を敷いて、その上にのせるというが、これはミミズバイという常緑樹の葉であった。これらの神饌をつくる火は、いまもヤマビワ材の火きりを、ヒノキ板の上で摩擦させておこすのである。このヤマビワも、照葉樹のひとつである。
 このように、神事に照葉樹が使われていることは、はるかに遠い祖先の暮らしぶりを、いまに伝えるものであろう。 
 日本人の文化が、照葉樹林文化の流れをくんでいることは、これらの例からも推察できる。

・いまひとつの例をあげよう。
 マツ信仰のもっとも一般的な風習と思われるものに、現代においても続いている正月の門松がある。
 しかし、この歳神(としがみ)の依り代と思われる飾り物も、地方によっては、マツではないところもあって、サカキ、タケ、ツバキ、そのほかの常緑樹を用いる場合もある。
 マツをたてる風俗がひろく行われるようになったのは、平安時代末から鎌倉時代といわれる。
 
・これらの点を考えると、マツ信仰の起源は、もともと常緑樹への信仰であり、それが後にマツへと転化集中していったのではないか、と著者は推理している。
 日本人の祖先たちが住んでいた照葉樹林の、なかでも一年中緑の色を変えずに茂る常緑の大樹に、神の姿を発見し、尊崇してきたものであろう。
 『万葉集』などの古代の文芸からみても、常磐木(ときわぎ)に対する古代人の畏敬をうかがうことができる。
 
・こういう常緑樹信仰が、どうしてマツ信仰へと集中していったのだろうか。
 それは、黄河流域を中心とした古代中国文化が、日本列島へと仏教伝来に前後して渡ってきたからではないか、と著者は推察している。
 古代中国では、松柏は百木の長だというので、松には公の爵位を、柏には伯の爵位をあたえたという。
(これは、王安石の『字説』にのっているが、後世につくられた説で、あまりあてにはならないそうだ)
・しかし、松竹梅という組合せもあるように、古来、マツは樹木中の第一位とされてきたのは事実で、社木として信仰されてきたようだ。
 社木というのは、支配する領土や、国家を表示し、また一族の繁栄と長寿を象徴する樹木のことである。 
 社稷(しゃしょく)という言葉は、古代中国で天子が祭を営んだ土地や五穀の神のことであるが、いまでも国家という意味に使われる。
 その祭の場所に植える樹の第一として、古代からマツがあげられてきたわけである。

・中国のマツは、日本のアカマツやクロマツとは、やや違っている。
 黄河以北に多いのは、赤松または油松といわれる種類で、これを燃やしたすすで墨をつくった。
 馬尾松というのは、日本のクロマツに似ていて、中国中南部に多い。
 白皮松または虎皮松といわれるのは、三針葉で、老枝がまがりくねって、おもしろい姿となる。中国中北部に生える。
 昔の中国では、これらをまとめて、松と称していた。
※ちなみに古代中国の『詩経』という古典は、いまから3000年ほど昔の、民謡や宮廷の饗宴歌などを集めた歌集だが、その「斯干(しかん)」という篇に、こういう言葉がある。
  竹ノ苞(しげ)キガ如ク、松ノ茂ルガ如ク、兄及ビ弟、式(もっ)テ相好(よみ)シテ、相猶(はか)ル無ケン。
(タケやマツが青々と茂るように、兄弟が仲好くして、相争うことがない、という意味)
 太古の、中国大陸に生きた民衆たちも、こういうマツの歌を合唱しながら、祝いの酒をくんだことであろう。

 こういう古代中国のマツ信仰が、いろいろな文物とともに日本に伝えられ、日本人の民族的な習癖として、外来文化への強い傾倒とともに、本来の常緑樹信仰のなかへ融合していったのではなかろうか、と著者はみている。
“日本的なるもの”という問いを、歴史に向かって投げかけるときには、常に中国大陸からの影響を、忘れることができない。私たちが、いま誇りとしている日本の文化とは、このようにアジアのいろいろな文化の吸収と調和の上に生まれてきた。
 マツをめぐる草木文化が、それを物語っている。
(足田輝一『樹の文化誌』朝日新聞社、1985年、173頁~181頁)






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