歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪日本の植生の変遷~田中淳夫氏の著作より≫

2022-11-30 19:00:04 | ガーデニング
≪日本の植生の変遷~田中淳夫氏の著作より≫
(2022年11月30日投稿)

【はじめに】


 最近、林業にも関心を抱きつつある。
 というのは、相続により、山林を所有したことがきっかけである。
 親父が亡くなって3年が経つが、相続した土地には、曾祖父が明治から昭和初期に買い求めた山林が2反余りある。それゆえ、地元の森林組合にも加入した。
 ただ、山林の固定資産税の額はさほどではないが、その管理や活用法が悩みの種である。
 加えて、裏山には、孟宗竹が繁茂して困っている。
 
 そこで、林業に関する本を探して、読み進めている。
 今回は、田中淳夫氏の次の著作を一読してみた。
〇田中淳夫『森林からのニッポン再生』平凡社新書、2007年
 日本の植生の変遷について、簡潔に述べてあったので、このテーマでまとめておきたい。
 なかでも、江戸時代後期の絵師・安藤広重が描いた「東海道五十三次」という浮世絵をもとに、江戸時代の意外な側面を浮かび上がらせているのは、興味深かった。
 著者の住む生駒山(いこまやま)の山麓では、棚田地帯でレンゲはうまく育たなくなってしまったそうだ。また、マツがマツクイムシ(マツノザイセンチュウ)に感染して枯れたり、モウソウチクが雑木林や放棄された棚田を破壊したりしていることなど、生態系の危機について述べている。こうした点は身近な問題として、関心がある。
 
【田中淳夫(たなか あつお)氏のプロフィール】
・1959年大阪府生まれ。
・静岡大学農学部林学科卒業。
・出版社、新聞社勤務を経て、森林ジャーナリストに。
・おもな著書に次のものがある。
『日本の森はなぜ危機なのか』
『田舎で起業!』
『田舎で暮らす』(ともに平凡社新書)



【田中淳夫『森林からのニッポン再生』(平凡社新書)はこちらから】
田中淳夫『森林からのニッポン再生』(平凡社新書)





〇田中淳夫『森林からのニッポン再生』平凡社新書、2007年

【目次】
はじめに
第一章 日本の森林の素顔を探る
第二章 ニッポン林業盛衰記
第三章 森から見たムラの素顔
第四章 森と林業と山村を考える
おわりに
参考文献



はじめに
第一章 日本の森林の素顔を探る
1 日本は世界に冠たる森林大国
2 存在しない「太古からの原生林」
3 生物多様性は「破壊」が生み出した
4 「緑のダム」は本当に存在するか
5 自然をむしばむ見えない脅威
6 二酸化炭素を出す森と貯める街
7 日本人は森林が嫌い?
8 森林は人の心を癒せるか

第二章 ニッポン林業盛衰記
1 海外に打って出る日本林業
2 林業は焼き畑から生まれた!
3 木を伐ることで木を育てる
4 林業の本質は廃物利用
5 天然林より植物の多様な人工林
6 日本林業が没落した本当の理由
7 台風の目・中国の森林と林業
8 もう一つの林業、バイオマス・エネルギー


第三章 森から見たムラの素顔
1 山村は、もう一つの日本
2 木を売らなかった山里の経済
3 山村の人口が多すぎた時代
4 里をおびやかす野生動物
5 地図から消える村と集落
6 田舎は「困っていない」
7 田舎に向かう移住者の波

第四章 森と林業と山村を考える
1 人と森がつくる生態系社会
2 林業は環境を守る最先端ビジネス
3 山村から描く日本の未来像

おわりに
参考文献




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・江戸時代は禿山が多かった?~安藤広重の「東海道五十三次」という浮世絵
・戦後数十年で森林率が20%以上増えた
・日本列島の森林の歴史
・吉野郡川上村の550年続く儀式
・山村は“遅れた地域”か
・生駒山の山麓の現実問題





江戸時代は禿山が多かった?


「第一章 日本の森林の素顔を探る」の「1 日本は世界に冠たる森林大国」の「江戸時代は禿山が多かった?」(18頁~21頁)では、次のような意外な事実が述べられている。

・江戸時代後期の絵師・安藤広重が描いた「東海道五十三次」という浮世絵がある。
 それは、江戸と京都を結ぶ五十三の宿場を中心とした風景画である。
 この絵をよく眺めると、江戸時代の意外な側面が浮かび上がる。
 それは、江戸時代の自然環境である。とくに浮世絵の背景の山に目を向けてほしいという。
 たとえば、安藤広重「東海道五十三次 金谷」(静岡県島田市)の背景の山の状態に注意してほしい。

・現在、日本のどこの山を見ても、まず目に飛び込んでくるのは、緑である。
 森林が山を覆っているからだ。山と森は同義語にもなっている。
 ところが、この浮世絵に描かれている山は、大半が禿山(はげやま)なのである。
 たまに木が描かれていても、たいていマツの木である。
(マツは痩せた土地に生える木であり、その土壌が貧栄養になっている証拠である。)
 しかも周辺には石が露出して、いかにも荒れた様子である。
(お世辞にも「自然豊かな江戸時代の風景」とは表現できない)

・安藤広重は、何か意図を持って禿山を描いたのだろうか。
 いや、そんなわけはない。なぜなら、東海道だけの特殊事情ではないからである、と著者はいう。
 当時の日本は、全国各地、人里に近い山は、ほとんどこうした状態だった。
 広重だけでなく、当時描かれた様々な絵巻物や屏風絵を見ると、見るも無残な森の姿が浮かび上がる。
 たとえば、ブナの原生林が世界自然遺産に指定された白神(しらかみ)山地も、弘前(ひろさき)の絵師・平尾魯仙(ろせん)が描いた画を見ると、実は広範囲に禿山が広がっていたことがわかる。
 比叡山も禿山で、京の町のど真ん中から山頂の延暦寺の伽藍を見えていた事実が、各種の屏風絵から見てとれる。

・絵画では信用できないと思われるなら、明治時代、いや昭和初期でもよいから、風景写真を探して見るがよい、と著者は強調している。
太平洋戦争直後に米軍が撮影した空中写真でもよい。これまた、見事に禿山が目につく。
 岩だらけで、せいぜい草地が写っているだけであるという。
 また、地球環境をテーマにした愛知万博の開催地として、当初予定されていた海上(かいしょ)の森は、現在は豊かな雑木林が広がっているが、明治の頃の写真を見れば、岩がむき出しで、木々が薄く点在するような禿山であるそうだ。

・それに比べると、いかに現代の日本は豊かな緑に覆われていることか。
 禿山など、よほど探さないと目に入らない。
 足尾の銅山跡は、長らく鉱毒のために草木が生えなかったが、今では緑化に成功している。
(むしろかつてのグランドキャニオンのような風景を懐かしむ人さえいるそうだ。)
 滋賀県南部の田上(たなかみ)山地は、尾根筋に露出した岩々の景観を「湖南アルプス」と称し、ハイカーたちには人気のコースになっている。だが、そのむき出しの岩は、かつての禿山時代の名残である。
(田中淳夫『森林からのニッポン再生』平凡社新書、2007年、18頁~21頁)

「戦後数十年で森林率が20%以上増えた」(21頁~24頁)

戦後数十年で森林率が20%以上増えた


第一章 日本の森林の素顔を探る
「1 日本は世界に冠たる森林大国」の「戦後数十年で森林率が20%以上増えた」(21頁~24頁)

・統計の数字を見ても、現代の日本は、有史以来の森林が豊かな時代を迎えている。
 その森林面積は約2500万ヘクタール。
 森林率(国土に占める森林面積の割合)は67%。これほどの高率の国は、世界的にも珍しい。

・ところが、1891年(明治24)前後の森林面積は、約1700万ヘクタールだったそうだ。
 これを現在の国土面積で計算してみると、森林率は約45%にすぎない。
 明治時代は、現在よりもずっと緑が少なかった。
 そして、この数字は、増減を繰り返しつつ推移して、太平洋戦争直後もそんなに変わらなかったようだ。
 それが、戦後の数十年間で森林率は20%以上、面積にして800万ヘクタールも森林が増えた。(世界でもまれに見る増加速度と言える)

※大半の日本人は、今こそ緑が失われている、と感じている。
 その原因の多くは、マスコミ情報にあるようだ。
 森林を切り開いてダムを建設したり、ゴルフ場が作られたりするとニュースになりやすい。
 さらに熱帯雨林の伐採とか沙漠化の進行など海外の情報も重なる。
 それに加えて、身近な市街地の緑地が宅地造成で切り開かれたのを見た、というような体験から「日本の森林は危険」と思い込んでしまうようだ。

☆少しマクロな数字で、日本の森林を見てみよう。
 FAO(国連食糧農業機関)が2005年に発表したデータによると、
  世界の森林面積は、約39億5206万ヘクタールである。
  陸地面積のほぼ3割が森林ということになる。そのうち、4割が熱帯地域にあるが、年間約1000万ヘクタールずつ森林が減少しているという。
⇒原因は、農園開発や焼き畑、過放牧、薪炭(しんたん)材の過剰伐採などである。
 ヨーロッパでは、大気汚染や酸性雨などの森林被害も増大している。

・森林率で見ると、南米が51%、ヨーロッパが46%と比較的高率である。
 アジアは18%、アフリカ22%、北中米26%と下がある。
 世界全体では、30%程度である。
・国別の森林率では、高い順に見れば、
 フィンランド72%、スウェーデン66%、ブラジル64%、インドネシア58%、ロシア50%。
 下の方を見れば、広大な森林があるように見えるカナダで27%、アメリカ25%、イギリス12%、中国16%、フィリピン19%である。沙漠が広がる中近東・北アフリカ地域には、コンマ以下の森林率の国が多数並ぶ。

※こうした国々と比べると、日本の森林率は群を抜いている。
 しかも北欧やロシアのように人口が少なく国土の大部分が寒冷な地域でもなければ、アマゾンを抱えるブラジルみたいに未開発地域がたくさんあるわけでもない。
 それどころか、1億2000万人を超える人々が国土にひしめく人口稠密国である。
 この条件で高い森林率を保っていることは、ある意味、奇跡的だ、と著者はいう。
(田中淳夫『森林からのニッポン再生』平凡社新書、2007年、21頁~24頁)

「日本列島の森林の歴史(24頁~25頁)

日本列島の森林の歴史


第一章 日本の森林の素顔を探る
「1 日本は世界に冠たる森林大国」の「日本列島の森林の歴史(24頁~25頁)

・何万年も前の日本列島の森林率は、どの程度だったのか、はっきりわからない。
 全土が森林に覆われていた可能性もある。だが、少なくとも日本列島に人が住み始め、社会を作り出した縄文時代は、そんなに高くはなかったようだ。
 縄文時代の地層を調査したところ、土壌成分や花粉分析から、かなりの面積がササとかススキなどイネ科植物に覆われていたとされる。
 どうやら有史前の列島には、広大な草原が広がっていたらしい。
 必ずしも森林ばかりが覆っていたわけではない。その理由ははっきりわからないが、気候が今のように湿潤温暖ではなかったのかもしれない。

・加えて、縄文時代の植生を調べる中で、焼き畑の存在が確認され、当時の推定人口から森林面積の1割以上が二次林であったとされる。
(つまり、幾度も伐採が繰り返された土地である。すでに人間の活動が、森林環境にも影響を及ぼしていた)

☆有史前のことはさておき、日本人が歴史を刻み出してからは、どうだろうか。
 いつ頃から森林は減り始めたのか。
ブルドーザーのような機械力が導入され、各地に工業団地やニュータウンが建設され始めた現代に入ってからだろうか。どうもそうではなかったようだ。
 それどころか、江戸時代には、全国各地に禿山が広がり、森林受難の時代だったことは、安藤広重の浮世絵などで確認されたとおりである。

☆山に木が少なくなった理由は何か。
 禿山が増えた理由は、まず人間が集中して暮らし始めたことがある。
 つまり、町が形成され始めたことが大きい。
 多くの人が住むためには、住居も建てられるし、日常的な煮炊きや暖房などにも木材は求められる。さらに政治権力の肥大化によって、宮殿や城、神社仏閣など建物を建設するための木材も求められた。
 大木は建築材に、そして幼木・小径木は薪に使われることで、木々の生長は追いつかず枯渇する。

〇つまり、大和朝廷が成立して、大規模な集落、つまり都が建設された時から森林破壊は広がっていた。とくに目立ち始めるのは、飛鳥時代以降である。
 さらに都市部周辺だけではない。日本史の大半は、農地開拓の歴史であったといってもよい。
 それは森林を伐採して、農地を開拓する過程でもある。
 また、農地は、作物を収穫すると地力が衰えるため、外から肥料を入れないと持続できない。
 そこで山の落葉や下草(したくさ)のほか、枝葉(えだは)を切り取った緑肥(りょくひ)を農地に入れた。それは、必然的に山の栄養分を奪った。
・また製塩とか製陶、製鉄などが産業として広がるにつれ、そのエネルギー源としても、森林資源は酷使され続ける。
 山に木がなくなれば、降雨などで土壌が流され、土地が痩せる。
 すると、生えられる木は限られてくる。たいていはマツである。
(中国山地にマツ林が多いのも、戦国時代からの製鉄・製塩産業のためとされている)

※さすがに危機意識を持った為政者や学者の中には、森林の重要性を説き、森林保全策を練った人もいる。
 江戸時代には農学書がいくつも発行され、治山に力を注いだ政治家であり学者でもある土佐の野中兼山(けんざん)、岡山の熊沢蕃山(ばんざん)なども登場した。
 しかし、それらの努力は、基本的に人口圧力の前に敗退した。

⇒このような状況を鑑みると、最近よく語られる「江戸時代は、エコロジカルで自然が守られた時代だった」という声は、そのまま信じることはできない。むしろ江戸時代こそ、もっとも森林破壊の進んだ時代だったのかもしれない。
 当然、明治を迎えた日本も、豊富な森林に覆われた国ではなかったようである、と著者は記す。

「明治以降の緑化政策」(27頁~29頁)
・明治政府も森林の少なさを憂えていたようだ。
 なぜなら、森林がなくなったことによって、自然災害が相次いだからだ。
 毎年繰り返される洪水や土砂崩れ、そのうえ土砂が海まで流れていき、港を埋めてしまうという現象まで引き起こしていた。
 そこで明治30年代に入ると、砂防法を定めて、山の緑化に力を入れ始めた。
 ヨハニス・デ・レイケなど外国人技師を雇い入れて、緑化を進めるとともに、海外留学組が林学を勉強して、日本に持ち込んだ。
(だが、太平洋戦争の前後では、再び乱伐が進んだ。木材を軍事物資として、後先考えず大量に伐採した。しかも戦後は、焦土と化した国土の再建のために木材が必要だった。そこで、全国的な規模で造林が行なわれた)

・昭和30~40年代には、毎年数十万ヘクタールもの造林が行なわれ、禿山や放牧地など無林地をどんどん消し去りつつあった。
 薪炭を得るため、あるいは落葉、下草などを得る場であった雑木林も、拡大造林の対象となって、植え替えが進んだ。
(燃料革命とか農業革命といわれる石炭石油、天然ガスの普及と輸入飼料、化学肥料の導入によって必要なくなったからである。)

・森林面積の統計によると、1960年に2440万ヘクタールまで急増している。(「土地白書」)
 その後はゆるやかに増えていたが、開発の進行で微減傾向になるのが現代のようである。
 2001年の林野庁統計によると、森林面積は2512万ヘクタールである。
 
※そうした人々の努力によって森林が作られたということは、現在の森林の多くが人工林であることを意味している。
 1951年の人工林面積は、497万ヘクタールだったが、それから30年で、ほぼ2倍に人工林を増加させた。
 日本の高い森林率は、意外と最近になって達成された。
 これほどドラスチックに森林が増え、風景を変えたのは世界的にも珍しいだろう。
 今では、森林大国と呼んでもおかしくないほどの森林が国土を覆っている稀有な国、それが日本である。
(田中淳夫『森林からのニッポン再生』平凡社新書、2007年、24頁~27頁)



縄文時代と弥生時代以降の森林


「第二章 ニッポン林業盛衰記」の「2 林業は焼き畑から生まれた!」の「縄文時代のクリ材から始まる」(94頁~97頁)においては、次のようなことが述べられている。

☆植えて育てる、育成林業は、どのように成立したのだろうか。
 この問題を考えると、当然ながら日本人がどんな木をどのように利用してきたのか、という点を考える必要がある。
 そこで、日本人の「木づかい」と「林業の成立」の視点から、森林事情を追いかけてみると、なかなか面白い変遷が浮かび上がるという。

・人類は森林から生まれたといわれる。
 その意味では、人間と森林は切っても切れない関係なのだが、太古の日本列島に住み着いた人々は、その土地に生えている木を生きるために利用した。
 まず焚き火の燃料として暖をとったり、食料の加熱に使っただろう。
 またこん棒から始まり、様々な道具類も生み出した。やがて木を利用した住居も作った。
 こうした木材の利用も、広義の林業と見れば、まさに人類が誕生したと同時に林業は成立したともいえる。

☆日本人が利用した木の種類から見てみよう。
<縄文時代とクリ>
〇まず縄文時代によく使われた木は、クリである。
 クリ材は硬くて腐朽しにくい。
 ただ、乾燥すると、収縮率が高いために、ゆがみが出やすい。
(現代では扱いづらい木材の一つであるそうだ。使い道も、枕木や土台などに使われる程度。)
 しかし、生木ならば、比較的柔らかく、石斧(せきふ)でも容易に切り倒せる。
 しかも、くさびを打ち込むと、比較的簡単に縦に割れる。
 そして、乾燥すると硬くなる。
※縄文人にとって、クリ材は加工が楽で、耐水性や耐朽性のある非常に便利な木材だったのだろう。
(乾くとゆがむ点は、当時の住居の状況からして、さして気にならなかっただろう)

<青森県の三内丸山遺跡の例>
・もっともよい例は、青森県の三内丸山(さんないまるやま)遺跡である。
 ここには巨大な六つの柱穴が見つかっているが、分析によると、少なくとも直径1メートルの木の柱が建てられていた。
 それで巨大な櫓(やぐら)のような建物を推定復元してある。
 そのほか、倉庫や住宅にも、クリ材は使われていた。主要な建築材であったことは間違いないようだ。

・もちろん、クリは食料としても重要だった。
 遺跡の周りには、広大なクリ林があったことが確認されている。
(しかも生えていたクリは、遺伝子的に似通っていて、選別した優良品種を栽培した可能性まで広がっている。これは、農業の始まりであり、育成林業の人工林の造成の始まりかもしれない、と著者はみている)

※全国の縄文時代の遺跡から、クリ材が出土することは多い。
 竪穴住居の柱や板のほか、棒や器など道具類にもクリ材が用いられている。
 トーテムポールも見つかった。
 さらに、炭も、クリ材を焼いたものが8割を占める。
 縄文の人々は、クリで家を建て、クリの器でクリを食べ、クリを燃料にして生活を送っていたようだ。

<弥生時代以降における木材の変化~広葉樹材から針葉樹材へ>
・弥生時代に入ると、使う木材に変化が現れた。
 静岡市の登呂(とろ)遺跡から出土した木材のうち、実に95%がスギ材だという。
 住居や倉庫など建物に、スギはふんだんに使われていた。
 また水田の畦道(あぜみち)にも、惜しげもなくスギ板を打ち込んでいた。
 また、佐賀県の吉野ケ里(よしのがり)遺跡では、モミが多用されていた。

・時代は下るが、平城京で使われた木材の6割が、ヒノキで、コウヤマキも多かった。
 ※針葉樹材が利用の中心になるのである。
 利用する木材が大きく変わったのは、金属(青銅もしくは鉄)の登場のおかげと考えられる。
 金属は優秀な刃物となるからである。
 針葉樹の縦に伸びた繊維は、石斧ではなかなか切れないが、金属の刃物にかかると逆にサクサクと切れやすい。
⇒割裂性がよいから、縦に割って板にすることも容易である。
 材質は柔らかく、細かい加工も行なえる。
〇伐採と加工さえ可能になれば、針葉樹の方が幹がまっすぐで比較的軽いから、扱うには便利なのであるそうだ。
 大木が多いことも関係あるかもしれない。
 こうして、木づかいは、広葉樹材から針葉樹材へと転換されていったのであろう。
(田中淳夫『森林からのニッポン再生』平凡社新書、2007年、94頁~97頁)

「焼き畑に作物と木々の苗を植えた」


「焼き畑に作物と木々の苗を植えた」(97頁~100頁)
<収奪的な林業>
・古代の都の宮殿や神社仏閣などの建築に使われた木は、天然林から伐り出したものだった。
 縄文時代のクリの栽培はともかく、まだこの時代は、収奪的な林業だった。

※それでも、森の生長量に比べて伐採量が少なければ、森林は自力で回復する。しかし、住む人が増えて集落が次第に大きくなってくると、木材の使用量が急増する。
⇒森林の生長量が超えて伐採を始めると、山は荒れてくるだろう。

・とくに目立ったのは、都が築かれた地域の周辺である。
 森が伐り開かれ、木材が枯渇していく。
 集落の規模が大きくなり、しかも権力の集中は、巨大開発を引き起こす。
 古墳の建設も莫大な木材を消費したことだろう。
 だから、大和朝廷の都が置かれた地域は、森が荒れた。
 飛鳥も、当時は周辺の山が荒れていた兆候が伝えられる。

<平城京、東大寺と琵琶湖南部の田上山>
・やがて、中国式の巨大な藤原京や平城京が築かれると、宮殿や大仏殿など次々と巨大建築物が造られた。
 それらの建設のために、必要な巨木の調達には悩んだようだ。
⇒東大寺の大仏と大仏殿の建設に使われた木材は、琵琶湖南部の田上山(たなかみやま)だとされている。
 ここはヒノキの巨木の産地だったからである。
 もっとも、ここの木を平城京まで運ぶのは大変だからだろうか、聖武天皇は、都をこの山の近く(信楽[しがらき])に移そうとしている。

<木を植えて育てる、森をつくるという発想>
・ともあれ、このまま収奪的な林業が続けば、日本列島から森林がどんどん失われてしまったかもしれない。
 しかし、その中から生まれたのが、木を植えて育てる、森をつくるという発想であり技術だった。
 木を伐った跡に自然に生えてくるのを待つよりも、人が苗木を植えれば、早く森林が復活することに気づいたのである。
〇ここで注目すべきは、木の苗を植えた場所である。
 それは主に焼き畑だった。
 
※焼き畑とは、森林を伐り開いて火をつけ、その焼け跡に作物(陸稲、麦、雑穀、豆類、野菜など)の種を播く農法である。
 草木を焼いた灰を養分として、作物は育つ。だから農地としての寿命は短い。
 地域にもよるが、火入れから3、4年で放棄することが多く、長くても10年まで。
⇒もっとも原始的な農耕とされるが、無理に土地を耕転(こうてん)しないから、斜面の土壌が守られる。自然にやさしい農法ともいわれる。
 日本では縄文時代より行なわれていたが、山地では近代まで残っていた。
(いや、今も行なう地域はある)

・この焼き畑の栽培品目に、木々の苗も加えた。
 火入れ後、雑穀や野菜の種子などを播くが、そこにスギやヒノキの苗も植える。
(同時の時もあったし、数年後の時もあるようだ。)
 やがて、地力が落ちて、雑穀や野菜の栽培は放棄することになる。
 その頃には、スギやヒノキも大きく背を伸ばしている。焼き畑放棄後も木は生長を続け、やがて森林になる。
 そして、木材として利用できるようになると、また伐採する。
 木材を収穫し、枝葉や雑木など残材に火をかけて、また焼き畑にする。
 このようなサイクルが作られた。
〇つまり、樹木は、焼き畑の作物の一つだった。
 食料となる作物の栽培と平行して木材を収穫するための作物なのである。
 林業面から見ると、木の苗とともに植えられた雑穀などは、雑草を抑える役割を果たし、その収穫は下草刈りに相当するという。
(⇒まさに農と林が結びついたアグロフォレストリーなのである。
 もちろん当時の人々は、このような理論を立てて始めたわけではないだろうが、くしくも焼き畑のサイクルが育成林業を生み出した、と著者は考えている)
(田中淳夫『森林からのニッポン再生』平凡社新書、2007年、97頁~100頁)

「日本最古の植林は16世紀初め」


「日本最古の植林は16世紀初め」(100頁~101頁)
〇吉野林業の誕生を例にとって、著者は説明している。
 室町時代には吉野の山の天然林を伐り尽くしてしまったようだ。
 奈良の都のほか、吉野山にも多くの寺院が建設されたことと関係があるのだろう。

・そこで、植林が始まった。
 もっとも古い記録は、文亀年間(1501~04年)に現在の奈良県川上村にスギとヒノキを植林したという。
⇒これは、林業としての植林の記録としては日本最古になるが、世界的にももっとも古い部類に入るそうだ。

・ところが、吉野では次第に栽培するのは樹木だけになり、穀物や野菜の栽培は行なわれなくなったらしい。
 そして長伐期の大径木生産地に移行していった。
 (それも意図的だったかどうかは定かではない)
 ただ、農地と分離する形で林地が成立したようだ。おかげで、常に森林を維持することになった。
※吉野だけではない。日本各地の古い林業地には、それぞれ固有の歴史があるが、たいていは焼き畑を発祥としている。
 
・ただ、現在の日本の人工林の大半は、戦後生まれである。
 禿山や乱伐した跡地や、里山の雑木林を伐採して大規模な造林を行なった。
 植えて50年前後の地域が大半だから、まだ一度も伐採を経験していないところも少なくない。当然、木材の販売も経験していない。
(その意味では、大半の人工林は産業としての林業地になりきっていないともいえる)
(田中淳夫『森林からのニッポン再生』平凡社新書、2007年、100頁~101頁)

吉野郡川上村の550年続く儀式


「第三章 森から見たムラの素顔」の「1 山村は、もう一つの日本」において、「吉野郡川上村の550年続く儀式」(152頁~154頁)では、次のようなことが述べてある。

・著者は、2007年2月5日早朝、奈良県吉野郡の川上村の金剛寺を訪れ、この村で執り行なわれる朝拝式に参列したという。
 朝拝式とは、一般的には、皇室が執り行なう元旦の朝賀(ちょうが)の儀式である。ところが、川上村で行なわれる朝拝式は、別の意味を持つ。南朝皇胤(こういん)の自天王(じてんのう)を暗殺された日に祀(まつ)っているのである。

☆歴史を遡れば、次のようである。
・南北朝時代、主に南朝が置かれたのは、吉野である。
 1336年に京を足利尊氏に追われた後醍醐天皇は、吉野各地を転々として、四代を重ねる南朝を開いた。だが、分裂した皇統は、1392年に合体した。

・しかし、その後も南朝の皇胤は、吉野や熊野の山に隠れ住んでいた。
 そして時の北朝政権に逆らう旗印となり続けた。それらの動きを後南朝と呼ぶ。
 その一統が川上村にもいたそうだ。

・後南朝方は、1443年には京の御所を襲って、三種の神器[じんぎ]のうち神璽[しんじ](八尺瓊勾玉[やさかにのまがたま])を奪うという芸当を見せた。
 神璽は、川上郷の自天王の元に置かれる。
 それを奪い返すために、川上村に潜入した赤松一族は、1457年に一宮[いちのみや](自天王)、
二宮[にのみや](忠義王[ただよしおう])と呼ばれた皇胤の二人(南朝・後亀山天皇の曾孫[ひまご]とされる)を惨殺した。
 逃げる彼らを村民は追いかけて倒し、首と神璽を取り戻す。
 これを長禄の変と呼ぶ。
 首を取り戻したとはいえ、皇統が途絶えてしまったことを村民は嘆き悲しみ、自天王の鎧や兜を奉って、翌年より毎年2月5日に朝拝式を執り行なってきたそうだ。

・爾来550年、一度も途切れることなく、この儀式は執り行なわれてきた。
 ただし参加できるのは、赤松一族を討ち取った末裔だけであるという。
 彼らの血族を「筋目(すじめ)」と呼ぶ。川上村民であろうとも参列できなかった。
 ただ、川上村も、過疎と高齢化が進み、村の文化財として保存するために、一般参加も解禁したそうだ。

※このような後南朝ゆかりの朝拝式は、川上村だけではない。
 隣接した天川(てんかわ)村でも、後醍醐天皇を匿った謂れから行なってきた。
(こちらは600年以上の歴史を誇る)
※紀伊半島一帯には、各地に南朝関係の儀式や伝説があるようだ。
 さらに平家伝説も根深く、各地に平家の落人が潜伏した言い伝えがある。
 また都を追われた源義経も吉野と縁が深い。
 そのほか神武天皇の東征にまつわる伝承も含めれば、数限りない。
 紀伊半島は、極めて色濃い歴史に彩られた地域なのである。
(田中淳夫『森林からのニッポン再生』平凡社新書、2007年、152頁~154頁)

山村は“遅れた地域”か


「第三章 森から見たムラの素顔」の「1 山村は、もう一つの日本」において、「山村は“遅れた地域”か」(154頁~156頁)では、次のようなことが述べられている。

・日本の森林、そして林業を考える際、山村・山里の存在をどのように位置づけるかは、重要である。
 山間部に住む人がいて、彼らがどのような形で林業に携わり、また日本の森林環境に影響を与えてきたか、という根幹に関わるからである。
 
☆まず、山村と聞いて思い浮かべるイメージは、どのようなものだろうか。
 山奥に外界と隔離されたような状態で、集落がポツリポツリとあり、細々と農林業をやっているような姿を思い浮かべるかもしれない。
 また、横溝正史の小説『八つ墓村』などに描かれた因習に縛られた世界を思い出す人もいるだろう。
 あるいは、マタギのように狩猟で生きる人々が住む世界を想像するかもしれない。
 そこまで極端でなくても、山村を“遅れた地域”と捉える傾向は、今も根強い。
(政治や経済の中心地から遠く離れた辺境であり、文化も経済も遅れているというような)

<著者・田中淳夫氏の歴史観、日本史の見方>
・たしかに現代社会から見れば、山村は辺境地である。
 後世に伝えられる歴史は、常に都を中心に展開され、中央集権国家の側から語られ続けてきた。山村は農村以上に遅れた地域であり、米を食べられない(作れない)貧しい土地を意味していた。
 

☆しかし、そうした見方こそ、平地の民が米作文化とともに作り上げた史観に基づく世界である、と著者は批判している。

 また、日本史の見方にも、次のようにいう。
 つまり、日本史は、公家と武士と米作農民だけが作ってきたのではない。
 面積からすれば、日本列島の7割がたが山地である。
 平野部もかつては大半が森林と農地であり、都市が全国各地に広がったのは、歴史の上では近世以降のことである。
 かつて山間地域は、日本人の暮らしの中心だった。
 たとえば、縄文時代は、人口の多くが山間部に住んでいた。
 平地は見通しが悪く、河川に阻まれて移動もままならない。
 また湿地帯も広がっていることから、人が好んで住むところではなかった。
 対して、山裾は、傾斜があるから見通しがよいし、木の実や野生動物などの食料も豊富だった。(風が通ることが病気の蔓延を防いだともいわれる)
 最初は焼き畑だったろうが、やがて谷から流れ出る川が広がった扇状地に水田が築かれた。
 水田耕作が平地に広がるのは、随分後の時代まで待たなければならない。
 
※近年の研究では、山村地域には、想像以上に外部から人や文物が入り込んでいたことが解明されつつある。
 住民は山間に孤立した生活を営んだのではなく、各地からの人・物・情報が行き交っていた。
(田中淳夫『森林からのニッポン再生』平凡社新書、2007年、154頁~156頁)

生駒山の山麓の現実問題


第一章 日本の森林の素顔を探る
「5 自然をむしばむ見えない脅威」の「棚田にレンゲが育たなくなった」(53頁~54頁)
「外来種の昆虫がレンゲを食べる」(54頁~57頁)

・著者の住む生駒山(いこまやま)の山麓には、広大な棚田地帯があるという。
 標高差は300メートルにもなる。
 最近の景観は、あまり見栄えがよくないそうだ。
 その理由は、耕作が放棄されて草などが野放図に生えた田畑がかなりあることである。
 また、春になってもレンゲがあまり咲かないこともある。生駒山では、レンゲはうまく育たなくなってしまった。
 その原因を見つめると、新たな自然の危機に気がつくようだ。

・田畑の放棄の問題は、農業が不振なうえ、減反政策などもあって、耕作が大変で収量も少ない棚田は、真っ先に放棄されがちである。後継者が少ないことも理由の一つである。
 だが、そうした理由の陰に、もう一つ、外からは見えにくい異変が起きているという。

 その点をレンゲの花が咲かなくなった点から考えている。
・レンゲは豆科の植物である。秋に種を播くことで、春先に花を咲かせ、地を這うように茎を伸ばす植物である。
 その根には、根粒バクテリアが生息し、大気中の窒素を固定するから、土壌の栄養分を増やす効果がある。
 花が終わって田植えの季節が近づくと、耕運機でレンゲを土の中にすきこむ。これも肥料にする知恵である。とくにそのため昔から日本の田畑では、秋の収穫後にレンゲの種を播くことが行なわれていた。
・花は蜜が採れるから、養蜂の対象にもまった。
 養蜂家が農家に頼んでレンゲを育てててもらうこともしている。
 ミツバチは、レンゲだけでなく野山や農作物の花にも寄って受粉を助ける。
 そうした働きによって、里山の生態系が作られている。
 それは景観としても美しく、日本の田園の原風景にもなっていた。

<アルファルファタコゾウムシ>
・だが、そのレンゲが棚田から姿を消しつつある。
 せっかく花を咲かせても、すぐに花びらが消えてしまう。
 なぜなら、アルファルファタコゾウムシが食べてしまうからである。 
・この虫は、ヨーロッパ原産の昆虫である。
 その名のとおり、牧草のアルファルファなど豆科の植物全般の害虫である。
 どうやら輸入牧草などに紛れ込んで、日本に侵入してきたらしい。つまり外来種である。

・日本には、1982年に九州・沖縄で侵入が確認された。今や、関東地方まで広がり、レンゲのほか、ウマゴヤシやカラスノエンドウなどを食べてしまう。
 そのため、レンゲの種子をわざわざ播くことも少なくなった。
 この外来昆虫のおかげで、身近だった草花が、姿を消しつつある。
 近年、全国に広がりつつあり、それが里山の景観をも壊し始めた。
 
<その他の外来昆虫>
・外来昆虫は、アルファルファタコゾウムシだけではない。
 トマトなど作物の花粉媒介用に導入したセイヨウオオマルハナバチは、温室から脱出して野生化し始めている。
⇒そのため、トラマルハナバチなど日本在来のマルハナバチが衰退する可能性が出てきた。
 
※日本の生態系は、在来の植物や昆虫で形成されてきた。
 ところが、近年は日本に存在しなかった外来種の侵入が増えてきた。
 それが自然環境に重大な影響を与え始めている。
 外来種は、在来の生態系に適合せず、消滅することもあるが、天敵がいないなどの理由で、むしろ異常繁殖して在来種を圧迫するケースが多い。
・最近では、外国産カブトムシやクワガタムシまで輸入され、野外に放置されている。
 身体が大きく攻撃力も強い外国産が、日本産のカブトムシなどを追い詰める可能性は高い。

<マツクイムシ(マツノザイセンチュウ)>
・昆虫ではないが、各地のマツ林を枯らしているのが、一般にマツクイムシと呼ばれる害虫である。
 このマツクイムシの正体は、マツノザイセンチュウという体長1ミリにも満たない線虫である。
 これがマツノマダラカミキリを媒介して、マツに感染すると、マツの中で大繁殖して、やがて枯れるのである。
 ところが、マツノザイセンチュウは、日本に元からいた線虫ではない。外来種なのである。
・日本へ伝来したのは、1900年初頭の長崎市とされている。
 どうやらアメリカから輸入されたマツ材に潜入していたらしい。
 やがて長崎を中心にマツ枯れが始まり、全国へ広がった。
 現在では宮城県にまで達し、日本三景の一つ松島が危機に瀕している。

<モウソウチクが植生を変える>
・雑木林や放棄された棚田を破壊する外来種は、ほかにもある。モウソウチクもそうである。
 竹林は、その中にほかの草木をほとんど生やさず、生物多様性を著しく衰えさせる。
 とくにモウソウチクは、在来のマダケやハチクに比べて、非常に繁殖力と生長力が強い。
 タケは上に伸びるだけではない。太くて強力な地下茎を四方八方に伸ばす。
 地上部を刈り取っても、地下茎が生きている限り、すぐ生えてくる。極めて強力な生命力を持つ植物である。

・このモウソウチクは、日本古来のタケではない。江戸時代に中国からもたらされた。
 つまり外来種である。
 その繁殖力は、マダケやハチクよりはるかに強い。
 モウソウチクがはびこるのは、棚田の放棄だけではなく、外来種であることも大きな理由である。
・強力な地下茎は、周囲に伸びて一斉に芽吹き、1カ月で高さ10メートルを超えることもある。
 この生長には光がいらない。しかし伸びると枝葉を広げ、光を林床に届かなくする。樹木や草の生育を抑える。すると動物も棲めなくなる。
 繁茂すると、完全に除去するのは至難の業である。
・最初からやっかい者だったわけではない。むしろ重宝されてきた。
 太いタケコノが収穫できるうえ、建築材にもなるからである。
 そのため、農家が植えて育てた。しかし、雑木林や人工林が放棄されるのと同じように、農家周辺に植えられたモウソウチクの林も放棄され始めた。すると、旺盛な繁殖力で生息域を広げ出したのである。
(田中淳夫『森林からのニッポン再生』平凡社新書、2007年、53頁~59頁)



最新の画像もっと見る

コメントを投稿